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ゴスペルハウスメッセージ 2024.03.23
「批判者と当事者(レント-6)」ルカ23:35-43

35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

いよいよ次回は、イースター礼拝になります。
今週は、イエスさまが十字架につけられた場面から「批判者と当事者」というテーマで御言葉を開いていきたいと思います。
批判者は外から見て、傍観者になって、意見を言う人で、当事者とは実際に体験する人というように考えていいでしょう。

この箇所には、何種類かの人々がイエスさまにかかわっています。
2週間前に「愛された5人」というテーマでお話しましたが、今日も5者の立場から見ていきましょう。

第1番目は民衆です。
5日前には、エルサレムに入場してくるイエスさまを、熱狂で迎えた群衆たちでした。
しかし、この日の朝には「イエスさまを殺せ」と叫んでいました。
まったく同一の群衆かどうかはわかりませんけれども、熱狂から憎しみへと変化したのです。
そして、イエスさまが十字架にかけられたこの時には、ただ立って眺めているのです。
一時は熱狂もしたし、一時は憎しみもしました。
けれど、もうあまり関心もなくなっているのです。
彼らは軽薄な批判者でした。
テレビやネットで日々新しい話題に飛びついて振り回されている現代人の姿のようです。

2番目は議員たちです。
彼らはイエスさまをあざ笑っていました。
聖書には、イエスさまが笑ったと記されている箇所がありません。
そして、イエスさまの周りの人たちが笑ったという記述もありません。
実際には、イエスさまがたくさん笑い、周りの人々を笑わせたことでしょう。
しかし、聖書にはそのような記述がありません。
そのイエスさまの笑顔、その周りの人たちの笑顔を見て、悔しさや憎しみを溜め込んでいたのが、議員やパリサイ人や祭司長たちではないでしょうか。
そして十字架につけられたイエスさまを見て、これ見よがしにあざ笑ったのです。
「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」(35節)
すべての人々は律法を成就することができず、不完全で罪があり、救いも赦しも必要だということを、彼らは知っています。
知っているのに、すべての人々の中に自分たちを含めていないのです。
まるっきり他人ごととして、自分たちには関係ないとあざ笑っているのです。
自分を批判者の立場に置くことで、批判者の位置に立つことで、物事をあざ笑うことができてしまうのです。

3番目は兵士たちです。
「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)と嘲りました。
イエスさまをバカにしたのです。
彼らは、ユダヤ人ではなくローマ兵です。
ユダヤ人たちが信じる神は、自分たちとは無関係と思っているのです。
ですから、この争いも、十字架につけられているイエスさまも、少し興味深いアトラクション程度にしかとらえていないのです。
この十字架の死は、本当は全ての人の救いのためなのに。
自分の人生とイエスの十字架を切り離すことで、彼らはバカにする立場を取っています。
そして無意味な攻撃、無意味な批判をしているのです。
イエスさまの十字架の上にかけられた「これはユダヤ人の王」(38節)という札も、自分たちローマ人とは無関係であることを強調しています。

4番目は十字架につけられた犯罪人の一人です。
「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」(39節)とイエスさまをののしりました。
十字架は死刑です。
何時間か我慢したら許されるとか、何日間か我慢したら降ろされるのではなく、死ぬまで降ろされることはないのです。
しかも、息が絶えるまでに時間がかかる、苦しい死刑です。
ですから十字架につけられている彼は、もう死んでいるのと同じことなのです。
これから先は、苦しんで死ぬしかないのです。
絶望した彼は、諦めに囚われた彼は、最後の最後にイエスさまをバカにすることで、イエスさまを攻撃することで、安心しようとしたのです。
自分を死刑の当事者にするのでもなく、罪が赦されて神の国に行くとも思えず、ただイエスさまを攻撃して、無意味な気晴らしをしたのです。

最後の5人目はもう一人の犯罪人です。
ここまでの4人は、罪からも救いからも自分を遠ざけ批判し、バカにし攻撃していました。
みんな、批判者だったのです。
しかし、この男の人は当事者になりました。
「おまえは神を恐れないのか。」(40節)という言葉は、すべてを知っている神様の前で、自分の罪を棚上げできるのかという意味です。
そして、彼は自分の罪を認め、イエスさまには罪があったわけではないということを認めました。
彼は、三年間のイエスさまの働きを、少しは知っていたのでしょう。
だから彼は、イエスさまは天国に行けるだろうと考えたのです。
イエスさまを救い主とはわからず、自分の罪の大きさも知っていて、神様の聖さも知っていた彼だからこそ、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(42節)が、精いっぱいだったのです。
それ以上を求めることは、彼にとって恐れ多いことだったのです。
彼は罪の当事者になり、神の裁きの当事者になり、イエスさまに思い出してもらえる当事者になることを願ったのです。
イエスの答えは、まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)でした。
これは、「あなたは天国の当事者だよ」、「あなたは救いの当事者だよ」、「あなたは赦しの当事者だよ」、「あなたは永遠のいのちの当事者だよ」という宣言です。

罪の当事者であることを認められなかった4人は、批判者になりました。
罪の当事者であることを認めた1人は、天国の当事者、神様の愛の当事者、赦しの当事者、永遠のいのちの当事者になったのです。
ルカの福音書18章9-14節に、「パリサイ人と取税人の祈りのたとえ」があります。

9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

これはイエスさまが語ったたとえなのですが、この十字架の場面で、このたとえは現実のものとなったのです。
パリサイ人は批判者で、取税人は当事者です。

あなたは、自分の罪から目を背けて、批判者になりますか。
それとも、自分の罪から目をそらさず、愛の当事者になりますか。
神様の愛は、もう、あなたのものなのです。

あなたのために、お祈りします。

ゴスペルハウスメッセージ 2024.03.16
「ルビーの叫び(レント-5)」ルカ19:28-40
(参照:マタイ21:1-、マルコ11:1-、ヨハネ12:12-)

28 これらのことを話してから、イエスはさらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。
29 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニアに近づいたとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。
30 「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。
31 もし『どうして、ほどくのか』とだれかが尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
32 使いに出された二人が行って見ると、イエスが言われたとおりであった。
33 彼らが子ろばをほどいていると、持ち主たちが、「どうして、子ろばをほどくのか」と彼らに言った。
34 弟子たちは、「主がお入り用なのです」と言った。
35 二人はその子ろばをイエスのもとに連れて来た。そして、その上に自分たちの上着を掛けて、イエスをお乗せした。
36 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。
37 イエスがいよいよオリーブ山の下りにさしかかると、大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、
38 こう言った。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」
39 するとパリサイ人のうちの何人かが、群衆の中からイエスに向かって、「先生、あなたの弟子たちを叱ってください」と言った。
40 イエスは答えられた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

わが家の聖書カルタの「ろ」の読み札には、「ろばの子は イエスを乗せて エルサレム」とあります。
今日の聖書箇所は、エルサレム入城の場面です。
しゅろの日曜日として知られる、イースター直前の日曜日のできごとです。
マタイ福音書21章、マルコの福音書11章、ヨハネの福音書12章にも並行記事がありますので、これらも合わせて読むと、全体像が捉えやすいと思います。

群衆は上着やしゅろ・なつめ椰子の枝を道に敷いて、イエスさまを大歓迎しました。
これは、列王記第二9章の、武力で敵からの解放してくれたエフーを王として迎えた群衆のかたちです。
また旧約聖書の続編マカバイ書第一13章の、敵を打ち破った喜びで群衆がした行動のかたちでもあります。
いずれにしても、武力で敵を倒してくれる王として、支配者から武力で解放してくれる王として、自由を取り戻すための闘う王として、イエスさまを大歓迎したのです。
ローマの支配から、神の民であるイスラエルを解放してほしいから、彼らはそれに期待してイエスさまを大歓迎したのです。

その期待に対して、イエスさまは、子ろばに乗って入城しました。
これはゼカリヤ書にある、柔和な王としての姿です。
「見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9)
イエスさまは、戦う王ではなく、平和の王として入城したのです。

イエスさまは、群衆の希望は知っていました。
しかし、イエスさまは、武力や奇跡でローマを打ち破るために、地上に生まれたのではないのです。
イスラエルをローマから救うためではなく、人類すべての罪を贖うために、すべての人を罪から解放するために、イエスさまは地上に来られました。
イエスさまは人の望みではなく神様の希望のために、人の気持ちではなく神様のみこころのために、この地上に生まれ、そしてエルサレム入城し、十字架にかかったのです。

しかし、群衆は、イエスさまの気持ちを、まったく理解できませんでした。
イエスさまの生まれた理由も、十字架の目的も理解できませんでした。
ただ、自分たちの願いや自分たちの希望を求め続けているだけなのです。
群衆の熱狂はどんどんと広がっていき、パリサイ人たちが、「先生、あなたの弟子たちを叱ってください」(39節)と言いました。
それに答えてイエスさまが言ったのが、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(40節)でした。

石が叫ぶことこのことについて、さまざまな解釈をする説教者がいます。
私は、石が表しているものは、かたくなな群衆の心だと考えています。
軍馬ではなくろばの子に乗ってきた、平和で柔和なイエスさまの心を無視し、まったく無理解で、自分たちの都合や希望や願望を押し付けようとするかたくなな心です。
イエスさまを武力の王として迎え、熱狂はしていますが、イエスさまの本心にはお構いなしなのです。
そんなかたくなな石のような頑固な群衆が黙ったら、本当の石が叫びだすとイエスさまは言うのです。
事実、5日後のイエスさまが十字架につけられる日には、自分たちの思いどおりでなかったイエスさまに失望し、イエスさまを見捨てて、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」(ルカ23:18)と叫んでいるのです。

しかし、イエスさまは、そんな石のようなかたくなな群衆を受け入れ、拒否しませんでした。
群衆の熱狂の中、エルサレムに入城したのです。
つまり、彼らのために十字架に向かったのです。
それは、「私は、石のようにかたくなで愚かな彼らのために死ぬよ」という、イエスさまの心の表れです。
そして、その覚悟どおりに、イエスさまは十字架につきました。

イエスさまは、十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)と言いました。
これは、2000年前の、熱狂して、そして裏切った群衆だけのための言葉ではありません。
今、あなたにも、かけられている言葉なのです。
あなたも、かたくなな石なのです。
神様のみこころを理解できず、自分の希望に振り回されて、「〇〇てくれたら神様信じるけど」などとうそぶく、かたくなな石の心の持ち主なのです。

しかし、イエスさまの十字架の血潮があなたを赦しました。
かたくなで頑固な石のあなたに、イエスさまの真っ赤な血潮が注がれてました。
イエスさまの血潮を浴びたあなたは、真っ赤な石になったのです。
神様の目から見たら、それは真っ赤な宝石・ルビーです。
あなたは高価で尊い存在に、イエスさまの血潮によって変えられたのです。

石のような群衆は、イエスさまが自分の思いどおりにならないとわかると、イエスさまを殺せと叫びました。
イエスさまの血潮で、ルビーにされたあなたは、さあ、何を叫びますか。
群衆と同じように、あなたの思いどおりを求めて叫びますか。
それとも、神様を心から賛美して叫びますか。

あなたのために、お祈りします。


【参考聖書箇所】
☆しゅろ(なつめ椰子)と上着を敷いた群衆
マタイ
21:8 すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。

マルコ
11:8 すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。

ヨハネ
12:13 なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

列王記第二
9:13 すると、彼らはみな大急ぎで自分の上着を脱ぎ、入り口の階段にいた彼の足もとに敷き、角笛を吹き鳴らして、「エフーは王である」と言った。

マカバイ記第一(旧約聖書続編)
13:51 第百七十一年の第二の月の二十三日、ユダヤの人々は賛美のうちにしゅろの枝をかざし、竪琴、シンバル、十二絃を鳴らし、賛歌と歌を歌いながら要塞に入った。イスラエルから大敵が根絶されたからである。

☆柔和な王としてのイエスさまの主張
ゼカリヤ 
9:9 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。
9:10 わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。

☆石のようにかたくなな群衆の心
ルカ 
23:18 しかし彼らは一斉に叫んだ。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」

☆かたくなな石のためにイエスさまはとりなす
ルカ 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。

ゴスペルハウスメッセージ 2024.03.09
「愛された5人(レント-4)」ヨハネ12:1-11(並行箇所:マルコ14:3-9、マタイ26:6-13)

1 さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
2 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。
3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
5 「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。
7 イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。
8 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」
9 すると、大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。
10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
11 彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

今年のレントは第1-3週は旧約聖書、第4-6週は新約聖書から、御言葉を開いていこうと思います。
今週の聖書はイエスさまの最後の過ぎ越しの6日前。
十字架まであと数日という夕食の場面です。
「愛された5人」というテーマで御言葉を開きましょう。

愛された1人目はラザロです。
マルタ・マリア・ラザロは3人のきょうだいです。
この章の前の第11章は、ラザロがイエスさまによって生き返らされたことが、記述の大部分を占めます。
ラザロが病気になり、マルタがイエスさまを呼びに行かせて、でもイエスさまはなかなか腰を上げず、その間にラザロは死んでしまいました。
そして、イエスさまがついたのは、ラザロが死んだ4日後だったのです。
しかし、ラザロは生き返りました。
「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」(ヨハネ11:36)と書かれているとおり、確かにラザロは愛されていたのです。

では、ここで聖書クイズです。
聖書の中にラザロが語った言葉は何ヶ所に記されているでしょうか?
そして、ラザロが特別に何かした行動は何でしょうか?
答えはどちらも「ゼロ」「無し」です。
彼は何も言葉を残さず、何も目覚ましい行動も残さなかったのです。
しかし、その存在そのものが、ラザロの存在そのものが、愛され生き返らせられ、神様の愛と恵みと力と栄光を現すものになったのです。
この箇所にも書いてあるとおり、ラザロが生き返ったことを見に来る人がいるくらい、存在そのものが神様の栄光を現すものになったのです。

愛された2人目はマルタです。
「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(ヨハネ11:5)とあるように、彼らはイエスさまに愛されていました。
マルタについては、ルカの福音書10章38-42節が有名ですね。
自分と姉妹のマリア比べて、自分の方がいいことしてるし、自分の大変さはもっとほめられても良いはずだし、マリアの態度も気に入らない。
そして、マルタは心が落ち着かず。イエスさまに愚痴を言ってしまったのです。
人と比べて自分を大切にしてほしい。ちゃんとやってない人を許せない、そんなマルタした。

でも、今週のこの場面では、マルタは給仕しています。
マリアは手伝っていませんけれども、マルタは不満を言っていません。
ラザロのためのイエスさまの愛と、イエスさまを呼んだマルタに応じて来てくれたイエスさまの愛とを、たっぷり受けたマルタは、もう人と比べることも、人を裁くことからも解放されたのです。

愛された3人目はマリアです。
ルカの福音書10章では、イエスさまの前に座って、イエスさまの語る言葉を受け取るだけ、イエスさまの愛に聞き入るだけ、そんなマリアでした。
しかし、ここでは300デナリもの、自分の宝物である香油を惜しげもなく、イエスさまの足を洗うために、無駄に見えるほどに捧げたのです。
それは、イエスさまの前に座って、たっぷりの愛の言葉を受けて、ラザロを生き返らせてくださったイエスさまの愛を受けて、彼女の愛のタンクは、愛を受け取るタンクはいっぱいになったのです。
そして、受ける愛から与える愛へ、あふれる愛の人へ、イエスさまの愛によって変えられたのです。

1人目のラザロは、何もできなくても存在そのもので、神様の恵みを現す人になりました。
2人目のマルタは、人と比べることと人を裁くことから解放されて、自由な愛の人になりました。
3人目のマリアは、受ける愛から与える愛、あふれる愛の人に変えらました。
イエスさまの愛に触れて、愛をたっぷり受けて、変えられた3人きょうだいだったのです。

そして、愛された4人目はユダです。
彼は12使徒支の一人です。
ユダが愛されたという記述は、聖書には書いてありません。
けれども、この章の次第13章にこうあります。
「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」(ヨハネ13:26)
パンを浸すというのは、特別な好意を示すしぐさです。
そう、ユダもイエスさまに愛されていたのです。

そうすると、続く「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」(ヨハネ13:27)いう言葉の意味は、どうなるでしょうか。
そうです、「さっさと裏切りなさい」という意味ではないのです。
私の愛の中に戻ってきなさいと、イエスさまはユダに訴えたのです。

1人目は、死んでいたのに生き返ったラザロでした。
2人目は、人を裁いていたのに自由になったマルタでした。
3人目は、受ける愛ばかりだったのが、与える愛の人になったマリアでした。
彼らのように、4人目は、裏切るつもりだったのに、愛に立ち返るユダになれ、という招きなのです。
しかし、ユダは、その招きに応じませんでした。
扉の外に、闇の中に、出て行ってしまったのです。

それは、神様が、人間に自由意志を与えているからです。
私たち人間は、なんでも神様の言いなりのロボットではないのです。
神様は、私たちを愛するがゆえに、自由意志を与えました。
だから、アダムとエバは罪に落ちてしまったのです。
だから、イエスさまは十字架からなければならなかったのです。

4人目のユダは、愛に背を向けてしまいました。
それどころか、マルコの福音書14章44節にあるように、愛を示す口づけをもって、イエスさまを裏切ったのです。
ユダは、4人目のユダは、イエスさまの愛より自分の考え、自分の気持ち、自分の計画を優先したのです。

愛された5人目、それはだれでしょう。
それはあなたです。
あなたは神様に愛されています。
イエスさまに愛され、その愛のためにイエスさまは十字架で死ぬまでに、その愛を貫いたのです。

その愛は、あなたをラザロのように、存在そのもので神様の愛を証する人とできるのです。
その愛は、あなたをマルタのように、人を裁く世界から解放するのです。
その愛は、あなたをマリアのように、あふれる愛で愛する人に変えるのです。
ただあなたは、ユダのように、その愛に背を向けることすらできてしまう存在です。

この愛に、あなたはどう向き合いますか。
注がれている愛をどう受け止めますか。
それがあなた、愛されている5人目のあなたに託されている選択なのです。

あなたのために、お祈りします。

【並行聖書箇所】
マルコ14:3-9
3 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。
5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。
6 すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。
7 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。
8 彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。
9 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

マタイ26:6-13
6 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。
9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
10 イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。
11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。
12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。
13 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

【参考聖書箇所】
☆ラザロ
ヨハネ
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」

☆マルタとマリア
ヨハネ
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。

ルカ
10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

☆ユダ
ヨハネ
13:26 イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。
13:27 ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」

マルコ
14:44 イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。
14:45 ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。

ゴスペルハウスメッセージ 2024.03.02
「ことばを破ってはならない(レント-3)」民数記 第30章
(メッセージの後ろに聖書箇所テキストを掲載しています)

民数記第30章は、誓願・物断ちについて記されています。
簡単に請願・物断ちについて説明すると、誓願とは「神様に願って、叶ったら(叶うまで)、〇〇する」という約束で、物断ちとは「神様に願って、叶ったら(叶うまで)、〇〇しない」という約束です。
3節以降は、特に女性の誓願・物断ちになっていますが、内容的には家族のリーダー(父・夫)以外の人たちについてと考えて良い内容です。
ですから、夫をなくした妻については、離別・死別問わず、男性と同じ条件になっています(9節)。

内容は、大きく分けて2つです。
1つ目は、「誓ったことは、破ってはならない。(1-2節)」です。
申命記にも「あなたの唇から出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行わなければならない。」(申命記23:23)とあります。
2つ目は、「リーダー(父・夫)は、メンバーの誓願・物断ちの責任を負う。(3節-)」です。
誓願を認めて有効にすることも、認めずに無効にすることも、身代わりに咎を負うことも、リーダーの役目なのです。

それぞれを、もう少し詳しく読み解きましょう。

1つ目の「誓ったことは、破ってはならない。(1-2節)」です。
「自分のことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」(2節)
「一生のお願い・・・」とか「もう絶対・・・しません」と約束する人がいます。
しかし、ほとんどの場合、再び「一生のお願い」したり「もうしません」を繰り返したりします。
人は、誓った言葉をほとんど守ることができない生き物なのかもしれません。
「軽々しく「これは聖なるもの」と言い、誓願を立てた後で吟味する者は、罠にかかっている。」(箴言20:25)という言葉は、まさに、心に突き刺さってくる言葉です。

しかし、失望しなくても大丈夫です。
「聖書の大原則」を思い出しましょう。
これまで、ゴスペルハウス礼拝で何回もお伝えしてきましたが、「聖書の大原則」、それは「神様は命令しっぱなしではない」ということでした。
「命令しっぱなしではない」には2つの意味がありましたね。
「命令したことを守れるように、力や導きや守りを与えてくれる」が第一番目の意味です。
自分の力では誓いの言葉を守ることができないときこそ、神様に力・導き・励まし・しるしをいただくのです。
常に神様に向き合うことが、誓いの言葉を守る秘訣です。

そして「命令したことを、神様は完全にやり遂げる」が第二番目の意味でした。
神様は命令しっぱなしではなく、神様ご自身がその約束を守る方なのです。
ですから、「自分のことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」(2節)の言葉は、「神様は自分のことばを破らない。すべて神様の口から出たとおりのことを実行する。」ということなのです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。」(イザヤ43:4)
「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」(ヨハネ14:14)
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
と、聖書には、希望を与える神様の言葉が、これら以外にもいくつもあります。
その一つひとつは、決して破られることのない、あなたのための約束です。
あなたは、絶対に神様に見捨てられることはないのです。
あなたは、神様に愛されているのです。

テキストの内容の2つ目は、「リーダー(父・夫)は、メンバーの誓願・物断ちの責任を負う。(3節-)」です。
現在でも、未成年者が契約するときには、親(親権者・保護者・連帯保証人など)が必要になることが多いです。
そして、責任をともに負うことになるのですが、子は負えない場合が多いので、親が負う場合が圧倒的に多いでしょう
長男のハレルや次男のタリタが、部屋を借りるときも仕事に就くときも、親が保証人として必要でした。

この章でも、聖書全体でも、家族のリーダーは夫・父とされています。
メンバーの子や妻が、うかつな誓願・物断ちをしていたときに、リーダーは取り消すことができます。
リーダーが知ったその日に取り消せば、それで誓いから解放されるのです。
その日より後に取り消せば、メンバーが負うべき咎を、リーダーが肩代わりして負うのです。
どんなバカらしい誓願であっても、どんなに無意味な物断ちであっても、リーダーは身代わりになってその責務を負うのです。

ところで、あなたの人生のリーダーはだれですか。
もう子どもでもないし、結婚して夫になって、父になって、女性でもないし、自分しかリーダーはいないって思う人もいるかも知れません。
しかし、あなたがイエスさまを自分のための救い主、自分のための神、自分のためのリーダーと認めるなら、イエスさまはあなたのリーダーになってくれるのです。
あなたがどんな人であっても、大人であっても子どもであっても、どんな性別であろうとも、例外なくです。
「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)の言葉は、あなたのための破られることのない約束なのです。

イエスさまは、あなたの責任を代わりに負って、あなたが受けるべき咎を身代わりとして受けて、十字架につけられたのです。
神様のひとり子であるのに、あなたのリーダーとして、あなたが負うべき死を、十字架上で受けられたのです。

このレントのとき、あなたの誓いの言葉の弱さと脆さを知りましょう。
そして、あなたの身代わりになって、十字架につけられたイエスさまの覚悟の愛を、しっかり味わいましょう。
そして、愛された者として、赦された者として、喜びを持って生きましょう。

あなたのために、お祈りします。

【テキスト本文】
民数記 第30章
1 モーセはイスラエルの諸部族のかしらたちに告げた。「これは主が命じられたことである。
2 男が主に誓願をするか、あるいは、物断ちをしようと誓う場合には、自分のことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。
3 女が若くてまだ父の家にいるときに、主に誓願をするか、あるいは物断ちをする場合には、
4 その父が彼女の誓願、あるいは物断ちを聞いて、彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて有効となる。
5 しかし、もし父がそれを聞いた日に彼女に反対するなら、彼女の誓願、あるいは物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に反対するのであるから、主は彼女を赦される。
6 もし彼女が、自分の誓願、あるいは物断ちをしようと軽率に言ったことが、まだその身にかかっているうちに嫁ぐ場合には、
7 夫がそれを聞き、聞いた日に彼女に何も言わなければ、彼女の誓願は有効である。彼女の物断ちも有効となる。
8 もし夫がそれを聞いた日に彼女に反対すれば、夫は、彼女がかけている誓願や、物断ちをしようと軽率に言ったことを破棄することになる。そして主は彼女を赦される。
9 しかし、やもめや離縁された女の誓願については、すべての物断ちが当人に対して有効となる。
10 もし女が夫の家で誓願をするか、あるいは、誓って物断ちをする場合には、
11 夫がそれを聞いて、彼女に何も言わず、反対しないなら、彼女の誓願はすべて有効となる。彼女の物断ちもすべて有効となる。
12 もし夫が、そのことを聞いた日にそれらを破棄してしまうなら、その誓願も物断ちも、彼女の口から出たすべてのことは無効となる。彼女の夫がそれを破棄したのだから、主は彼女を赦される。
13 すべての誓願も、自らを戒めるための物断ちの誓いもみな、夫がそれを有効にすることができるし、それを破棄することもできる。
14 もし夫が日々、その妻に全く何も言わなければ、夫は彼女のすべての誓願、あるいは、すべての物断ちを有効にする。夫がそれを聞いた日に彼女に何も言わなかったのだから、彼はそれを有効にしたのである。
15 もし夫がそれを聞いた後、それを破棄するなら、夫が彼女の咎を負う。」
16 これらは、夫とその妻との間、父とまだ父の家にいる若い娘の間とに関して、主がモーセに命じられた掟である。


【参考聖書箇所】
☆誓願について
申命記
23:21 あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。なぜなら、あなたの神、主は必ずあなたからそれを要求し、こうしてあなたが罪責を負うことになるからである。
23:22 誓願をやめる場合、あなたに罪責は生じない。
23:23 あなたの唇から出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行わなければならない。

☆神様の口から出たことばは破られない
イザヤ
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。

ヨハネ
14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。

マタイ
28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

☆リーダーはイエスさま
ヨハネ
10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

ゴスペルハウスメッセージ 2024.02.23
「生きても死んでも(レント-2)」創世記5:21-32

21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
22 エノクはメトシェラを生んでから三百年、神とともに歩み、息子たち、娘たちを生んだ。
23 エノクの全生涯は三百六十五年であった。
24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
25 メトシェラは百八十七年生きて、レメクを生んだ。
26 メトシェラはレメクを生んでから七百八十二年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
27 メトシェラの全生涯は九百六十九年であった。こうして彼は死んだ。
28 レメクは百八十二年生きて、一人の男の子を生んだ。
29 彼はその子をノアと名づけて言った。「この子は、主がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」
30 レメクはノアを生んでから五百九十五年生きて、息子たち、娘たちを生んだ。
31 レメクの全生涯は七百七十七年であった。こうして彼は死んだ。
32 ノアは五百歳になった。そしてノアはセム、ハム、ヤフェテを生んだ。

創世記第5章は、アダムからノアまでの系図が記されています。
記述のパターンは決まっています。
「○○○は・・・年生きて、△△△を生んだ。
○○○は△△△を生んでから・・・年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
○○○の全生涯は・・・年であった。こうして彼は死んだ。」
この繰り返しです。
しかも、半分くらいは、ここでしか名前を見ない人物なので、読んで退屈する人も多いでしょう。

唯一、注目すべき生涯を歩んだのが、エノクです。
21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
22 エノクはメトシェラを生んでから三百年、神とともに歩み、息子たち、娘たちを生んだ。
23 エノクの全生涯は三百六十五年であった。
24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

神様とともに歩んだこと、死を見ずに神様のもとに行ったこと。
エノクについては、多くの人たちがこう知っていて、この2つのできごとを結びつけがちです。
「エノクは神様とともに歩んだから、死ななかったのだ。」

エノクの3代あと、エノクの曾孫にノアが生まれています。
「ノアは五百歳になった。そしてノアはセム、ハム、ヤフェテを生んだ。」(32節)
ここで創世記第5章は終わります。
続く第6章は、洪水の話が始まりますので、系図がプツンと切れた状態です。
そこで、ここから先、この章の系図のパターンに合わせるように、ノアの生涯が記されている9章までの聖書から抜き出してみましょう。

5:32 ノアは五百歳になった。そしてノアはセム、ハム、ヤフェテを生んだ。
6:8 しかし、ノアは主の心にかなっていた。
6:9 これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
7:6 ノアは六百歳であったが、そのときに大洪水が起こり、大水は地の上にあった。
8:1 神は、ノアと、彼とともに箱舟の中にいた、すべての獣およびすべての家畜を覚えておられた。
9:28 ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。
9:29 ノアの全生涯は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

エノクについての記述が少ないので単純にどっちがすごいと比較はできませんが、ノアが神様とともに歩んだのは、間違いない事実です。
しかし、彼は死にました。
神様とともに歩んだけど、死んだのです。

私は以前、ある本で読んだことがあります。
その本では、9章21節の「彼はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった。」というノアの行動が、彼の罪とされ、ノアは死ななければならなかったのだと、著者は主張していました。

しかし、私はこの解釈に賛成しません。
神様とともに歩んだエノクが死ななかったことも、神様とともに歩んだノアが死んだことも、神様のみこころであり、神様の恵みだからです。

エノクが死ななかったことは、私たちに希望を与えます。
神様は、死の力を遥かに超えた方であることが、明らかになったからです。
私たちに約束されている永遠のいのちは、たしかに神様の手の中にあるのです。

ノアが死んだことは、私たちに赦しと平安を与えます。
もし、ノアが死ななかったら、私たちは死の裁きにおびえ続けなければなりません。
なぜなら、「神様とともに歩めば、死なない」ということになり、「死んだら、神様とともにいなかった証拠」になってしまうからです。
そうなれば、お葬式は死者への攻撃・非難の場になってしまいます。
「ああ、この人は死んだ。神様とともに歩んでいなかったからだな。」
「罪に負け、信仰が足りなかったんだ。」
牧師や伝道者のお葬式は、もっと悲惨です。
「あの牧師は、説教でいいこと言ってたけど、神様とともに歩んだわけじゃなかったんだ。」
「陰できっと悪いことをしていたに違いない。」
そして、そんな牧師から洗礼を受けたことを悔やみ、洗礼が正しかったかどうか疑わざるを得ないのです。
死が、多くの人から愛を奪い、希望を奪い、平安を奪い、赦しを奪ってしまうのです。
そして、なによりも死の力を怖れる信仰になってしまうのです。
神様は、それを望まなかったからこそ、ノアに死を与えたのです。

ノアが死んだことによって、神様とともに歩んだ人も死ぬことが認められました。
ですから、死はもはや呪いではなくなったのです。
死んだ人を裁かなくてよくなったのです。
死を必要以上に恐れることもなくなったのです。
死すら神様の祝福の礎となったのです。
もはや何も、私たちから神様の祝福を奪うことはできないのです。

エノクに死を与えなかったことで、神様は希望を確実なものにしてくれました。
ノアに死を与えたことで、神様は私たちに赦しを与えてくれました。
そして、罪の報酬である死から、私たちを解放したのです。
ノアに与えた死も、エノクに与えなかった死も、神様の愛の具体的なかたちなのです。

ノアに与えられた死が、私たちに、赦しを与える。
エノクに与えられなかった死が、永遠のいのちを確実にする。
まさに、エノクとノアの死の経験は、イエスさまの十字架と復活の雛形です。

イエスさまの十字架の死が、私たちに、赦しを与える。
イエスさまの復活が、永遠のいのちを確実にする。
まさに、福音の中心です。

レントのこの時期、エノクとノアの系図を通して示された神様の愛を、完全な赦しと永遠のいのちを、喜んで味わいたいものです。
エノクもノアも、生きても死んでも、神様に与えられた役割がありました。
そして、あなたにも、神様の与える使命・役割があるのです。
あなたは、生きても死んでも、神様に用いられ、神様に喜ばれる存在なのです。

あなたのレントが、神様の愛と赦しと喜びの中にありますように。

【参考聖書箇所】
☆信仰の父アブラハムもやっぱり死んでます。
21:5 アブラハムは、その子イサクが彼に生まれたとき、百歳であった。
21:22 そのころ、アビメレクとその軍の長ピコルがアブラハムに言った。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられます。
24:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。
25:7 以上がアブラハムの生きた年月で、百七十五年であった。
25:8 アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ。そして自分の民に加えられた。


ゴスペルハウスメッセージ 2024.02.17
「血みどろの導き手(レント-1)」イザヤ53

1 私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
2 彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
9 彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
12 それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」

イザヤは、イエスさまが生まれる700年くらい前に活動した預言者です。
日本では、縄文時代の終わりから弥生時代のはじめ頃の時代です。
今週の聖書箇所のイザヤ書第53章は、イザヤ書66章の中でも、旧約聖書39巻929章の中でも、最もはっきりとキリストを指し示す章と言っていいでしょう。
700年も前に記されたにもかかわらず、イエスさまの十字架の姿を、すでに見てきたかのような言葉が並んでいます。
今年のゴスペルハウスのレントは、ここからはじめましょう。

切り株は、私が子どもの頃には、公園でも校庭にでも多くありましたが、今はあまり見かけませんね。
切った当初は切り口がベトベトするし、注意していないと躓いてしまうし、何でもクレームになる昨今は、すぐに撤去されてしまうのかもしれません。
その切り株から、ひょろっと生え出てくる若い芽が、「ひこばえ(蘖)」です。
再生してきたいのちの芽生えなんですが、もとの木の幹に比べれば期待感はなく、見ばえも悪いのがひこばえです。

イスラエル王国は、神様の民の国です。
初代のサウル王から、ダビデ王、ソロモン王と、繁栄していた王国は、ソロモンの死後に南北に分裂します(紀元前930年)。
分裂後の北王国イスラエルは紀元前722年に滅び、南王国ユダも紀元前586年に滅びます。
まさに切り倒された切り株になってしまったのです。
アッシリア・バビロン・ペルシャ・ギリシヤ・ローマと、外圧に蹂躙され続けてきたのです。

そんな死んだ切り株のようなところから生え出たのが、ひこばえです。
見ばえは悪いけど、新しいいのちです。
全人類の代表である神の民・ユダヤ人のひこばえは、全人類のための新しいいのちであるイエスさまだったのです。
いえ、全人類というぼやけた対象ではなく、あなたのためのひこばえとして生え出たのがイエスさまなのです。

昭和の時代、日本人の団体旅行を表現する風刺画がありました。
アメリカにもヨーロッパにも、日本人の団体パック旅行客が押しかけていた時代です。
小さな旗を持った笑顔のガイドさんに引き連れられて、集団で旅行する日本人。
「NOKYO(農協)」という言葉さえ、世界に知られていました。
ガイドさんの持つ小さな旗さえ見失わなければ、その国のことを何も知らなくても、その国の言葉を何も話せなくても、安全に旅ができるのです。
私の祖父母も、何度もそういう旅行に行っていました。
しかし、もしそのガイドさんの旗を見失ってしまったなら、迷子になるのは確実ですし、場合によっては警察が出動する羽目になります。
ガイドさんと旗は、かけがえのない導き手だったのです。

2024年のゴスペルハウスは、「Let GOD lead the way」(神様に導かれよう)がテーマです。
私たちを神様の国に導くのは、永遠のいのちに導くのは、イエスさまです。
イエスさまは、御国への旅のガイドさんなのです。
NOKYOパック旅行のガイドさんは、小さな旗が目印で、ニコニコ笑顔でした。
しかし、イエスさまは、血だらけの十字架が目印で、顔は傷だらけで血まみれです。
パック旅行のガイドさんが、血だらけの十字架を持って血まみれなどということは、ありえないことです。
そんなガイドには、なろうとする人もないでしょう。

しかし、それは「主のみこころ」(10節)であり、なおかつ、「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」(11節)と、イエスさまご自身も満足なのです。
そして、血まみれ血みどろのガイドさんであるイエスさまが導くのは、他のだれでもない、あなたなのです。
血みどろの十字架と血まみれのイエスさまは、あなたを導くのです。
自身のいのちを捨ててまで、神様に呪われてまで、人々にバカにされてまで、あなたを愛し、あなたを導くイエスさまがいるのです。

あなたに必要のは、たった一つの条件だけです。
パック旅行客がガイドさんとその小さな旗から離れないように、十字架を見上げ、血まみれのイエスさまから目を離さないことです。
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)とあるとおりです。

新約聖書に13もの手紙を残したパウロが最後に書いたのが、テモテへの第二の手紙と言われています。
その中に、こうあります。

11 次のことばは真実です。「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。
12 耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。
13 私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」(2テモテ2:11-13)

「キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。」とは、厳しい言葉のようですが、裏を返せば、「キリストを否まないなら、キリストもまた、私たちを否まれない。」ということです。
血みどろの導き手であるイエスさまは、あなたを見捨てることはないのです。
いのちがけの愛で、あなたを導き続けてくれるのです。

あなたのレントが、神様の愛で満たされますように。

ゴスペルハウスメッセージ 2024.02.10
「ベテスダの池で」ヨハネ5:1-15

1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。【彼らは水が動くのを待っていた。
4それは、主の使いが時々この池に下りてきて水を動かすのだが、水が動かされてから最初に入った者が、どのような病気にかかっている者でも癒やされたからである。】
5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。
11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」
12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」
13 しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」
15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。


ベテスダは、「あわれみの家」という意味です。
この池は、ヘロデ大王によって作られたもので、50メートルプールよりも少し小さな池が2つくっついているもので、そこに回廊があったのです。
もともとは、ベツレヘムへ巡礼に来た人たちのための沐浴場であったのではないかと考えられています。

3節の後半から4節にかけて、【 】の中の内容は、古い写本にはないもので、あとから加えられたものではないかと考えられています。
そのような迷信がいつの間にかできあがり、それを信じて病の人たちが待ち構えていました。

科学が進んだと言われる現代でも、迷信やまじないは、たくさんあります。
「家の窓の方角が・・・」とか、「玄関にはこういう色のものを・・・」とか、「黒猫が・・・」とかなど、振り回されてしまう人たちも多くいます。
「それで幸せになるなら、それもその人の救いなのでは・・」と言うクリスチャンまでいて、驚いてしまいます。

さて、イエスさまがベテスダの池に来たとき、38年間病気に苦しんでいる人がいました。
そして、「良くなりたいか。」(6節)と、問いかけたのです。
ベテスダの池で、イエスさまと病気の男性、ここから、神様の愛を味わってまいりましょう。

1つ目のポイントは、「待つイエスさま」です。
38年間病気にかかっていた男性は、38年間(日数で言えば13880日)ずっとこの池に来ていたわけではないでしょう。
治療のために、様々な方法を試したはずです。
でも、治らなかったので、迷信にすがるような気持ちでここに来たのでしょう。
はじめは、家族も協力的だったことでしょう。
しかし、38年という期間は、家族も相当つらかったはずです。
(ある資料によると、38年は当時の平均寿命よりも長いということです。)
38年経った今、水が動いたとしても、もう、だれも彼を池に入れてくれる人がいないのです。
でも、ここ以外に彼の居場所はなく、この迷信以外にすがるものがないのです。

「良くなりたいか。」というイエスさまの問いに対して、彼の答えは「はいっ!」ではありませんでした。
助けてくれる人がいないから、だれかが先に入っちゃうから、そもそも水が動くチャンスが少ないから・・・と、理由をつけるのです。
人にも、状況にも、自分にも、望みを失っている彼は、「はいっ!」と言えなかったのです。

人にすがり、迷信にすがり、状況に期待していた彼が、人に失望し、迷信に失望し、状況に失望したときにはじめて、本当に神様に向き合い、その祝福を得ることができるのです。

「良くなりたいか。」という問いによって、イエスさまは男が自分自身の姿を見つめるだけの時間を与えて、待ったのです。
回廊を歩きながら、「癒やされなさい」「あなたの罪は赦された」などの言葉をかけながら、癒やすことだってできたはずですが、イエスさまは、あえて待ったのです。
それは、本当の神様との出会いのため、本当の神様との交わりのため、彼が神様とともに生きるためです。
そのために、人から離れ、迷信から離れ、状況に絶望することが必要だったのです。
彼が整うまで、イエスさまは待ったのです。
それが彼の38年であり、13880日だったのです。

それは、彼だけではありませんし、昔だけのことでもありません。
私は、神様を知る前には、自分自身の能力を神として生きてきました。
自分自身を支えとし、だれにも頼らずに生きていけると確信していました。
しかし神様は、そんな私を失望の淵に追いやり、自死寸前まで追い込みました。
何もかもに失望して、そしてやっと、神様に出会ったのです。
それは私が30歳のとき、イエスさまは11000日も待ってくれていたのです。

イエスさまは、あなたのことも待ちます。
あなたが整い、あなたにふさわしいときまで。
イエスさまは待つ方なのです。

2つ目のポイントは、「待たないイエスさま」です。
「ところが、その日は安息日であった。」(9節)
安息日は、いわゆる十戒の第4戒で、してはならないことが様々決められています。
火を焚くことも、薪を集めることも、床を上げることも、急病人以外を癒やすことも、禁止されています。
安息日を破ったものは、死刑もしくは追放と定められています。
現在でも、安息日の安息を守るための「安息日グッズ」があるほどです。
照明のスイッチとか、エレベーターの安息日モードとか、調理器具とか。

しかし、イエスさまはそれを破って彼を癒やし、また、病気の男にも破らせ床を取り上げさせました。
もう13880日待っていた男です。
すでに失望している男です。
あと一日待つ時間が増えたからと言って、同じ38年間でしょう。
13880日に対して1日は、たった0.007%に過ぎないのです。
38年の病気が明日癒やされると伝えたなら、人生が180度変わるということを告げたなら、男は1日待つことをまったく苦にすることはなかったはずです。
むしろ、喜んで待てたはずです。

でも、どうしてもイエスさまは、待てなかったのです。
彼を縛る床を、その日のうちに取りのけたかったのです。
なぜなら、「彼は安息日よりも大切だから」です。
もし、1日待ってしまえば、安息日の律法は、彼よりも上位になってしまいます。
男が、安息日よりも価値が低い者になってしまいます。
イエスさまは、それを受け入れることができなかったのです。

だから、安息日に癒やすのです。
だから、安息日に床を取り上げさせたのです。
イエスさまの愛は、いのちがけの愛なのです。

そして、その通り、イエスさまは十字架でいのちを捨てました。
それは、この男性のためでもあり、あなたのためでもあるのです。
愛を注ぐこと、いのちがけで注ぐこと、あなたが愛されるにふさわしい者であること。
それを示すために、イエスさまは待たなかったのです。
あえて安息日に癒やし、あえて安息日に命じたのです。
イエスさまは、待たないのです。

あなたが、愛を受ける準備ができるまで「待つイエスさま」がいて、
あなたに、愛を注ぐのに「待たないイエスさま」がいて、
そして、愛されているあなたがいるのです。

この愛を受けましょう。
そして、あなたが片付けるべき床を、取り上げましょう。
イエスさまとともに歩む、明日があるのです。

あなたのために、お祈りします。


【参考聖書箇所】
☆安息日は、十戒の第4戒
出エジプト
20:8 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。

☆安息日は、聖なる安息の日
出エジプト
31:12 主はモーセに告げられた。
31:13 「あなたはイスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、 わたしとあなたがたとの間のしるしである。 わたしが主であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。
31:14 あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。
31:15 六日間は仕事をする。 しかし、 七日目は主の聖なる全き安息である。 安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。
31:16 イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。
31:17 これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは主が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。」
31:18 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。

出エジプト
35:2 六日間は仕事をする。しかし、七日目は、 あなたがたにとって主の聖なる全き安息である。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。
35:3 安息日には、あなたがたの住まいのどこであっても、火をたいてはならない。」

民数記
15:32 イスラエルの子らが荒野にいたとき、安息日に薪を集めている男が見つかった。
15:33 薪を集めている者を見つけた人たちは、その人をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。
15:34 しかし、その人をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、彼を留置しておいた。
15:35 すると、主はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」

☆安息日は人のため
マルコ
2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた。
2:24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
2:25 イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。
2:26 大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」
2:27 そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。
2:28 ですから、人の子は安息日にも主です。」

ゴスペルハウスメッセージ 2024.02.04
「君の名は」ヨハネ1:35-42

35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。
40 ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った。
42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンを見つめて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」

過去のメッセージの中でも紹介しましたが、地図の読み方のポイントは、2つの地点を地図上で読み取ることができるかどうかでした。
1つ目は、目的地が地図上でどこにあるかを知ることです。
これがわからなかったら、どうにもなりませんね。
2つ目は、現在地が地図上でどこにあるかを知ることです。
1つ目に比べて、こちらができない人が多いのです。
カーナビは、現在地をはっきり示し続けてくれるので、地図に比べてうんと分かりやすいわけです。

そのことを念頭に置いて、この箇所から「君の名は」というテーマで御言葉を開いていきましょう。

「その翌日」(35節)とは、イエスさまがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた翌日です。
イエスさまの公生涯のはじまりのときです。
バプテスマのヨハネの弟子だったアンデレが、イエスさまについて行きました。
そして、アンデレは、兄弟のシモンにキリストにあったことを告げ、シモンをイエスさまのところに連れて来たのです。

アンデレといえば、ヨハネ6章でも、パン五つと魚二匹を持っている少年を、イエスさまの前に連れて来ています。
そして、5千人のためのパンの奇蹟が起きるのです。
アンデレは、人を連れて来る賜物があったのでしょうね。

イエスさまの前に連れて来られたシモンに、イエスさまは、いきなりニックネームを付けます。
「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」(42節)
シモンは本名で、ヘブル語です。
ケファはアラム語、ペテロはギリシャ語で、どちらも「岩」という意味です。
そう、十二使徒のリーダー格のペテロは、イエスさまに付けられたニックネームだったのです。
ちなみに、パウロはその書簡の中で、ペテロのことをケファと書いています。

実は他にも、イエスさまにニックネームを付けられた弟子がいます。
それは、ペテロと同じく十二使徒の中のヤコブとヨハネの兄弟です。
彼らは、「雷の子(ボアネルゲ)」というニックネームをもらいました。
十二使徒の中では、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけが、ニックネームを付けられたのです。

ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人と聞いて、「おやっ?」と思ったあなたは、聖書をよく読んでいますね。
彼ら3人は、十二弟子の中でも特に中心的な役割を与えられていました。
マタイ17章では、モーセとエリヤとイエスさまが語り合っているところに同席しています。
マタイ26章では、十字架の前夜のゲッセマネのイエスさまの祈りに同行しています。
そんな特別な場所に連れて行った弟子たち3人に、イエスさまはニックネームを与えたのです。

「雷の子」とは、ヤコブとヨハネの激しい気性を表しています。
ルカ9章49-55節で、イエスさまを受け入れなかったサマリアの人たちに腹を立て、彼らはイエスさまにこう言いました。
「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカ9:54)
まさに、雷の子と呼ばれるのにふさわしい、気性の激しさです。
なぜ、イエスさまはこんなニックネームを彼らに与えたのでしょう。
それは、地図の読み方のポイントの2つ目の「現在地がどこであるか」を知るためです。
つまち、ヤコブとヨハネの兄弟が、何者であるのかをはっきりと示したのです。

では、ペテロの「岩」はどういう意味でしょう。
それは、現在のペテロが岩のようであるという意味ではありません。
そうではなく、ペテロの場合は、地図の読み方のポイントの1つ目の「目的地がどこであるか」を示すためです。
マタイ16章15-19節で、イエスさまはペテロに、そのことを説明しています。
「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」(マタイ16:18)
そして、 ペテロに天国の鍵をも与えるという約束をしているのです。
「岩」は、ペテロの目的地であり、あるべき姿であり、いるべき場所なのです。

しかし、イエスさまが十字架につけられる前夜、ペテロはイエスさまを裏切りました。
3度もイエスさまを知らないと拒絶したのです。
ペテロの岩は、悲しいほどに脆かったのです。

砕けて粉々になった岩のペテロに、目的地を失ったペテロに、イエスさまは回復を与えます。
ヨハネ21章で、復活したイエスさまが、ペテロにこう言います。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」(ヨハネ21:15)
イエスさまは、もう一度、ヨハネの子シモンと、本名を呼ぶのです。
今週の聖書箇所と同じ呼びかけです。
そして、「わたしの子羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15)、「わたしの羊を牧しなさい。」(ヨハネ21:16)、「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:17)と、教会の岩であるペテロを回復させるのです。
ペテロの人生の目的地を、もう一度与えたのです。
ペテロは再び岩になり、天国の鍵も取り戻しました。

イエスさまがニックネームを付けるのは、その人の人生の現在地と目的地を示すためです。
歩むべき道を進んで、あるべき姿を手に入れるためです。
人生の道しるべになるためです。
「Let GOD lead the way」という、今年のテーマそものです。

ペテロはその導きに従って、キリスト教会の土台となりました。
イエスさまの導きは、一度道を見失ったペテロを、本当のペテロにしたのです。

では、もう一つのニックネーム「雷の子」、ヤコブとヨハネはどうなったでしょう。

ヤコブは、十二使徒の最初の殉教者になったこともあるのか、書簡が残されていません。

ヨハネの福音書を書き記したのは、もう一人の雷の子のヨハネで、4つの福音書の中で、最も遅い時期に書かれたと言われています。
その中でヨハネは、自分自身のことを「ヨハネ」とは書いていません。
ヨハネと書かれているのは、バプテスマのヨハネと、ヨハネの子シモンという使い方だけです。
「雷の子」とも、「私」とも、ヨハネは記していません。

彼が自分自身を表す言葉として使ったのは、「イエスが愛された弟子」です。
イエスさまの公生涯の期間をともに過ごし、その後何十年も生きて長老と呼ばれるようにもなった彼は、イエスさまがヨハネに注いでくれた愛について、雷の子だった自分について、じっくり思い返すことができました。
その結果得たアイデンティティが、「イエスが愛された弟子」だったのです。
そして彼は、「愛の使徒」とも呼ばれるほどに、イエスさまの愛によって変えられたのです。
「雷の子」から「愛の使徒」に、ヨハネは、イエスさまに現在地を示されたからこそ、変わることができたのです。

思えば、神様は、様々な人たちにニックネームを与えました。
アブラムをアブラハムに改名させたのも、ニックネームと言っていいかもしれません。
サライがサラに、ヤコブがイスラエルに、神様によって名が変えられ、人生が変わりました。

そして神様は、イエスさまは、聖書は、あなたにもニックネームを与えます。
「あなたは羊です」「あなたは枝です」「あなたは地の塩です」「あなたは光の子です」・・・。
もちろん、聖書に記されているものだけではなく、記されていないニックネームをも、神様は与えることができるのです。

「君の名は〇〇です」
神様からニックネームをいただいきましょう。
人生の目的地、本当の生きるいのちをいただきましょう。
そして、そのいのちを生きましょう。

あなたのために、お祈りします。


【参照聖書箇所】
☆連れて来るアンデレ
ヨハネ
6:8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
6:9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
6:10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。

☆ニックネームを付けるイエスさま
マルコ
3:16 こうしてイエスは十二人を任命された。シモンにはペテロという名をつけ、
3:17 ゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
3:18 さらに、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 イスカリオテのユダを任命された。このユダがイエスを裏切ったのである。

☆モーセとエリヤとイエスさま
マタイ
17:1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17:2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
17:3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。

☆ゲッセマネのイエスさま
マタイ
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」

☆雷の子なので
ルカ
9:49 さて、ヨハネが言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」
9:50 しかし、イエスは彼に言われた。「やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」
9:51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。
9:52 そして、ご自分の前に使いを送り出された。彼らは行ってサマリア人の村に入り、イエスのために備えをした。
9:53 しかし、イエスが御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリア人はイエスを受け入れなかった。
9:54 弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」
9:55 しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。

☆ペテロの意味を解き明かす
マタイ
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

☆もう一度本名を呼んで、意味を取り戻させる
ヨハネ
21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」

☆もう一人のニックネームさん
ヨハネ
13:23 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。
19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」
21:7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。
21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。


ゴスペルハウスメッセージ 2024.01.27
「博士たちの礼拝 @Let GOD lead the way」マタイ2:1-12

1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。
4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。
6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。
8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。
9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。
10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。

わが家の聖書かるたの「ほ」の読み札は、「星めざし はるばる旅する 博士たち」です。
まさに、今日の聖書箇所と同じですね。
この箇所から、年間テーマである「Let GOD lead the way」を通して、御言葉を開いていきましょう。

第一の場面は、博士たちの旅立ちです。
博士たちは、星を見て、新しいユダヤ人の王の誕生を知り、旅に出ました。
博士たちの専門分野が何であるかは、書かれていません。
天文なのか、星占いなのか、ユダヤ民族なのか、歴史なのか、王家なのか、もしくは、色々な専門の博士たち集団だったのか。
いずれにしても、博士たちは星を見て、旅立ったのです。
星を動かしているのは、人間ではなく神様ですから、神様の導きと言ってもいいでしょう。
そして、それに加えて、博士たちの研究、つまり人間の知恵をも加えて、正しく安全な方法で、イスラエルに向かったのです。
当時は、高速道路も電車も道の駅もないですから、荒野や砂漠をはるばる旅するには周到な準備が必要だったことでしょう。

第二の場面は、エルサレムです。
新しいユダヤ人の王が生まれたことは、エルサレムに行けばだれでも知っていると、博士たちは考えたことでしょう。
だって、ユダヤ人の王のことを、首都のみんなが知らないはずがありませんから。
しかし、エルサレムに来てみると、だれも知らないのです。
それで、博士たちは、現在の王なら知っているだろうと、ヘロデ王のところに行ったのです。
すると、ヘロデ王も知らなかったのです。
人の導きを期待して来てみたものの、人の導きの無力さを知ることになりました。
そんな博士たちに与えられたのが、700年も前の神様の言葉です。
ミカ書第5章2節の言葉が、祭司長や律法学者から伝えられたのです。
『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』(6節)
人の導きに期待した博士たちに、そしてそこで行き詰まった博士たちに、神様が介入したのです。

第3の場面は、ベツレヘムへの道です。
神様の言葉に導かれて、ベツレヘムへの道を歩みだした博士たちは、きっと不安だったことでしょう。
なにしろ、道案内をするのが700年も前の言葉なのです。
想像してください。
あなたが知らない町で、新しいできごとが起きた場所への道を尋ねたとしましょう。
教えてくれた人が、700年前の資料を引用して答えてくれたら、あなたは安心できますか。
博士たちはその状態だったのです。
しかし神様は、再び星を用いて、博士たちに導きと確信を与えるのです。
「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(10節)
700年前の神様の言葉と、博士たちの研究の成果と、星を動かす神様の導きが、一つになったのです。
そして正しく、博士たちはイエス様のところへ行くことができたのです。

旅立ちからイエスさまのところへ着くまでに、神様の導きと人の導き(知識)が合わさったり、人の導きの無力さの中で神様の導きがあったり、過去の神様の約束の言葉と現在の人の知識と神様の導きが合わさったりして、美しいハーモニーのようでした。
そして、人の目から見ても、正しく進むことができたのです。

しかし、神様の導きは、その正しさを超えて、ときにジャンプすることを求めることがあります。
それが第四の場面、直接語りかける神様です。
「ヘロデのところへ戻らないように」(12節)と、神様は夢で博士たちに伝えました。
来た道を戻れば、安心なはずです。
来たときに気がついた点を注意すれば、安全でスムースな帰り道になるはずです。
長い旅程を考えれば、別の道に行くのはリスクが大きすぎます。
しかし博士たちは、正しいはずの道を捨ててまで、神様の導きに従ったのです。
神様は、正しい道を捨てさせてまで、博士たちを別の道に導いたのです。
そのとき、その神様からのチャレンジを受け入れた者だけが、ジャンプすることを受け入れた者だけが、新しいいのち・新しい人生・新しい毎日を生きることができるのです。

博士たちは、従いました。
羊飼いたちも、御使いの言う約束に従い、飼葉桶の赤ちゃんイエスさまを見つけました。
マリアも、「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(ルカ1:38)と、従いました。
ヨセフも、マリアを受け入れ結婚することを夢で告げられ、従いました。
遡れば、アブラハムも、モーセも、ノアも、預言者たちも、同じです。
人の導き、人の正しさを超えて、神様の導きに従ったのです。

この導きは、あなたの人生にも起こりうることなのです。
いえ、必ず起こることと言ってもいいでしょう。
そのとき、あなたはどう応えますか。

御言葉の伝統的で正統な解釈や信頼できる牧師の解き明かしがあったとしても、神様が直接あなたに語りかけてきたならば、そこからジャンプする必要があるのです。
人として、キリスト者として、これが正しいと思う場面で、神様が逆のことをあなたにチャレンジしたならば、そのチャレンジを受け入れる必要があるのです。
その時、あなたの新しい日常が始まるのです。

あなたのために、お祈りします。

ゴスペルハウスメッセージ 2024.01.20
「羊飼いたちの礼拝 @Let GOD lead the way」ルカ2:8-20

8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

ゴスペルハウス礼拝では、毎年、年末から1月上旬にかけて数回にわたってクリスマスメッセージをしてきました。
大晦日に前年の年間聖句のまとめをして、元旦礼拝に新年の聖句を発表して、一年をスタートしていました。
今年は、会場の都合もあって、ちょっとゆっくりしていて、今日が2回目のクリスマスメッセージです。

2024年のゴスペルハウスのテーマは、「Let GOD lead the way」です。
神様に導かれよう、神様におまかせしようという意味です。
「Let GOD lead the way」を通して、羊飼いのクリスマスを開いていきましょう。

第一の場面は、「神様の導きが与えられる前の羊飼いたちの姿」です。
神様の導きが与えられる前は、人の導き・人のルール・人のあたり前の中にいたときの姿とも言えます。

羊飼いたちにとって、礼拝は大切なもの、誇らしいものであり、かつ、悲しいもの、悔しいものでもありました。
彼らもユダヤ人ですから、安息日の大切さ、礼拝の大切さは知っていました。
羊は、最も大切な神様への捧げ物の一つです。
その世話をしている自分たちは、誇らしい仕事をしているはずです。

しかし、羊は365日の休みない世話が必要です。
だから、羊飼いたちは大切だと知っている安息日の礼拝に、参加することができないのです。
そして、手をかけ、場合によってはいのちまでかけて守り育てた羊は、無傷であるように心を配った羊は、愛を込めて世話した羊は、いけにえとして殺されるのです。

大切で誇らしいけど、悲しく悔しい。
それが、神様の導きの中でなく、人の導きの中にある羊飼いの姿です。

そして、それは現在でも、キリスト教会でも、起こりうることなのです。
礼拝は大切、神様の救いはうれしい、イエスさまの十字架にハレルヤ。
しかし、教会内の人間関係につまずいて、牧師や先輩クリスチャンに傷つけられて、また、他人と自分を比べて、悲しくなったり悔しくなったりすることがあります。
そして、結果として教会に行くのが難しくなったり、場合によっては教会に足を運べなくなったり、教会を何度も変える必要に迫られたりすることがあります。
教会に行けなくなることも、教会を変えることも、それ自体は悪ではありませんが、人間関係のトラブルの結果なら悲しむべきことでしょう。

第二の場面は、「そこに、神様の導きが、神様の言葉が与えられる」です。
神様の導きがなく、人間の導きや規則や評価の中で、悔しく悲しかった羊飼いに、まっさきに民全体に与えられる大きな喜びが告げられたのです。
ユダヤ人社会の中で埋もれていたような羊飼いに、神様はまっさきに民の代表として、福音を告げたのです。

それだけではありません。
「地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(14節)
この場面で、地の上にいる人間は、羊飼いだけです。
つまり、「あなたたちは、みこころにかなう人たちですよ」と、宣言されたのです。
それは、今までの、人の導きの中にいた羊飼いの人生には、かけられることがなかった言葉です。

しかも、その証拠(しるし)も、はっきり示されています。
飼葉桶の中の赤ちゃんイエスさまです。
家畜の飼料を入れる飼葉桶に赤ちゃんが寝ているなんて、普通ではありえません。
もし、そのしるしを見つけられたなら、人の導きやルールを超えて、神様の導きが確かに約束されているということです。
悲しさや悔しさの中にいた羊飼いたちに、約束が与えられたのです。

現代の苦しむ信仰者にも、確かな約束は与えられています。
それは、イエスさまの十字架です、完全な救いです、神様の子どもとしての扱いです。
そんなことは、耳にタコができるくらい聞いていることです。
そして、教会に行けなくなった人たちのほとんどが、聖書にもイエスさまにも躓いていないということも、事実です。
そう、たしかに約束は届いているのです。

第三の場面は、「神様の導きを受け入れた人たちだけが歩める道がある」です。
人の導きから、人のあたり前から、抜け出したときに見つかる道があるとも言えます。

羊飼いたちは、御使いの言葉を聞いて急いで確かめに行きました。
そして、飼葉桶の中の赤ちゃんイエスさまを見つけ、約束が真実であることを確かめました。
喜びの中で、羊飼いたちは、このよき知らせを町の人々に知らせたのです。
人々の反応は、「驚いた」で、別の訳では「不思議に思った」「怪しんだ」ともあります。
羊飼いが話したことを聞いた人たちは、人間の導き、ルールの中にいたのです。
ですから、「羊飼いが、なに言ってんだ?」という反応になってしまうのです。
もし、王族や祭司長や律法学者が言ったら、反応は違ったかもしれませんね。

でも、羊飼いたちは、「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)のです。
もう彼らは、人の導きや人のルールの中にはいないのです。
人の常識や、人のあたり前に支配されないのです。
だから、人の言葉や評価に、振り回されることもありません。
彼らは、神様の導きの中で生きていく者に変えられたのです。
礼拝は、彼らにとって、大切で誇らしいものになりました。
神様は、彼らにとって、喜ぶべき方、賛美すべき方になったのです。

今、あなたに与えられた約束のしるしは、ベツレヘムの飼葉桶の中ではありません。
十字架のイエスさまです。
それは、聖書の中にはっきりと記されていて、また、祈りの中でしっかりと確かめられるものです。
あなたは、確かなしるしをすでに得ているのです。
だとしたら、あなたも羊飼いと同じように、人の導きや人の支配から、抜け出すことができるのです。
神様の導きの中で生きていく者に変えられるのです。

あなたの礼拝は、喜びにあふれます。
あなたの生涯は、賛美に満たされます。

あなたの悔しさや悲しさも、賛美と喜びに変えてくれる神様がいます。
この神様の導きの中で、本当のクリスチャンとして生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2024.01.13
「Let GOD lead the way」

人の歩みは主によって定められる。
人はどうして自分の道を悟ることができるだろう。
箴言 第20章24節
(ゴスペルハウス2024年間聖句)

今日は、2024年最初のゴスペルハウス礼拝です。
今年のゴスペルハウスのテーマは、「Let GOD lead the way」、訳すと「神様に道を導いてもらおう」「神様におまかせしよう」といったところです。
年間聖句は、箴言第20章24節です。

聖書中に「道」という文字がどれくらい記されているのか、知っていますか。
年間聖句にも、含まれていますね。
訳によって多少の違いはありますが、およそ700箇所に「道」という文字が含まれています。
旧約聖書に約600箇所、新約聖書に約100箇所です。

よく知られているところでは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)、「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。」(マタイ7:14)などのイエスさまの言葉がありますね。
また、パウロは手紙の中で、「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(2テモテ4:7)とも記しています。
もちろん、「道ばた」「道中」などのように、場所としての道の場合も多くあります。

「道」がこれほどたくさん記されている理由の一つは、「神様の道と、人間の道が違うから」です。
神様の計画・思い・願いと、人間の計画・思い・願いと言い換えてもいいでしょう。
イザヤ書55:8には、こうあります。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。--主のことば--」
また、思いや計画という言葉を使って「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。」(箴言19:21)なども、よく知られていますね。
民数記22:20-28のバラムの記事のように、神様が用意した道と人が選んだ道が違うことがあります。
しかし、そのことに気がつかないこともとても多いのです。
多いと言うよりは、気がつかないことだらけとも言った方がふさわしいでしょう。

なぜ、神様を信じていても、そんなことが起こってしまうのでしょうか。

それは、人が見ることができる範囲、人が知ることができる範囲が、狭すぎるからです。
時間も空間も超えて、すべてを見通せる神様の道を、神様の計画を、神様の思いを、人が知り尽くすことはできないのです。
目の前の見えるものだけで判断して、自分勝手に進んでしまうのが、弱くて強情な人間の姿なのです。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。」(イザヤ53:6)とある通りです。
もしくは、神様の道が分からず、途方に暮れてしまうのです。
「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」(ヨハネ14:5)とトマスが言った言葉は、すべての人が言わなければならない言葉でもあるのです。

しかし、そんな自分勝手で愚かな人間にも、希望があります。
先程の「それぞれ自分勝手な道に向かって行った。」(イザヤ53:6)には、続きがあるのです。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:6)
さまよいも、自分勝手な道も、すべてイエスさまが身代わりになって負ってくれるのです。
また、トマスの「どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」(ヨハネ14:5)に対しての答えが、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)なのです。
道が分からない人のために、イエスさまはご自身が道となって導いてくださるのです。
それは、見いだしにくい細い道かもしれませんが、たしかに導いてくれる道なのです。

イエスさまが弟子たちを選んで招いたときの、決めゼリフを知っていますか。
ペテロたちを招いたときも、マタイを招いたときも、使われた言葉です。
それは、「わたしについて来なさい。」(マタイ4:19,9:9など)です。
私とともに歩みなさい、私を道として歩みなさい、とイエスさまは招くのです。
それは、ペテロやマタイたちだけでなく、現代に生きるあなたへの言葉でもあるのです。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マタイ16:24)は、あなたへの招きなのです。

「Let GOD lead the way」、イエスさまがあなたをどう導いてくれるのか、2024年はそれをしっかり味わい、しっかり楽しみましょう。
あなたが本来歩むべき道を、最高の導き手であるイエスさまと一緒に歩みましょう。

これから始まる一年が、あなたとイエスさまにとって、最高の一年でありますように。

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【参考聖書箇所】
☆道で知られている聖句の例
ヨハネ 14:6 
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
マタイ 7:14 
いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。
Ⅱテモテ 4:7 
私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

☆神様の道と人の道
イザヤ 55:8 
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──
箴言 19:21 
人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。
民数記22:20-28
20 夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らと一緒に行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え。」
21 バラムは朝起きて、自分のろばに鞍をつけ、モアブの長たちと一緒に行った。
22 しかし、彼が行こうとすると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちはだかった。バラムはろばに乗っていて、二人の若者がそばにいた。
23 ろばは、主の使いが抜き身の剣を手に持って、道に立ちはだかっているのを見た。ろばは道からそれて畑に入って行ったので、バラムはろばを打って道に戻そうとした。
24 すると主の使いは、両側に石垣のある、ぶどう畑の間の狭い道に立った。
25 ろばは主の使いを見て、石垣にからだを押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、バラムはさらにろばを打った。
26 主の使いはさらに進んで行って、狭くて、右にも左にもよける余地のない場所に立った。
27 ろばは主の使いを見て、バラムを乗せたまま、うずくまってしまった。バラムは怒りを燃やし、杖でろばを打った。
28 すると、主がろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」

☆人は、さまよってしまう
イザ 53:6 
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
ヨハネ 14:5 
トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

☆わたしについて来なさい
マタイ 4:19 
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
マタイ  9:9 
イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。


ゴスペルハウスメッセージ 2023.12.23
「あってはならないところの愛 -クリスマス2023-」ルカ2:1-7

1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

クリスマスおめでとうございます。
聖書には、イエスさまの誕生日が何月何日であるとは明記されていません。
なので、「クリスマスはイエスさまのお誕生日ではなく、イエスさまのお誕生をお祝いする日なんだ」と考えている人たちもいるようです。
いずれにせよ、あなたのための救い主、私のための救い主、イエスさまのお誕生を、心から祝いたいものです。

今日の聖書の箇所は、イエスさまのお誕生の場面です。
ここから、「あってはならないところの愛」というテーマで、クリスマス礼拝のメッセージをしましょう。

ベツレヘムの町は、ダビデの生まれた町です。
皇帝の勅令によって実施される住民登録のために、ダビデの血筋の人たちが集まってきて、ベツレヘムの町はごった返していました。
「住民登録終わったら、すぐに帰れるんでしょ。なんでごった返すの?」というのは、引っ越し経験の少ない人でしょう。
2003年に、私たち家族がブラジルに移住したとき、住民登録がきちんとすむまでに3ヶ月以上かかりました。
20年以上前のことでなく、ブラジルでなくても、住民登録は時間がかかります。
昨年、次男タリタが川崎市に引っ越したときのことです。
朝、区役所に行って、転入手続きをしたいと言うと、「午後までかかります」ということでした。
転出届もきちんと作ってあり、マイナンバーもコンピュータもあるのに、そんな状態なのです。
2000年前の、電気もインターネットもない、皇帝の勅令で始まった住民登録が、すんなり終わるはずがありません。
だから、ベツレヘムの町には、人がごった返していたのです。

そんな状況のベツレヘムに、14歳くらいとも言われるマリアは、妊娠後期でお腹も大きい状態で、ヨセフと一緒に来ました。
ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムまでは、約150キロの道のりです。
赤ちゃんが生まれそうな時期の女性には、大変な移動です。

お腹が大きい娘さんのマリアと、その夫のヨセフ。
しかし、宿屋の部屋に入ることはできませんでした。
何回も出産しているベテランの妊婦であっても、部屋がないという状況は、平気ではいられません。
出産は、その頃も、今も、命がけなのです。
しかも、初めてのお産で、若くて幼いマリアです。

しかし、たった2人のヨセフとマリアのためのスペースも、小部屋も、空けてもらうことはできませんでした。
宿屋の主人にも、宿泊している旅人にも、理由はありました。
・「お客がいっぱいで、空けられないんです」
・「住民登録がいつまで続くかわからないので、譲れません。登録が終わったら、譲ってあげましょう」
・「私は早く来て、お金も払ってるんだから、譲る義務はないでしょう」
・「何も不正しているわけでも、意地悪してるわけでもないから」
それで、家畜小屋しか空けられなかったのです。
家畜のエサの桶の中にしか、赤ちゃんイエスさまの寝る場所がなかったのです。

生まれたての赤ちゃんを、若い妊婦が旅先で困っているのに、知らないとは言え神様からの救い主なのに、開けることができたのが家畜小屋で、寝かすことができたのが飼葉桶。
そんな扱い、あっていいわけがないのです、あってはならないのです。
そんなあってはならないところに、神様の愛の表れであるイエスさまは誕生したのです。

でもそれは、他人事ではありません。
あなたも、神様の計画に対して、宿屋や他の旅人のような関係を作っていませんか。
宿屋たちの反応と、あなたの神様の計画・召し・みこころへの反応を対比してみましょう。
・「お客がいっぱいで、空けられないんです」→「自分のやりたいことがいっぱいで、神様の計画に従えません」
・「住民登録がいつまで続くかわからないので、譲れません。登録が終わったら、譲ってあげましょう」→「仕事を定年退職したら献身します。暇になったら、奉仕します」
・「私は早く来て、お金も払ってるんだから、譲る義務はないでしょう」→「どうして私が?他の人でもいいでしょう」
・「何も不正しているわけでも、意地悪してるわけでもないから」→「悪いことをしてるわけじゃないから、ちょっと後回しにするだけだから」

あなたの計画が、あなたの正しさが、神様の計画を人生の片隅に、心の片隅に、薄暗いところに、つまり、あってはならないところに追いやっているのです。
そうです。
イエスさまによって明らかにされた、あってはならないところの愛は、まさに、あなたのための愛なのです。

もし、宿屋の主人や旅人たちが、マリアのお腹の中の赤ちゃんが来るべき救い主と知っていたら、どうだったでしょう。
宿屋の主人や旅人については書かれていないので、他の人たちの反応をみてみましょう。
御使いに聞かされた羊飼いたちは、羊の世話を中断してベツレヘムに向かい、飼葉桶に眠るイエスさまを探しあてました。(ルカ2:8-20)
星で知った東方の博士たちは、はるばる旅までして、イエスさまに会いに行きました。(マタイ2:1-12)
博士たちの訪問によって知ったヘロデ王は、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子をみな殺しにしました。(マタイ2:16)
良くも悪くも、彼らは心の片隅に追いやることはありませんでした。
宿屋の主人も旅人たちも、知っていたら、きれいな部屋を一つ、イエスさまのお誕生のために用意したのではないでしょうか。
あってはならないところの愛は、そのままにされることはなかったはずです。

そして、2000年後に生きているあなたは、もう知っています。
イエスさまが何者なのか、神様の愛がどれだけ大きいのか。

それでも、あってはならないところの愛を、そのままにしますか。
もし、そうしてしまうなら、あなたは神様の愛を十分に味わえません。

あってはならないところの愛、イエスさまの愛を、あなたの心の真ん中にお迎えするなら、あなたのクリスマスの真ん中にイエスさまがいるなら、あなたの毎日は、あなたの人生は、イエスさまの香りで満たされるのです。

あってはならないところの愛は、あなたのための愛。
あなたの心の真ん中に、お迎えしましょう。

あなたのために、お祈りします。


【参考聖書箇所】

☆イエスさまのお誕生を知った人の反応
・羊飼い
ルカ
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
・博士たち
マタイ
2:1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
・ヘロデ王
マタイ 
2:16 ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。

ゴスペルハウスメッセージ 2023.12.16
「受胎告知 -アドベント第3週-」ルカ1:26-38

26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
30 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
37 神にとって不可能なことは何もありません。」
38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

この聖書箇所は、「受胎告知」として知られていて、絵画や劇などにもなっている、有名な場面です。
「その六か月目」(26節)というのは、マリアの親類のエリサベツが懐妊して6ヶ月ということです。
エリサベツのお腹の赤ちゃんは、後のバプテスマのヨハネです。
イエスさまとバプテスマのヨハネは、親類で歳も同じということですね。

マリアのところに御使いガブリエルが来て、言いました。
「おめでとう、恵まれた方。」(28節)
おめでとうは、「喜びなさい」という意味です。
恵まれた方は、「神様が恵みを授けた人」という意味です。
いきなり御使いが目の前に現れただけでも驚きなのに、喜びなさいという挨拶をされたら、戸惑って「え?」「なにが?」ってなりますよね。
マリアも、そうなりました。

「恐れることはありません」(30節)と、御使いは安心させるかのように声掛けをします。
しかし、そこから続く御使いの言葉は、とんでもないことでした。
神様が、マリアのお腹に赤ちゃんを与えるというのです。
例えばエリサベツのように、結婚して何年も経つのに子どもが授からない夫婦が、神様に祈って赤ちゃんを与えられるということではないのです。
マリアはヨセフと婚約はしているけれど、まだヨセフと一緒にはなっていなかったのです。
当時、婚約者がいる女性が別の男性と関係を持ったら、石打ちで死刑です(申命記22:23-24)。
姦淫は、十戒の一つに加えられるほど、してはならないことでした。

「おめでとう、恵まれた方」から「恐れることはありません」と続いたあとの内容は、石打ちでの死刑だったのです。
もし、石打ちを免れたとしても、そのお腹の子どもがヨセフの子ではないことは明白です。
周りの人たちも、知ることでしょう。
「喜びなさい」って言われても、「おめでとう」って言われても、「恐れるな」って言われても、それは無理です。
「その子は大いなる者となり」(32節)って言われても、やっぱり無理な要求です。
受け入ることができるはずがありません。

それでマリアも、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。」(34節)と、反論しました。
「なんで私が?」「私じゃなくても、別の人で」「結婚してからだったらまだしも」と、マリアの心の中は困惑でいっぱいだったことでしょう。

御使いは答えます。
「神にとって不可能なことは何もありません。」(37節)
マリアにとって受け入れがたいことかもしれないけど、マリアは無理だと思うかもしれないけど、それが神様のみこころなんだということを、御使いは伝えたのです。

マリアは、「私は主のはしためです。」(38節)と言いました。
「私は主のしもべ」「私は主の女奴隷」という宣言です。
私には無理だけど、神様のおことばどおりに、神様のみこころどおりになるようにと、言ったのです。
マリアたち家族がバカにされ続けるかもしれないし、それ以前に死刑にされるかもしれないけど、神様のみこころに従いますという覚悟です。
このマリアの覚悟が、救い主イエスさまのお誕生に、クリスマスにつながったのです。
バカにされるかもしれない、死刑になるかもしれないのに、そのリスクを負ってまで、マリアは神様に従った、みこころに従ったのです。
すばらしい覚悟です。

そして、このマリアの覚悟の約30年後に、神様と同じようなやりとりをした人がいるのです。
バカにされるかもしれない、殺されるかもしれない、無理だしイヤだ、でも、みこころどおりにって言った人です。
だれだと思いますか。
そう、マリアのお腹の中の赤ちゃんだったイエスさまです。
十字架の前の晩に、ゲッセマネで、血の汗を流すほどに苦しみながら祈ったイエスさまです。
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)
十字架にかかれば呪われた者になってしまうのです。
そして死んでしまうのです。
苦しいし、悔しい、無理、イヤです。
でも、みこころどおりにという、イエスさまの決死の覚悟です。
この覚悟が、救いを完成したのです。

「無理、イヤだ」けど「みこころどおりに」という覚悟。
母・マリアの覚悟で、あなたにクリスマスが与えられました。
子・イエスさまの覚悟で、あなたに救いが与えられました。
クリスマスも十字架も、他のだれでもない、あなたのためのものなのです。

だからあなたにも、神様はチャレンジします。
「喜びなさい」って言いながら、「死ぬかもしれない」ことを与えるのです。
無理でイヤなことを、与えるのです。

母・マリアの覚悟で、あなたに救い主が与えられました。
子・イエスさまの覚悟で、あなたの救いが完成しました。
じゃあ、あなたは、神様のチャレンジに、神様のみこころに、どうこたえますか。
あなたの覚悟が、神様のみこころどおりでありますように。

あなたのために、お祈りします。


【参考聖書箇所】
☆姦淫について
「姦淫してはならない。」(出エジプト20:14、申命記5:18)
申命記
22:23 ある男と婚約中の処女の娘がいて、ほかの男が町で彼女を見かけて一緒に寝た場合、
22:24 あなたがたはその二人をその町の門のところに連れ出し、石を投げて殺さなければならない。その女は町の中にいながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻を辱めたからである。こうして、あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。


ゴスペルハウスメッセージ 2023.12.09
「果ての果てまで -アドベント第2週-」ミカ5:1-4

1 今、軍勢をなす娘よ、勢ぞろいせよ。包囲網が私たちに対して設けられた。彼らは、イスラエルをさばく者の頬を杖で打つ。
2 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
3 それゆえ、彼らはそのままにしておかれる。産婦が子を産む時まで。そのとき、彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰る。
4 彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼う。そして彼らは安らかに住まう。今や彼の威力が、地の果ての果てまで及ぶからだ。

ミカ書は全7章の短い予言書ですので、ぜひ全体を読んでいただきたいと思います。
先週取り上げたイザヤ書が全66章なので、ずっと少ないですね。
ミカとイザヤは同時代の預言者で、南王国ユダの同じ王たちに関わっていました。
イザヤと同じように、イエスさまのお誕生の700年前に、その預言をしていたのです。
先ほど賛美で、「ミカヤイザヤの預言のとおりに イエスさまはベツレヘムで お生まれになった」と歌いましたね。

今日はミカ書から、「果ての果てまで」というテーマで、御言葉を開きましょう。

この聖書箇所の2節を読んで、「おや?」と思った方は、よく聖書を読んでおられる方ですね。
イエスさまのお誕生を星で知った博士たちが、エルサレムまで来て、ヘロデ王にたずねたときの箇所です。
祭司長たちは、この箇所に書かれている言葉をもって、答えにしたのです(マタイ2:4-6)。
そして、その引用のことでしかミカ書を知らない人が多いのも、皮肉というか残念なことでもあります。

ミカは、北王国イスラエルと南王国ユダが、アッシリアから攻撃を受けていた時代の預言者です。
彼の預言の内容は、ひと言で言えば、「裁きと回復」です。
それは、北王国イスラエルに対してのものであり、南王国ユダに対してのものであり、イスラエル民族が全人類の代表ということを考えれば、全人類に対してのものでもあります。

5章1節も裁き・滅びの預言です。
圧倒的な力を持つ外部の敵によって、イスラエルをさばく者(イスラエルのリーダー、つまり、王)が打たれるというのです。
神様の民の王が、異邦人によって打たれるというのは、衝撃の預言でした。
しかし、それは神様が与えた預言で、神様が許した、罪への報いでした。

なぜ、神様は、罰を与えたのでしょう。
それは、滅ぼすため・・・ではありません。
神様の力を持ってすれば、病や天変地異などで、民族を滅ぼすのは、人類を滅ぼすことさえ、簡単なことです。
しかし、神様の与える罰の目的は、そこにはありません。

罰の目的は、立ち返るためです。
生き方を、生活を、良い方向に向け直すためです。
親が子を叱るのだって、子を滅ぼすためではなく、立ち返るためです。
刑務所だって同じで、苦しみを与え続けるためのものではなく、更生するための施設なのです。
血の池や針の山で、亡者が苦しんでいるというような、そういう場所ではないのです。

旧約聖書時代に、預言者が送られ続けたのも、イスラエルを本来あるべき場所に立ち返らせるためでした。
悔い改めるため、生き直すため、神様が送り続けたのです。

だからこその、2節以降の回復の預言なのです。
「ベツレヘムから、イスラエルを治める者が出る」と言われているベツレヘムは、ダビデの生まれた町です。
ダビデは、紀元前1000年頃の、ミカヤイザヤよりも300年昔の、イスラエル2代目の王です。
ダビデの生まれたときから、いえ、ずっとずっと昔、永遠の昔から、ベツレヘムで救い主が生まれることは決まっていたのです。

それは、罪人を、罪にとらえられて身動きできなくなっている人を、救うためです。
神様のもとへ、取り戻すためです。
そのために、救い主を誕生させて、人類に、あなたに、立ち返る場所を与え、立ち返る道を与えたのです。
イエスさまのお誕生まで、ダビデからは1000年、ミカヤイザヤからは700年、長い期間でしたが、神様は永遠の昔から決めていたことを忘れませんでした。
それが、2000年前のクリスマス、イエスさまのお誕生なのです。
神様の与える愛が、神様からの回復が、たしかに示されたのです。

それは、イスラエル民族だけのためではありません。
2000年前の人だけのためではありません。
「地の果ての果てまで及ぶ」(4節)とあるように、全人類に向けてのものなのです。
日本は、世界地図で見るならば、本当に地の果ての果てです。
でもそこに住む、果ての果てに住むあなたへ、神様の愛はまっすぐに注がれているのです。
あなたのための愛の預言が、あなたのための回復の預言が、実現したのがクリスマスなのです。

あなたの人生に救い主を送ってくれた神様の愛に、あなたはどう応えますか。
あなたを救うために十字架の死まで受け入れたイエスさまの愛に、あなたはどう向き合いますか。

「それでも私は、私の思うままに生きるから」としますか。
「神様の愛の中で生きていたい」と願いますか。
「神様なんて、いないから」と目を背けますか。
「神様、ありがとう」と喜び感謝して生きますか。

あなたのアドベントが、神様の愛に溢れたものになりますように。
果ての果てにいるあなたに届いた愛が、あなたの毎日に輝きますように。

あなたのために、お祈りします。


【参考聖書箇所】

☆ミカの時代と預言の対象
1:1 モレシェテ人ミカにあった主のことば。これは、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、彼がサマリアとエルサレムについて見た幻である。

☆マタイ福音書への引用箇所
マタイ
2:4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」

ゴスペルハウスメッセージ 2023.12.02
「毎日がアドベント、毎回がクリスマス -アドベント第1週-」イザヤ9:1-7

1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
2 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。
3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。
4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。
5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。
6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

イザヤ書には、救い主・イエスさまに関する預言が、何箇所にも記されています。
第53章のように苦難の救い主の預言もあれば、救い主のお誕生の預言もあります。
よく知られているのが、第7章14節「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」ですし、また、今週の聖書箇所もそうです。
ここから「毎日がアドベント、毎回がクリスマス」というテーマで、アドベント第1週の御言葉を開きましょう。

預言は分かりにくいと感じる人もいると思いますので、少しテキストを解説します。
イザヤは、BC740-690年頃にかけて活動した預言者です。
イエスさまの生まれる700年くらい前ということです。
1節「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」というのは、アッシリアによる攻撃と捕囚についてです。
また、「異邦の民のガリラヤ」は、混血のユダヤ人が多かったために、このような言われ方をしました。
そして、イエスさまはガリラヤのナザレで育ちましたから、「栄誉を受ける」のです。
2節「大きな光を見る」は、救い主のお誕生です。
闇の中で滅ぶしかなかった民に、救いの光が与えられたのです。
それで、3節の喜びと続きます。
4節「ミディアンの日」とは、士師記第6-8章のできごとです。
ミディアンの13万5千人の大軍に対して、士師・ギデオンは300人の兵士で立ち向かい、圧倒的な勝利を得たのです。
もちろん、神様の力です。
それほどの圧倒的な力で、罪と滅びから解放されるということです。

そして、その救い主のお誕生を、つまり、クリスマスを預言するのが、6-7節です。
以来700年間、ユダヤの民は、いえ、人類は、ずっとそのお誕生を待っていたのです。
700年間のアドベントだったと言ってもいいでしょう。

救い主の名は、7章14節では「インマヌエル(神が私たちとともにおられる)」でしたが、ここではさらに詳しく、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」とあります。

助言者、それは、アドバイスをくれる人です。
英語の訳では、ワンダフル・カウンセラーと記されています。
ボクシングやフェンシングなどのスポーツでは、セコンドという立場でしょう。
あなたを、客観的に・全体的に見て、必要な助けをくれる人です。
セコンドの良し悪しで、勝敗が決まることすらありますから、かなり重要な役割です。
サンパウロ・ゴスペルハウスの住人だった柔術家のWAKAさんは、セコンドに師匠で世界チャンピオンのアンドレがついてくれたときには、勝率がかなりアップしたと教えてくれました。
柔道などでは、試合中にアドバイスの声がけが禁止されているほど、影響は大きいのです。

そして、ここに書かれている助言者は、ただの助言者ではありません。
「不思議な助言者」(新改訳)、「霊妙なる議士」(口語訳)、「驚くべき指導者」(共同訳)、「Wonderful Counselor」(英語の聖書)なのです。
どれほどのすばらしさなのかを表す聖句をご紹介します。
「しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。」(1コリント2:9)
見たことも聞いたこともないような、信じられないほどの助言者なのです。
人間では解決することのできないような難問・難題でも、克服できる言葉なのです。

しかし、驚くべき言葉でも、力のない人の言葉であったら、でたらめかもしれません。
大丈夫、聖書は「力ある神」と続けています。
最高に力のある神様が、言葉で無からすべてを創ることのできる神様が、その言葉をあなたの人生に与えるのです。
さらに、「永遠の父」とあるように、それは一時的なものではないのです。
永遠に、あなたとともにいてくれるのです。
任期とか、契約期間とか、休暇とか、休憩とか、そういうものはないのです。
しかも、「平和の君」、英語の訳では、「プリンス オブ ピース(Prince of Peace)」とあります。
その助言は、平和を作り出し、あなたに平安を与えるのです。

どんな絶望的な状況に見えても、あなたを助けることができる方がいるのです。
見たことも聞いたこともないような助言で、決して離れることなく、平和を作り出してくれる方。
それが、あなたの救い主・イエスさまなのです。

これは、あなたに与えられた、特別な権利なのです!

もうすぐクリスマスです。
今は、それを待ち望むアドベントの期間です。
クリスマス(Christmas)は「Christ(キリスト)」と「mass(ミサ)」を語源としていると言われています。

年に一回の年末のイベントがクリスマスなのではありません。
あなたの救い主・イエスさまを礼拝することが、あなたのワンダフルカウンセラーのイエスさまを礼拝することが、まさに毎週の礼拝がクリスマスなのです。
そして、毎週の礼拝のために備える日々が、アドベントなのです。
「毎日がアドベント、毎回がクリスマス」という特別な日常が、あなたのものになるのです。

イザヤの預言からクリスマスまで、700年も待たなければなりませんでした。
700年に及ぶ長すぎるアドベントだったのです。
しかし今、イエスさまが地上に生まれ、十字架で救いを完成させ、三日目によみがえった後である今、あなたは毎週クリスマスができるのです。
6日間待つだけの、喜びのアドベントを過ごすことができるのです。

最高の助言者が、あなたとともにいるのです。
あなたの礼拝を、生まれ変わらせましょう。
あなたの毎日を、生まれ変わらせましょう。

あなたのために、お祈りします。


【参考聖書箇所】
☆イザヤの十字架のキリストの預言
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

☆イザヤの救い主誕生の預言
イザヤ 7:14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
マタイ 1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

☆アッシリア捕囚
Ⅱ列王記 15:29 イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテ・マアカ、ヤノアハ、ケデシュ、ハツォル、ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリアへ捕らえ移した。

☆ミディアンの日
士師記7:15-25
15 ギデオンはこの夢の話と解釈を聞いたとき、主を礼拝し、イスラエルの陣営に戻って言った。「立て。主はミディアン人の陣営をあなたがたの手に渡された。」
16 彼は三百人を三隊に分け、全員の手に角笛と空の壺を持たせ、その壺の中にたいまつを入れさせて、
17 彼らに言った。「私を見て、あなたがたも同じようにしなければならない。見よ。私が陣営の端に着いたら、私がするように、あなたがたもしなければならない。
18 私と、私と一緒にいるすべての者が角笛を吹いたら、あなたがたもまた、全陣営を囲んで角笛を吹き鳴らし、『主のため、ギデオンのため』と言わなければならない。」
19 真夜中の夜番が始まるとき、ギデオンと、彼と一緒にいた百人の者が陣営の端に着いた。ちょうどそのとき、番兵が交代したばかりであったので、彼らは角笛を吹き鳴らし、その手に持っていた壺を打ち壊した。
20 三隊の者が角笛を吹き鳴らして、壺を打ち砕き、左手にたいまつを、右手に吹き鳴らす角笛を固く握って「主のため、ギデオンのための剣」と叫んだ。
21 彼らはそれぞれ持ち場に立ち、陣営を取り囲んだので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。
22 三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は陣営全体にわたって同士討ちが起こるようにされたので、軍勢はツェレラの方のベテ・ハ・シタや、タバテの近くのアベル・メホラの岸辺まで逃げた。
23 イスラエル人は、ナフタリ、アシェル、また全マナセから呼び集められて、ミディアン人を追撃した。
24 ギデオンはエフライムの山地全域に使者を遣わして言った。「下りて来て、ミディアン人を迎え撃て。彼らから、ベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取れ。」エフライム人はみな呼び集められ、ベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取った。
25 彼らはミディアン人の二人の首長オレブとゼエブを捕らえ、オレブをオレブの岩で殺し、ゼエブをゼエブのぶどうの踏み場で殺した。こうしてエフライム人はミディアン人を追撃したが、オレブとゼエブの首は、ヨルダン川の反対側にいたギデオンのところに持って行った。

☆不思議な助言者
Ⅰコリント 2:9 しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。
イザヤ 64:4 とこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなた以外の神が自分を待ち望む者のために、このようにするのを。

ゴスペルハウスメッセージ 2023.11.25
「アドベント第0週」マタイ3:1-6、ローマ12:6-8

マタイ3:1-3
1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

ローマ12:6-8
6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、
8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。

今日は、11月最後の礼拝で、来週からいよいよアドベントです。
クリスマスを、イエスさまのお誕生を、あなたの救い主のお誕生を、お祝いする備えのときです。
小学校や中学校では、学年末の時期を次年度の0学期と呼び、次年度のための準備期間とすることがあります。
今日は、まさにアドベントの第0週、アドベント直前の備えのときです。

聖書かるたの「せ」の読み札に、「洗礼を 川で授ける ヨハネさん」とあるとおり、バプテスマのヨハネは、たくさんの人々に洗礼を授けました。
何を目的に、彼は洗礼を授けていたのでしょう。
きれい好きだからというわけではありませんし、自分のグループのメンバーを増やすためでもありません。
イザヤ第40章3節や、今週の聖書箇所のマタイ3:3にあるように、主の道、イエスさまの道を用意するためです。
イエスさまの時代の0学期が、イエスさまの公生涯の0学期が、バプテスマのヨハネの活動だったのです。

ヨハネは、こう言いました。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ3:2)
天国が近づいた。
天国への道である、天国への真理である、天国のいのちである、救い主・イエスさまが来られると、言ったのです。
その救い主を信じることができるように、悔い改めのバプテスマを授けて、備えをしたのです。

悔い改めは、キリスト教にとって、大切な言葉です。
私たちの使っている新改訳2017には、52箇所に「悔い改め」という言葉が書かれています。
そのすべてが新約聖書にあり、旧約聖書には記されていません(他の訳の場合は、何箇所か記されています)。
悔い改めに対応する言葉として、「立ち返り」が、旧約聖書に80箇所以上あります。

「悔い改め」も「立ち返り」も、どちらも神様の方を向く、神様の方に帰るという意味があります。
しかし、聖書の中では、使われ方が違っています。
「立ち返り」は、ほとんどの場合が、集団に対して使われています。
イスラエルの民、イスラエル王国、南王国、北王国などです。
集団が神様に立ち返る、本来の神様の民に戻る、神様を神様とする国(民)のような使われ方です。
それに対して、「悔い改め」は、集団に対するものではなく、個人に対して使われる言葉になっています。
立ち返りは「彼ら」「あなたがた」に対して、悔い改めは「彼」「あなた」に対して使われているのです。
それで、バプテスマのヨハネは、一人ひとりに悔い改めの洗礼を授けて、備えていたのです(使徒13:24、19:4参照)。

イエスさまは、ヨハネからバプテスマを受け、40日間荒野で断食をし、宣教を開始されました。
そのときの言葉が、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)、奇しくも、バプテスマのヨハネの言葉と同じなのです。
ヨハネの備えの言葉通りに、救い主・イエスさまが活動を開始したのです。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
悔い改めの理由は、天の御国が近づいたからです。
天の御国が近づくと、私たちは、絶望するか、知らんぷりをするか、悔い改めるかのどれかを選択することになります。

天の御国は、天の光を伴います。
「しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。」(エペソ5:13)とあるように、あなたの何もかもが、隠したいことも、知られていないと思っていることも、明らかにされるのです。
天の御国は、天の声、神様の声を伴います。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」(ヘブル4:12)とあるように、容赦なくあなたを明らかにするのです。

ですから、絶望するか、知らんぷりをするか、悔い改めるかの選択肢しか、残らないのです。
そして、「絶望するしかない」ではなく、「知らんぷりしちゃおう」でもなく、悔い改めなさいと言うのです。
イエスさまの愛で、赦され、救われ、癒やされ、贖われなさいと言うのです。
「そのままのあなたで、あなたのその場で、悔い改めなさい」なのです。

一人ひとり、天の御国によって明らかにされるものが違うから、それぞれが違う存在だから、神様からの光も違えば、神様からの言葉も違い、癒やされるところも用いられるところも違うのです。

ローマ12:6-8には、神様からの賜物について書かれています。
賜物もそれぞれで、みんな違うし、みんな大切ということです。
それでも、それらに優劣や順位をつけたくなってしまうのが、人間の罪深さです。

つい先日のこと、「あなたの言葉は、まるで教えているようで、上から目線で不愉快です」と、指摘されました。
私は、教えるというのは、上位の者の特権ではなく、役割や分担だと思っています。
教える内容は知っていることだけなので、知っていることの分かち合いなのです。
教える喜びを知っている人は、知らないことを習う喜びを知っている人でもあると思っています。

礼拝をするために、講壇で聖書を解き明かす人がいます。
椅子や机を並べて、会場準備をする人がいます。
賛美のために、ギターで伴奏する人がいます。
会衆として、元気に賛美する人もいます。
動画保存のために、スイッチを入れる人がいます。
駐車場の係の人も、玄関の係の人も、トイレを掃除する人も、お茶の準備をする人も、いるでしょう。
どれが一番、上位でしょうか。
人は、色々考えてしまいがちですが、神様の前では、すべてが大切で、どれも一番なのです。

「ボクは、・・・ができません」でオッケーです。
「あれもこれもできないんです」でも、オッケーです。
「だって、小さいし(年寄りだし)」や、「だって男だし(女だし)」と、だってばっかりでも、オッケーです。

そんなそのままのあなたのところに、天の御国が、天の光が、天の言葉が、来たのです。
何もかもが、明るみに出されるのです。
ただ、知らんぷりをしないでください。
絶望にとどまらないでください。
イエスさまは、あなたに「悔い改めなさい」と言うのです。

イエスさまに、赦されなさい。
イエスさまに、癒やされなさい。
イエスさまに、救われなさい。
イエスさまに、贖われなさい。
イエスさまに、愛されなさい。
イエスさまは、あなたに語りかけているのです。

どんなあなたにも、できることがあります。
それは、この愛を、自分のための愛として、受け取ることです。
神様を喜び、神様に愛された自分を喜ぶことです。

さあ、アドベントが近づいてきました。
クリスマスが、あなたの救い主のお誕生が、近づいてきました。
あなたへ向かう神様の愛の道を、まっすぐに用意しましょう!

あなたのために、お祈りします。


【参考聖書箇所】
☆3節の引用元
イザヤ 40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。

☆パウロが語るバプテスマのヨハネ
使徒 
13:24 この方が来られる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、悔い改めのバプテスマをあらかじめ宣べ伝えました。
19:4 そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」

☆イエスさまの宣教開始の言葉
マタイ 4:17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

☆神様の光
エペソ 5:13 しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。

☆神様の言葉
ヘブル 4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

ゴスペルハウスメッセージ 2023.11.18
「訓戒を守らなかった者」箴言6:1-5

1 わが子よ。もし、あなたが隣人のために保証人となり、他人のために誓約をし、
2 自分の口のことばによって、自分が罠にかかり、自分の口のことばによって、捕らえられたなら、
3 わが子よ、そのときにはすぐにこうして、自分を救い出せ。あなたは隣人の手に陥ったのだから。さあ行って、伏して隣人にしつこくせがめ。
4 あなたの目を眠らせず、そのまぶたにまどろみを与えるな。
5 自分を救い出せ。かもしかが狩人の手から逃れるように、鳥がそれを捕る者の手から逃れるように。

「わが子よ」「子よ」という呼びかけは、箴言にはたくさん使われています。
若者や子どもに対して、父親からの訓戒という形です。
今週の聖書箇所も、その一つで、保証人にはなるな、なってしまったならなんとかして取り消してもらえ、という内容です。
リビングバイブルでは、より口語的な表現で、現代風の訓戒のイメージが強調されていますね。

連帯保証人をグーグルで検索してみたところ、「連帯保証人 なってはいけない」「連帯保証人 勝手に」「連帯保証人 人生終わった」などの候補があがってきて、現代でも保証人は軽々しくなるものではないようです。
連帯保証人という制度は、日本独特のものだとも言われています。
この聖書箇所の保証人は、連帯保証人とは書かれていませんが、借金の肩代わりや身代わりになるということは、大きな違いはありません。
何かあったなら、本人に変わって責任を負う、債務を負うことになります。
だから、軽々しく保証人になってはいけないというのです。
若い人は軽率な行動をとってしまいがちなので、この訓戒は「わが子よ」という呼びかけなのでしょう。
パウロも、テトスへの手紙第2章6節で、次のように記しています。
「同じように、若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように勧めなさい。」

私たちの使っている新改訳聖書2017には、保証人という言葉が11箇所に出てきます。
そのうち、箴言には今週の箇所を含めて6箇所あります。
11:15、17:18、22:26は、保証人にはならないようにという主旨です。
20:16、27:13は、保証人になるなら担保・抵当を取るようにという主旨です。
創世記には保証人という言葉が2箇所(43:9、44:32)で使われ、いずれも、ユダがベニヤミンの無事の責任を負う保証人になるということです。
その他の3箇所(ヨブ16:19、詩篇119:122、イザヤ38:14)は、神様に自分の保証人になってもらうことを意味しています。

つまり、人が他の人の保証人になるのは、やめておきなさい、避けなさいというのが、聖書の中に書かれていることのようです。
この聖書箇所の訓戒も、それを中心としています。

今日のテーマは「訓戒を守らなかった者」です。
そう、この訓戒を守らなかった人がいるのです。
この訓戒を破った人がいるのです。
しかし、それは軽率のためではなく、覚悟をもって破ったのです。
「やっちゃった」ではなくて、自ら選んで、保証人となったのです。
すべての負債、すべての責任を、身代わりになって、肩代わりして、自ら負った方がいるのです。

そう、それがイエスさまです。
それが、イエスさまの十字架なのです。
訓戒を守らなかった者、それは、イエスさまなのです。

訓戒だけではありません。
イエスさまは、聖書の大原則さえも破りました。
聖書の大原則は、「神様は命令しっぱなしではない」ということでしたね。
それには、二つの意味がありました。
「神様は、命令したならば、それが達成できるように力や助けを与える」というのが一つ目。
「神様は、命令したならば、その命令をご自身も徹底的に守る」というのが二つ目でした。
なのに、「保証人にはなるな」という聖書の言葉を、イエスさまご自身が破ったのです。

なぜでしょう。
それは、あなたを愛するがゆえです。
あなたが罪にとらわれたまま滅んでしまうことが、イエスさまはどうしても受け入れられなかったのです。
愛のゆえに、あなたの保証人を、覚悟をもって受けたのです。

そんなイエスさまの姿を、みごとに表現した言葉をご紹介します。
聖書66巻の中ではないのですが、旧約聖書続編シラ書(集会の書)第29章14-17節です。

14 善人は隣人のために保証人となり 恥知らずな者は彼を見捨てる。
15 保証人の恩を忘れるな。 お前のために自分の命を献げてくれたからだ。
16 罪深い者は保証人を破産させ
17 恩知らずな心の人は助けてくれた人を見捨てる。

まさにここに、イエスさまの姿があり、かたくなな私たちの姿があります。
あなたのために命を献げたイエスさまと、あなたはどう向き合いますか。
恥知らずな者のように、恩知らずな者のように、その愛を見捨てますか。
それとも、その愛に、その覚悟に、喜びをもって、賛美をもって、感謝をもって、こたえますか。

保証人という言葉を使ってはいませんが、このイエスさまの愛を、ヨハネ第15章13節はこう語ります。
「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」

これよりも大きな愛はない。
最大の愛が、あなたに注がれているのです。
この事実を、あなたはどう受け入れ、どう生きますか。

あなたのすべてを保証するため、イエスさまは、訓戒も大原則も破り、いのちまでささげました。
この愛に、最大の愛に、立ち返りましょう。
それこそが、あなたのなすべきことなのです。


【参考聖書箇所】
☆リビングバイブル訳
1 やたらに見ず知らずの人の保証人になってはいけません。 その借金の肩代わりをするはめになったら、どうするのです。
2 お人好しがすぎると、とんだことになります。
3 もしそんなことになったら、すぐに手を打ちなさい。 気まりが悪かろうが何だろうが、なりふりかまわず相手のところへ飛んで行き、保証人になるのを取り消してもらいなさい。
4 先に延ばさず、今すぐしなさい。 眠るのはそのあとにしなさい。
5 鹿がハンターの手を逃れ、鳥が網から逃れるように、うまく逃げ出すのです。

☆保証人にはならない
箴言
11:15 他人の保証人になると苦しみにあう。保証を嫌う者は安全だ。
17:18 良識のない人は、すぐ誓約をし、隣人の前で保証人となる。
22:26 あなたは人と誓約をしてはならない。負債の保証人となってはならない。

20:16 他人の保証人となるときは、その人の上着を取れ。見知らぬ女のためにも、上着を抵当に取れ。
27:13 他人の保証人となるときは、その者の服を取れ。見知らぬ女のためにも、服を抵当に取れ。

☆他の書簡の保証人
創世記 43:9 私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います。もしも、お父さんのもとに連れ帰らず、あなたの前にあの子を立たせなかったら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。
創世記 44:32 というのは、このしもべは父に、『もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前に罪ある者となります』と言って、あの子の保証人となっているからです。

ヨブ 16:19 今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。
詩篇 119:122 あなたのしもべの幸いの保証人となってください。高ぶる者が私を虐げないようにしてください。
イザヤ 38:14 燕や鶴のように私は泣き、鳩のようにうめきました。私の目は上を仰いで衰えました。主よ、私は虐げられています。私の保証人となってください。

ゴスペルハウスメッセージ 2023.11.11
「光の子」エペソ5:5-14

5 このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。
6 だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに下るのです。
7 ですから、彼らの仲間になってはいけません。
8 あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。
9 あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。
10 何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。
11 実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。
12 彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。
13 しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。
14 明らかにされるものはみな光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ、起きよ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」

「地の塩・世の光」という言葉は、マタイ第5章に記されていますが、それは聖書に触れたことのない人たちにも知られている言葉です。
山上の説教でイエスさまが語った言葉ですが、キリスト教系の学校の校訓や教育目標としても、目にすることもあるでしょう。

イエスさまが地上にいる間は、イエスさまが世の光でした(ヨハネ9:5)。
イエスさまが十字架にかかって死に、三日目によみがえって、40日後に昇天した後、つまり今は、私たちキリスト者が、世の光なのです。

パウロは、エペソの人たちに向けて、「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」(8節)と命じました。
それは、イエスさまの十字架によって救われた者としての、キリスト者としての、使命であり、生き方であり、いのちなのです。

ところで、光と闇はどちらが強いか、わかりますか。
この場合の闇は、そこそこ暗いという程度ではなく、まったく光のない真っ暗闇で、前も後ろも右も左もわからないような闇のことです。
もし、そこに一つの光があったとすると、たとえそれが弱い光だとしても、光が方向を知らせます。
そう、光は闇より、ずっと強いのです。
闇の中に光があれば、もう、闇は真っ暗闇ではいられないのです。
そして、闇が濃くなればなるほど、弱い光すら輝きを増すのです。
夜空で星を見るときに、地上の光がないところの方が、星がよく輝いて見えるのと同じです。

今、世界各地で戦争が起こり、不誠実な政治や経済が行われ、さらにコロナ禍による分断もあり、弱い人々はどんどん苦しめられています。
闇の力に覆われていると言わざるを得ないような、そんな状況です。
だからこそ、世の光として、今こそ輝くとき、輝けるときなのです。
闇が強くなればなるほど、小さな光ですら、力強く輝けるからです。
今がどんな闇の中でも、あなたがどんな弱い光でも、おそれなくていい、大丈夫なのです。

ところが、パウロは11節で「暗闇のわざに加わらず」と続けます。
もし、あなたの存在が光そのものになっているのなら、暗闇には加われません。
だって、暗闇の中にあっても、光ってしまうからです。
イエスさまが地上にいるときは、まさに、そのような状態でした。
どんな悪だくみの中にあっても、どんな策略の中にあっても、光を失うことはなかったのです。
だから、「すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。」(13節)だったのです。
闇の子たちは、罪と欲にとらわれた人たちは、イエスさまの光で自分自身の姿を見せつけられ、拒絶するか、悔い改めるかの決断が必要だったのです。

しかし、暗闇のわざに加わってしまう可能性を持った私たちの世の光は、イエスさまと同じではないかもしれません。
世の光としての私たちは、闇に加われる光、つまり、光れなくなることがある光なのです。

夜空に見える恒星の中で一番明るいのは、おおいぬ座のシリウスです。
21ある一等星の中でもひときわ明るく、その明るさは、-1.3等級です。
全天で一番明るいのは、もちろん太陽で、-27等級で、一等星の1560億倍の明るさです。
太陽とシリウスの間には、月(-18等級)、金星(-4.7等級)、火星(-2.9等級)などがあります。
月や金星や火星は、恒星と違って明るさが増減します。
まったく光を失うことすらあります。
なぜなら、太陽の光を受けて、その光の反射で光っているからです。
自らが光っているわけでは、ないのです。
月は、シリウスよりも3万倍も明るく光ることができるのですが、まったく光れなくなることもあるのです。

これが、私たちの光、あなたの光なのです。
「主にあって光となりました。」(8節)、「キリストがあなたを照らされる。」(14節)とあるのは、まさにイエスさまの光を受けて光っている姿です。
あなたの光は、あなたの光ではなく、イエスさまの光なのです。

これを、実際に体験した人物がいます。
「モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。」(出エジプト記34:29)
モーセは神様を目の前にして、その光を浴び続けたために、顔が光ってしまったのです。

私たちは、イエスさまから目をそらしたり、逃げ隠れしたり、何ものかに遮られたりしたら、たちまち輝きを失ってしまう光なのです。
あなたは、闇のわざに加わることができてしまう、いつ消えるかわからない、当てにならない、頼りない光なのです。
「私は、大丈夫!」なんて言っている人は、バカか鈍感なのかのどちらかです。

しかし、失望する必要はありません、希望があるのです。
なぜなら、イエスさまの光はいつも輝き続けていて、そこに立ち返るなら、あなたは光を取り戻すからです。
月が満ちて満月になるように、明けの明星(金星のことです)が夜明けに輝くように、あなたは輝くことができるのです。

あなたの悔い改めには、力があります。
なぜならそこに、イエスさまが、本当の光が、あるからです。

イエスさまから目を離さないでいましょう。
たっぷり光を浴びましょう。
たっぷり愛を受けましょう。
たっぷり赦しを受けましょう。
そしてあなたは、光の子になるのです。

あなたのために、お祈りします。


【参考聖書箇所】
☆あなたがたは世の光
マタイ
5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

☆イエスさまは世の光
ヨハネ
9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」

☆顔が光ったモーセ
出エジプト記
34:28 モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。
34:29 それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。
34:30 アロンと、イスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた。

☆14節の引用元かと考えられている箇所
イザヤ 
26:19 あなたの死人は生き返り、私の屍は、よみがえります。覚めよ、喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ。まことに、あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。
51:17 目覚めよ、目覚めよ。エルサレムよ、立ち上がれ。あなたは主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。
52:1 目覚めよ、目覚めよ。力をまとえ、シオンよ。あなたの美しい衣をまとえ、聖なる都エルサレムよ。無割礼の汚れた者は、もう二度とあなたの中に入っては来ない。
60:1 「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。


ゴスペルハウスメッセージ 2023.11.04
「遺す言葉」申命記1:1-5

1 これは、モーセがイスラエルのすべての民に告げたことばである。ヨルダンの川向こう、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフに面したアラバの荒野でのことであった。
2 ──ホレブからセイル山を経てカデシュ・バルネアに至る道のりは、十一日である──
3 第四十年の第十一月の一日にモーセは、主がイスラエルの子らのために彼に命じられた、すべてのことにしたがって、彼らに語った。
4 それはモーセが、ヘシュボンに住んでいたアモリ人の王シホン、およびアシュタロテに住んでいたバシャンの王オグを、エデレイで打ち破った後のことであった。
5 ヨルダンの川向こう、モアブの地で、モーセは次のように、みおしえの確認を行うことにした。

申命記は、モーセ五書(律法の書)の最後の書です。
今週の聖書箇所は、その申命記の冒頭です。
モーセに率いられたイスラエルの民が、40年間の荒野での生活を終え、約束の地に入る直前のときです。
神様に支えられ続け、神様を何度も裏切り、そして悔い改め、また裏切るという、40年間の荒野の生活の最終盤です。

「第四十年の第十一月の一日」(3節)に、モーセは語り始めました。
ヨシュアを新しいリーダー、モーセの後継者としたイスラエルの民が、ヨルダン川を渡ったのが、翌年の1月10日です(ヨシュア記4:19参照)。
モーセの死後、1ヶ月の喪の期間を終えてから行動を起こし、3日間の準備の期間もあったところから推測するに、モーセは12月上旬に死んだものと考えられます(申命記34:5-8参照)。

つまり、死を1ヶ月後に迎えるモーセの、40年間ともに生活してきた人々への言葉が、申命記なのです。
モーセは、自分がいつ死ぬのかは知らなかったでしょうが、神様から約束の地に入れないと言葉を受けていて、その約束の地は目の前なのです。
自分の死が近いことは、モーセは知っていたことでしょう。
約束の地に入れないモーセの、約束の地に入る人々への遺す言葉が、申命記と言っていいでしょう。

あなたの人生が、この地上での人生が、あと1ヶ月とわかったら、あなたはどんな言葉を遺しますか。
あなたの、「遺す言葉」です。
それは、家族や友人への感謝の言葉でしょうか。
隠してきた悪事の告白でしょうか。
たまりにたまった怒りや悲しみを発散するのでしょうか。
死への恐怖を訴えるのでしょうか。
死後の葬式や財産分与についての指示でしょうか。
幼い子どもに、みそ汁の作り方を教えますか。
秘密のまつたけの場所を伝えますか。
人それぞれ、遺す言葉はあるでしょう。

モーセの選んだ「遺す言葉」は、「主がイスラエルの子らのために彼に命じられた、すべてのこと」(3節)であり、「みおしえの確認」(5節)でした。
もちろん、1ヶ月の期間中に他のことも喋ったでしょうが、彼の遺す言葉は、律法であり、神様との契約だったのです。
それは、神様の言葉が何より大切だからです。
イスラエルの民にとっても、モーセ自身にとっても、そして、全世界に対しても、つまり、あなたに対しても大切だったからです。

神様のみおしえの中にとどまること、神様の契約からそれないこと。
それは、永遠のいのちか永遠の滅びかを分ける、絶対に忘れてはいけないことだからです。

でも、イスラエルの人々は、それを忘れて、背いてしまいました。
40年間の荒野での生活のように、神様を裏切り続けたのです。
永遠のいのちに導くはずの、モーセが語った律法は、モーセの遺した言葉は、呪いと裁きと滅びの宣告になってしまったのです。

人は、決心しただけでは、勧告だけでは、罪から解放されることはできなかったのです。
モーセの遺した言葉は、いのちを失ってしまうのです。
だから神様は、預言者を次々と送りました。
しかし、イスラエルは裏切り続けました。
そして最後に、神様が遣わしたのが、神様のひとり子・イエスさまだったのです。
イエスさまは、人類を罪から解放するために遣わされた最後の「方法」でした。

イエスさまは、罪から、滅びから、あなたを解放するために来られました。
それは、十字架の死に至るまで、徹底していました。
そして、十字架上でイエスさまが語った言葉は、あなたへの「遺す言葉」だったのです。
十字架上で、イエスさまは7つの言葉を残しました。
その真ん中、4番目にイエスさまは、こう言葉を残しました。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(マタイ27:46)
イエスさまは、神様に見捨てられたのです。
それは、本来見捨てられるべきあなたの身代わりとしてなのです。
そして6番目に「完了した」(ヨハネ19:30)と言われました。
モーセの遺した言葉によって、呪われる者となってしまった人間を、あなたを、イエスさまは身代わりになって救ったのです。
それは、たしかに完了・完成し、そしてイエスさまは十字架の上で死んだのです。

モーセの遺した言葉を、イエスさまは、本来の意味で完成させたのです。
その完成の宣言が、イエスさまの遺した言葉なのです。

これらの「遺す言葉」は、他のだれかのものではありません。
あなたのための「遺す言葉」であり、あなたのための愛の言葉なのです。
あなたのための祝福の言葉であり、あなたのための赦しの言葉なのです。

あなたのために遺された言葉を受け取って、神様の愛の中に生きましょう。

あなたのために、お祈りします。


【参考聖書箇所】

☆モーセの死と服喪
申命記
34:5 こうしてその場所で、主のしもべモーセは主の命によりモアブの地で死んだ。
34:6 主は彼を、ベテ・ペオルの向かいにあるモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知る者はいない。
34:7 モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。
34:8 イスラエルの子らはモアブの草原で三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。こうして、モーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。

☆ヨルダン川を渡ったヨシュアたち
ヨシュア記
4:19 さて、民は第一の月の十日にヨルダン川から上がって、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。

☆十字架上のイエスさまの遺す言葉
マタイ 
27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
ヨハネ 
19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

☆イエスさまが十字架上で残した7つの言葉
1.「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」ルカ23:34
2.「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカ23:43
3.「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」「ご覧なさい。あなたの母です」ヨハネ19:26,27
4.「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」マルコ15:34(「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」マタイ27:46)
5.「わたしは渇く」ヨハネ19:28
6.「完了した」ヨハネ19:30
7.「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」ルカ23:46

ゴスペルハウスメッセージ 2023.10.28
「行いが信仰を生む--宗教改革記念日--」ヤコブ4:7-10

7 ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。
9 嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
10 主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。

今日は、宗教改革記念礼拝です。
今から506年前の1517年10月31日、ルターが95か条の論題を掲示したことで宗教改革が始まりました。
ゴスペルハウス礼拝では、毎週詩篇を1篇ずつ順番に読んでいくのですが、奇しくも今日は、ルターが特に好きだったという第118篇でした。
神様は、なかなか粋なことをしますね。

そして、今週の聖書箇所は、ヤコブの手紙です。
ルターは、ヤコブの手紙を「藁の書簡」と酷評し、価値を認めませんでした。
のちに、その酷評を訂正したとされてはいますが。

今日はここから、「行いが信仰を生む」というテーマで御言葉を開きましょう。

ルターの信仰の中心を表すものとして、「聖書のみ、信仰のみ、恩寵のみ」という言葉があります。
それに対して、ヤコブの手紙は、「行い」を重視しているように読めます。
「行いがないのなら、信仰は死んでいる」のような主張に読めるのです(2:17,2:26など)。
そのうえ、「十字架」という言葉も「復活」という言葉も書かれていないので、ルターもはじめは価値を認めなかったのでしょう。

ヤコブが手紙を書いた頃、人々の間には「信じたら救われるんだから、何やっても十字架で赦されるんだから、自分の好き勝手に生きても大丈夫」という誤解が広まっていました。
いえ、誤解というよりは、論理の暴力といっていいものでしょう。
今でも、「何やってたって、神様は赦すんでしょ」と、自分を神様以上の立場に置こうとする人たちがいます。
その反動なのか、「良い行いが伴わない者は、信じたとしても地獄に行くんだ」と主張する人たちすらいます。
もちろん、どちらも間違いです。
ヤコブの頃の2000年前も、ルターの頃の500年前も、そして現代も、同じで、まったく前に進みません。
とらわれた罪人の姿がそこにあります。
手かせ足かせ、重いくびき、そこには自由もなにもないのです。

では、ヤコブの対策は、間違っていたのでしょうか。
そんなことはありません。
ヤコブの手紙はたしかに、行いを求めています。
今週の聖書箇所の7節も8節もそうです。
内面についての善行をも求めています。
そして、「嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。」(9節)と続くのです。

もし行いによって救われるなら、行いによって神様に認められるなら、9節はこうなるはずです。
「歌いなさい。喜びなさい。笑いなさい。あなたがたの悲しみを笑いに、憂いを喜びに変えなさい。」
そうなっていないのは、行いでは、完全に救われることがないからです。
自分で自分を救うことはできず、自身を天の御国にふさわしいものに変えることができないからです。
だからこその、「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。」(10節)なのです。

自分の行いを誇りにせず、へりくだって、神様の力によって、引き上げてもらうのです。
自力での救いではなく、神様の恵みによって、救われなさい。
ヤコブはそう言っているのです。
そのうえでの15節なのです。
あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。(15節)

主の御心の中で、自分に与えられたものを、使命を、召しを、導きを、生きがいを、人生そのものを、生きて行うのです。
ヤコブは、「行いの限界を知って、神様によって救われ、その愛の中に生きよう」と主張しているのです。

今日のテーマは、「行いが信仰を生む」です。
それは、行いによって信仰を完成させるのではありません。
行いの限界に気づいて、信仰によってしか生きられないと知ることです。
信仰を完成させるのは、あなたではないのです。
あなたの努力でも、あなたの善行でも、あなたの信心でもないのです。
ヘブル第12章2節にあるように、信仰の完成者は、イエスさまです。
私たちは、そこから目を離してはいけないのです。

十字架の愛に、十字架の恵みに、無条件の救いに、いつもとどまることが大切なのです。
というより、それしかないのです。

「でもでも、ルカ第6章43-44節に、木は実でわかるって書いてあるよ」と、言いたい人もいるかも知れません。
お答えしましょう。
ヨハネ第15章5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」とあります。
枝がよい実をつけるためには、よい木の枝であることが必要です。
そして、ローマ第11章17-18節にあるように、私たちは接ぎ木され、根に支えられているのです。
自分自身の行いによっては救われることもなく、切られて捨てられて焼かれるしかなかった私たちが、イエスさまの十字架に接ぎ木されて、生きるようになったのです。

あなたの行いの足りなさが、あなたの欠けの大きさが、開き直りや放縦を生むなら、そこに信仰は生まれません。
あなたが、足りなさや欠けにまっすぐに向き合い、あなた自身に絶望するとき、そして十字架を見上げるとき、そこに信仰が生まれるのです。

それは、「信じてるから安心」というレベルではありません。
イエスさまの十字架に接ぎ木され、人生すべてが変えられることです。
まさに、あなたの人生の大改革です。
それがあなたの、本当の宗教改革です。

今日が、今日こそが、あなたの宗教改革記念日でありますように。


【参考聖書箇所】
ヤコブ
2:17 同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。
2:26 からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。

ヘブル 
12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

ルカ
6:43 良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともありません。
6:44 木はそれぞれ、その実によって分かります。茨からいちじくを採ることはなく、野ばらからぶどうを摘むこともありません。
6:45 良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。

ヨハネ
15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
15:6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。

ローマ
11:17 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、
11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2023.10.21
「あなたの十字架を負って」ルカ9:18-27(並行箇所:マタイ16:13-28、マルコ8:27-38)

18 さて、イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちも一緒にいた。イエスは彼らにお尋ねになった。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」
19 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たち、昔の預言者の一人が生き返ったのだと言う人たちもいます。」
20 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えた。「神のキリストです。」
21 するとイエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じられた。
22 そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。
23 イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
24 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。
26 だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます。
27 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

イエスさまの地上での活動を記した福音書は、聖書に4つ、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネとあります。
そのうち、マタイ・マルコ・ルカの3つは、共観福音書と呼ばれています。
福音書を大きく前後半に分けるとすると、前半は誕生から各地の伝道活動、後半はエルサレムへの道から十字架、そして復活ということになります。
今日の聖書箇所は、前半と後半のつなぎ目、前半の締めくくりと後半の始まり、そんな場面です。
ここから、「あなたの十字架を負って」というテーマで、3つの場面に分けて、御言葉を開きましょう。

18-20節は、「イエスとは何者か?」という問答です。
イエスさまが弟子たちに問いかけます。
「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」(18節)
バプテスマのヨハネ、エリヤ、昔の預言者の一人という答えが弟子たちから返ってきます。
(この章の少し前の部分(7-9節)では、ヘロデも気にして、当惑していました)

イエスさまは、群衆の答えを否定も肯定もせず、さらに問います。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(20節)
ペテロが答えます。
「神のキリストです。」(20節)
新共同訳では、「キリスト」ではなく「メシア」という言葉が使われています。

キリストはギリシア語で、メシアはヘブル語です。
どちらも、油注がれた者という意味です。
神様に油注がれた者、つまりそれは、王です、祭司です。
そして、中間時代(旧約聖書の時代から新約聖書の時代までの期間)には、救済者の意味も持ちました。
ペテロの答えは、イエスさまは、神様に選ばれた王、祭司、救済者というものでした。
これは、人間の考えうる最も適切な答え、最高の答えです。
だから、ペテロはイエスさまからほめられるのです(マタイ16:17-19)。
天の御国の鍵を与えられるほどに、ほめられるのです。

21-22節は、「苦しみのキリスト」「苦しみのメシア」の表明です。
先ほどのペテロの答えは、人間の考えうる最適・最高のものでした。
しかし、それは正解ではなく、惜しいけど不正解というのが、現実です。
それは、「このことをだれにも話さないように命じられた」(21節)でも明らかです。
この言葉は、何度も使われている、一つのパターンです。
反対者ではなく賛同者に、部分的にはあっているけど本質をとらえそこねているときに、イエスさまはこの言葉を使うのです。
また、イエスさまは、自身を指して「キリスト」「メシア」という言葉は使いませんでした。
イエスさまが使うのが「人の子」という言葉だったのも、誤解を避けるためでしょう。

「苦しみを受け、捨てられ、殺される」とイエスさまは続けます。
王なのに?、祭司なのに?、救済者なのに?、殺されちゃうのか!
弟子たちの頭は混乱し、パンク状態になります。
殺されてしまったら、なんにもならないではないかと。
その結果、ペテロはイエスさまに意見して、イエスさまに叱られます(マタイ16:22-23,マルコ8:32-33)。
天の御国の鍵を与えられたペテロが、すぐに「下がれサタン」と叱責されているのです。

人間の考えうる最適・最高は、神様の考える最適・最高には、まったく及ばないのです。
「今までこうだった」という人間の知恵や経験は、史上唯一の異常事態ともいうべき「十字架の救い」に対応できないのです。
ひとり子を救いのために十字架で殺すという神様の覚悟は、その十字架の呪われたものとしての死にまで従ったイエスさまの愛は、人間の最適をはるかに超え、愚かに見えるほどのものだったのです。

23節以降は、「あなたの十字架を負ってついて来なさい」という命令です。
クリスチャンは、キリストに倣う者です。
キリストに従う者で、イエスさまの足あとを自分の足あとにする者です。
イエスさまが苦しみのメシアだったように、苦しめられ、捨てられ、殺されることすらあるかもしれません。
イエスさまが愛と覚悟で十字架に向かって歩み、十字架にかかったように、愛と覚悟を持ってあなたはイエスさまに従っていくのです。
それが、あなたの十字架を負ってということなのです。

というのは、人間の考えうる最適な答えで、最高の従い方です。
しかし、「イエスとは何者か?」という問答が、人間の最高・最適をはるかにに超えているのに、
十字架の理解を人間の最高・最適に押し込めてしまったら、イエスさまに叱られます。
「下がれサタン」と叱られるのか、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叱られるのかは、わかりませんけど。

自分の十字架、あなたの十字架、それは、イエスさまの約束の十字架です。
イエスさまの十字架によって赦された者として、贖われた者として、救われた者として生きるってことです。
自分の力で神様にかなう者になろうとすることを捨てて、自分で自分を救うことを捨てて、イエスさまの十字架で生かされることです。
イエスさまと同じように十字架を負うのではなく、イエスさまの十字架にあなたの人生をつけるということです。
イエスさまの愛と覚悟は、そのためのものなのです。

あなたに必要なことは、この無条件の救いの中に、この愚かとも思える愛と覚悟の中に、入ってとどまるという覚悟と決心なのです。
イエスさまという救いの道に、従って歩むという覚悟なのです。

イエスさまの苦しみの十字架は、あなたを救うためのものということを忘れたら、聖書はまったく分からなくなります。
自分で自分を救うというのなら、イエスさまはあなたと無関係なのです。
救われた者としての十字架を負って、赦された者としての十字架を負って、愛された者としての十字架を負って、そう、喜びの十字架を負って、イエスさまと歩みましょう。


【参考聖書箇所】
☆ヘロデの反応
ルカ
9:7 さて、領主ヘロデはこのすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。ある人たちは、「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と言い、
9:8 別の人たちは、「エリヤが現れたのだ」と言い、さらに別の人たちは、「昔の預言者の一人が生き返ったのだ」と言っていたからである。
9:9 ヘロデは言った。「ヨハネは私が首をはねた。このようなうわさがあるこの人は、いったいだれなのだろうか。」ヘロデはイエスに会ってみたいと思った。

☆褒められるペテロ
マタイ
16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

☆叱られるペテロ
マタイ
16:22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
16:23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
マルコ
8:32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
8:33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ゴスペルハウスメッセージ 2023.10.15
「うかつな願い、本当の悔い改め」マタイ14:25-33

25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
26 イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
27 イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
28 するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
32 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
33 舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。

聖書には、たくさんの奇跡、いわゆる超自然的なできごとも記されています。
わが家の聖書かるたの「う」の読み札には、「海を分け モーセを導く 愛の神」とあります。
出エジプト記第14章21節で、モーセに率いられた民のために、神様が海を分けて道を作った場面です。
「て」の読み札には、「天に行く 火の馬車に乗る エリヤさん」とあります。
2列王記第2章11節で、エリヤが天にのぼったときのことです。
モーセとエリヤという、旧約聖書の代表的人物、律法と預言の代名詞、この二人は、マタイ第17章3節で、イエスさまとの対談もしてますね。
エリヤの弟子のエリシャも、2列王記第6章6節で、水没した鉄の斧の頭を、一本の枝を投げ込むことで浮かび上がらせました。

それに優るとも劣らないのが、今週の聖書箇所の奇跡です。
聖書の中で、水の上を歩いたのは、イエスさま以外にはペテロだけです。
ここのペテロの姿から、ペテロの言葉から、「うかつな願い、本当の悔い改め」というテーマで、御言葉を開いていきましょう。

水の上を、舟に向かって上を歩いてくるイエスさまに対して、ペテロは言いました。
「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」(28節)
これは、うかつな願い、おっちょこちょいな願いです。
なぜなら、水の上を歩けたらどうなるか、まったく想像していないからです。
風や波がどういう状態なのか、自分の心の強さはどれほどなのか、ペテロは一切、考えていませんでした。
そして実際、怖くなって沈み始めたのです。

私の友人にMさんという人がいます。
あるとき、Mさんの奉仕する教会に、韓国からの訪問団が来ることになりました。
あと4時間で彼らが来るというのに、その教会にはハングル語がわかる人が1人もいなかったのです。
Mさんは祈りました。
「神様、あと4時間でハングル語が全部読めるようにしてください。これから本屋に行くので、どの本を買ったらいいか教えてください。私はそれを読みますから。」
4時間後、Mさんはハングルを読めるようになりました。
ただ、問題なのは、読めるようにはなったのだけれども、その意味はほとんど分からなかったということです。
「全部読めるようにではなく、全部わかるようにって祈ったらよかったなぁ」と、Mさんは笑いながら教えてくれました。
しかし、ハングル語が読めるようになったおかげで、韓国の賛美を、訪問団の彼らと一緒に歌うことができ、豊かな祝福の時間を過ごせたのです。

1996年の夏、ロスアンゼルス旅行での帰りの飛行機の中、私は1人の日系ブラジル人に出会いました。
それまで、ブラジルに日系人がいることを知らなかった私は、帰宅途中の新幹線の中でこう祈りました。
「神様、私がブラジルへ伝道者としていくのなら、何かしるしをください」
これも、まったくうかつな祈りです。
何の準備も計画も覚悟も心構えもないままに、出てしまった祈りです。
しかし、神様は誠実な方です。
帰宅後すぐに神様は、はっきりとわかるしるしをくれたのです。
くじけそうになることも、諦めちゃいそうなこともありましたが、神様は支え続け、導き続けてくれたのです。
そして2003年から、サンパウロでの伝道生活が始まったのです。

ペテロも、Mさんも、私も、どれもうかつすぎる願い、うかつすぎる祈りです。
でも、そのどれに対しても、神様は、イエスさまは、誠実に答えてくれるのです。
「ダメぇ・・・」と否定するのではなく、最善を叶えてくれるのです。
ペテロは水の上を歩いたし、Mさんはハングルが読めるようになったし、私はブラジルで伝道をはじめました。
どれも周りの人から見たら、いえ、本人から見ても、自力でできることではありませんでした。
うかつな祈りに、うかつな願いに、神様は誠実に答えてくれるのです。
それは、特別なことではなく、あなたの人生にも起こりうる、神様の力、神様の御業なのです。

イエスさまの誠実な答えによって、ペテロはうかつな願い通りに、水の上を歩きました。
しかし、強い風を見て怖くなって、沈みかけたのです。
ペテロは叫びました。
「主よ、助けてください」(30節)

私は、ここに本当の悔い改めがあると思うのです。
もし「ああ、イエスさま。疑ってしまってごめんなさい。状況を怖れてしまったのです。これからは、あなただけを見て、・・・・」なんて長々と話しているなら、溺れてしまいます。

本当の悔い改めは、反省や決意ではありません。
修行や訓練でもありません。
自分の欠けを認め、神様に助けを求めることです。
自分の力ではなく、神様の力で生きること、生かされることです。
「つぎからはこうします」ではなく「今、助けてください」なのです。

「助けてください」と神様に求める言葉は、詩篇には何度も出てきます。
38篇22節、40篇13節、71篇12節、79篇9節、などなど。
「急いで」がついているものも多く、まさに、「今、助けてください」なのです。
神様の力で生かされたいという、切実な言葉です。

ペテロの悔い改めに対して、イエスさまは「すぐに」(31節)、手を伸ばしてペテロを助けました。
そして、その後、ペテロといっしょに舟まで歩いていくのです。
ペテロは水面近くを引きずられたわけでもなく、イエスさまに抱えられたわけでもなく、歩いたのです。
そう、うかつな願いは、続けて叶えられたのです。

Mさんのうかつな願いが、その後どうなったのか、私は知りません。
私のうかつな願いは、神様に叶えられたのですが、すぐに行き詰まりました。
ペテロのように、沈みかけたのです。
しかも、たった3ヶ月、たった10回の礼拝を捧げただけで、心が折れ、力が尽きかけたのです。
「もうダメ、助けて」と神様に願ったそのとき、神様は助け手を遣わしてくれたのです
サンパウロにいる私のところへ、日本人伝道者を、しかも、アルゼンチン経由で。

20年以上、1000回以上の礼拝を捧げていますが、礼拝説教のピンチヒッターは、このときのただ1回です。
打ち合わせも連絡もなく、状況も知らせていないのに、最適な御言葉が、彼の口から語られました。
神様が本当に助けてくれたから、神様に力をいただいたから、それ以降一度もピンチヒッターいらずです。
もちろん、トラブルや苦しさはありました。
でも、自分の力ではなく神様の力で生きることができたから、本当の悔い改めができたから、私は講壇に喜びをもって立ち続けられるのです。

ペテロはこの後、何度も水上を歩いたわけではありません(よみがえったイエスさまに会ったときには、泳いでいますし)。
そして、うかつな性格もあってか、失敗もいっぱいしました。
それでも、本当の悔い改めを経験した彼は、やはり教会の礎の岩(ペテロ)なのです。

ペテロや、その他の一部の人たちだけではありません。
あなたのうかつな願いにも、神様は誠実に答えます。
あなたの本当の悔い改めにも、神様は誠実に答えます。
あなたの希望は、神様の誠実の中にあるのです。
この希望をしっかり握って、今日も生きましょう。

あなたのために、お祈りします。


【参考聖書箇所】
☆モーセとエリヤとエリシャ
出エジプト記 
14:21 モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。

Ⅱ列王記 
2:11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。

マタイ 
17:3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。

Ⅱ列王記 
6:5 一人が梁にする木を切り倒しているとき、斧の頭が水の中に落ちてしまった。彼は叫んだ。「ああ、主よ、あれは借り物です。」
6:6 神の人は言った。「どこに落ちたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切ってそこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。

☆詩篇の中の「助けてください」の例
38:22 急いで私を助けてください。主よ 私の救いよ。
40:13 主よ みこころによって私を救い出してください。主よ 急いで私を助けてください。 60:11 どうか敵から私たちを助けてください。人による救いはむなしいからです。
71:12 神よ 私から遠く離れないでください。わが神よ 急いで私を助けてください。
79:9 私たちの救いの神よ 私たちを助けてください。御名の栄光のために。私たちを救い出し 私たちの罪をお赦しください。御名のゆえに。
108:12 どうか敵から私たちを助けてください。人による救いはむなしいのです。
109:26 私の神主よ私を助けてください。あなたの恵みによって私をお救いください。
119:86 あなたの仰せはことごとく真実です。彼らは偽りで私を迫害します。どうか私を助けてください。

ゴスペルハウスメッセージ 2023.10.07
「あなたの窓、天の窓」創世記6:8-16

8 しかし、ノアは主の心にかなっていた。
9 これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
10 ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤフェテを生んだ。
11 地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。
12 神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。
13 神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ようとしている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。見よ、わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。
14 あなたは自分のために、ゴフェルの木で箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外にタールを塗りなさい。
15 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。幅は五十キュビト。高さは三十キュビト。
16 箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内に天窓を仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、箱舟を一階と二階と三階に分けなさい。

今週は、ノアの箱舟の物語から、「天の窓と地の窓」というテーマで御言葉を開きます。
ノアが600歳のときに起こった洪水について、ざっとその経過日数をおさらいしましょう。
聖書に書かれている月日で見てみましょう。

2月10日:ノアとその家族・動物たちが箱舟に入る。
2月17日:洪水が始まる(この日までに、神様が箱舟の扉を閉じる)。
雨は、40日40夜降りつづける(3月末頃)。
150日間、水は増し続ける(7月17日頃まで)。
7月17日:アララテの山地に箱舟漂着。
10月1日:他の山々の頂が見え始める。
40日後、ノアがカラスを放つ。
ノアが鳩を放つ(1回目)。
7日後、ノアが鳩を放つ(2回目)。オリーブの枝をくわえて帰る。
さらに7日後、ノアが鳩を放つ(3回目)。帰ってこない。
翌年1月1日:水が干上がり、ノアは覆いを取り払って眺める。これまでノアは、地を見ていなかった。
2月27日:すっかり地が乾き、神様の言葉でノアたちは箱舟から出る。
前年の2月10日から翌年の2月27日まで、まるっと一年間、ノアたちは箱舟の中にいたのです。

ノアの箱舟には、船としてあるべきものが、3つ欠けていることをご存知でしょうか。
それは、「舵(かじ)」、「動力(帆や櫂など)」、「前後の区別」です。
これらは、私たちが普通に考える船には必要なものですが、ノアの箱舟にはありませんでした。
ノアの箱舟は、自分で方向を決めることも、自力で進むこともできませんでした。
進んでいるのか後退しているのかもわからないまま、漂うだけのものでした。
だから、船ではなく箱舟、ボートやシップではなくアークなのです。

今日はその欠けているものに、もう一つ加えます。
それは、「窓」です。
ノアと動物たちは、外を眺めながら一年間を過ごしたわけではありませんでした。
外の洪水の状況を見ながら、相談したり、考えたりしていたわけではないのです。
ノアの箱舟には、天窓しかなかったからです。
カラスと鳩は、天窓から放ったのです。

天窓は、天に向かって、上に向かって、空に向かって開いています。
空は見えますが、地上や水面は見ることができません。
神様は、天に向くように天窓を作ることを、ノアたちに命じたのです。
大雨が降り、大洪水が起こり、地表がすべて水に覆われるような天変地異が起こったとき、彼らはすぐそばの状況を見ることはできませんでした。
その状況で、彼らは一年間を過ごすことになりました
これは、厳しい訓練の期間です。

ゴスペルハウス礼拝では、これまで、天の窓が開く例を見てきました。
一つ目は、バベルの塔のできごとです(創世記第11章)。
神様が言葉を乱して、だれとも会話ができなくなった人間に対して、ただ一つ開いていたのが、神様と会話するという窓だったのです。
バベルのできごとは裁きではなく、神様との親密な関係への招き、すなわち祝福だったのです。
二つ目は、ペンテコステのできごとです(使徒第2章)。
集まっていた弟子たち一人ひとりに、神様が聖霊様を与えました。
そして聖霊様は分かれた舌のようなものとして彼らの上に現れ、それぞれ別の国の言葉で話し始めました。

それよりも前に、神様はノアにも天の窓を開いていたのです。
だからノアは、天窓を通して神様にアクションを起こしました。
「もう出ていいですか」というウズウズした気持ちを、鳥たちを放つことで、神様にぶつけたのです。
これは、正しい神様との向き合い方です。

聖書の中には、その他にも、天の窓が与えられている箇所は多くあります。
まず、祝福の受け取り口としての天の窓があります。
申命記28:12、2列王記7:2、マラキ3:10などがそれに当たります。
また、使命や言葉を与えるための天の窓もあります。
エゼキエル1:1は、その典型とも言えるでしょう。

旧約聖書だけでなく、新約聖書にも、もちろん天の窓はあります。
例えば、マタイ3:16、イエスさまのバプテスマ直後、天が開いて、御霊が降ってきました。
使徒7:56では、殉教するステパノが、天が開くのを見ています。
使徒10:11では、ペテロの前に、天から敷布が降りてきます。
これらも、祝福の受け取り口として、使命を与えるための天の窓と言っていいでしょう。

他にも、聖書のあちこちに、天の窓は記されています。
そしてそれは、大昔に起こったというだけではありません。
特別なことではなく、今でも、日本でも、あなたにも、天の窓は開かれているのです。

では、私たちはどう応答したらいいんでしょう。
天の窓に対して、自分の窓、あなたの窓を、どう開けたらいいんでしょう。

ダニエル6:10を開きましょう。
「ダニエルは、その文書に署名されたことを知って自分の家に帰った。その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた。」

王以外を礼拝することを禁止する命令が施行されました。
しかしダニエルは、その命令によって曲げられそうになった天への窓を閉じませんでした。
「以前からしていたように」とあるように、ダニエルは自分の窓を神様に向けて開いていたのです。
しかたなく閉じるのではなく、閉じたように見せかけるのでもなく、いつも通り。
別の窓を開けることもなく、周りの人たちにも流されず、いつも通り。
不利益があるかもしれないけど、獅子の穴に落とされるかもしれないけど、いつも通り。
ダニエルの窓は、神様に向かって、天に向かって開き続けたのです。
彼は、すばらしい信仰の勇者です。

神様は、あなたの窓について、確かな約束をしてくれています。
詩篇81篇10節です。
「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう。」
あなたの口を、あなたの窓を、天に向かって大きく開きましょう。
神様の祝福は、あなたのものなのです。

しかし、この詩篇には続きがあります。
「しかし わたしの民はわたしの声を聞かず イスラエルはわたしに服従しなかった。」(詩篇81:11)
そう、神様の民であるイスラエルでさえ、天の窓に向かって自分の窓を大きく開くことができなかったのです。
天の窓より、自分の気持ち・自分の思い・自分の知識・自分の計画を優先したのです。
天に向かうより、まわりの状況や人の言葉に振り回されたのです。
妬みや高慢、悲しみや悔しさ、疑惑や怖れに、とどまってしまったのです。

罪人とは、まさにこの状態のことです。
囚われ人とは、まさにこの状態のことです。
自分はもちろん、周りの人さえも、不自由この上ありません。

しかし、そんなあなたのために、イエスさまは十字架にかかったのです。
あなたを解放するために、あなたを赦すために、あなたを取り戻すために、二千年前の十字架はあったのです。
そして、イエスさまはその救いを、その贖いを、完全に成就したのです。
あなたは、罪から解放されています、罪赦されています。
神様のものとして取り戻されているのです。

ただ、それを知らないのか、知っていても受け入れられないでいるのか、受け入れていてもそう生きられていないだけなのです。

イエスさまの十字架によって、あなたは自分の窓を天に向けて開けることができます。
不安も不満も、その窓に吐き出していいんです。
まるで、ウズウズしてハトを何回も放ったノアのように。
神様は、あなたの思いを、しっかり受け止めてくれるのですから。
神様は、確固たる覚悟と愛を持って、イエスさまを十字架にかけたんです。

イエスさまの十字架を、決して軽んじてはいけません!

あなたのために、お祈りします。

【参考聖書箇所】

☆天の窓の今までの2つ
創世記
11:7 さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」
11:8 主が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
使徒
2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。

☆祝福の受け取り口としての天の窓
申命記 28:12 主はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。
Ⅱ列王記 7:2 しかし、侍従で、王が頼みにしていた者が、神の人に答えて言った。「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、エリシャは言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」
マラキ 3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。

☆使命の受け取り口としての天の窓
エゼキエル1:1 第三十年四月五日に、わたしがケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。

☆新約聖書にも天の窓
マタイ 3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。(イエスさまのバプテスマに)
使徒 7:56 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。(ステパノの殉教時に)
使徒 10:11 すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来るのが見えた。(ペテロへ異邦人伝道に)

☆天の窓に対してのあなたの窓は
ダニエル 6:10 ダニエルは、その文書に署名されたことを知って自分の家に帰った。その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた。
詩篇81:10 わたしはあなたの神 主である。わたしがあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう。
81:11 しかし わたしの民はわたしの声を聞かず イスラエルはわたしに服従しなかった。


☆ノアの箱舟生活の概略
創世記
7:6 ノアは六百歳であったが、そのときに大洪水が起こり、大水は地の上にあった。
7:7 ノアは息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻とともに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。
7:8 きよい動物、きよくない動物、鳥、地面を這うすべてのものの中から、
7:9 雄と雌がつがいになって箱舟の中のノアのところにやって来た。神がノアに命じられたとおりであった。
7:10 七日たつと、大洪水の大水が地の上に生じた。
7:11 ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、大いなる淵の源がことごとく裂け、天の水門が開かれた。
7:12 大雨は四十日四十夜、地に降り続いた。

7:24 水は百五十日間、地の上に増し続けた。

8:3 水は、しだいに地の上から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始めた。
8:4 箱舟は、第七の月の十七日にアララテの山地にとどまった。
8:5 一方、水は第十の月まで減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現れた。
8:6 四十日の終わりに、ノアは自分の造った箱舟の窓を開き、
8:7 烏を放った。すると烏は、水が地の上から乾くまで、出たり戻ったりした。
8:8 またノアは、水が地の面から引いたかどうかを見ようと、鳩を彼のもとから放った。
8:9 鳩は、その足を休める場所を見つけられなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を伸ばして鳩を捕らえ、自分がいる箱舟に入れた。
8:10 それからさらに七日待って、再び鳩を箱舟から放った。
8:11 鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ、取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地の上から引いたのを知った。
8:12 さらに、もう七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。
8:13 六百一年目の第一の月の一日に、水は地の上から干上がった。ノアが箱舟の覆いを取り払って眺めると、見よ、地の面は乾いていた。
8:14 第二の月の二十七日には、地はすっかり乾いた。
8:15 神はノアに告げられた。
8:16 「あなたは、妻と、息子たちと、息子たちの妻たちとともに箱舟から出なさい。
8:17 すべての肉なるもののうち、あなたとともにいる生き物すべて、鳥、家畜、地の上を這うすべてのものが、あなたとともに出るようにしなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そして増えるようにしなさい。」


ゴスペルハウスメッセージ 2023.09.30
「アグルの祈り」箴言30:1-9

1 マサの人ヤケの子アグルのことば。イティエルに告げ、イティエルとウカルに告げたことば。

2 まことに、私は粗野で、人ではない。私には人間としての分別がない。
3 私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識も持っていない。
4 だれが天に上り、また降りて来たのか。だれが風を両手のひらに集めたのか。だれが水を衣のうちに包んだのか。だれが地のすべての限界を堅く定めたのか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。

5 神のことばは、すべて精錬されている。神は、ご自分に身を避ける者の盾。
6 神のことばに付け足しをしてはならない。神があなたを責めて、あなたが偽り者とされないために。

7 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。
8 むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。
9 私が満腹してあなたを否み、「主とはだれだ」と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。

箴言は、全31章です。
その中で、今週の聖書箇所にある30章7-9節は、箴言の中にある唯一の祈りと言われている箇所です。
今日はここから、「アグルの祈り」というテーマで、御言葉を開きましょう。

箴言の29章までは、ソロモン以外の言葉であることが明記されていません。
で、ソロモンの箴言って言われるわけです。
しかし、巻末の30-31章は、アグル(30章)、レムエル(31章)と、まったく別の人の言葉です。
「マサの人」が土地を表すなら、両者ともに異邦人ということも言えます。
しかし、アグルもレムエルもヤケもイティエルもウカルも、この箇所以外に聖書に記述がないので、詳しいことはわかりません。
謎な人、と言ってもいいでしょうね。

29章までの文体は、2行が対になっているものが多かったのに対して、30章に入ると、スタイルがガラッと変わります。
まるで、別の書簡のようでもあります。
まあ、作者(記者)が別人になったのだから、当たり前かもしれません。

2-4節は、人間の無知を明言します。
神様の大きさ、深さ、高さ、永遠に対して、人間はまったく及ばず、知ることすらできないのです。
「あなたは確かに知っている。」(4節)とありますが、新共同訳聖書では「その名は何というのか。その子の名は何というのか。あなたは知っているのか。」、英語の聖書でも「What is His name, and what is His Son's name,If you know?」(NKJV)となっています。
知っているという肯定と、知っているのかという疑問と否定、どちらの訳が文脈に合うのかは、意見の分かれるところでしょうが、神様のすべてを人間が知っているわけではないことは、明らかです。
ヨブ記にも、次のような記述があります。
「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。」(ヨブ38:4)
「地の広さを見極めたことがあるか。そのすべてを知っているなら、告げてみよ。」(ヨブ38:18)

アグルは、神様の大きさと、自分自身の小ささ、すべての人間の小ささを知っていた人だったのです。
これは大切なことです。
もし、これを知らないでいると、神様を自分の召使いにしたくなります。
自分の理解の中に、自分のルールや自分の支配の中に、神様を閉じこめたくなるのです。
これは、神様に対しても、また、人間同士に対しても、争いや悲劇の原因になるものです。

アグルは続けます(5-6節)。
神様の言葉は完全で、力があり、信じる人たちのための盾です。
神様は、愛を注いでくれる方なのです。
その言葉は、1つも欠けさせても、付け加えても、いけないのです。
詩篇18章30節、申命記4章2節、12章32節、黙示録22章18-19節などと、アグルは同じ思いなのです。

アグルは、神様の言葉を大切にし、その力強さ、その確かさを知り、信じた人なのです。
神様の前に、神様の言葉の前に、まっすぐに立って、受け止め、受け入れた人なのです。

そんなアグルの祈りが、7-9節です。
彼が願ったのは、8節に書かれている、2つのことがらです。
「むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。」
「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。」

「むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。」
これは、誠実であるということ、ウソのないことです。
だれに対しても、つまり、神様に対しても、他人に対しても、自分自身に対してもです。
ただ一人の神様を信じている彼にとっては、その存在を確信し・確認している彼にとっては、虚しいこと・偽りとは、神様以外を神様とすること、つまり偶像崇拝です。
アグルは、ただ一人の神様が神様であることを自分の人生の土台にしていたいのです。
神様を神様とし、神様の御心の中で、御手の中で、愛の中で生きたいのです。
他に神様はいない、神様の御心が、自分の人生に実現してほしい。
「十戒」の前半、「主の祈り」の前半に通じる、アグルの祈りです。

「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。」
これは、神様に養われたいという願いです。
神様が与える分で、貧しさも富もなく、過不足なく、生かされたいのです。
理由は、9節に書いてあります。
神様を裏切らないため、貪欲に振り回されないためです。

出エジプト記の16章に、マナが初めて降った記述があります。
モーセが、「その日の分だけ、次の日に残さないで」というのに、残してしまう人が出てきます。
マナは翌日には腐って、モーセは怒ります。
「6日目には2日分取って、7日目にはマナは降らないから」という言葉にも関わらず、7日目に探しに出る人が出て、また怒られます。
しかし、40年間の毎日の繰り返しの中で、マナに対する民の貪欲はなくなりました。
神様の与える分に不足はなく、神様に養われ続けたのです。
その実感は、薄れることはありません。
耕すことも刈り取ることもしない民が、40年間もマナを与え続けられたのですから。
これは、アグルの望みの1つの形でしょう。

毎日の必要を、神様が与えてください。
神様に、養われたいのです。
むさぼることもなく、うらやむこともなく、だれからも盗まないでいたいのです。
このアグルの願いは、「十戒」の後半と通じ、「主の祈り」の後半とも共通するものです。

アグルの祈りは、「十戒」(律法のおおもと)に生きるための願いでもあり、「主の祈り」(イエスさまが与えてくれた福音の祈り)と通じる祈りでもあったのです。
新約聖書・旧約聖書の枠を超えて、神様の愛の中で生き続けるための願いであり、祈りなのです。

そして、あなたのために、記され残された、言葉・願い・祈りでもあるのです。

そう、あなたも、求めていいんです。
願っていいんです。
祈っていいんです。
神様を神様として生きる人生を。
神様の愛の中で生き続ける人生を。

十戒に思いを馳せてもいいし、主の祈りでもいいし、アグルの祈りでも構いません。
もちろん、あなた自身の祈りでも、大丈夫です。
誠実な神様は、あなたの祈りを、本当の祈りに、本物の祈りに、真実の祈りに、してくれるのですから。

あなたのためにお祈りします。


【参考聖書箇所】
「その名は何というのか。その子の名は何というのか。あなたは知っているのか。」(4節・新共同訳)
「その名は何か、その子の名は何か、ということも あなたは知っているはず。」(聖書協会共同訳)
「What is His name, and what is His Son's name,If you know?」(NKJV)
「What is his name, and the name of his son?  Tell me if you know!」(NIV)

ヨブ
38:1 主は嵐の中からヨブに答えられた。
38:2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
38:3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
38:4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。
38:18 地の広さを見極めたことがあるか。そのすべてを知っているなら、告げてみよ。
39:1 あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。
39:2 あなたはこれらがはらんでいる月を、数えることができるか。それらが子を産む時を知っているか。


詩篇 
18:30 神その道は完全。主のことばは純粋。主はすべて主に身を避ける者の盾。

申命記
4:2 私があなたがたに命じることばにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を守らなければならない。
12:32 あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを守り行わなければならない。これにつけ加えたり減らしたりしてはならない。

黙示録
22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。
22:19 また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。

☆主の祈り
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

☆十戒
第1戒「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」
第2戒「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」
第3戒「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」
第4戒「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」
第5戒「あなたの父と母を敬え。」
第6戒「殺してはならない。」
第7戒「姦淫してはならない。」
第8戒「盗んではならない。」
第9戒「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」
第10戒「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。」


申命記
8:10 あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。
8:11 気をつけなさい。私が今日あなたに命じる、主の命令と主の定めと主の掟を守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。
8:12 あなたが食べて満ち足り、立派な家を建てて住み、
8:13 あなたの牛や羊の群れが増え、銀や金が増し、あなたの所有物がみな豊かになって、
8:14 あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがないように。

ゴスペルハウスメッセージ 2023.09.23
「あなたの中のバビロンとイスラエル」イザヤ47:1-15

1 「おとめ、娘バビロンよ。下って行って、土の上に座れ。娘カルデア人たちよ。王座のない地面に座れ。あなたはもう、優しい上品な女と呼ばれることはないからだ。
2 ひき臼を取って粉をひけ。ベールを取り去り、裾をまくってすねを出し、川を渡れ。
3 あなたの裸はあらわにされ、恥もさらされる。わたしは復讐をする。だれ一人容赦しない。」
4 私たちを贖う方、その名は万軍の主、イスラエルの聖なる方。
5 「娘カルデア人たちよ。黙って座り、闇に入れ。あなたはもう、国々の女王と呼ばれることはないからだ。
6 わたしは、わたしの民を怒って、わたしのゆずりの民を汚し、彼らをあなたの手に渡したが、あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせた。
7 あなたは『いつまでも女王でいよう』と考えて、これらのことを心に留めず、自分の終わりのことを思うことさえしなかった。
8 だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住む女よ。心の中で、『私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくてすむ』と言う者よ。
9 子を失うことと、やもめになること、この二つが一日のうちに、瞬く間にあなたのところにやって来る。あなたがどんなに多く呪術を行っても、どんなに呪文の力が強くとも、これらは突然あなたを見舞う。
10 あなたは自分の悪に拠り頼み、『私を見ている者はいない』と言う。あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。『私だけは特別だ。』
11 しかし、わざわいがあなたを見舞う。それを払いのける呪文をあなたは知らない。災難があなたを襲うが、あなたはそれを避けることができない。破滅は知らないうちに、突然あなたにやって来る。
12 さあ、若いときからの使い古しの呪文や多くの呪術を使って立ち上がれ。あるいは役立つかもしれない。脅かすことができるかもしれない。
13 助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。さあ、天を観測する者、星を見る者、あなたに起こることを新月ごとに知らせる者を立たせて、あなたを救わせてみよ。
14 見よ。彼らは刈り株のようになり、火が彼らを焼き尽くす。彼らは自分のいのちを炎の手から救い出すこともできない。これは身を暖める炭火でもなく、その前に座れる火でもない。
15 あなたが若いときから仕え、取り引きしてきた者たちは、このようになる。彼らはそれぞれ自分勝手に迷い出る。あなたを救う者は一人もいない。」

ゴスペルハウス礼拝では、毎週詩篇をみんなで輪読しています。
詩篇を味わうときには、出エジプトとバビロン捕囚を知ることで、理解も味わいも深くなります。
今週は、イザヤ書のバビロン捕囚の記述の中から、「あなたの中のバビロンとイスラエル」というテーマで、御言葉を開きましょう。

捕囚については、学校の歴史の授業でも習いますので、少し知っておきましょう。
紀元前722年:北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、捕囚されました(アッシリア捕囚)。
この後、アッシリアの混血政策のため、サマリア人と呼ばれる人たちが生まれました。
紀元前597年、586年:バビロンのネブカデネザル王の2回の捕囚で、南王国ユダが滅ぼされます(バビロン捕囚)。
学校で習うバビロン捕囚の理由は、南王国ユダがエジプトと結んでバビロンに対抗しようとしたこととなっています。
聖書の記す理由は、ユダが、本当の神様を捨て、律法を破ったことです(エレミヤ16:10-13など)。
それで、神様がバビロンを使って、ユダを攻めたのです。
紀元前539年:ペルシアの王キュロスがバビロンを滅ぼし、エルサレムへの帰還が始まる。

イザヤは、紀元前745~680年頃に活動した、バビロン捕囚よりも100年以上前の預言者です。
イザヤ書は、全部で66章、詩篇の次に章が多い書簡です。
66章すべてが、イザヤが神様から与えられ残した言葉という立場の人もいます。
そうではなく、1-39章までがイザヤで、40-66章までを第二イザヤとし、別の記者という立場の人もいます。
1-39章までがイザヤで、40-55章までを第二イザヤ、56-66章までを第三イザヤという立場の人もいます。

どの立場によるとしても、次の箇所(イザヤ13:17-19)は、イザヤ本人のものです。
17 見よ、わたしは彼らに対してメディア人を奮い立たせる。彼らは銀をものともせず、金さえ喜ばず、
18 その弓は若者たちを撃ち倒す。彼らは胎の実さえあわれまず、子どもたちにさえあわれみをかけない。
19 こうして、諸王国の誉れ、カルデア人の輝かしい誇りであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼしたときのようになる。
メディア人(のキュロス王)が、バビロンを滅ぼすと、150年以上前に記しているのです。
神様から与えられた言葉です。

「あなたの中のバビロン」
バビロンは、ユダ王国を神様に取り戻すために、ユダ王国が悔い改めるために、神様に用いられました。
しかし、バビロンは勘違いをしてしまいました。
神様に守られ、神様の民、神様の国とされていたユダを滅ぼしたからです。
「私だけは特別だ」(8,10節)とありますが、他の訳では次のように表現されています
「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもない」(口語訳)
「わたしだけ わたしのほかにはだれもいない」(新共同訳)
「私だけがいる。私のほかに誰もいない」(聖書協会共同訳)
これらは、神様が神様自身を示す場合の表現です。
イザヤ書45:5,6,18,21にもある通りです。

強さが正義に、勝利が正しさの証拠のようになり、バビロンは神様と並ぶものになろうとしました。
そして、そのようになったと勘違いしました。
神様の言葉より自分の言葉、神様の知恵より自分の知恵、神様の計画より自分の計画です。
12星座による星占いはバビロン発祥だそうですが、そのような占いや呪文やまじないを重視しました。
神様を脇に追いやって、神様を下に敷いて、自分中心の、自分上位の考えになったのです。

こんな思い、こんな状態、あなたの中にもありませんか。
それが、あなたの中のバビロンです。
神様の言葉を静まって聞くより自分の心の声を聞き、神様の御心よりも自分の思いを優先する。
心の中の悲しみや怒り、憎しみやねたみ、高慢や自己卑下、欲望や不足感、それらに振り回されているとも知らずに、優先する。
当時のバビロンと同じように、いえ、それ以上に、情報が溢れている現代で、「助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。」(13節)のです。

自分に都合のいいように聖書の言葉を使って、自分も他人も惑わせてしまう。
自分の成功のために、神様を利用する。
神様のわざを、自分の手柄にしてしまう。
あなたの中のバビロン、まったく無いとは、だれも言い切れないのではないでしょうか。

本物の神様を、あなたの神様にできない状況は、滅びを招きます。
まだよちよち歩くこともできない赤ちゃんが、すべての世話を拒否するようなものです。
あなたは、神様に取り戻してもらう必要があるのです。

あなたの中のバビロンを認め、神様の前にさらけ出し、神様によって、神様に遣わされるあなたのためのキュロス王によって、あなたの中のバビロンを滅ぼしてもらわなければならないのです。
さもないと、「「彼らはそれぞれ自分勝手に迷い出る。あなたを救う者は一人もいない。」(15節)となってしまいます。

「あなたの中のイスラエル」
6節に、「わたしの民」「わたしのゆずりの民」とあります。
聖書協会共同訳には「私のものである民」とあります。
神様を裏切り、偶像に仕え、神様を捨てたイスラエル(南王国ユダ)の民に対して、バビロンの手に一時渡したとは言え、神様はまだ自分の民と言うのです。

実に、出エジプトの時からすでに、イスラエルの民は、神様を裏切り続けていました(申命記9:4-6)。
出エジプトの彼らの中にも、すでにバビロンがあったのです。
にもかかわらず、神様は愛し、救おうとします。
神様は、そんなイスラエルの民を、手放すことも見捨てることもしないのです。
イザヤ46:3-4に、次のようにあります。
3 ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。
4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。

「生まれる前から」「白髪になっても」というのは、「ずっと」ということです。
何ができてもできなくても、何かやらかしてしまっても、神様は愛するのです、手放さないのです、見捨てないのです。
そのために、その裏切りを贖うために、その溝を埋めるために、身代わりになって罪を負い、十字架にかかったイエスさまがいるのです。
イスラエルは、神様に愛され、神様に赦され、どんな犠牲を払ってでも取り戻したい宝物なのです。

そして今、イエスさまの十字架は、あなたのための十字架です。
あなたも、神様の宝物、あなたの中にイスラエルがあるのです。
あなたは、神様に愛され、赦され、受け入れられているのです。

あなたの中に、バビロンがあります。
自分中心で、自分勝手で、すべてを支配したくなり、自分が正しいと主張するバビロンです。
あなたの中に、イスラエルがあります。
不完全で不従順な時があっても、イエスさまの十字架によって赦され、神様の愛する宝物とされたのです。

あなたの中のバビロンにとどまらず、あなたの中のイスラエルを生きましょう。
あなたの中のバビロンを認め、神様に対する罪や人間関係で起こした問題を素直に告白しましょう。
あなたのために十字架にかかったイエスさまの愛を受けて、愛された者としての、赦された者としての、あなたを取り戻すのです。
それが、あなたの本当の生き方なのですから。

あなたのためにお祈りします。


【参考聖書箇所】
エレミヤ16:10-13
10 「あなたがこの民に、このすべてのことばを告げるとき、彼らがあなたに、『何のために、主は私たちに、この大きなわざわいを語られたのか。私たちの咎とは何か。私たちの神、主に対して犯したという、私たちの罪とは何か』と尋ねたら、
11 あなたは彼らにこう言え。『あなたがたの先祖がわたしを捨て──主のことば──ほかの神々に従い、これに仕え、これを拝み、またわたしを捨てて、わたしの律法を守らなかったことだ。
12 さらに、あなたがた自身が、自分たちの先祖以上に悪事を働き、しかも、見よ、それぞれ頑なで悪い心のままに歩み、わたしに聞かないでいる。
13 それで、わたしはあなたがたをこの地から放り出し、あなたがたも先祖も知らなかった地に行かせる。あなたがたは、そこで昼も夜も、ほかの神々に仕える。わたしはあなたがたに、いつくしみを施さない。』

イザヤ45:5,6,18,21
5 わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。
6 それは、日の昇る方からも西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。
18 天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住む所として形造った方、まことに、この主が言われる。「わたしは主。ほかにはいない。
21 告げよ。証拠を出せ。ともに相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。

申命記9:4-6
4 あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私をこの地に導き入れ、所有させてくださったのだ」と言ってはならない。これらの国々の邪悪さのゆえに、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。
5 あなたが彼らの地を所有することができるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心が真っ直ぐだからでもない。これらの国々の邪悪さのゆえに、あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また主があなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。
6 知りなさい。あなたの神、主は、あなたの正しさゆえに、この良い地をあなたに与えて所有させてくださるのではない。事実、あなたはうなじを固くする民なのだ。


ゴスペルハウスメッセージ 2023.09.16
「エペソでのイエスさまの名」使徒19:8-20

8 パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、人々を説得しようと努めた。
9 しかし、ある者たちが心を頑なにして聞き入れず、会衆の前でこの道のことを悪く言ったので、パウロは彼らから離れ、弟子たちも退かせて、毎日ティラノの講堂で論じた。
10 これが二年続いたので、アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた。
11 神はパウロの手によって、驚くべき力あるわざを行われた。
12 彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを、持って行って病人たちに当てると、病気が去り、悪霊も出て行くほどであった。
13 ところが、ユダヤ人の巡回祈祷師のうちの何人かが、悪霊につかれている人たちに向かって、試しに主イエスの名を唱え、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。
14 このようなことをしていたのは、ユダヤ人の祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。
15 すると、悪霊が彼らに答えた。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。」
16 そして、悪霊につかれている人が彼らに飛びかかり、皆を押さえつけ、打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家から逃げ出した。
17 このことが、エペソに住むユダヤ人とギリシア人のすべてに知れ渡ったので、みな恐れを抱き、主イエスの名をあがめるようになった。
18 そして、信仰に入った人たちが大勢やって来て、自分たちのしていた行為を告白し、明らかにした。
19 また魔術を行っていた者たちが多数、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を合計すると、銀貨五万枚になった。
20 こうして、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていった。

今回の聖書箇所は、パウロの第3回の伝道旅行でのできごとです。
これまでの2回の伝道旅行で伝道した信徒たちを力づけるために、パウロは出発したのです(使徒18:22-23)。
そして、エペソの町につきました。
魔術の書物のことをエペソの書物というくらいに、エペソは魔術が盛んな土地でした。
また、アルテミス神殿で有名な町で、そのことが、後々、パウロへの迫害にも繋がります
パウロはエペソに3年間滞在し(使徒20:31)、神の国について、イエスさまの十字架について、伝え続けました。

ここから、「エペソでのイエスさまの名」というテーマで、御言葉を開きましょう。

パウロはすばらしい大伝道者で、力強い信仰に立った、異邦人のための使徒です。
キリスト教会のスーパースターと言ってもいいでしょう。
しかし、彼は人間で、完璧だったわけではありません。

第一回の伝道旅行でリステラにいたときには、自身が神様だと誤解されてしまいました(使徒14:12)。
彼が、何か悪いことを言ったわけではありません。
ただ、伝えるべきことが足りなかったのです。
伝えるべきポイントを押さえ切っていなかったのです。
それで、誤解されてしまったのです。
まるで、熱心だけれども、どうにも下手な授業をする、残念な先生のようです。
先週お話した、第二回伝道旅行のアテネ(使徒17章)では、パウロの賢さと技術と心配りが全開の説教で、伝道が実りませんでした。

それで、パウロは反省をこめて、イエスさまの十字架のほかには、何も知るまいと決心したのです(1コリント2:2)。
何も知るまいということは、イエスさまの十字架のほかには、何も語らない、何も伝えないということです。
その結果、エペソの伝道では、パウロを通して神様が驚くべき力あるわざを行われたのですが、だれもパウロをあがめることはありませんでした。
きっと、パウロがいつも「イエスさまの名によって」と、言い続けていたのでしょう。
13節で、巡回祈祷師たちが試しに主イエスの名を唱えるほど、エペソの町に浸透していたのです。
アルテミス神殿の偶像があふれるエペソにあっても、パウロの手ぬぐいも前掛けも、偶像化されなかったのです。
パウロではなく、手ぬぐいや前掛けでもなく、「イエスさまの名には、力がある」と、エペソの人はわかったのです。
これが、第一のポイントです。

第二のポイントは、「イエスさまの名は、呪文ではない」ということです。
パウロの華々しい働きを見て、祭司長スケワの七人の息子も、悪霊に対して、イエスさまの名を唱えてみました。
彼らは「巡回祈祷師」と書かれていますが、口語訳では「まじない師」、新改訳第3版では「魔よけ祈祷師」とあります。
拝み屋、呪術師と言ってもいい人たちです。
パウロの働きを見て、同じようにイエスさまの名を唱えたら、もっと簡単に稼げると思ったのでしょうか。
イエスさまの名を、自分たちに都合のいい呪文のように、彼らは使おうとしました。

ところで、聖書は、まじないや呪文を禁じています。
申命記18:10-12に、こうあります。
10 あなたのうちに、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、
11 呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死者に伺いを立てる者があってはならない。
12 これらのことを行う者はみな、主が忌み嫌われるからである。これらの忌み嫌うべきことのゆえに、あなたの神、主はあなたの前から彼らを追い払われるのである。
こうなると、祭司長スケワの七人の息子というのも、信じていいものかどうか怪しくなってきます。
自分たちの権威をつけるために、祭司長スケワという名前を勝手に名乗っているような気もしますね。

彼らがイエスさまの名を呪文代わりに使った結果、悪霊に逆襲されて、逃げ出す羽目になります。
ハリー・ポッターなどの魔法使い物語では、魔法使いの血(血統)と、正しい呪文があって初めて力を発揮します。
実は、イエスさまの名にも、血が必要なのです。
それは、ユダヤ人としての血統のことではありません。
イエスさまの十字架の血があって初めて、イエスさまの十字架の血潮を浴びて初めて、力を発揮するのです。
「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく」(マタイ7:21)という、イエスさまの言葉は、まさに、彼らのような人たちのことでしょう。

ところで、ここで一つ覚えてほしいことがあります。
それは、「あなたの名前は、知られていて、記されている」ということです。
悪霊は、「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。」(15節)と言いました。
霊的な存在である悪霊が、神様のひとり子であるイエスさまを知っているのは、当然です。
では、パウロはなぜ、知られているのでしょうか。
パウロが、伝道を頑張っているからでしょうか。
パウロが、聖書をしっかり理解して読んでいるからでしょうか。
パウロが、熱く祈っているからでしょうか。
どれも、違います。

昨日、結といっしょに、子ども聖書クイズをしました。
三択問題です、一緒にチャレンジしてみましょう。

問題)せいしょには、きみたちが悪いことをしてしまったとき、そのことを反省して「あることをすればゆるされます」と書いてあります。
そのあることとは、なんでしょうか。
1: まい日、おいのりをする。
2: まい日、せいしょを読む。
3: 「イエスさまが、わたしたちをすくってくれた」 としんじる。

もちろん、答えは3番です。
そして、これが悪霊がパウロを知っていた理由です。
イエスさまを救い主として受け入れたから、イエスさまの十字架の血潮で赦されたから、パウロはいのちの書に記されているのです。
悪霊はそれを知っていたからこそ、ニセモノの祭司長スケワの七人の息子を襲ったのです。

そして、イエスさまの十字架の血潮で赦されたあなたも、いのちの書に記されているのです。
パウロに与えられた、イエスさまの名の現実は、あなたの人生においても実現するのです。

第三のポイントは、「イエスさまの名には、愛と覚悟がある」ということです。
イエスさまの名の力を目の当たりにしたエペソの人たちは、イエスさまの名をあがめ、十字架の救いを受け入れました。
罪を告白し、魔術の書物(エペソの書物)を、焼き捨てたのです。
「その値段を合計すると、銀貨五万枚になった。」(19節)とありますが、この銀貨がデナリ銀貨だとすると、5万日分の給金になります。
5万日とは約160年です。
日給を1万円とすれば、5億円ということになります。
もし、デナリ銀貨ではなくスタテル銀貨だとすれば、その4倍です。
それくらいの価値のある書物が、燃えて灰になったのです。
もったいないと思いますか?

実は、イエスさまが十字架にかかる1週間前にも、同じようなできごとがありました。
ヨハネ12:3-5です。
3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
5 「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

イエスさまは、このマリアの行為を、責めてはいけないと言い、マリアのするがままにされました。
イエスさまは、マリアの愛と覚悟に、まっすぐに答えたのです。
部屋中に、香油のすばらしい香りが満ちました。

エペソの書物を焼き捨てたのも、愛と覚悟です。
売り払ったら、お金になるのは分かっています。
それは、イエスさまの十字架の救いを受け入れた彼らの、だれにも魔術に頼らせたくないという愛です。
また、二度と絶対に魔術に戻ってくることはないという覚悟です。
愛と覚悟を持って、スッパリと、きっぱりと、手放して焼き捨てたのです。
そのエネルギー源は、愛と覚悟を持って、救いのために、神様のひとり子という立場も、いのちさえも捨てたイエスさまの十字架です。
書物を燃やした煙は、煙たくて目にしみるものだったでしょう。
しかし、神様にとっては、香油と同じようにすばらしい香りだったのです。

あなたにも、手放さなくちゃいけないものがあるなら、イエスさまの名によって、愛と覚悟を持って手放しましょう。
それは、憎しみですか、赦せない心ですか、高慢ですか、自己卑下ですか、承認欲求ですか、自己顕示欲ですか、悲しみですか。
それとも、金銭ですか、地位ですか、どんな欲ですか。
それは、イエスさまの名を生きること、イエスさまの愛を生きること、イエスさまの赦しを生きることより、大切なものですか。
そんなことはないでしょう。
マリアにできたことは、エペソの人たちにできたことは、あなたにできないなんてことは、ありません。
そして、スッキリ、さっぱりとした、新しいいのちを生きるのです。

「イエスさまの名には、力がある」
「イエスさまの名は、呪文ではない」
「イエスさまの名には、愛と覚悟がある」
エペソでのイエスさまの名は、そのまま、あなたの人生でのイエスさまの名です。
だって、「あなたの名前は、知られていて、記されている」のですから。

あなたのために、お祈りします。


【参考聖書箇所】
使徒
18:22 それからカイサリアに上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてからアンティオキアに下って行った。
18:23 パウロはアンティオキアにしばらく滞在した後、また出発し、ガラテヤの地方やフリュギアを次々に巡って、すべての弟子たちを力づけた。

20:31 ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。

14:12 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人だったことから、パウロをヘルメスと呼んだ。

1コリント
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。

マタイ
7:21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
7:22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
7:23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

ゴスペルハウスメッセージ 2023.09.10
「パウロの賢さ・パウロの愚かさ」使徒17:22-34

22 パウロは、アレオパゴスの中央に立って言った。「アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。
23 道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。
24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。
25 また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。
26 神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。
27 それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。
28 『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。
29 そのように私たちは神の子孫ですから、神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません。
30 神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。
31 なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」
32 死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った。
33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。
34 ある人々は彼につき従い、信仰に入った。その中には、アレオパゴスの裁判官ディオヌシオ、ダマリスという名の女の人、そのほかの人たちもいた。

第2回伝道旅行でテサロニケに行ったパウロたち。
そこでは、十字架も復活も信じようとしないユダヤ人からのねたみや憎しみ、そしていのちの危険が生じました。
それで、テサロニケから80kmほど離れたベレアへとパウロたちは移動し、そこで宣教をしていました。
しかし、そこまで、テサロニケからの追跡があり、パウロは300kmほど離れたギリシアのアテネに避難したのです。
現在でもギリシアの首都であるアテネですが、古くから、哲学・文学・芸術・知恵の中心地でした。

アテネには偶像があふれ、憤りを感じたパウロは、会堂や広場で、イエスさまと復活を毎日論じ合いました。
ギリシア人の知らない神について語っているパウロは、好奇心や向学心に旺盛なギリシア人の興味を引きました。
「イエスとは?」「復活(アナスタシス)とは?」知らない神がいるなら、知っておきたい、拝んでみたい。
そう考えたギリシアの人たちが、パウロをアレオパゴスに連れて行きました。
アレオパゴスは丘で、法定や評議会に利用されることもある場所です。
パウロの話をじっくり聞くには、地理的にも規模としても、もってこいの場所です。
そこでパウロが語った説教が、今回の聖書箇所です。

ここから、「パウロの賢さ・パウロの愚かさ」というテーマで、御言葉を開きましょう。

このパウロの説教は、パウロの賢さ・知識・テクニックがしっかりと詰め込まれています。
「あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々」(22節)は、聴衆であるアテネの人たちに好意を示す導入です。
「知られていない神に」(23節)」は、アテネの人たちの宗教好意を肯定し、聞く人たちの知識欲をそそります。
24-26節で、聖書を知らないアテネの人たちに対して、創造主・いのち・恵みを、端的に説明します。
「私たちは神の中に生き、動き、存在している」「私たちもまた、その子孫である」(ともに28節)でギリシアの詩人の言葉を引用し、ギリシア人が受け入れやすい工夫があります。
パウロの知識・心配り・テクニック・事前準備、すべてがパウロのすばらしい賢さを示しています。
そのうえで、パウロはイエスさまの復活を語ったのです。

もう、大リバイバルが起こるに違いありません。
大伝道会になり、多くの実が結び、アテネに何軒もの教会が建設されてもおかしくはありません。
しかし、それらはなにも起きませんでした。
ある人たちはあざ笑い、ほかの人たちは「また今度」と去って行ったのです。
冷たい反応です。
芸人さんの舞台でたとえるなら、「すべった」「大すべりした」とでも言えるでしょう。

アレオパゴスで大々的に説教したのに、アテネの人々のために知恵や知識を尽くして語ったのに。
残ったのは、あざ笑いと、無関心だったのです。
結果から見るなら、失敗と言っていいものでした。

なぜ、パウロの説教は失敗したのでしょう。
理由は何だったのでしょう。
「きっかけが、偶像だらけのアテネに対する怒りだったから」
「シラスモテモテも来ていないうちに(彼らはまだべレアにいた)、ひとりで伝道したから」
「アテネの人たちに、合わせすぎたから」
様々な意見があるでしょう。

しかし、根本的な問題は「パウロの賢さ」だったのだと思うのです。
パウロは、アテネの人たちに受け入れてもらえる工夫として、ギリシア詩人の言葉を使い、聖書のダイジェストをしました。
ギリシア人にわかりにくい復活については、最後に語ることにしました。
そして、髪のひとり子の十字架については、省略したのです。
これらすべては、パウロの賢さから出たものです。
そして神様は、伝道を実らせませんでした。
あざ笑われ、去って行かせたのです。
パウロは再びのチャレンジをすることなく、アテネを離れ、コリントに行きます(使徒18:1)。

パウロの賢さが原因だということは、パウロ自身も気がついています。
奇しくも、アテネのあとに行ったコリント人への手紙の中で、パウロは、このときのことを回想しています。
1コリント2:1-5を読んでみましょう。

1 兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。
2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。
3 あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。
4 そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。
5 それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。

賢さで伝道せず、イエスさまの十字架のほかには、なにも知らないと決心したのです。
「あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。」とあるのは、アテネのできごとで、打ちひしがれたパウロの姿です。

コリント人への手紙には、他にも「愚か」という言葉が何回も使われています。
「それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。」(1コリント1:21)
この言葉に代表されるように、神様の言葉の妨げになるパウロの賢さを、捨てたのです。
捨てたうえで、コリントで腰を据えて伝道したのです。
その結果、コリントに教会ができました。

パウロの賢さは、救いを伝えられませんでした。
しかし、パウロの愚かさは、はっきりと、救いを、永遠のいのちを、完全な赦しを伝えたのです。
哲学も文学も、歴史や経済の知識も、テクニックや心配りも、救いは伝えません。
そんな賢さにこだわっていたら、まわりの人も救われないし、あなたの信仰も不自由で苦しいものになってしまいます。
十字架につけられたイエスさま、ただこれだけ、愚かなまでにただこれだけにとどまることが、伝道であり、信仰なのです。

あなたの賢さは、だれも救いません。
あなたの愚かさが、他人を救い、あなたを救うのです。

人間は、不完全で弱い存在です。
つい、賢さをひけらかして、あざ笑われてしまうこともあるでしょう。
そんな失敗、これまでに何度も体験した人も多いのではないしょうか。
しかし、そこにもイエスさまがいるのです、大丈夫!

聖書には、イエスさまが笑ったという記述はありません。
イエスさまと一緒にいる人が、にこやかに笑ったという記述もありません。
イエスさまを「あざ笑った」人たちだけが、記されているのです(参照:ルカ8:53、16:14、23:35)。
あなたは、どんなときも、イエスさまに見捨てられることはないのです。

あなたの賢さにとらわれたままにならないで、イエスさまと一緒に、あなたの愚かさに戻りましょう。
神様から与えられた愚かさは、あなたの希望であり、あなたの信仰なのです。
そして、救いの喜びを、十字架の愛を、たっぷりと味わいましょう。

あなたのためにお祈りします。


【参考聖書箇所】
Ⅰコリント
1:18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
1:21 神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、
1:27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
3:18 だれも自分を欺いてはいけません。あなたがたの中に、自分はこの世で知恵のある者だと思う者がいたら、知恵のある者となるために愚かになりなさい。
4:10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。

ルカ 
8:53 人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。
16:14 金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。
23:35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」


ゴスペルハウスメッセージ 2023.09.02
「絶望・誤解・喜び」使徒16:20-34

20 そして、二人を長官たちの前に引き出して言った。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町をかき乱し、
21 ローマ人である私たちが、受け入れることも行うことも許されていない風習を宣伝しております。」
22 群衆も二人に反対して立ったので、長官たちは、彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じた。
23 そして何度もむちで打たせてから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。
24 この命令を受けた看守は、二人を奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめた。
25 真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。
26 すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。
27 目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
28 パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。
29 看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。
30 そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
32 そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。
33 看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。
34 それから二人を家に案内して、食事のもてなしをし、神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ。

パウロの第2回伝道旅行は、1回目に訪問した信徒たちを再訪するのが、パウロたちの当初の目的でした。
しかし神様は、パウロがマケドニアに行くように招きました(使徒16:9-10参照)。
それは、ヨーロッパに福音が伝わるという、大きな新しい一歩への招きでした。
パウロは、神様からの招きのとおりにマケドニアへ行き、大都市ピリピで占いの霊につかれた女奴隷からその霊を追放しました。
すると、占いによって金儲けしていた人たちから憎まれ、訴えられ、きちんとした裁きも受けずにむち打たれ、牢に入れられたのです。

神様は、全知全能で、何でもできます。
サタンも、悪霊たちも、ほとんど何でもできます。
ただ、目的がまったく違うのです。
神様は、人間を愛するがゆえに、その力をあらわします。
それに対し、サタンは、人間を神様から引き離すために、その力を発揮するのです。

パウロとシラスが牢に入れられ賛美していると、大きな地震が起き、すべての囚人が解放されてしまいます。
看守はあわてて、剣で自殺しようとしますが、パウロが止めました。
囚人たちは、だれも逃げていなかったからです。
そして、看守とその家族は、パウロからバプテスマを受けました。
パウロがバプテスマを授けた、数少ないケースです(1コリント1:14-17参照)。

この箇所から、「絶望・誤解・喜び」というテーマで、御言葉を開きましょう。

第一のポイントは、「神様の前に、絶望は無力」ということです。
パウロとシラスは、福音伝道の妨害をした占いの霊を追い出しました。
そのことで、利権を失った人たちに憎まれて、むち打たれて、牢に入れられ、足かせと鎖に繋がれました。
普通に考えて、絶望していい場面です。
伝道旅行のはずが、牢屋に閉じ込められているのですから。
しかし神様は、大きな地震を引き起こしてまで、2人を助け出します。

また看守は、囚人を逃してしまったら、責任を問われます。
それは、逃げた囚人が受けるべき罰を身代わりに受けるというものだったそうです。
すべての牢屋が開け放たれてしまったのですから、すべての足かせと鎖も解けてしまったのですから、逃げた囚人の身代わりをすべてしようとすれば、とてつもない罰になります。
自殺したくなるような絶望に、看守は襲われたでしょう。
しかし神様は、囚人を1人も逃しませんでした。
看守が責任に問われることはないのです。
絶望の淵にいた看守は、生きていていいんです。
それどころか、バプテスマを授けられ、永遠のいのちまで手に入れたのです。

人間の目から見たら、どうしようもない大きな絶望も、出口の見えないトラブルも、真っ暗闇に見える状況も、神様の前には、無力なのです。
パウロとシラスや看守だけでなく、自分ではどうすることもできない絶望から、神様によって助け出された人は、いくらでもいます。
過去も、今も、これからも、それは増えていくことでしょう。
絶望が千差万別なのですから、そこから救い出された証しも、幾万とあるのです。
礼拝の証詞などで聞いたこともあるでしょうし、あなたに実際に起ったこともあるでしょう。
はっきりと、「神様の前に、絶望は無力」ということなのです。

第二のポイントは、「神様の前に、誤解は無力」ということです。
看守が「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」(30節)と言った時の「救い」と、パウロとシラスが「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(31節)と言った時の「救い」は、まったくの別物です。
看守は、囚人が逃げないで、自分の責任が問われないで、自殺しないで済むことを救いと考えています。
それに対してパウロとシラスは、イエスさまの十字架による救いという返事をしているのです。
しかし神様は、それらの食い違いや誤解を超えて、本当の救いと喜びを看守に与えました。
(これは、ゴスペルハウスの聖書解釈なので、異論のある人もいるでしょうが)

これは、現在でも同じです。
あなたが教会に行くことになったきっかけは、立派なものでしたか。
あなたがバプテスマを受ける決心をしたときには、完全な福音理解がありましたか。
少なくとも、私はそうではありませんでした。
しかし神様は、そんな誤解や欠けがあっても、本物の救いを、イエスさまの十字架により正真正銘の贖いを、永遠のいのちを、あなたに与えたのです。
誤解も不十分も、神様の愛の力、イエスさまの十字架の救いの力の前には、まったく無力なのです。

ちなみに、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(31節)は、あなたの信仰が、あなたの家族の救いを約束するものではありません。
家族を代表してとか親族を代表してとかではないのです。
人間は、一人ひとり、神様に出会い、救われるのです。
看守が、救い主を信じたら、看守が救われる。
家族のうちの1人が、救い主を信じたら、その人が救われる。
救いは、団体責任ではないのです(申命記24:16、エレミヤ31:29-30参照)。

第三のポイントは、「神様にあって、喜びは無敵」ということです。
パウロとシラスは、牢の中で賛美を歌っていました(25節)。
それは、賛美をしたら、神様が助けてくれるからでしょうか。
いいえ、違います。
それは、囚人たちに悔い改めを勧めるためでしょうか。
いいえ、違います。
看守の心を開いて、待遇改善を求めるためでしょうか。
いいえ、違います。
彼らは、ただ神様を喜び、賛美していたのです。

看守や家族は、神様を喜びました(34節)。
それは、神様を喜んだら、パウロたちも喜んで、囚人たちを逃げないようにしてくれるからでしょうか。
いいえ、違います。
彼らは、本当の救いを知り、それを自分のものとして受け取って、心から喜んだのです。
牢は壊れたままなのに、囚人の鎖は外れたままなのに。心から喜んだのです。

喜びは、義務ではありません。
神様が与える、あなたへのプレゼントなのです。
「いつも喜んでいなさい。」(1テサロニケ5:16)のように、聖書は何度も喜びを求めます。
ある先輩牧師によると、800回だそうです。
しかしそれは強制ではなく、命令ではなく、喜べるようにするという神様の約束なのです。
あなたは喜んでいいのです、喜べるのです、だから、喜びましょう。

「神様の前に、絶望は無力」、「神様の前に、誤解は無力」、「神様にあって、喜びは無敵」。
この3つのポイントは、今を生きるあなたにとっても、真実です。

神様を信じたって、絶望的な状況に陥ることもあります。
神様を信じたって、誤解や疎外感で苦しむこともあります。
しかし神様の前で、それらは無力なのです。
あなたは、絶望や誤解に縛られなくていいし、沈まなくていいのです。
神様に愛されているあなたに与えられる喜びは、揺らぐことはないのです。

絶望に沈ます、誤解に囚われず、神様を心から喜びましょう。
神様に愛されているあなたを、全身全霊で喜びましょう。
それが、あなたに与えられた、神様の約束なのです。

あなたのためにお祈りします。



【参照聖書箇所】
使徒
16:9 その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。

1コリント
1:14 私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。
1:15 ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。
1:16 もっとも、ステファナの家の者たちにもバプテスマを授けましたが、そのほかにはだれにも授けた覚えはありません。
1:17 キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。

申命記 24:16 父が子のために殺されてはならない。子が父のために殺されてはならない。人が殺されるのは自分の罪過のゆえでなければならない。

エレミヤ
31:29 その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。
31:30 人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。

ピリ 4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

ゴスペルハウスメッセージ 2023.08.26
「パウロの気持ち」使徒15:36-16:5

[15]
36 それから数日後、パウロはバルナバに言った。「さあ、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちがどうしているか、また行って見て来ようではありませんか。」
37 バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。
38 しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。
39 こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、
40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。
41 そしてシリアおよびキリキアを通り、諸教会を力づけた。
[16]
1 それからパウロはデルベに、そしてリステラに行った。すると、そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であった。
2 彼は、リステラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人であった。
3 パウロは、このテモテを連れて行きたかった。それで、その地方にいるユダヤ人たちのために、彼に割礼を受けさせた。彼の父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。
4 彼らは町々を巡り、エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を、守るべきものとして人々に伝えた。
5 こうして諸教会は信仰を強められ、人数も日ごとに増えていった。

今週の聖書箇所は、パウロの第2回伝道旅行の始まりの場面です。
時期としては紀元49年から51年、パウロの3回の伝道旅行のうち最大のものです。
前回の伝道の結果生まれた教会・信徒の集まりを、もう一度訪問するのが目的です。
それは、導きを与え、励ましを与え、さらなる成長を与える旅になるはずのものでした。

ところが、いきなりトラブルが発生します。
マルコと呼ばれるヨハネについて、バルナバとパウロが激しく対立したのです。
パウロは前回の旅で途中離脱したマルコを受け入れられませんし、バルナバはそんなマルコを受け入れ育てようとしたのです。
それで、パウロとバルナバは別行動、別々に旅をすることになりました。
使徒行伝は、パウロの同行者であるルカが記しているので、この先バルナバは登場しなくなります。

バルナバと別れリステラに行ったパウロは、ギリシア人の父とユダヤ人の母を持つテモテという青年を連れて行きたかったので、テモテに割礼を施しました。
このようにして、パウロの第2回伝道旅行は始まったのです。

今日はここから、「パウロの気持ち」というテーマで、御言葉を開きましょう。

パウロとバルナバの意見の対立が、別行動、伝道チームの分裂を生みました。
「その結果、伝道チームが2つに増えたのだから、よかったのだ」と言う人もいます。
しかしそれなら、教会は内部でどんどん対立し、分派し、分裂した方がよいのでしょうか。
決してそうではありません。
聖書ははっきり、ノーと言います。
ガラテヤ人への手紙第5章19-21節にある「肉のわざ」にも、「分裂、分派」が挙げられています。
テトスへの手紙第3章10節には、「分派を作る者は、一、二度訓戒した後、除名しなさい。」と記されています。
いずれも、パウロが記した手紙ですから、説得力がありますね。
「でも、この場合は、そうではなくて・・・・」と、パウロの言動を神聖化・神格化するなら、使徒行伝第14章で、パウロやバルナバを神様のようにあがめたリステラの群衆と同じです。

この分裂は、神様が引き起こしたものではありません。
「え?じゃあ、サタンが?」と思う人もいるかも知れませんが、そうではありません。
パウロの気持ち、マルコを許せないパウロの気持ち、伝道に対する強い責任感と熱意が、この分裂を生んだのです。

リステラについたパウロは、テモテに出会い、同行者・同労者にします。
テモテは、パウロにとって本当に大切で重要な弟子です。
聖書にあるパウロの手紙のうち、6つの手紙は、テモテが共同執筆者です(2コリント・ピリピ・コロサイ・1テサロニケ・2テサロニケ・ピレモン)。
また、2つの手紙は、テモテにあてて記されたものです(1テモテ・2テモテ)。
パウロが聖書に残した手紙は13通なので、そのうちの8つがテモテに関係しているものなのです。
手紙以外の実務においても、テモテは大きな役割をになっていました。

テモテは、ギリシア人の父とユダヤ人の母を持つ青年でした。
血統を重んじるユダヤ人から見たら、混血、あるいは、異邦人のような存在です。
パウロは、20歳くらいと言われたテモテに割礼を受けさせました。
それは、「その地方にいるユダヤ人たちのために」(16:3)と記されています。
第1回伝道旅行の終わった後のエルサレム会議で、あれほど異邦人に割礼は強制しないと言っていたのに、パウロはテモテに割礼を受けさせたのです。
「ユダヤ人に配慮するのも、伝道には必要だから」と言う人もいるかも知れません。
では、あなたは、伝道のために自宅に仏壇や神棚を新設しますか。
そんな人はいないでしょう。

この割礼は、神様からのものではありません。
サタンからでもありません。
パウロの気持ち、テモテを大事にしたいパウロの気持ち、ユダヤ人の攻撃からテモテを守りたいパウロの気持ちが、この割礼を受けさせたのです。

バルナバとの対立も、テモテへの割礼も、パウロの気持ちの結果です。
神様は、その状況を受け入れはしたけれども、導きはしませんでした。
導きはしませんでしたけど、受け入れてくれたのです。

「パウロがしたんだから、大丈夫・正解」とか「神様が罰していないんだから、聖い・正しい」とかではないのです。
パウロだけでなく、ペテロも、ダビデも、モーセも、アブラハムも、人間はみんな失敗することもあるのです。
みんな、不完全な弱さを持ち、不安定な気持ちを持ち、心を持っているのです。
人間は、それこそ言葉通りに人間くさい存在なのです。

それは、現在も変わりありません。
有名な牧師や伝道者が、常に正しいわけではありません。
大きな教会、祝福されているように見える教会が、いつも正義なわけではありません。
人間は不完全で、常に過ちを犯す可能性を持っているのです。

私たちは吟味する必要があります。
それが、神様からのものなのか、人間からのものなのか。
御心にかなうものなのか、そうでないものなのか。
受け入れるべきものなのか、受け入れるべきではないものなのか。

パウロはコリント人への第1の手紙第7章でこう記しています。
「すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。」(7:10)
「そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。」(7:12)
神様の言葉とパウロ自身の言葉を、はっきり分けているのです。
バルナバとのことも、テモテへの割礼も、パウロは反省していたんじゃないかと、私は思うのです。

それほどに、気持ちは人を振り回すものなのです。
イエスさまですら、十字架の前夜に、苦しみました。
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)

パウロの気持ちをこえて、神様は救いと赦しを、つまり福音を、全世界に伝えさせました。
イエスさまは、自身の気持ちをこえて、十字架上であなたのための救いを完成しました。

今、あなたに求められているのは、不安定で頼りにならない気持ちに振り回されないことです。
あなた自身の気持ちにも、まわりの人の気持ちにもです。
そして、本当の愛に、本当の赦しに、とどまることです。

いのちがけの神様の愛は、たしかにあなたのものなのです。



【参考聖書箇所】
ガラテヤ
5:19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。

使徒 
14:12 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人だったことから、パウロをヘルメスと呼んだ。

Ⅰコリ 
7:10 すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。
Ⅰコリ 
7:12 そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。


ゴスペルハウスメッセージ 2023.08.12
「キリスト教会の誕生」使徒15:1-11

1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
2 それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
3 こうして彼らは教会の人々に送り出され、フェニキアとサマリアを通って行った。道々、異邦人の回心について詳しく伝えたので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
4 エルサレムに着くと、彼らは教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられた。それで、神が彼らとともにいて行われたことをすべて報告した。
5 ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。
6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
7 多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。
8 そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。
9 私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
10 そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。
11 私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」

今日は、「キリスト教会の誕生」というテーマで、御言葉を開きます。
「あれ?キリスト教会の誕生日って、ペンテコステの日じゃなかったっけ?」と思う方もいるでしょう。
実際、毎年のペンテコステ礼拝では、「キリスト教会の誕生日」という言葉を何回も使ってきました。
たしかにあの二千年前のペンテコステの日、聖霊に満たされた弟子たちの言葉で、また、ペテロの説教を通して、三千人もの人たちが仲間に加わり、キリスト教会が誕生しました。
ただ、そこにいた人たちの多くはユダヤ人で、教会としての成り立ちとしては、「ユダヤ人の中でイエスさまを救い主と信じた人々」と言っていいものでした。
ユダヤ教の中のイエス・キリスト派的なものとも言えます。
使徒2:5-6,6:1などが、それらを示しています。

ところが、今週の聖書箇所の場面、この話し合いは「エルサレム会議(紀元49年頃)」とも言われますが、その結果、ユダヤ人だけでなく、異邦人が異邦人のまま加わることのできるキリスト教会、ユダヤ教を飛び出したキリスト教会が誕生したのです。
だから、ペンテコステの日と同じように、この日もキリスト教会の誕生日なのです。

きっかけは、パウロが伝道していたアンティオキアに、ユダヤ人信徒がやってきて、「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」(1節)と教え始めたことです。
そして、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じて、エルサレム教会の使徒たちと話し合うためにパウロたちが来たのです。

パウロたちの異邦人伝道の報告を聞いても、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」(5節)と、主張する人たちもいました。
そんな中、ペテロが異邦人への神様の招きについて、自身の体験を話します。
そして、まとめ役のヤコブが、決定を下しました。
「異邦人に割礼は強制せず、ユダヤ人の一部のルールを異邦人にも書き送る」(参照:使徒15:19-21) という内容でした。

割礼を異邦人の信徒にも強制しようとしていたユダヤ人信徒は、なぜ、そんなことをしたのでしょう。
また、少しのルールを異邦人にも課したエルサレム会議は、どんな意図があったのでしょう。

話は少し変わりますが、小学校で習う漢字は「教科書体」という書体の漢字です
ゴスペルハウスの週報も、教科書体のフォントなので、みなさもよくご存知でしょう。
小学校の漢字テストは、「はね」「とめ」などを教科書体の特徴と同じように書かなければ、正解にしてもらえません。
しかも、漢字の初心者・低学年について、やたらと厳しく採点されているような気がします。
「大」という字の最後の右へのはらいは、きちんと折り曲げないといけないとか。
「糸」という字の下の「小」の真ん中は、はねてはいけないとか。
「女」という字の「ノ」は「一」から上に突き出ていなければならないとか。
やたらと細かく、しかも、他の字体では許されているものさえ、チェックされるのです。

「それも指導です」という先生も、中にはいるでしょう。
しかし、実際の指導するための手引や通達には、別のことが書いてあります。
そこには要約すると「指導者は、教科書体の文字を教えること」そして「採点時には、他の字体や手書きと活字の違いも考慮して、広く認めること」とあるのです。
「はらい」「とめ・はね」などは、寛容に対応するとあるのです。
本質からずれない限り、一人ひとりの文字を、一人ひとりの正しさを、認めようという方針なのです。

そして、多くの先生たちは、教えるときや採点するときは厳しくしていますが、自分たちの文字(普段の板書や連絡帳などの文字)については、まったくゆるい基準で書いているのです。
本来は逆、「教える自らに厳しく、生徒の文字に寛容に」なのですが、残念なことです。

二千年前に、割礼を異邦人に強制しようとしたユダヤ人たちも同じなのではないでしょうか。
自分たちに課せられたルールを、他の人にも、特に弱い立場にいる人にも、押し付けようとしているのです。
それが、本質とは関係なくてもです。
「イエスさまの十字架が、罪の身代わりになり、贖い、赦し、救う」これが本質です。
割礼が罪を赦すわけでも、救うわけでもありません。

後輩・初心者に対する優越感、無意味なプライド、自分たちと同じになるような同調圧力。
そこには、愛はありません。
しかも、喜びもありません。
なぜなら、喜べることなら、強制するまでもないからです。
割礼の強制は、他者・弱者を愛することも、自分を喜ぶこともない人たちの行動です。
苦しみの中に、ストレスの中に、悔しさの中に、縛り付けられている人たちとも言えます。

私自身にとって、洗礼は喜びの記憶であり、解放の記憶です。
でも、他の人に強制したり、自慢したり、差別したりするものではないと思っています。
「受けてみたい」という人がいるなら喜びます。
せっかく、海のきれいな七ヶ浜に越してきたので、洗礼を受けたいという方は、ぜひご連絡ください。
でも「受けたくない」という人がいたとしても、決して、聖餐からはずしたり、ダメだなぁと思ったりはしません。

エルサレム会議では、異邦人に割礼は強制しないことに決まりました。
それは、初心者・弱者を、あなたのままで受け入れるという宣言、あなたのままで愛して受け入れるという決意です。
そして、少しのルールを異邦人にも課したのは、ユダヤ人クリスチャンへの配慮です。
それはつまり、苦しみやストレスに縛られている人たちへの愛、自分を喜ぶことができない人たちへの愛なのです。

こうして誕生したのが、異邦人を受け入れるキリスト教会です。
ユダヤ人の枠から飛び出したキリスト教会です。
そこには、無駄なプライドや、強制や、同調圧力はありません。
他者・弱者への愛、喜び、解放があり、それらはすべて、イエスさまの十字架から与えられるものです。

もし、この愛や喜びや解放が失われるなら、それは、イエスさまを脇に押しやってしまうことです。
人を愛することができない、自分を喜べない、支配したい、縛られ続けてしまう、そんなあなたがいるなら、することは一つです。
そう、あなたの真ん中に、イエスさまの十字架をすえるのです。
あなたが、イエスさまの血潮の滴る十字架のみもとに行くことです。

このいのちがけの愛をたっぷり受けて、あなたというキリストの体を、あなたというキリスト教会を、誕生させましょう。

あなたのためにお祈りします。



【参考聖書箇所】

使徒15:19-21
19 ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。
20 ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。
21 モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」

使徒
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
2:6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。

6:1 そのころ、弟子の数が増えるにつれて、ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていたからである。


坂本 秀雄 (伝道師)

Author:坂本 秀雄 (伝道師)
2003年4月に、サンパウロで産声を上げたゴスペルハウス。

20周年を期に、2023年5月、宮城県七ヶ浜町に引っ越ししました。
熱くて、楽しくて、祝福いっぱいのゴスペルハウスの礼拝は、あなたのための礼拝です。

クリスチャンでも、そうでない人にも、神様の愛は、等しく注がれています。
あなたは、神様の宝物なのです。
ゴスペルハウスで、あなたへの愛を、味わいましょう!

ゴスペルハウスは、あなたを歓迎します!