2018 / 06
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ゴスペルハウスメッセージ 2018.06.09
「道を選ぶ」イザヤ66:1-4

1 主はこう言われる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたがわたしのために建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。
2 これらすべては、わたしの手が造った。それで、これらすべては存在するのだ。──主のことば──わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。
3 牛を屠る者が、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者が、犬の首を折る者。穀物のささげ物を献げる者が、豚の血を献げる者。乳香を記念として献げる者が、偶像をたたえる者。実に彼らは自分の道を選び、そのたましいは忌まわしいものを喜ぶ。
4 わたしも彼らを厳しく扱うことを選び、彼らに恐怖をもたらす。それは、わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目に悪であることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからだ。」

イザヤ書は、全部で66章。
今週の聖書箇所は、第66章、最終章のはじめの部分です。
イザヤ書のまとめ、イザヤ書の締めくくりと言ってもいいでしょう。

1-2節に、神様の自己表明があります。
神様は、人間が作った宮や祭壇の中に収まりきれるものではありません。
神様は、人間のしもべでもなく、人間の思考が作り出した想像の賜物でもありません。
すべての創造者で、時間と空間も神様によって造られました。
ですから、神様は時間も空間も超越した方なのです。
小さな宮に押し込めることができる存在ではなく、遠く宇宙の果てにいる存在でもありません。
あまねく時間に、あまねく空間に存在する方なのです。
ちっぽけな人間にすべて理解できるわけがなく、人間の規則や法則に縛られる方でもありません。

3節は、理解し難い方も多いでしょう。
「牛を屠る者が、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者が、犬の首を折る者。穀物のささげ物を献げる者が、豚の血を献げる者。乳香を記念として献げる者が、偶像をたたえる者。」(3節)

この解釈は、2通り考えられるでしょう。
1つ目は、人間の二面性です。
牛を神様に捧げる人が、別の場面では、人を殺す。
羊を神様に捧げる人が、別の場面では、偶像に犬を捧げる。
穀物を神様に捧げる人が、別の場面では、偶像に豚の血を捧げる。
神様に乳香を捧げる人が、別の場面では、偶像をたたえる。

2つ目は、純粋さの欠如です。
心から牛を捧げないならば、人を殺すことと何も変わりがない。
心から羊を捧げないならば、犬を捧げることと何も変わりがない。
心から穀物を捧げないならば、豚の血を捧げることと何も変わりがない。
心から乳香を捧げないならば、偶像をたたえることと何も変わりがない。

いずれにしても、それは神様にとって忌まわしい道で、彼らが選んだ、自分勝手な自分の道です。

なぜ、彼らはそのような自分の道を選んだのでしょう。
その理由は、神様を縛り、閉じこめたことです。
神様を自分の都合に縛り付け、教理の中に閉じこめ、二心を持つ自分を正当化したのです。

そんな都合のいい神様なら、そんなしもべのような神様なら、何も捧げないという選択もあったはずですが、彼らは捧げ物をしました。
その理由は、他人の目を、他人の評価を、気にしたからです。
神様に真心から仕えるよりも、評判を大切なものとしたのです。
捧げている自分を、神様に喜んでもらうのではなく、他人に褒めてもらいたいのです。

神様は常に、1対1の関係、1対1の対面を要求します。
そのために、あえて、孤独を与えることすらあります。
アブラハムもそうでした。
ヤコブも、ヨセフも、モーセも、神様はその人生において、孤独を与えました。
それは裁きのときではなく、神様が1対1の関係を準備してくれていたのです。

イエスさまも、そのように呼びかけました。
ペテロに、ザアカイに、パウロに、・・・。
1対1の出会いを、求めていたのです。

そして、もちろんあなたにも、神様は、イエスさまは、そう呼びかけるのです。

あなたは、その招きに、どう応えますか。
人々の中に埋もれて、常に他人の評価を気にして、他人の目を気にして、ビクビクしながらそれに合わせる道を選んで生きますか。
それとも、神様の言葉を聞き、1対1の出会いの中で、神様から与えられた命の道を生きますか。

神様から与えられる、命の道を、真理の道を、選んで、まっすぐ歩みましょう。

ゴスペルハウスメッセージ2018.06.03
「でも、おことばですので、」ルカ5:1-11

1 さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、
2 岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。
3 イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。
4 話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
5 すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
6 そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。
7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。
8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」
9 彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。
10 シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」
11 彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。

シモン・ペテロは、十二弟子の一人です。
今週の聖書箇所は、そのペテロがイエスさまに従った、イエスさまの招きに応じた場面です。

ペテロは、漁師、魚を捕るプロです。
その彼が、夜通し漁をしたというのには、もちろん意味があります。
それは、魚の習性だったかもしれませんし、水温の関係だったかもしれません。
あるいは、日中の労働のきつさだったかもしれません。
いずれにしても、プロならではの知識であり、知恵です。

イエスさまが来たときに、彼らが網を洗っていたのは、「今は、魚が捕れる時ではない」「タイミングが違う・チャンスではない」ということです。

そんなときに、イエスさまは言いました。
「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」(4節)
これは理不尽な声です。
漁のことを知らず、魚のことを知らない、素人の言葉です。
「バカ言ってんじゃないよ」と、聞き流すこともできたでしょう。

しかし、ペテロは違いました。
「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」

私が学習塾で教えていたときのことです。
研究熱心だった私は、生徒がよりよく解けるように、より深く理解できるように、様々な工夫や方法を生み出しました。
私のオリジナルですから、学校の先生たちが持っていない、使うこともないものが多くありました。
私の授業を受けて、生徒は必ず解けるようになります。
ほぼ全員が、「学校の先生の方法と、なんか違う」とも感じます。
何も先取った学習内容を使っているわけでもなく、ただ、わかるように噛み砕いただけなんですが、なにか違和感を覚えるようです。

そこからの反応が3通りに分かれます。
1.私の言った解き方を身につけて、できるようになる。
2.学校の先生の解き方と違うので、塾の解き方を拒否する。
3.塾では塾のやり方で解き、学校では学校のやり方でうまく解けなくても過ごす。
実際、「先生、このやり方で、学校で解いてもいいの?」という質問は何度もされました。
私は「もちろん、いいよ。大丈夫!」と伝えます。
ここから先は、生徒の選択です。
今までとなにか違う気がするけど、やってみる。
なんとなく不安なので、しない。

ペテロは、「でも、おことばですので、」をやってみました。
その結果、二艘の船が沈みかけるほどの大量の魚が捕れたのです。

イエスさまの言葉によって、新しい漁の可能性を手に入れたペテロは、万能スーパーカリスマ漁師に・・・は、なりませんでした。
彼は、その場ですべてを捨てて、イエスさまに従ったのです。
栄誉も、繁栄も、富も、評判も、何もかも捨てたのです。

そして、人間を捕る漁師に、人々にいのちを与える者に、神様の国の福音を伝える者になったのです。
イエス・キリストの証人になったのです。
それは彼の人生において、何よりも大きな報いでした。

ペテロへのチャレンジ、「でも、おことばですので、」のチャレンジは、あなたの人生にも起こります。
それは、あなたの知っている常識にも、正義にも、知識にも、教理にも、道理にも合わないかもしれません。
でも、考えてください。
「自分もそう思ってた」っていうのは、神様のみこころではなく、あなたのこころです。
神様の計画ではない、あなたの計画です。

イエスさまは、あなたの人生にチャレンジします。
その声に、耳を傾けましょう。
そして、あなたの正義を捨てて、「でも、おことばですので、」のいのちに生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.05.27
「ペンテコステ後の信徒たち」 使徒 2:42-47
 
42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。
44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、
45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。
 
ペンテコステに聖霊様が降って、弟子たちが力を受け、キリスト教会がスタートしました。
ペンテコステ後に新たに3000人が加えられ、その後も日々信徒は増えていきました。
彼らの毎日は、御言葉・交わり・愛餐・祈り、そして不思議(奇蹟)でした。
これらは、現在のそれぞれのキリスト教会にも、程度の多少はあるにせよ、受け継がれていることでしょう。
 
とろこが、一つ特筆しなくてはならない、特徴もあります。
「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。」(44-45節)
 
彼らは、「一切の物を共有」していたのです。
これは現代の教会、ことに日本の教会では、通常行われていることではありません。
2000年前のエルサレムは、現代の日本と比べて、貧しい人も多くいました。
奴隷制もあり、人種も様々でした。
身分・貧富の格差が、大きかったのです。
 
また、現代ほど安定した社会基盤もありませんでした。
情報も流通も、脆弱なものでした。
そんな生活の中では、衣・食・住は、まさに、本当の礎・生活の基盤だったのです。
 
それらを共有するということ。
それは、自己の所有権を放棄する、手放すということです。
手放せないものまで手放すことのできる集団。
しかも、それは捨てるためではなく、生かすために、「必要に応じて」なのです。
彼らの思いは、実に麗しいものです。
 
しかし、現代日本のキリスト教会において、一切の物を共有することは、継承されていないのが現実です。
今の日本は、貧富の差も身分の差も、ここ数年かなり拡大しているとは言え、当時のエルサレムほどではありません。
 
一切の物を共有することの本質は、「手放せないものまで手放すこと」です。
自分の権利を放棄し、他者を生かすため、そしてそれによって自己を生かすため、手放せないものを手放すことです。
正当な権利を持っているにもかかわらず、それを捨てることです。
 
怒り・悲しみ・妬み・正当性の主張・高慢・疑い・差別・優越感や劣等感・・・・
私たちには手放せないものがたくさんあります。
キリスト者は、それらを手放した集団であり、それらを手放したあなたであっていいのです。
それが、神様が、あなたに望んでいる姿なのです。
 
手放した先にあるのは、何でしょう。
それは、神様のみこころです、神様の愛あふれる生涯です。
愛は、自らで取り、自らでつかむものではありません。
手放せないものまで手放す、その先にあるものなのです。
  
マルコの福音書10:17-22に、金持ちの青年の話があります。(文末に聖書箇所を引用しています)
彼は、多くの財産を持ち、手放すことができないで、イエスさまの前を去って行きました。
イエスさまは、この青年をいつくしみました、愛しました。
でも、青年は手放すことができなかったのです。
 
あなたは、どうしますか。
 
手放せない思い、苦しみ、悲しみ、正当性を手放し、みこころの中に、愛の中に生きましょう。
 
 
マルコの福音書10:17-22
17 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」
18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。
19 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」
20 その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」
21 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.05.19
「ペンテコステ」使徒行伝 2:1-14

1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、
10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」
12 人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。
13 だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。
14 ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。

今週は、ペンテコステ礼拝です。
ペンテコステの聖霊降臨のできごとは、イエスさまが昇天前に弟子たちに予告していたものでした。
使徒行伝1:4-5にこうあります。
4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

それがいつ起きるということは、神様の定めるところでした。
それが、ついに起こったのです。
しかも、よりにもよって、ペンテコステで賑わうエルサレムで起こったのです。

さて、聖霊様を受けて、弟子たちはどう変わったのでしょうか。
聖霊降臨前、弟子たちはひとつに集まっていました。
聖霊降臨後、弟子たちは群衆の前で語り始めました。
聖霊降臨前、ユダヤ人への伝道を期待していました。
聖霊降臨後、他国のいろいろな言葉で語り始めました。
彼らが語ったのは、「神の大きなみわざ」(11節)でした。

いつ、どこで、だれが、なにを、どのように、どうする、いわゆる5W1Hを決めたのは、弟子たちではなく神様でした。
弟子たちの希望ではなく、弟子たちのリクエストではなく、神様の御心のままに、このペンテコステのできごとは起こったのです。
弟子たちにそれを受け入れる準備が整ったから、神様が与えてくれた。というわけではないのです。
すべて、神様の御心のままです。

クリスマスプレゼントを、サンタクロースにリクエストする家庭(子ども)もあります。
結婚式のプレゼントのための、希望リストを作るカップルもいます。
誕生日プレゼントを、親や配偶者にリクエストすることもあるでしょう。
プレゼントには、リクエストがつきものになっているような気がします。
私は、リクエストすることに、あまり賛同できません。
たしかに、リクエストされたものがプレゼントされれば、ムダはないでしょう。
しかし、期待以上の、サプライズもまた、なくなってしまうのです。

神様は、ときに人間に飛躍を、ジャンプを、望まれます。
それは、期待以上の、想定外の、サプライズです。
聖書中の人物の多くが、このチャレンジを受けました。
聖書を順に読んでいけば、巨大な方舟を作成をノアに、故郷を離れるようにアブラ(ハ)ムに、口ベタな男モーセに、弱虫なギデオンに、末っ子のダビデに、・・・数え続けたら切りがないでしょう。

ノア以前にさかのぼれば、最初の殺人者カインも、人類最初のアダムやエバも、神様からのチャレンジを受けています。
それは、罪におちた彼らに、罪の法則から愛の法則へのジャンプです。
彼らは、そのチャレンジに応えることができませんでしたが・・・・

そして神様は、あなたにもジャンプを求めます。
それは、他人から見たら、「驚き当惑」(12節)することかもしれません。
また、そんなあなたを、「嘲る者たち」(13節)もいるでしょう。
しかし、あなたにはあなたのジャンプ、そう、あなたのペンテコステがあるのです!
あなたのペンテコステ、そのときを、ドキドキしながら、喜んで待ちましょう。


ゴスペルハウスメッセージ 2018.05.12
「母の日」
 
Ⅱテモテ
1:5 私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。
 
出エジプト記
20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。
21:15 自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。
21:17 自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない。
 
パウロは、愛する弟子・テモテの中に、「純粋な信仰」を見つけました。
それは、テモテが母親から、祖母から、受け継いだものです。
「その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。」
 
私たちはみんな、母親から生まれました。
さまざまな状況があり、母親でない人に育てられた人もいるでしょう。
しかし、だれひとり例外なく、私たちは母親から生まれたのです。
ということは、母親から確かに何かを受け継いでいるということです。
 
ところで私たちは、身内の欠点について、必要以上にイライラすることがあります。
それは、例えばこんなときです。
自分の中に赦せない部分(未解決の弱点)があって、それと同じ欠点を自分の子どもに見つけてしまったとき。
夫(妻)の中の赦せていない部分を、自分の子どもの中に見つけてしまったとき。
苦手な姑と同じような部分を、夫(妻)に、また子どもに見つけてしまったとき。
つまり、いやな部分が受け継がれているときに、過剰な反応をしてしまうようです。
子供にとっては、えらく迷惑な話です。
 
そして、このように他者を責めるのと同じように、自分自身の中に父や母から受け継がれたいやなものを見つけて、ぎょっとし、自分自身を責めることもあるでしょう。
 
受け継がれたということは、つながっている証拠です。
ですから、いやな部分を見つけたとしても、それは絆を再確認するきっかけとして、感謝すればいいのです。
 
ところが私たちは、頭ではわかっていても、つい、責めたい気持ちになってしまいます。
そんなときは、イエスさまの十字架を見上げましょう。
イエスさまは、「もう、責めなくていいよ」と私たちに語りかけます。
イエスさまは、すべての呪いを一身に受けて、十字架上で私たちに代わって十分に責められ呪われたのです。
 
「感謝できない、責めることをやめられない」そんな思いを、すべてを十字架につけて、イエスさまに背負ってもらって、解放されましょう。
「イエスさま、解放してください」
イエスさまに叫びましょう。祈りましょう。
 
そのとき、受け継がれてきたもの、受け継がせてきたもの、あなたのうちに宿っているもの、いいもの悪いもの含めて、つながっていることへの感謝に変えられるのです。
それは、いのちの評価ということもできるでしょう。
 
そうすればあなたは、「あなたの父と母を敬え。」という神様の言葉を実現できます。
ここで「敬え」という言葉は、「重くする」と同じ意味で、「尊重する」と言い換えてもいいでしょう。
あなたの父と母が、あなたの父と母であることを尊重しなさい。
つまり、父母から受け継いだあなた自身の存在を、尊重しなさい。
その絆を、認めて、赦しなさい。
それは取りも直さず、あなた自身を受け入れ、赦すことです。
後半に、あなたが長生きし、しあわせになるためとあるのも、必然の結論になるでしょう。
 
また、「必ず殺されなければならない。」の意味も変わってきます。
自分の父または母を打ち、ののしる者は、そこから受け継がれた自分自身をも責め、呪うのです。
そう、その人は、自分自身のいのちの価値を、なきものとしてしまうのです。
 
あなたはもう、自分を責めなくてよくなります。
親を責めなくてよくなります。
子どもを責めなくてよくなります。
つながりを呪わなくてよくなります。
イエスさまが、あなたのために、すべての身代わりになったのです。
 
あなたは、あなた自身も、あなたにつながったいのちをも、愛して生きることができるのです。
この母の日に、その決心の一歩を踏み出しましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 20118.05.05
「ペンテコステ前の弟子たち」使徒行伝1:15-26 

15 そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが、ペテロがこれらの兄弟たちの中に立って、こう言った。
16 「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。
17 ユダは私たちの仲間として数えられていて、その務めを割り当てられていました。
18 (このユダは、不義の報酬で地所を手に入れたが、真っ逆さまに落ちて、からだが真っ二つに裂け、はらわたがすべて飛び出してしまった。
19 このことは、エルサレムの全住民に知れ渡り、その地所は彼らの国のことばでアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになっていた。)
20 詩篇にはこう書いてあります。『彼の宿営が荒れ果て、そこから住む者が絶えますように。』また、『彼の務めは、ほかの人が取るように。』
21 ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、
22 すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」
23 そこで彼らは、バルサバと呼ばれ、別名をユストというヨセフと、マッティアの二人を立てた。
24 そしてこう祈った。「すべての人の心をご存じである主よ。この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください。
25 ユダが自分の場所へ行くために離れてしまった、この奉仕の場、使徒職に就くためです。」
26 そして、二人のためにくじを引くと、くじはマッティアに当たったので、彼が十一人の使徒たちの仲間に加えられた。

イエスさまがよみがえってから40日後に、イエスさまは昇天しました。
その10日後、つまり復活から50日目がペンテコステですから、今週の聖書箇所はその間のできごとです。

ペンテコステは、聖霊様が弟子たちに下って、爆発的なエネルギーによって弟子たちが立ち上がり、教会が発足した日です。
キリスト教会の誕生日と言ってもいいでしょう。
この時期は、期待でワクワクする期間ですね。

ただしもちろんのこと、このときの弟子たちは「10日後に霊が下るぞ」とは知りません。

そんな中、弟子たち百二十人ほどが、集まっていました。
百二十人、多いと感じる人もいるかもしてません。
ゴスペルハウス礼拝に比べたら、何杯も多い数ですね。
しかし、イエスさまが伝道しておられた頃は、もっと多くの人々がその教えを受けに来ました。
会衆に給食した記事から考えると、大人の男だけ数えても五千人ということですから、女性や子どもを合わせたら一万人以上が集っていたことでしょう。
一万人から百二十人というのは、およそたったの1%です。
99%は、ここにいないのです。

それでも、残された1%から、ペンテコステを経て、世界中に広がるいのちと力が伝えられたのです。
たった1%、99%の欠損、数字だけ見れば失敗に映るかも知れませんが、それは失望の数字ではないのです。

また、この1%は、慰めの数字でもあります。
あなたが伝道していて、証しを伝えていて、99人の人に連続して罵られたとしても、最後の一人に希望があるのです。
また、あなたの心の中が、99%失望に埋められても、残りの1%に、希望があるのです。
また、あなたが、福音に疑問を持ってしまったとしても、1%の信仰があるなら、そこにいのちが生まれるのです。
99%の背信も、99%の裏切りも、99%の疑いも、あなたをイエスさまから離すことはできないのです。

さて弟子たちは、ユダの代わりに一人を選ぶことになりました。
その時の条件はこうです。(21-22節)
「ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」

この条件は、言い換えれば、「生きたイエスさまとの出会いと交わり」です。
そして、この条件こそが、99%の絶望に飲み込まれず、1%の可能性を何百倍、何万倍にもする秘訣なのです。

あなたの人生に必要なのは、イエスさまとの出会いです。
イエスさまが求めているのは、あなたとの出会いです。
黙示録3:20にこうあります。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

絶望の中に、背信の中に、疑いの中に、裏切りの中に、それでも構わないから、イエスさまをお迎えしましょう。
そしてその希望の証人となるのです。
何万倍もの喜びといのちを、あなたのものにするのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.04.28
「新しい契約」エレミヤ31:31-34

31 見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

聖書の中の聖書と言われるのは、ヨハネの福音書第3章16節という人も多いでしょう。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

それに対して、今週の聖書箇所は、旧約聖書の最高峰・旧約聖書の頂点といわれることも多い、エレミヤ書の31章です。
ここには、「新しい契約」が高々と掲げられています。
「わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」(34節)
この宣言には、多くの人が励まされたことでしょう。

イエスさまは、ペテロから何回赦せばいいですかと聞かれたときに、こう答えました。(マタイ福音書第18章21-22節)
21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」

七回を七十倍というのは、四百九十回ということではなく、完全に赦し続けなさい、忘れなさい。ということです。
それは、今回の聖書箇所で、神様が「彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさない」と宣言したこととまったく通じるところです。

いわば、この新しい契約は、旧約聖書でありながら、旧約聖書の限界を超えてしまったものなのです。

さて、私たち一人ひとりにも、古い契約・古いしばり・古いルールがあります。
「私は・・・だから、価値がないんだ」と、自分の足りない条件で限界を決めたり、
「・・・のせいで、私はこうなってしまった」と、親や周りの環境のせいにしたり。
これらの古い契約に共通するものは、「身勝手に作ってしまった」ということです。
つまり、合理的な正しさはなく、根拠なく立ちはだかっているということです
それなのに、強烈な力で、あなたをしばりつけているのです。

イエスさまはそんなあなたに、新しい契約を与えるというのです。
あなたはもう、古い契約・身勝手な契約にしばられなくていいのです。
根拠もなくあなたを押さえつけようとする、古い呪いから解放されていいのです。
エレミヤ31章が、旧約聖書の限界を超えてしまったように、あなたも、あなたの古い契約の限界をはるかに超えてしまいましょう。

そのために、イエスさまの十字架があったのです。
そのために、イエスさまの復活があったのです。
完全な赦しと、まったくの新しいいのちは、あなたのものなのです。
さあ、新しい契約の中で、解放のいのちを生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.04.21
「念入りな愛」ヨハネ21:15-19
 
15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
 
イエスさまが十字架に掛かる前日深夜から未明にかけて、ペテロはイエスさまのことを知らないと3回否定しました。
それは、ペテロにとって、大きな大きな心の傷になりました。
復活したイエスさまは、そんなペテロに対して3回の質問をすることで、回復を与えたのです。
 
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」
というイエスさまの問いに、ペテロは3回ともこう答えています。
「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
これは、「しっかり愛していますよ」という自慢や確認ではありません。
「私の不十分な愛を、あなたは全部ご存知でしょう」という謙遜な言葉なのです。
 
イエスさまは、自分の弱さを認めたペテロに対して、使命を与えます。
「わたしの子羊を飼いなさい。」(15節)
「わたしの羊を牧しなさい。」(16節)
「わたしの羊を飼いなさい。」(17節)
この羊というのは、もちろん、イエスさまを信じる者をたとえている言葉です。
 
マタイの福音書第10章33節にはこうあります。
「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」
ペテロはまさに、イエスさまに拒否されても仕方のない者だったのです。
しかし、イエスさまはそんなペテロを見捨てることなく、回復を与え、使命を与えました。
 
そしてその上で、さらにペテロに言いました。
「わたしに従いなさい。」(19節)
 
実はこの言葉も、回復の言葉だったのです。
ヨハネの福音書第13章36-37節にこうあります。
36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
37 ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」
 
ペテロはイエスさまに対して、どこまでもついて行くと言いながら、ついて行くことができずに否認してしまったのです。
自力でついて行こうとしたペテロの失敗、それをイエスさまは、「わたしに従いなさい」という命令で回復したのです。
自力の頑張りではなく、イエスさまの支えと導きで、それは成し遂げられるのです。
 
そして、子羊や羊の話しよりもあとにその回復があったというのは、より深い、より大切な、回復ということです。
 
「わたしの子羊を飼いなさい。」(15節)
「わたしの羊を牧しなさい。」(16節)
「わたしの羊を飼いなさい。」(17節)
これは、人と人との関係を表します。
だれかのために、何かをする。というものです。
それに対して、
「わたしに従いなさい。」(19節)
というのは、イエスさまとの関係です。
言い換えれば、前者は横の関係、後者は縦の関係と言ってもいいでしょう。
 
何を、だれをどうするということよりも、まず、もっと、イエスさまとの1対1の関係を求めているのです。
 
あなたにも、ペテロが否認したときのように、揺れるときがあります。
でも、そのすべてを回復するイエスさまが、あなたとともにいるのです。
ペテロにはペテロにとっての最善の回復がありました。
そして、あなたには、あなたにとっての最善の回復があるのです。
 
念入りな愛のイエスさまに、傷を回復してもらいましょう。
イエスさまとあなたの、1対1の愛の関係を、取り戻すのです!

ゴスペルハウスメッセージ 2018.04.14
「おびえと大喜びの間」ルカ24:36-53

36 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
37 彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
38 そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。
39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」
40 こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。
41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
43 イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。
44 そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」
45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
48 あなたがたは、これらのことの証人となります。
49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。
52 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

今日の聖書箇所は、ルカによる福音書の巻末です。
先週、先々週と同じく、ここもまた、イエスさまがよみがえった日のできごとです。

弟子たちが集まって話していると、「平安があなたがたにあるように」と言いつつ、イエスさまが現れました。
朝、女たちがイエスさまの墓を見に行って、御使いに「よみがえった」と聞きました。
ペテロが、墓を見に行くと、亜麻布だけが残っていました。
エマオへの道の途中で、イエスさまがともに歩いてくれました。
ペテロにイエスさまは姿を現しました。

そのうえで、弟子たちの所に現れたのですが、弟子たちはイエスさまを幽霊と思い、おびえて震え上がったのです。

イエスさまは、「さわって、よく見なさい」と言い、それでも信じられず不思議がっている弟子たちに、食べ物を食べ手見せるという念の入れようです。
弟子たちが落ち着いたところで、聖書を通して彼らに説明しました。
都にとどまっていなさいと言って、天にあげられたのは40日後のことです。

このとき、イエスさまとの別れであるにもかかわらず、弟子たちは「大きな喜びとともに」エルサレムに帰ったのです。
そしてこの先は、ルカの福音書は使徒行伝へと続くのです。

おびえて震え上がっていた弟子たちが、不思議がって信じられなかった弟子たちが、大きな喜びとともにという状態に変わったポイントは何だったのでしょう。
45節にこうあります。
「それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、」
ここがポイントです。

イエスさまが、弟子たちの心を開いたからです。
その結果、聖書を悟ることができ、大きな喜びとともに生きることになったのです。

自分によるのではなく、イエスさまによって。
努力の結果ではなく、報酬としてではなく、恵みとして。
心が開かれることが必要なのです。
イエスさまは、聖書研究の果てに出会える方ではないのです。
むしろ、出会うことによって、心を開かれることによって、聖書がわかるのです。

あなたがまだ、神様を恐れているなら、
あなたがまだ、神様を不思議がっているなら、
あなたがまだ、神様を信じられないのなら、
求めることは一つです。
イエスさまに出会い、イエスさまによって心を開かれることです。

祈りましょう。
あなたがイエスさまを求めることは、あなたの願いでもありますが、神様の切なる願いでもあるのです。
祈り続けましょう。
あなたが、大喜びの中で生きるために。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.04.07
「あなたのエマオへの途上」ルカ24:13-35

13 ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。
14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。
17 イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。
18 そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」
19 イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
20 それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。
21 私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、
22 仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、
23 イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。
24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
33 二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、
34 「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。
35 そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。

今週の聖書箇所は、イエスさまがよみがえった、「ちょうどこの日」のできごとです。
イエスさまは、2人の弟子たちがエマオへ向かう途上で、彼らに近づいていきました。
そして、彼らと話をして、こう言いました。
「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。」(25節)

「愚かで、心が鈍くて、信じることができない者」とは、ずいぶんな言われようです。
しかし、それが真実であるがゆえに、受け入れざるを得ないとも言えます。
なにしろ、イエスさまがよみがえったという喜ばしいときに、エルサレムから悲嘆に暮れてエマオへ行こうというのですから。
しかも、その喜ばしい知らせを受けたと言うのにもかかわらずです。

そんな、見捨てられても仕方がない人の、見当違いなエマオへの道の途中で、イエスさまご自身が、彼らに近づいてきてくれたのです。
ともに語り合い、聖書から解き明かしてくれたのです。

復活の知らせが喜べない、つまり、福音が、救いが、十字架が喜べない人たち。
現代でいえば、未信者であり、迫害者であり、傍観者であるとも言えましょう。
そんな状態のときに、その道に同行してくれるのがイエスさまなのです。
ただし、そのときには目が開かれていないので、気が付かないのです。
そう、これは、2000年前のエマオの途上のことではなく、現代のあなたに起こったできごとでもあるのです。
みんな、それぞれの人生の中で、「あなたのエマオの途上」を経験しているのです。

罪にがんじがらめにされている人間は、欲や常識に目がふさがれている人間は、ともにいてくれるイエスさまに気が付かないのです。
それでも、気が付くまで、気付くように、ともにいて、導いて、教えてくれるイエスさまがいるのです。

あなたにも、あなたのエマオの途上があったのです。
心が燃えて、目が開いて、心が開いた時があったのです。
思い出しましょう、そして、伝えましょう。
これが、証人のなすべき、本当の証しです。

ところで、心が燃えたのに、目も心も開かれて信じたのに、またそこから迷いでてしまうのが、私たちでもあります。
まさに、「愚かで、心が鈍くて、信じることができない者」です。
でも、その迷い出たあなたを、捨て置かない方がいるのです。
あなたの羊飼い、イエスさまです。
そう、「あなたのエマオの途上」は、あなたの人生に、何回も起きることなのです。

耐え忍び、寛容なイエスさまの、絶えることのない愛は、あなたに注がれているのです。

コリント人への手紙第一 第13章を開きましょう。
13節の短い章なので、ぜひ全文をお読みください。
4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
8 愛は決して絶えることがありません。

この章には、何回も愛という文字が書かれています。
その「愛」という主語をあなたの名前に書き換えたらどうでしょう。
4 〇〇は寛容であり、〇〇は親切です。また人をねたみません。〇〇は自慢せず、高慢になりません。
全くそぐわない、へんてこな文章でしょう。

では、主語を「イエスさま」にしたらどうでしょう。
4 イエスさまは寛容であり、イエスさまは親切です。また人をねたみません。イエスさまは自慢せず、高慢になりません。
5 イエスさまは礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
7 イエスさまはすべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
8 イエスさまの愛は決して絶えることがありません

これはまさに、エマオの途上に現れたイエスさまの姿です。
あなたのエマオの途上のために、お祈りします。


ゴスペルハウスメッセージ 2018.04.01
「ハッピー☆イースター」ルカ24:1-12

1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。
3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。
9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。
10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
11 この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
12 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。

イースター、おめでとうございます。
イエスさまがよみがえったのです!
最近借りた絵本で、「イースターは春が来たことのお祝いです」と書いてありましたが・・・。

逮捕の日から復活までの3日間のできごとを、簡単にまとめてみましょう。
イエスさまは、弟子たちの足を洗いました。
謙遜で仕える姿を示したのです。
裏切り者のユダや無理解な弟子たちにも愛を示した、最後の晩餐がありました
ユダはその愛に応えられませんでした。
イエスさまは、ゲッセマネの園で血の汗を流すほどに祈りました。
しかし、ついて行った3人の弟子たちは寝ていました。
イエスさまが逮捕されたとき、弟子たちは逃げてしまいました。
徹夜の裁判では、偽証で陥れようとされ、理解してもらうことはできませんでした。
十字架に向かうゴルゴダの丘への道のりで、誹謗中傷され、体も傷つき、ボロボロのように見えるイエスさまがいました。
十字架にかかり、イエスさまは死にました。
弟子たちは、埋葬さえ、アリマタヤのヨセフやニコデモや女たちにしてもらわなければならない有り様でした。
群衆は、大いにがっかりしました。
本当は、永遠の赦しのため、罪からの贖いのためだったのに。
翌日の土曜日は、何も起きないまま。
そして、日曜日の朝、イエスさまがよみがえったのです。
それは、イエスさまが前から言っておいた通りのできごとでした。

聖書は、こう言います。
「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ6:5)
あなたは、イエスさまとともに死に、イエスさまとともにこのよみがえりのいのちを生きるというのです。

だから、あなたの人生にも、この3日間があるのです。
優しくしても、へりくだっても、愛しても、赦しても、無視され、逃げられ、理解されず、おとしいれられ、バカにされ、がっかりされ、傷つけられ、見捨てられる。
でも、そこで終わりではないのです。
それを超えた新しい一歩が、たしかにあるのです。

ペテロが墓をのぞくと、そこに亜麻布がありました。
イエスさまを包んでいた亜麻布です。
それは、真っ白なものではなく、血の跡もあったことでしょう。
亜麻布は、苦しみの証しであり、死の証しでもあったのです。
しかし、イエスさまはそこを抜け出て、新しいいのちを生きたのです。
苦しみや死は、そこに打ち捨てられていたのです。

あなたの傷や悲しみは、たしかに苦しく辛いものでした。
しかし、それらのものは、もはや亜麻布に残された、過去の証しであるだけです。
その亜麻布は、もう、あなたを縛ることはできないのです。
あなたは、復活のいのち、よみがえりのいのちを生きているのですから。

そう、亜麻布の中に、あなたはもういないのです。
墓の中に、あなたはもういないのです。
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」

新しいいのちを、イースターのいのちを、生きましょう!

3月19日ITCNでのメッセージが、ちょうど今日の土曜日(安息日)のことだったので、皆さんにおすそ分けします。
原稿作っても、ボクはあまりその通り読まない(読めない)ので、実際のものとは違うことをご了承ください。
 
ITCN朝の集会メッセージ 2018.03.19
「沈黙、闇、そして」マタイ27:57-28:10
 
イエスさまの埋葬にあたっては、アリマタヤのヨセフという人物が中心となって進められます。
彼はユダヤの最高議会の議員で、イエスさまへの迫害の議決に賛成せず、ひそかにイエスさまに望みをかけていた人物です。
立場上、大っぴらにイエスさまを支持できなかったのですが、イエスさまが亡くなったということで、居ても立ってもいられなくなったのでしょう。
総督ピラトに死体の引渡しを要求し、埋葬を進めていきます。
 
この埋葬は、あわただしい埋葬でした。
イエスさまが亡くなったのは、金曜日の午後3時です。
そして、その3時間後の午後6時からは安息日が始まります。
安息日には、もちろん葬儀をしてはいけません。
なので、その間に引渡しの許可を取り、埋葬し終わらなければならないのです。
そして、ニコデモや女性たちの協力もあって埋葬は無事に済みました。
 
その後、安息日がやってきました。
聖書には、この安息日の弟子たちについて、何も記述がありません。
また、イエスさまについての記述も全くありません。
聖書はこの日のことについて全くの沈黙をしているのです。
しかし、弟子たちのことは予想がつきます。
彼らは、落ち込んでいました。
失望していました。
希望を失っていました。
落胆していました。
イエスさまの埋葬すらアリマタヤのヨセフに進めてもらうほどに、何もできずにいたのでした。
 
彼らはイエスさまの言葉を思い出していたことでしょう。
「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」(ヨハネ9:5)
そのイエスさまは、もう世にいないのです。
彼らの光は、失われてしまったのです。
 
闇が世界を覆っています。
光を失った世を、闇が支配しています。
この日についての聖書の記述は、そのことを象徴するようです。
聖書に、弟子たちやイエスさまについての記述はないのですが、パリサイ人や律法学者のことは書いてあるのです。
彼らは、ピラトのもとへ行き、墓に番兵をつけるように要求します。
そして、墓に番兵をつけます。
これは安息日の出来事ですから、これまで執拗に守ってきた律法を、自分たちの都合で無視しているのです。
まさに、闇の力がやりたい放題です。
 
私たちは、闇を失望と考えます。
しかし、闇は失望ではありません。
聖書の冒頭、創世記の第1章の1節~3節を読んでみましょう。
『初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。』
 
ここにも闇があります。
しかし、この闇は失望の闇ではありません。
これから始まる神様の創造への大きな祝福と大きな希望が、この闇に凝縮しているのです。
そして、希望あふれる光が創造され、続いて祝福あふれる世界が創造されたのです。
まさに、高橋是清が言ったように「一寸先は光」です。
闇は失望ではなく、神様の大いなる計画の時なのです。
それは祝福と希望の計画です。
 
そしてその通りに、世の光であるイエスさまは闇を打ち破ってよみがえられました。
創世記に書いてあるはじめの創造が完了したとき、神様は「それは非常に良かった」 (創世記1:31)とされました。
そこは、罪に堕ちる前の人間と神様が愛の交わりをするための最高の場所でした。
イエスさまの復活によって、新しい世界がはじまりました。
それは、十字架によって罪赦された人間が、神様と愛の交わりをするための場所です。
もう二度と罪に定められることのない世界です。
もし神様がこれを評価するなら「非常に、非常に、非常にすばらしい」ではないでしょうか。
 
聖書の中の多くの人物も闇と思われるような人生の時期を過ごしています。
ヤコブ、モーセ、ダビデ、などなど、数え上げればきりがありません。
しかし、彼らにとってその闇は、祝福への準備期間でした。
私たちの人生においても同じです。闇は続きません。
そして、その中に神様の大いなる祝福と大いなる希望があります。
イエスさまの復活のいのちと復活の人生が私たちに与えられるのです。
決定的な事実があります。
暗闇は、光には絶対に勝てないのです。
イエスさまの復活によって、もう闇は私たちを失望に落とすことはできません。
 
闇があなたを覆っても、あなたは失望しなくていいのです。
その闇と沈黙の中に、神様の祝福が準備されています。
静まって、期待しましょう。
復活の勝利の光は、あなたの目の前で、今、輝こうとしています。

ゴスペルハウスメッセージ2018.03.24
「叫ぶ石」 ルカ 19:28-40

28 これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。
29 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、
30 言われた。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。
31 もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」
32 使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。
33 彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか。」と彼らに言った。
34 弟子たちは、「主がお入用なのです。」と言った。
35 そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。
36 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。
37 イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、
38 こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」
39 するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください。」と言った。
40 イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

明日は、しゅろの日曜日です。
今週の聖書箇所は、その日曜日、イエスさまの、エルサレムへの最後の入城の場面です。
この場面は、4つの福音書すべてに記述されていますので、4つとも読めば、より立体的に理解できることでしょう。(参照:マタイ21:1~、マルコ11:1~、ヨハネ12:12~)

今日はこの箇所から、ルカによる福音書に特有の次の言葉をキーにして、御言葉を開いていこうと思います。
「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(40節)

しゅろの日曜日、エルサレムへの最後の入城において、イエスさまはロバの子に乗って入城します。
この当時、馬は戦争のときの王の乗り物であり、ロバは平和のときの王の乗り物でした。
イエスさまは、平和の王としての主張をもって、エルサレムに入城したのです。
旧約聖書:ゼカリヤ書9:9にこうあるとおりです。
「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。
それも、雌ろばの子の子ろばに。」

「私は平和の王である」というイエスさまの無言のメッセージを、残念ながら、群集は理解できていませんでした。
それは、群集のイエスさまへの期待が、あまりに大きかったことにもよるでしょう。
ローマの植民地としての圧迫感、閉塞的な宗教指導者たちの支配、民衆は解放を熱望していました。

ですから、エフーを圧政からの解放の王(武力を通しての解放)として迎えたときのように、上着を道に敷きました。(参照:列王記下9:13)
150年前、マカベア家のシモンがイスラエルの敵を打ち破り、エルサレムへ凱旋したときのように、しゅろを使って歓喜して迎えました。(参照:旧約聖書外典マカバイ記上13:51)
また、38節にあるように、詩篇第118篇を引用してイエスさまを迎えました。
この言葉は、イスラエルの敵を粉砕する王を期待し、歓迎する叫びでした。

つまり、武力による解放を期待していたのです。
「さあ、イエスさま!俺たちのリーダーとして立ち上がってくれ!」
「みんなの力で、ローマを叩き潰し、神の国の再建のためのクーデターを!」
「神様の力で、イエスさまの奇蹟で、ローマからの解放を!」
「俺たちゃ、いつでも突進するぞ!」

こんな暴動直前の状態で、パリサイ人はイエスさまに言いました。
「先生。お弟子たちをしかってください。」(39節)
これにイエスさまが答えます。
「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(40節)

さて、想像してください。
このときのイエスさまの顔は、どんな表情だったでしょう。
「困惑顔」「怒り顔」「諭し顔」「笑顔」・・・・・
私は、「笑顔」であったと確信しています。

石は生きていません。
石が叫ぶはずがありません。
そして、石は理解するはずもありません。
イエスさまはこう言いたいのです。
「石のように無理解であっても、石のようにかたくなな心であってもかまわない。
私は、その石(のような群集)のためにでさえ、十字架にかかる。」
イエスさまは、いやいやではなく、愛をもって石のような私たちを受け入れてくれるのです。

事実、この群集は、5日後には「イエスを殺せ」と叫んでいます。
イエスさまが、自分たちの希望するような武力行使をしなかったからです。
まさに、石のようなかたくなな心です。
石のような無理解です。
しかし、それをも受け入れる、イエスさまの愛がここにあります。
それは、押し付けがましい愛ではありません。
とてつもなく大きく、とてつもなく深い、ユニークな愛です。

次のことを忘れないでください。
「救いは私たちの信心から来るのではなく、イエスさまの十字架の愛から来る。」

石のように無理解で、石のようにかたくなな私たちのために、イエスさまの十字架の愛が注がれるのです。
これが救いです。これが福音です。
何かをしたから得られる報酬ではなく、一方的に与えられる恵みです。

石のように無理解のままでいいのです。
石のようにかたくななままでいいのです。
まずは、イエスさまの愛を受け入れましょう。
そのとき、イエスさまのユニークな、いのちがけの愛が、私たちに注がれるのです。
イエスさまの真っ赤な血潮を受けて、ただの石だった私たちは、真っ赤な石になります。
そう、真っ赤な宝石、ルビーになるのです。

ただの石から、神様の宝物の宝石へ、あなたは変えられるのです。
もう、あなたの人生は、「ただの人生」ではありません。
誰にでもできる人生ではなくなったのです。
あなたにしかできない人生が始まります。
誰にも変わることができない人生が始まります。
そう、「神様の大切な宝石としての人生」が始まるのです。

イエスさまの愛は、あまりにも大きく、あまりにも深い愛です。
石のように無理解な心では、とらえきれないかもしれません。
石のようにかたくなな心には、受け止めきれないかもしれません。
でも、イエスさまはその石のために、喜んでいのちを捨てたのです。
イエスさまの愛の血潮によって、あなたはもうただの石ではありません。
神様の宝物、すてきな宝石になるのです。

神様の宝石として、輝いて生きていきましょう。 


ゴスペルハウスメッセージ 2018.03.10
「三日で建てよう」 ヨハネ2:13-22

13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。
18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

マタイ・マルコ・ルカの供観福音書では、イエスさまの宮きよめは、最後のエルサレム訪問のときになっています。
それに対して、ヨハネの福音書では、公生涯の最初のエルサレム訪問のときです。
きっと、2回の宮きよめの出来事があったのでしょう。

それはさておき、私は宮きよめの場面が大好きです。
むちを持って大暴れするイエスさま、このエネルギッシュな姿に、うっとりとしてしまいます。
柔和で寛容でいうだけでない、イエスさまの力強さが、カッコいいでしょう。
弟子たちも、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」(詩篇69篇からの引用)と書いてあるのを思い起こたように、イエスさまのこの姿に感銘を受けたようです。

さて、大暴れするイエスさまに、ユダヤ人が言いました。
「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」(18節)
彼らは、「何様のつもりだ」「何の権威でするのだ」という気持ちになったのでしょう。

そんな彼らに、イエスさまはこう答えました。
「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(19節)
神殿での神様礼拝は、何も悪いことではありません。
それどころか、旧約聖書の中にある、大切な礼拝です。
しかし、それらは商売人や祭司長たちの、利権と強欲の巣にされてしまったのです。
聖なる礼拝が、汚されてしまったのです。

そんな状況に対して、イエスさまは、「あなたがこの汚れた礼拝を捨てるなら、利権と強欲を手放すなら、私はあなたのために新しい礼拝を、新しい契約を与えよう。三日をかけて」と言ったのです。
「三日で建てよう」というのは、十字架にかかり、よみに下り、3日目に復活するということです。
神殿という建物によらない、神様とひとりひとりの人格的な交わりの礼拝。
その本当の礼拝のために、汚されることのない礼拝のために、イエスさまは血を流し、いのちを捨てるというのです。
だから弟子たちも、22節にあるように、イエスさまの復活のときまで、このことが理解できなかったのです。

私たちの心の中には、様々な思いがあります。
心配、怒り、妬み、強欲、思い煩い、猜疑心・・・・
握っていなくてもいいものを、握りしめているのです。
いえ、手放そうと思っても、手放せずにいるといった方がいいでしょうか。
私たちはみな、気がついているかどうかは別として、がんじがらめになっているのです。

そう、だから、あなたの人生にも、宮きよめが必要なのです。
そのために、イエスさまは十字架にかかり、よみに下り、復活されたのです。

あなたの人生に、大暴れするイエスさまをお迎えしましょう。
あなたの人生に、新しい礼拝が必要なのです。
そして、十字架の血潮の中で、3日目のよみがえりのいのちの中で、新しいあなたを生きるのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.03.04
「生ける言葉との出会い」 マルコ9:2-8 

2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。
3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。
4 また、エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていた。
5 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
6 実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。
7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。
8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。

イエスさまの受難予告は、聖書に何度も出てきます。
今週の聖書箇所は、最初の受難予告と2回目の受難予告の間のできごとです。

エリヤは、預言者の代表的な存在です。
モーセは、十戒でも知られているように、律法の代表です。
預言者と律法、それは、旧約聖書そのものです。
エリヤとモーセは、まさに、旧約聖書の代表といえます。

そんな彼らと、イエスさまが語り合っています。
イエスさまは神様のひとり子、世の罪を贖うために送られた神の子羊です。
福音の代表、福音そのものです。
ですから、この会談は、旧約聖書の成就への道であり、十字架への道です。
しかも、エリヤもモーセも、もちろんイエスさまも、生きた姿を持ってそこに集まっていたのです。

ここで起こったできごとは、常識を持った大人には理解しがたいことでした。
イエスさまの衣が、白く輝き出しています。
エリヤは800年も前の人ですし、モーセは1500年も前の人です。
今から800年前といえば、日本では鎌倉幕府の頃、1500年前は、聖徳太子の頃です。
源義経(牛若丸)と聖徳太子とが、現代に同時に現れて話し合っているなんて、奇想天外でしょう。

しかし、幼い子どもには何の不思議もないことかも知れません。
彼らの世界には、オニも怪獣も実存しますし、スペシウム光線もかめはめ波も発射可能ですから。
大人になってしまうと、自分の常識の中でないと思っていることを、受け入れるのが難しくなるようです。
「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」(マタイ18:3)

さて、一緒にいた弟子たちはどうだったのでしょう。
彼らは、理解できていませんでした。
「実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。」(6節)

今週は、この箇所の中から、この状態の中で弟子たちが神様の声を聞いたということに焦点を当てて、御言葉を開きましょう。
「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」(7節)
ペテロたち3人の弟子は、この声をはっきりと聞いたのです。

彼らには、何の準備もありませんでした。
十分な学びも知識も、ありませんでした。
覚悟も決心も、あったとはいえません。
だのに、彼らには神様の声が、神様の示しが、与えられたのです。
そして、この体験は、たしかに彼らの後の人生を変えたのです。

あなたの人生にも、聖書の言葉が、光り輝いてあらわれる時が来ます。
神様の言葉が、印刷された古い言葉としてではなく、今、生きて働くものとして出現する時があるのです。
あなたの耳に、はっきりと神様の言葉が語られる時が来るのです。
弟子たちがモーセやエリヤを見、神様の声を聞いたときのように。

その時、あなたはどうしますか。

理解や解釈しようとするのではなく、学びや研究しようとするのでもなく、その光と力といのちとに、対峙してほしいのです。
目の前に与えられた神様からの生ける言葉を、打ち消したり、目をつぶったり、耳をふさいだりしないでほしいのです。

あなたへの生けるいのちの言葉は、あなたを支える力ある言葉は、用意されているのです。
この言葉とともに、あなたの人生を、歩んでいきましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.02.24
「決意の一歩」 ルカ9:51
 
51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。(新改訳)
51 さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ、(口語訳)
51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。(新共同訳)
51 天に帰られる日がだんだん近づきました。 イエスは鉄のように強固な意志を内に秘め、エルサレムを目指して、ひたすら進んで行かれました。(リビングバイブル)
 
イエスさまは、自分が何のために生まれてきたのかを知っている方でした。
自分の使命、自分の存在意義を知っているということは、あるいはうらやましいことかも知れません。
しかし、イエスさまの背負った使命は、全人類のためのいけにえとなること。
それは、とてつもなく重いものでした。
 
そして、その日が近づいて来たのです。
エルサレムへの一歩は、その使命のための一歩であり、十字架の死への一歩です。
今週は、様々な訳を集めてみましたが、「決意」「強固な意志」「毅然として」と、書かれています。
それほどの一歩なのです。
 
「イエスさまは神様だから、そんなの平気だった。」とか、
「使命を知っているから、容易だった。」とか、
そんなことはないのです。
 
イエスさまは、感覚が欠落した人ではないのです。
痛みも、苦しみも、悲しみも、空腹さえも、普通に感じることができる、完全な人でした。
本当の神様が、本当の人として生まれ、そして生きたのです。
使命とはいえ、苦しい決意が必要です。
しかし、イエスさまは毅然と一歩を進めたのです。
 
その時、弟子たちは完全に理解することができませんでした。
しかし、イエスさまは、それを責めることもなく、無理解の中を進まれたのです。
 
それは、使命のための一歩でした。
それは、愛のための一歩でした。
あなたを、罪にしばられてしまったあなたを、取り戻すための一歩だったのです。
十字架への、愛への、決意の一歩なのです。
 
史実の中のイエスさまを、どれほど研究しても、どれほど学んでも、この愛がわからないのなら、無意味なのです。
イエスさまの決意の一歩は、あなたへの愛のための一歩です。
あなたの赦しのための、あなたの自由のための、あなたの解放のための、一歩なのです。
 
そして、あなたにも、その人生に使命があります。
今、それがあなたにわかっているかどうかは別として、神様はあなたに使命を用意しているのです。
そして、その日が近づいて来たとき、神様はあなたに、一歩を求めます。
 
それは、喜ばしい一歩ではないかも知れません。
苦しみや悲しみを伴うものかもしれません。
しかし、使命に向かって顔をあげ、毅然と立ち、決意の一歩を踏み出しましょう。
あなたの使命、あなたのエルサレム、あなたの十字架への一歩を。
 
でもあなたは、ひとりじゃありません。
イエスさまは、イエスさまの決意の一歩に対して無理解だった弟子とは、まったく違うのです。
あなたの苦しみや悲しみを、ともに背負ってくださる方なのです。
傷ついたあなたを、励まし、癒やし、力づけてくださる方なのです。
 
あなたの決意の一歩に、イエスさまはともにいてくれるのです。
 
あなたの使命のために、決意のために、一歩のために、お祈りします。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.02.17
「同意なしに注がれる」 ルカ10:25-37,ヨハネ 15:13-15

ルカ10:25-37
25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

ヨハネ 15:13-15
13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。
15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。


フェイスブックやツイッター、インスタグラムやラインやミクシーなど、インターネット上には、さまざまなSNSが存在します。
その中には、友だちを作って、情報のやり取りをするものもあります。
ところで、その友だち・つながりの作り方に、2種類あるのを知っていますか。

フェイスブック・ライン・ミクシーは、友だちになるためには申請して承認してもらわなければなりません。
つまり、相互の了解・同意があって、はじめて友だちになれるものです。
それに対して、ツイッターやインスタグラムは、フォローするというボタンを押せば、だれにでもつながることができます。
相手側の同意は必要なく、一方的につながりを作れるのです。
(もちろん、そのようにしない方法もありますが)

では、実生活ではどうでしょうか。
友だちを作るという場合、双方の同意が必要でしょうか。
それとも、一方的に友だちとなっていいのでしょうか。

多くの方は、双方の同意が必要と感じることでしょう。
実際、そのほうがトラブルも少なそうです。
しかし、聖書はそうは言わないのです。
同意なく友となることが、良しとされているのです。

ルカ10:25-37は、「善きサマリア人のたとえ」として知られています。
当時、ユダヤ人とサマリヤ人は反目しあっていたということを念頭に、このたとえを読んでください、
強盗に襲われて半殺しになったユダヤ人を見て、同じユダヤ人の祭司もレビ人も知らん顔をして通り過ぎます。
しかし、サマリヤ人はかわいそうに思い、手当・介抱してあげるのです。
そして、イエスさまは聞きます。
「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」(36節)

イエスさまをためそうとした律法学者はこう答えます。
「その人にあわれみをかけてやった人です。」(37節)
サマリヤ人という言葉さえ、その良い行いさえ認めたくないかのような冷たい言葉です。
これが、ユダヤ人とサマリヤ人の関係を端的に表していると言っていいでしょう。

さて、サマリヤ人は、強盗に襲われた人の隣人、つまり友だちになりました。
しかし、半殺しになったユダヤ人は、それを了承していません。
半殺しですから、意識もあったかどうかわかりませんし、友だちとして了承するかどうかなどという状態ではなかったでしょう。
ですが、たとえ回復して意識が戻ったとしても、彼はサマリヤ人と友だちになるでしょうか。
もっと言えば、サマリヤ人に助けられ、介抱されたことを喜ぶでしょうか。
私は「否」と答えざるを得ません。
民族間の憎しみや争いや蔑みは、悲しいことですが、かんたんに消えるものではないのです。

そして、サマリヤ人も、そんなことは百も承知でした。
感謝もされず、喜ばれもしない。
友と認めてくれることもない。
逆に、恨まれるかもしれないことを承知の上で、彼は傷ついたユダヤ人の友になったのです。
彼は、同意なしに友になり、同意なしに愛を注いだのです。

それは、またイエスさまのスタンスでもありました。
ヨハネ15:13-15は、イエスさまの十字架前の決別説教の一部です。
ここでイエスさまは、弟子たちのことを「友」と呼ぶことにしたのです。
「わたしはあなたがたを友と呼びました。」(15節)

弟子たちは、このことについて、何も了承していません。
それどころかきっと、「いえいえ、私たちは弟子です。イエスさまこそ師です。」と思っていたことでしょう。
それでもイエスさまは、同意なしに、一方的に、友と宣言したのです。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(13節)
そして、イエスさまの言う友とは、いのちを捨てても惜しくないという関係なのです。

弟子たちは、イエスさまに命を捨ててほしいとも思ってないし、友であってほしいとも思っていません。
もっと生きていてほしいし、主であり、師であってほしいのです。
自分は、弟子であり、しもべでありたいのです。

しかし、イエスさまはそんなことにはお構いなしに、友と呼び、いのちを惜しまないほどの愛を注ぐのです。
それは、弟子たちが何かを成し遂げたからではありません。
そして、弟子たちが同意したからでもありません。
同意なしに注がれる愛が、資格なしに与えられる愛が、イエスさまの愛なのです。

この愛は、あなたへの愛でもあります。
あなたが何を成し遂げたからでもなく、あなたが同意したわけでもない。
それでもイエスさまは、惜しみなくいのちをあなたのために捨てたのです。

同意なしに注がれる愛は、あなたのものです。
同意なしに与えられる赦しは、あなたのものです。
この愛を、力いっぱい受け取りましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.02.04
「子羊とあなた」レビ記4:32-35

32 もしその人が罪のためのいけにえのために、ささげ物として子羊を連れて来る場合には、傷のない雌羊を連れて来なければならない。
33 その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえをほふる場所で、罪のためのいけにえとしてほふりなさい。
34 祭司は指で、罪のためのいけにえの血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。
35 また、和解のいけにえの子羊の脂肪が取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司はそれを祭壇の上で、主への火によるささげ物の上に載せて焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために、その人が犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される。

罪の赦しを求めて神様の前に出るときに、しかも、大胆に出るときに、必要になってくるものが、いけにえです。
今週の聖書箇所は、そのことについて書かれている場面です。
罪のためのいけにえとなるささげ物は、雌やぎか雌の子羊です。
赦しを乞う人は、いけにえの頭に手を置き、自らの罪の身代わりとするのです。
そして、その子羊は、ほふられます。
この流された血が、重要なのです。

ここで一つ、確認しておきたいことがあります。
いけにえである子羊(もしくは雌やぎ)をほふるのは、だれでしょう。
「なんとなく、祭司のような気がする」と思っていた人も多かったのではないでしょうか。

しかし、33節を読んでもわかるように、いけにえをほふるのは、許しを乞う本人なのです。
「その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえをほふる場所で、罪のためのいけにえとしてほふりなさい。」(33節)

ここでほふられるのは、生きた子羊です。
ぬいぐるみでもおもちゃでもありません。
ほふられる場面には、いのちが奪われる悲鳴があります。
苦しみがあります。
においがあります。
また、断末魔の痙攣もあるでしょう。
そして、ほふっている本人は、生きた血潮を返り血として浴びるのです。
それは、いのちの温かさをもった、生きた血潮です。

他人がほふるのを、返り血も浴びず悲鳴も聞こえない場所で見るのとは、わけが違うのです。
自分の近くで、自分の手で、そのいのちの苦しみと熱を感じざるを得ない状況なのです。
これが、子羊とあなたの距離なのです。

そして、これはまさに、世の罪を取り除く神の子羊・イエスさまの十字架とあなたとの距離感なのです。

あなたの十字架は、どこにありますか。
どこか遠くの、音もにおいも熱も感じないような、風景写真のような十字架ですか。
それとも、いのちの苦しみがあり、悲しみがあり、血潮の温かさが残る、生きた十字架ですか。

今、もう一度、子羊とあなたとの距離を、位置を、関係を見直しましょう。
修正しましょう。
そして、本当の赦しの中を生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.01.27
「荒野のあなた」出エジプト 3:1-6、5:1-5

3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
3:2 すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
3:4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。
3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

5:1 その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」
5:2 パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」
5:3 すると彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。」
5:4 エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロン。おまえたちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。おまえたちの苦役に戻れ。」
5:5 パロはまた言った。「見よ。今や彼らはこの地の人々よりも多くなっている。そしておまえたちは彼らの苦役を休ませようとしているのだ。」

出エジプト記のみならず、荒野という言葉は、聖書に何度も登場します。
その数およそ300回。
その中でも、出エジプト記から申命記は、荒野の記録といってもよい40年の記録です。
どれか一つくらい、「荒野記」という名前になったらいいのになんて、個人的には思うのです。

さて、荒野は、不毛、さびしい、厳しい、苦しい、何もない、つらい、というイメージを連想させやすいところです。
たしかに、人間の日常生活の面から見たら、そうかも知れません。
しかし、神様との関係で見ると、そうでは内面が浮かび上がってきます。
荒野でモーセは神様からの召しを受け、モーセに導かれたイスラエルの民は、40年間神様からの特別の扱いを受けました。
40年間毎日マナが降り、着物も履物も擦り切れることがありませんでした。
昼は雲の柱で、夜は火の柱で、神様は民を導き、外敵とは神様の力によって戦いました。

荒野は、艱難辛苦の場所というだけではないのです。

荒野は、神様からの言葉を受ける場所です。
荒野は、神様から導きを受ける場所です。
荒野は、神様の力を受ける場所です。
荒野は、神様に養われる場所です。
荒野は、神様の守りの中で生きる場所です。

荒野は、神様が用意してくれた、神様との深い交わりの舞台なのです。

クリスチャンになっても、神様信じても、すべてが成功や勝利や繁栄ということはありません。
仕事も人間関係も子育ても信仰生活も何もかもが順風満帆っていう人は、ほとんどいないでしょう。
ときには、荒野にひとりぽつんと取り残されたような、そんな状態になることもあるでしょう。
それどころか、今、荒野の中にいると感じている人もいるかも知れません。

そんなあなたに、ぜひ忘れないでいてほしいことがあります。
それは、「荒野は、あなたを裁くために備えられたものではない」ということです。

神様はあなたに、言葉をかけようとしているのです。
神様はあなたを、導こうとしているのです。
神様の力が、あなたに働こうとしているのです。
神様はあなたを、愛しているのです。

荒野の中で、あなたに注がれた神様の言葉と愛を、しっかりと受けましょう。
そして、神様の守りと導きの中で、生かされましょう。


ゴスペルハウスメッセージ 2018.01.20
「ないところにあるのが、愛」ヨハネ11:32-44

32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35 イエスは涙を流された。
36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。
38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

ベタニヤのマリタ・マリヤ・ラザロの家に、イエスさまは度々訪問しています。
今週の聖書箇所は、そのラザロの死とよみがえりの場面です。
罪から人間に与えられることになった死、そこに、いのちの王・いのちの主であるイエスさまが現れたのです。
ヨハネ福音書の中では、イエスさまが十字架に掛かる前の最後の奇蹟です。

この聖書箇所の中には、英語の聖書の中で最も短い節が含まれています。
それは35節「イエスは涙を流された。」です。
英語ではたったの2語「Jesus wept.」です。

イエスさまは、また、憤りや動揺を感じられました。
いったい、何に対して、イエスさまは涙を流し、憤りや動揺を生じたのでしょう。

それは、死に対してです。
また、死を与えることになった罪に対してです。
そして、死の力の前に、罪の力の前に、まったく無力な人間に対してです。
それゆえ、避けて通ることのできなくなった、間近に迫った十字架の死に対してです。
また、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」(37節)のような、人間の無知と無理解に対してです。
イエスさまは、これらのことに、憤り、動揺され、涙を流したのです。

「その石を取りのけなさい。」(39節)
イエスさまがこう言うと、マルタはとても正しい答えをしました。
「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」(39節)
人は死んだその日から、死んだその時から、すでに生きているものとは違った臭いを発します。
まして、4日も経っているのですから、臭くなっているのは当然です。

それが、この世での正しい法則です。
もう、死んでしまっている者は、取り返しがつかないのです。
しかし、いのちの主であるイエスさまには、いのちの法則があるのです。
これが、罪と死の法則なのです。
もう、希望はないのです。
しかし、私たちの救い主であるイエスさまには、救い主の法則があるのです。

この世の法則では「ないところ」にあるのが、本当の希望であり、本当の愛なのです。

ラザロが出てきたとき、イエスさまは、まわりの人々にこう言いました。
「ほどいてやって、帰らせなさい。」(44節)
死んだラザロが、布に巻かれているのは、当たり前のことです。
その当たり前にしばられていたラザロを、死からほどいてやって、いのちに帰らせなさいとイエスさまは言ったのです。

イエスさまは、ラザロにだけ涙しているのではありません。
あなたにも、涙を流しているのです。
あなたにも、ないところにある愛が、注がれているのです。

いま、あなたをしばりつける布を、イエスさまのいのちの法則で、救いの法則で、ほどきましょう。
そして、イエスさまのくださる、本当のいのちの中に、生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.01.14
「大胆と臆病の境界」

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、
折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ヘブル人への手紙 第4章16節(2018年 ゴスペルハウス 年間聖句 )

「大胆に」が、今年のゴスペルハウスのテーマですが、その反対の意味として「臆病」という言葉があります。
あるいは「卑怯」とも言えるかもしれません。
今週は、大胆と臆病の境界は何かということを、聖書から開いていこうと思います。

元旦礼拝のときに、「大胆」という言葉が旧約聖書には一度も出てこないとお話ししました。
しかし、大胆に生きていた人物は、何人もいます。
今日は、アブラハムを取り上げ、そこから、大胆と臆病の境界は何かということを見ましょう。

アブラハムは、75歳のときに、神様の言葉どおりに故郷を捨てて、親族を捨てて、見知らぬ土地へ旅立ちました。(参照:創世記12:4)
まさに大胆な行動です。
しかし、自分の身を守るために、妻のサラを妹だと偽りました。(参照:創世記12:13)
臆病で卑怯な行動です。
アブラハムという1人の人間の中に、大胆と臆病が共存しているのです。
この後も、彼の揺れ動きは続きます。

大胆(創世記13:9)ロトと別れ際に、好きな方を選びなさいと選択権を与える。
大胆(創世記14:15)人質になったロトの家族を救うため、四人の王の連合軍にしもべたちといっしょに戦いを挑み、勝利。
臆病・卑怯(創世記15:3)神様の約束を信じきれず、「私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と訴える。
臆病・卑怯(創世記16:3)待ちきれないアブラハム夫妻は、女奴隷ハガルによって、跡取りを得ようとする。
大胆(創世記18:32)ソドムとゴモラの赦しのために、神様に直談判する。
臆病・卑怯(創世記20:2)再び、サラを妹と偽って保身を図る。
臆病・卑怯(創世記21:11)ハガルの子イシュマエルとサラの子イサクのことについて、どうしたらいいか悩む。
大胆(創世記22:10)イサクを神様に捧げるいけにえとして、ほふろうとする。

ざっと見るだけでも、このように変遷を遂げているのです。
しかも、アブラハムには悪意も魂胆もないのに、揺れ動いてしまうのです。
ということは、大胆とか臆病とかいうのは、性格で決まるものではないようです。

では、何の条件で、大胆と臆病の境界線が引かれるのでしょうか。
ここで、人類最初の大胆と、人類最初の臆病を、見てみましょう。

人類最初の大胆は、創世記第2章25節です。
「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」

そして、人類最初の臆病は、創世記第3章8節です。
「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」

この2つのできごとの間に、何があったのでしょうか。
それは、禁じられていた「善悪を知る木の実」を食べてしまったということです。
サタンにそそのかされ、人類に、罪が入りこんだということです。

大胆と臆病の境界は、「神様の約束の中にいる」か、「自分の正しさの中にいる」かの違いなのです。
自分の正しさとは、自分への都合のよさであり、自分勝手な善悪の判断です。
これを、聖書では罪というのです。

アブラハムも、神様の約束の中に自身を置いているときには、大胆でした。
そして、自分の正しさ、都合のよさに身を置くときには、臆病で卑怯だったのです。

あなたは、罪人です。
私も、罪人です。
でも、私たちには希望があります。
神様からの解放の約束、イエスさまの十字架があるからです。

あなたは罪から解放されています。
十字架の贖いは完全なのです。
この約束の中に、あなたをとどめましょう。
そして、神様の愛の約束を全身で味わって、大胆なあなたを生きるのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.01.06
「正しさにまさるもの ---博士たちの旅---」マタイ2:9-12
 
9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。
 
東方の博士たちの旅は、知識から始まりました。
この章の1-2節には、こうあります。
1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
 
彼らは、占星術も学んでいたのでしょう。
それで彼らは、その結果を確認するために、ユダヤを訪問したのです。
そして、都エルサレムで王に謁見し、祭司長や学者たちの知識を得て、さらにベツレヘムへと旅は進んでいくのです。
知識をもとに、人との出会いと助力を得て、進められた旅。
これは、常識にかなった、すべて想定内の、そして正しい旅です。
 
ところで、聖書には博士たちは3人とは書かれていません。
また、博士たちだけで東方の国から旅を続けてきたとも書かれていません。
当時はもちろん、鉄道も自動車もないわけですから、東方の国からの旅は様々な困難があったことでしょう。
ですから、博士たちは従者や下僕を従えての、それなりに準備の整った旅ではなかったかと、私は思うのです。
あくまでこれは、想像なんですけど。
みなさんは、どう感じますか?
 
さて、正しい知識と正しい手順で進められたベツレヘムへの旅に、最後の導きが与えられます。
東方で見た星が博士たちを先導して進み、幼子イエスさまのいる所の上にとどまったのです。
これは、想定内の出来事ではありません。
超常的な、神様の導きです。
 
そして、博士たちは、神様のひとり子との出会いを果たすのです。
正しさ・想定内・常識範囲の積み重ねのうえに、さらに神様の超常的な導きがあってはじめて、私たちは神様に出会えるのです。
 
エジソンはこう言いました。
「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」
“Genius is 1 percent inspiration and 99 percent perspiration.”
努力、それは、正しさの積み上げです。
それはもちろん大切なのですが、“inspiration”がなくては、inspireがなくては、足りないのです。
inspiration(インスピレーション)は、自分の頭の中から出るものではありません。
上からの注ぎがあって、想定外の超常的な導きがあって、与えられるものなのです。
それはまるで、この博士たちの旅と同じではないでしょうか。
 
現代の私たちにも、同じことが言えます。
聖書研究や、神学の探求や、教会の歴史を学ぶことは、決して悪いことではありません。
正しいことと言ってもいいでしょう。
しかし、その延長線上にそのまま、神様との出会いはありません。
正しい聖書研究の果てに、真理との出会いはなく、救いの道も、永遠のいのちもないのです。
 
さらにもう一つ、超常的な導きが必要なのです。
それが、聖霊様の導きです。
そしてあなたは、道であり、真理であり、いのちであるイエスさまとの出会うのです。
 
博士たちは「別の道から自分の国へ帰って」(12節)行きました。
書かれてはいませんが、彼らが東方の国からエルサレムまで着た道も、最も理にかなったものだったことでしょう。
しかし、彼らは別の道を通ったのです。
それは、「夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けた」(12節)からであり、イエスさまに出会った喜びがあったからです。
彼らは、自分たちの正しさよりも、導きを選択したのです。
 
さあ、あなたの正しさにしばられず、正しさを超えて、新しい道を歩みましょう。
神様の導きは、いま、あなたの人生に用意されているのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.01.01
「元旦礼拝 ---大胆に---」
 
ですから私たちは、
あわれみを受け、また恵みをいただいて、
折にかなった助けを受けるために、
大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ヘブル人への手紙 第4章16節
(2018年 ゴスペルハウス 年間聖句 )
 
ゴスペルハウスの2018年のテーマは、「大胆に」です。
 
私たちは、神様の前に出なくてはならないことがあります。
生きている間に体験する人もあるでしょうし、死んだ後に体験する人もいるでしょう。
でも、必ず神様の前に出なくてはならないのです。
 
さて、神様の前に出なくてはならなくなったときの、私たちの様子や心情を表すのはどんな言葉でしょう。
おずおず、びくびく、どきどき、おっかなびっくり・・・
これではまるで、校長室に呼び出された、いたずら男子中学生のようですね。
あ、私の体験ですけど。
 
なぜこんな反応になってしまうのでしょう。
それは、「隠すべきものを持っているから」です。
知られたくない、隠しておきたい、指摘されたくない、何かを持っているからです。
逆ギレも、同じような心理状態から生まれます。
 
これらは、全く大胆とはいえません。
なぜ、こんな反応をしてしまうのでしょうか。
 
次の事柄が、大きなヒントになります。
「大胆」という言葉が、聖書の中に何回出てくるかを調べてみました。
聖書の中には23回の「大胆」が書かれています。
そして、その内訳は、旧約聖書が0回で、新約聖書が23回なのです。
(新改訳聖書・坂本調べ)
 
23回の「大胆」の中には、大胆に人に語るという場面のものもありますが、それにしても対照的なデータです。
旧約聖書と新約聖書の間を分けるもの、それはもちろん、救い主イエスさまです。
救い主イエスさまがなければ、贖いの十字架がなければ、大胆はないのです。
 
あなたは、あなたの罪を、罪深さを認めることです。
それと同時に、イエスさまの十字架の赦しと贖いの完全性を認めるのです。
罪深い自分と、そこに注がれた完全な赦しとを、全身で受け止めるのです。
それを、全力で生きるのです。
そのとき、あなたは大胆に神様の前に出ることができるのです。
 
2017年は、あなたの価値を認めました。
2018年は、もう一歩先に前進しましょう。
そう、今年は「大胆の年」なのです!

ゴスペルハウスメッセージ 2017.12.31
「大晦日礼拝 ---あなたの価値---」
 
だから恐れることはありません。
あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
マタイによる福音書 第10章31節
(2017年 ゴスペルハウス年間聖句)
 
ゴスペルハウスでは2017年、「恐れない」「自己卑下に陥らない」ことを、重要なテーマにしてきました。
なぜ、恐れてはいけなくて、自己卑下してはいけないのか。
それは、あなたが「たくさんの雀よりもすぐれた者」だからです。
あなたが、価値あるものだからです。
 
さて、では、価値とは何でしょう。
聖書における価値とは、そのものを手に入れるために支払われた代価のことです。
そのものの質ではなく、支払われた代価なのです。
 
例えば、珍しい切手を購入するのに、100万円支払ったとしましょう。
このとき、この切手の価値は100万円というわけです。
たとえ額面が「10円」であっても、この切手の価値は100万円というわけです。
しかし、この10円切手を貼っただけでは、ハガキも出すことができません。
代金は100万円でも、額面(質)は10円だからです。
価値とは、質ではなく、支払われた額が問題なのです。
 
ですから、あなたの価値は、「そのままのあなたが素晴らしいから・・・」とか、「クリスチャンは立派な・・・」とか、そんなものではないのです。
あなたが価値あるのは、あなたのために支払われた代価が大きいからです。
 
あなたのために支払われた代価、それは、イエスさまのいのちです。
あなたを罪から解放するために、神様のひとり子イエスさまは、身代わりになって十字架についたのです。
これほど大きな代価が、他にあるでしょうか。
 
イエスさまの十字架によって、あなたの価値は神様のひとり子と同じ、つまり、あなたは神様の子どもとしての価値を得たのです。
あなたのために支払われた代価、イエスさまの十字架の愛の中で、神様の愛する子どもとして、これからも生きていきましょう!

ゴスペルハウスメッセージ 2017.12.24
「正しさにまさるもの(クリスマス2017)」ルカ2:1-7

1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

今年のアドベントは、「正しさにまさるもの」をテーマに、メッセージをしてきました。
正しさにまさるもの、それは、神様を喜ぶこと。
正しさにまさるもの、それは、神様の言葉を信じ、受け入れること。
正しさにまさるもの、それは、自分の正しさを捨てること。
正しさにまさるもの、それは、感情に流されないこと。

そして、クリスマスも、同じく「正しさにまさるもの」です。
正しさにまさるものを、その人生にお迎えし、受け入れたらどうなるのか。
それを、ヨセフとマリヤの体験からみていこうと思います。

ヨセフとマリヤは、自分たちの正しさを捨て、神様の言葉に生きることを選びました。
そして、身重のマリヤとともに、ヨセフは住民登録のためにベツレヘムに向かいました。
今から2千年も前のことですから、電車や車があったわけではありません。
徒歩か、馬やロバか、いずれにしても、臨月を迎える妊婦には険しい行程だったことでしょう。

神様の言葉に従い、険しい道のりを乗り越えてきた、マリヤとヨセフ。
ベツレヘムには歓迎があり、暖かい部屋と豊かな食事が用意されていても不思議ではありません。
私たちは、「神様に従順な信仰者には、苦難の先に、神様の報いがあります」と、ついつい考えがちではないでしょうか。

しかし、ヨセフとマリヤに待っていた現実は違いました。
「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(7節)
正しさにまさるものを生きているのに、居場所がなくなったのです。
そう、正しさにまさるものに生きると、この世での居場所はなくなるかもしれないのです。

正しさにまさるもの、それは繁栄や栄誉を約束するものではありません。
成功や賞賛は、得られないことも多いのです。

しかし、私たちには希望があります。
イエスさまは、この世に居場所がないところで、お生まれになったのです。
立つ瀬がないという言葉がありますが、あなたが居場所をなくしたとき、そこに神様は来てくださるのです。
あなたは、どんな状況にあっても、決して見捨てられることはないのです。
世界中の人があなたに対して無理解でも、世界中の人があなたに価値を見いだせなくても、神様はあなたを受け入れるのです。

クリスマスです。
ケーキやプレゼントもうれしいものですが、もっとうれしいものがあります。
それが、クリスマスの約束です。
あなたは、どんな時も見捨てられない。
神様は、あなたを愛しているのです。

安心して、正しさにまさるものを受け入れましょう。
正しさにまさるものに生きましょう。
クリスマスの約束は、あなたへの約束なのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.12.16
「正しさにまさるもの(アドベント第3週)」マタイ2:1-8 

1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

ヘロデ王は、悪い人、ひどい王として知られています。
たしかにこの後、ベツレヘム地方の2歳以下の男の子を皆殺しにさせたのですから、ひどい王でしょう。
その原因、その動機は、自分自身が王であり続けるということへのこだわりです。
しかし、王が王であり続けようとするのは、あたり前のことですし、ある意味正しいことともいえます。

ヘロデ王は、自分の地位・立場を脅かすものの存在に対して、驚き恐れ惑ったのです。
そして、周囲の人々は、これからヘロデ王が何をしだすのかと、恐れ惑ったのです。
ヘロデ王は、博士たちを手なづけ、だまし、その新しく生まれたというユダヤ人の王を殺そうとしました。

彼は自分自身の正しさにこだわり、正しさにまさるものに目を向けなかったのです。
自分の感情や立場の保全が、正しさよりも優先していたのです。
権力者がこのような状態では、まわりにいる人たちは大変です。

自分の気持ちや立場のために、地位や名誉を守るために、利益や優位性を保つために、正しさを曲げてウソまでつく。
これは、2000年前のヘロデ王だけのことではありません。
現代の、我が国を含む強国のリーダーたちだけでもありません。
あなたの中にもあるものなのです。

何かあったら、神様を喜ぶことも、神様を愛することも、神様を礼拝することさえできない者。
身勝手な、臆病な、ずるい人間。
正しさにまさるものを知っていながら、弱さゆえ、欲のゆえ、それを受け取ることを拒んでしまう。
私たちは、そんな自分自身を見据えなくてはならないのです。
だれか他の人のことでなく、自分自身の問題として。

しかし、こんな私たちにも希望があります。

こんな私のために、こんなあなたのために、イエスさまは生まれたのです。
立派でもなく、ずるく弱い、取るに足らない者のための救い主イエスさまのお誕生。
それが、クリスマスです。
あなたの弱さもずるさも罪をも知り、その身代わりになるためにイエスさまは来られたのです。
正しさにまさるものを見失い、迷路の中で恐れ惑っているのは、ヘロデ王だけじゃありません。
あなたが、その当事者なのです。

そんなあなたのための羊飼いが、イエスさまです。
正しさにまさるものを知っていながら、それでもはぐれてしまうあなたのために。
感情や状況に流されて、さまよってしまうあなたのために。
恐れなくてもいいものを恐れ、惑ってしまうあなたのために。
あなたの救い主がお生まれになりました。

あなたの羊飼いに導かれて、正しさにまさるものへと歩み出しましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.12.09
「正しさにまさるもの(アドベント第2週)」 ルカ1:34-38、マタイ1:18-25

ルカ1:34-38
34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

マタイ1:18-25
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

先週は、歴代誌から「正しさにまさるもの」と題し、正しさよりも神様を喜ぶことはまさるとお話ししました。
今週は、マリヤとヨセフの2人から、救い主の父母として選ばれた2人から、「正しさにまさるもの」を見ていきましょう。

主の使いが、結婚前の2人のところへそれぞれ来ました。
マリヤには目に見える形で、ヨセフには夢に現れて。
それは、処女マリヤを通してイエスさまがお生まれになるという、受胎告知でした。

それを聞いたときのマリヤの反応は、とても正しいものでした。
「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(34節)
医学的にも、だれの目にも、納得できる返答です。

また、ヨセフは、神様の前にも人の前にも正しい人でした。
彼が取るべき一番の正しさは、婚約中にもかかわらず妊娠したマリヤを非難することです。
しかし、マリヤを愛するヨセフは、その一番の正しさを捨て、「内密に去らせようと決めた」(19節)のです。
こうすることにより、マリヤは非難されることがなくなり、身勝手な離縁(婚約破棄)をしたヨセフが責められるのです。
ヨセフは愛をもって一番目の正しさを捨て、自らの犠牲をもって二番目の正しさを選択したのです。
本当に、謙虚な、謙遜な姿です。

しかし、神様からの使いの言葉は、この2人の正しさとは違ったのです。
マリヤは正しく、ヨセフは正しく愛のある人でした。
この2人に、神様はその正しさも愛も捨てさせたのです。
捨て去ることを求めたのです。

そして、マリヤとヨセフは、そうしました。
自分の正しさ、自分の愛を捨て、それにすがらず、神様の言葉を、神様の御心を受け入れたのです。
ここに信仰があります。
これこそ、本当の謙遜です、本当の謙虚です。

本当の謙遜とか謙虚というのは、他者に対して優しいとか、寛容であるということではないのです。
信仰者の謙遜とは、自分の愛も、自分の正しさも、自分の計画も、神様の御心の前で、神様の愛の前で、捨て去ることなのです。
謙遜は、人に対するものではないのです。
組織やリーダーに対するものでもありません。
本当の謙遜は、神様に対してのものなのです。

あなたの人生にも、神様からのチャレンジが、求めが、あるでしょう。
そのとき、どうしますか?
自分の正しさや、自分の愛や、自分の計画を主張しますか。
それとも、神様の言葉に従いますか。

あなたの正しさにまさる、あなたの愛にもまさる、神様の愛があります。
この愛の腕に抱かれて、生きていきましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.12.02
「正しさにまさるもの(アドベント第1週)」 歴代誌下 30:17-27

17 集団の中には、身を聖別していなかった者が多かったので、レビ人が、きよくないすべての人々のために、過越のいけにえをほふる役目につき、これを聖別して主にささげた。
18 民のうち大ぜいの者、すなわち、エフライムとマナセ、イッサカルとゼブルンの多くの者は、身をきよめておらず、しかも、しるされているのと異なったやり方で、過越のいけにえを食べてしまったので、ヒゼキヤは、彼らのために祈って言った。「いつくしみ深い主よ。このことの贖いをしてください。
19 彼らは、心を定めて神、彼らの父祖の神、主を求めたのですが、聖なるもののきよめのとおりにはいたしませんでした。」
20 主はヒゼキヤの願いを聞かれ、民をいやされた。
21 こうして、エルサレムにいたイスラエル人は、大きな喜びをもって七日の間、種を入れないパンの祭りを行なった。レビ人と祭司は、毎日、主に向かって強い調べの楽器をかなで、主をほめたたえた。
22 ヒゼキヤは、主の務めによく通じているすべてのレビ人の心に語りかけた。そこで彼らは、和解のいけにえをささげ、彼らの父祖の神、主に告白をしつつ、七日間、祝いの食物にあずかった。
23 それから、全集団は、あと七日間祭りを行なうことを決議し、喜びをもって七日間、祭りを行なった。
24 ユダの王ヒゼキヤは集団に一千頭の雄牛と七千頭の羊を贈り、つかさたちは集団に雄牛一千頭と羊一万頭を贈り、多くの祭司は身を聖別した。
25 こうして、ユダの全集団と祭司とレビ人、およびイスラエルから来た全集団、イスラエルの地から来た在留異国人、ユダに在住している者たちは、喜んだ。
26 エルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの時代からこのかた、こうしたことはエルサレムになかった。
27 それから、レビ人の祭司たちが立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まい、天に届いた。


ヒゼキヤ王は、すべてのイスラエルの民と過越の祭を行いたいと思いました。
ヒゼキヤ王の思いは、「神様に立ち返ろう!」でした。
本来、過越の祭は、第1の月の14日に行うこととされています。
しかし、準備が整わなかったため、ヒゼキヤ王たちは次の月に繰り下げて行うことにしたのです。
それほどまでに、ヒゼキヤ王はイスラエルの民に神様に立ち返ることを望んでいたのです。

そして、1月遅れの過越の祭は盛大に始まりました。
しかし、ここで、トラブルが発生したのです。
北部からの参加者たちが、過越の規則からはずれた方法で、過越のいけにえを食べてしまったのです。

ヒゼキヤは、彼らのために神様に祈りました。
「いつくしみ深い主よ。このことの贖いをしてください。
彼らは、心を定めて神、彼らの父祖の神、主を求めたのですが、聖なるもののきよめのとおりにはいたしませんでした。」(18‐19節)
彼らは赦され、いやされ、大きな喜びの中で祭は続けられました。

そして、彼らは大きな喜びの中で、もう7日間延長して祭を行うことを決議しました。
計14日間の過越の祭、エルサレムには大きな喜びがありました。

さて、ここまでが、この祭の概要です。
本来の過越の祭に比べて、次の点が変更されています。
・開催時期が違っている
・一部の人たちが、間違った様式で参加してしまっている
・開催期間が、2倍に延長されている
簡単に言えば、間違いだらけの過越の祭です。

しかし、神様はこの祭を大いに喜んでくださったのです。
「彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まい、天に届いた。」(27節)
完璧な正しさを求めるはずの神様が、間違いだらけのこの祭を喜んだのです。

正しさは、人間にとって、特にクリスチャンにとって、大切なものかもしれません。
神様の正しさを極めようと、知識や技能を身につけようとしている人たちも多いでしょう。
しかし、神様はそれよりも大切なこと、正しさにまさるものを私たちに示したのです。
それは、神様を喜ぶことです。
神様に立ち返ることです。

人間はだれでも不十分な存在です。
完全完璧な正しさなど、だれも手に入れることはできません。
ただ、正しさを超えたもの、正しさにまさるものをもつことは可能です。
心から神様を喜べばいいのです。

また、神様が私たちに示してくれた究極の愛も、正しさにまさるものでした。
神様の愛するひとり子イエスさまが、私たちの罪の身代わりになって十字架についたのです。
神様の正しさの前にあって、滅びるしかなかった私たちを救うために、イエスさまが死んだのです。
あなたに、この愛が注がれているのです。

さあ、心から神様を喜びましょう。
正しさにまさるものを持った人生がはじまります。
だれも裁くことのない人生、自分自身をも喜ぶ人生がはじまるのです。
アドベントです。
正しさにまさる究極の愛・イエスさまを、心から力いっぱい喜んでお迎えしましょう! 

ゴスペルハウスメッセージ 2017.11.26
「雲の上の空」 ピリピ4:4
4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。


喜びなさいというのは、聖書が私たちに何度も命じるすすめです。
この箇所だけでなく、何度も喜びなさいと命じられています。

テサロニケ人への第1の手紙5:16-18にも、こうあります。
16 いつも喜んでいなさい。
17 絶えず祈りなさい。
18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。


私たちは、条件さえ揃えば、喜ぶことは簡単です。
美味しいものを食べた、素敵な人に出会った、仕事がうまくいった、ほめられた等々。
しかし、聖書はそうは命じていないのです。
「いつも喜びなさい」と言うのです。

この「いつも」が、むずかしいのです。
私たちは、周りの状況とか、感情とか、いろんなことで邪魔されて喜べない時があるのです。
神様の愛はわかっているんだけど、救われたことはわかっているんだけど、でも、喜べないときもあるのです。

私は、飛行機から見る空、雲の上の空が大好きです。
雲の上の空は、いつも晴れです。
そして、地上から見るよりもずっと、青がきれいに見えるのです。
雨や曇りの日に飛行機に乗ると、飛行場でイライラ・モヤモヤすることがあります。
しかし、そんなときも雲の上まで出てしまえば、そこは青空。
それまでイライラ・モヤモヤしていたのが、バカらしくなるのです。
しかも、イライラの原因だった雲が、雲の上から見るときれいなんです。

神様と私たちとの関係も、同じことがいえます。
身のまわりの小さなことばかりに目を向けていると、それに目をふさがれてしまうと、よく見ることもできないし、苦しいし、喜べないのです。

神様によって、目をふさぐ雲の上に運んでもらうことです。
まるで、風に乗って舞い上がる鷲のように。
イザヤ書40:31には、こうあります。
「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
雲の上の空まで舞い上がったなら、今まで大きな問題と思い込んでいたことさえ、笑い話になるのです。

ここで、気をつけることが2つあります。
まず第一に、雲の上の空を見るためには、雲の中を通り抜ける必要があるということです。
雲を通り抜けるその間は、前後左右も上下も見えなくなります。
自分がどこにいるのかも、不安になるかもしれません。
しかし、そこで慌ててパニックを起こしてはいけません。
神様の腕の中に、神様の愛の中に、とどまり続けることです。

第二に、自分で羽ばたいて、自力で雲の上に行こうとしないことです。
鷲は、翼をバタバタと羽ばたいて上昇するわけではないのです。
風を受けて、上って行くのです。
「私はこんなにガンバったから・・・」という思いは、神様の愛を見失ってしまう原因になります。
あなたの人生から、神様の愛を追い出してしまうのです。
オバデヤ書1:4には、こうあります。
「あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。」

いつも青く、深く青い空に、神様によって押し上げられましょう。
雲の上の空、そこは、神様の愛のように、いつも晴れなのです。
あなたはそこで、いつも喜んでいていいのです。
あなたを悩ませた問題は、もはや、あなたを苦しませることはないのですから。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.11.18
「聞くこと」 ローマ 10:14-21

14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。
17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
18 でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」
19 でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」
20 またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」
21 またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」

信じなくては、求められない。
聞かなくては、信じられない。
宣べ伝える人がいなくては、聞けない。
遣わされなくては、宣べ伝えられない。
実に、明快な論理ですね。

これを、信仰のステップという順に追っていくと、こうなります。
1.神様が、宣べ伝える人を遣わす。
2.福音の言葉を聞く。
3.聞いて信じる。
4.信じて、呼び求める。

1の「神様が、宣べ伝える人を遣わす」は、神様が主体です。
また、3「聞いて信じる」と4「信じて、呼び求める」は、御言葉にはいのちがあり、そのいのちが成し遂げることです。
ですから、私たち人間の側に残されているのは、2の「聞く」ということです。
もちろん、聞くことは「キリストについてのみことば」です。

さて、漫才やコントや落語などで笑うときに、2つの笑い方があります。
それは、「まわりが笑ったから、いっしょに笑う」と「聞いて面白かったから笑う」です。
言い換えれば、「よく聞きもせずに、まわりの反応にまかせる人」と「よく聞き、真剣に聞き、受け止め、吟味する人」です。
両者は、もちろん笑いのポイントも、心の動きも違ってきます。

そして、信仰生活ではこの「聞き方」が、大きな違いになってきます。
信仰の分水嶺と言ってもいいでしょう。
真剣に、まっすぐに、当事者として聞くことと、不十分で無責任な聞き方では、そのもたらす結果は自ずと違ってくるでしょう。

「牧師の説教は、信徒がほめることで伸ばす」という言葉を聞いたことがあります。
たしかにそういう側面もあるでしょう。
そして、真剣に、まっすぐに聞くことは、同じように、いえ、それ以上に語り手を伸ばすのです。
いい聞き手は、いい話し手を育てるのです。

よい聞き方の例を、ルカによる福音書から見てみましょう。
38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:38-42)

妹のマリヤは、全身を傾けて聞きました。
全身全霊をこめて聞き入っていました。
それを、イエスさまは良しとしたのです。

姉のマルタは、何も悪いことはしていません。
イエスさまをもてなすために、正しいことをしていたと言っていいでしょう。
しかし、彼女は自分の正しさを握りすぎてしまったのです。
そして、自分の正しさとマリヤの足りなさを、主張してしまったのです。
自分が主張しているうちは、聞くことは十分にはできないのです。

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」
イエスさまは、マルタを責めているのではありません。
方向転換を求めたのです。
自分の正しさを握るのではなく、神様の愛の言葉を、永遠のいのちの言葉を握りなさい。って。

これは、マルタだけに語られた言葉ですか。
いいえ、いま、あなたに語られている言葉です。
まわりに流されず、自分の正しさにより頼まず、全身全霊をこめて聞きましょう。
いのちの言葉は、また、それを宣べ伝える人は、あなたに与えられているのです。
まっすぐに、真剣に、あなたの耳で聞きましょう。
そして、そのいのちの中で、その愛の中で、あなたは生かされるのです。


坂本 秀雄 (伝道師)

Author:坂本 秀雄 (伝道師)

ゴスペルハウスは、超教派のキリスト教伝道所です。
神様の愛で建てられ、神様の愛を伝えています。

2008年にブラジル・サンパウロから帰国した家族が、山形県の川西町に移住して楽しくゴスペルハウスな生活をしています。
そして今度は隣町の高畠へ引っ越しました。
どなたでもお気軽にお越しください。

ゴスペルハウスには、あなたのための席が用意されています。

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お気軽にお越しください。
山形県東置賜郡高畠町
安久津1070

電車でお越しの方は、高畠駅までお迎えします。

賛美・御言葉・聖餐を中心とした、明るい雰囲気の礼拝です。
はっきり言って、楽しいです。

同時間帯で、「子ども礼拝」も行なっています。
大人も子どもも、クリスチャンもそうでない方も、ぜひご一緒に集いましょう。

集会の後には、ご一緒に夕食を頂きます。
伝道師みずから、腕をふるって料理します。
おいしいですよ。(もちろん無料)