2018 / 02
≪ 2018 / 01 - - - - 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 - - - 2018 / 03 ≫

ゴスペルハウスメッセージ 2018.02.04
「子羊とあなた」レビ記4:32-35

32 もしその人が罪のためのいけにえのために、ささげ物として子羊を連れて来る場合には、傷のない雌羊を連れて来なければならない。
33 その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえをほふる場所で、罪のためのいけにえとしてほふりなさい。
34 祭司は指で、罪のためのいけにえの血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。
35 また、和解のいけにえの子羊の脂肪が取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司はそれを祭壇の上で、主への火によるささげ物の上に載せて焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために、その人が犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される。

罪の赦しを求めて神様の前に出るときに、しかも、大胆に出るときに、必要になってくるものが、いけにえです。
今週の聖書箇所は、そのことについて書かれている場面です。
罪のためのいけにえとなるささげ物は、雌やぎか雌の子羊です。
赦しを乞う人は、いけにえの頭に手を置き、自らの罪の身代わりとするのです。
そして、その子羊は、ほふられます。
この流された血が、重要なのです。

ここで一つ、確認しておきたいことがあります。
いけにえである子羊(もしくは雌やぎ)をほふるのは、だれでしょう。
「なんとなく、祭司のような気がする」と思っていた人も多かったのではないでしょうか。

しかし、33節を読んでもわかるように、いけにえをほふるのは、許しを乞う本人なのです。
「その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえをほふる場所で、罪のためのいけにえとしてほふりなさい。」(33節)

ここでほふられるのは、生きた子羊です。
ぬいぐるみでもおもちゃでもありません。
ほふられる場面には、いのちが奪われる悲鳴があります。
苦しみがあります。
においがあります。
また、断末魔の痙攣もあるでしょう。
そして、ほふっている本人は、生きた血潮を返り血として浴びるのです。
それは、いのちの温かさをもった、生きた血潮です。

他人がほふるのを、返り血も浴びず悲鳴も聞こえない場所で見るのとは、わけが違うのです。
自分の近くで、自分の手で、そのいのちの苦しみと熱を感じざるを得ない状況なのです。
これが、子羊とあなたの距離なのです。

そして、これはまさに、世の罪を取り除く神の子羊・イエスさまの十字架とあなたとの距離感なのです。

あなたの十字架は、どこにありますか。
どこか遠くの、音もにおいも熱も感じないような、風景写真のような十字架ですか。
それとも、いのちの苦しみがあり、悲しみがあり、血潮の温かさが残る、生きた十字架ですか。

今、もう一度、子羊とあなたとの距離を、位置を、関係を見直しましょう。
修正しましょう。
そして、本当の赦しの中を生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.01.27
「荒野のあなた」出エジプト 3:1-6、5:1-5

3:1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
3:2 すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
3:3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
3:4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。
3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

5:1 その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」
5:2 パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」
5:3 すると彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。」
5:4 エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロン。おまえたちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。おまえたちの苦役に戻れ。」
5:5 パロはまた言った。「見よ。今や彼らはこの地の人々よりも多くなっている。そしておまえたちは彼らの苦役を休ませようとしているのだ。」

出エジプト記のみならず、荒野という言葉は、聖書に何度も登場します。
その数およそ300回。
その中でも、出エジプト記から申命記は、荒野の記録といってもよい40年の記録です。
どれか一つくらい、「荒野記」という名前になったらいいのになんて、個人的には思うのです。

さて、荒野は、不毛、さびしい、厳しい、苦しい、何もない、つらい、というイメージを連想させやすいところです。
たしかに、人間の日常生活の面から見たら、そうかも知れません。
しかし、神様との関係で見ると、そうでは内面が浮かび上がってきます。
荒野でモーセは神様からの召しを受け、モーセに導かれたイスラエルの民は、40年間神様からの特別の扱いを受けました。
40年間毎日マナが降り、着物も履物も擦り切れることがありませんでした。
昼は雲の柱で、夜は火の柱で、神様は民を導き、外敵とは神様の力によって戦いました。

荒野は、艱難辛苦の場所というだけではないのです。

荒野は、神様からの言葉を受ける場所です。
荒野は、神様から導きを受ける場所です。
荒野は、神様の力を受ける場所です。
荒野は、神様に養われる場所です。
荒野は、神様の守りの中で生きる場所です。

荒野は、神様が用意してくれた、神様との深い交わりの舞台なのです。

クリスチャンになっても、神様信じても、すべてが成功や勝利や繁栄ということはありません。
仕事も人間関係も子育ても信仰生活も何もかもが順風満帆っていう人は、ほとんどいないでしょう。
ときには、荒野にひとりぽつんと取り残されたような、そんな状態になることもあるでしょう。
それどころか、今、荒野の中にいると感じている人もいるかも知れません。

そんなあなたに、ぜひ忘れないでいてほしいことがあります。
それは、「荒野は、あなたを裁くために備えられたものではない」ということです。

神様はあなたに、言葉をかけようとしているのです。
神様はあなたを、導こうとしているのです。
神様の力が、あなたに働こうとしているのです。
神様はあなたを、愛しているのです。

荒野の中で、あなたに注がれた神様の言葉と愛を、しっかりと受けましょう。
そして、神様の守りと導きの中で、生かされましょう。


ゴスペルハウスメッセージ 2018.01.20
「ないところにあるのが、愛」ヨハネ11:32-44

32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35 イエスは涙を流された。
36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。
38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

ベタニヤのマリタ・マリヤ・ラザロの家に、イエスさまは度々訪問しています。
今週の聖書箇所は、そのラザロの死とよみがえりの場面です。
罪から人間に与えられることになった死、そこに、いのちの王・いのちの主であるイエスさまが現れたのです。
ヨハネ福音書の中では、イエスさまが十字架に掛かる前の最後の奇蹟です。

この聖書箇所の中には、英語の聖書の中で最も短い節が含まれています。
それは35節「イエスは涙を流された。」です。
英語ではたったの2語「Jesus wept.」です。

イエスさまは、また、憤りや動揺を感じられました。
いったい、何に対して、イエスさまは涙を流し、憤りや動揺を生じたのでしょう。

それは、死に対してです。
また、死を与えることになった罪に対してです。
そして、死の力の前に、罪の力の前に、まったく無力な人間に対してです。
それゆえ、避けて通ることのできなくなった、間近に迫った十字架の死に対してです。
また、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」(37節)のような、人間の無知と無理解に対してです。
イエスさまは、これらのことに、憤り、動揺され、涙を流したのです。

「その石を取りのけなさい。」(39節)
イエスさまがこう言うと、マルタはとても正しい答えをしました。
「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」(39節)
人は死んだその日から、死んだその時から、すでに生きているものとは違った臭いを発します。
まして、4日も経っているのですから、臭くなっているのは当然です。

それが、この世での正しい法則です。
もう、死んでしまっている者は、取り返しがつかないのです。
しかし、いのちの主であるイエスさまには、いのちの法則があるのです。
これが、罪と死の法則なのです。
もう、希望はないのです。
しかし、私たちの救い主であるイエスさまには、救い主の法則があるのです。

この世の法則では「ないところ」にあるのが、本当の希望であり、本当の愛なのです。

ラザロが出てきたとき、イエスさまは、まわりの人々にこう言いました。
「ほどいてやって、帰らせなさい。」(44節)
死んだラザロが、布に巻かれているのは、当たり前のことです。
その当たり前にしばられていたラザロを、死からほどいてやって、いのちに帰らせなさいとイエスさまは言ったのです。

イエスさまは、ラザロにだけ涙しているのではありません。
あなたにも、涙を流しているのです。
あなたにも、ないところにある愛が、注がれているのです。

いま、あなたをしばりつける布を、イエスさまのいのちの法則で、救いの法則で、ほどきましょう。
そして、イエスさまのくださる、本当のいのちの中に、生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.01.14
「大胆と臆病の境界」

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、
折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ヘブル人への手紙 第4章16節(2018年 ゴスペルハウス 年間聖句 )

「大胆に」が、今年のゴスペルハウスのテーマですが、その反対の意味として「臆病」という言葉があります。
あるいは「卑怯」とも言えるかもしれません。
今週は、大胆と臆病の境界は何かということを、聖書から開いていこうと思います。

元旦礼拝のときに、「大胆」という言葉が旧約聖書には一度も出てこないとお話ししました。
しかし、大胆に生きていた人物は、何人もいます。
今日は、アブラハムを取り上げ、そこから、大胆と臆病の境界は何かということを見ましょう。

アブラハムは、75歳のときに、神様の言葉どおりに故郷を捨てて、親族を捨てて、見知らぬ土地へ旅立ちました。(参照:創世記12:4)
まさに大胆な行動です。
しかし、自分の身を守るために、妻のサラを妹だと偽りました。(参照:創世記12:13)
臆病で卑怯な行動です。
アブラハムという1人の人間の中に、大胆と臆病が共存しているのです。
この後も、彼の揺れ動きは続きます。

大胆(創世記13:9)ロトと別れ際に、好きな方を選びなさいと選択権を与える。
大胆(創世記14:15)人質になったロトの家族を救うため、四人の王の連合軍にしもべたちといっしょに戦いを挑み、勝利。
臆病・卑怯(創世記15:3)神様の約束を信じきれず、「私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と訴える。
臆病・卑怯(創世記16:3)待ちきれないアブラハム夫妻は、女奴隷ハガルによって、跡取りを得ようとする。
大胆(創世記18:32)ソドムとゴモラの赦しのために、神様に直談判する。
臆病・卑怯(創世記20:2)再び、サラを妹と偽って保身を図る。
臆病・卑怯(創世記21:11)ハガルの子イシュマエルとサラの子イサクのことについて、どうしたらいいか悩む。
大胆(創世記22:10)イサクを神様に捧げるいけにえとして、ほふろうとする。

ざっと見るだけでも、このように変遷を遂げているのです。
しかも、アブラハムには悪意も魂胆もないのに、揺れ動いてしまうのです。
ということは、大胆とか臆病とかいうのは、性格で決まるものではないようです。

では、何の条件で、大胆と臆病の境界線が引かれるのでしょうか。
ここで、人類最初の大胆と、人類最初の臆病を、見てみましょう。

人類最初の大胆は、創世記第2章25節です。
「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」

そして、人類最初の臆病は、創世記第3章8節です。
「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」

この2つのできごとの間に、何があったのでしょうか。
それは、禁じられていた「善悪を知る木の実」を食べてしまったということです。
サタンにそそのかされ、人類に、罪が入りこんだということです。

大胆と臆病の境界は、「神様の約束の中にいる」か、「自分の正しさの中にいる」かの違いなのです。
自分の正しさとは、自分への都合のよさであり、自分勝手な善悪の判断です。
これを、聖書では罪というのです。

アブラハムも、神様の約束の中に自身を置いているときには、大胆でした。
そして、自分の正しさ、都合のよさに身を置くときには、臆病で卑怯だったのです。

あなたは、罪人です。
私も、罪人です。
でも、私たちには希望があります。
神様からの解放の約束、イエスさまの十字架があるからです。

あなたは罪から解放されています。
十字架の贖いは完全なのです。
この約束の中に、あなたをとどめましょう。
そして、神様の愛の約束を全身で味わって、大胆なあなたを生きるのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.01.06
「正しさにまさるもの ---博士たちの旅---」マタイ2:9-12
 
9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。
 
東方の博士たちの旅は、知識から始まりました。
この章の1-2節には、こうあります。
1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
 
彼らは、占星術も学んでいたのでしょう。
それで彼らは、その結果を確認するために、ユダヤを訪問したのです。
そして、都エルサレムで王に謁見し、祭司長や学者たちの知識を得て、さらにベツレヘムへと旅は進んでいくのです。
知識をもとに、人との出会いと助力を得て、進められた旅。
これは、常識にかなった、すべて想定内の、そして正しい旅です。
 
ところで、聖書には博士たちは3人とは書かれていません。
また、博士たちだけで東方の国から旅を続けてきたとも書かれていません。
当時はもちろん、鉄道も自動車もないわけですから、東方の国からの旅は様々な困難があったことでしょう。
ですから、博士たちは従者や下僕を従えての、それなりに準備の整った旅ではなかったかと、私は思うのです。
あくまでこれは、想像なんですけど。
みなさんは、どう感じますか?
 
さて、正しい知識と正しい手順で進められたベツレヘムへの旅に、最後の導きが与えられます。
東方で見た星が博士たちを先導して進み、幼子イエスさまのいる所の上にとどまったのです。
これは、想定内の出来事ではありません。
超常的な、神様の導きです。
 
そして、博士たちは、神様のひとり子との出会いを果たすのです。
正しさ・想定内・常識範囲の積み重ねのうえに、さらに神様の超常的な導きがあってはじめて、私たちは神様に出会えるのです。
 
エジソンはこう言いました。
「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」
“Genius is 1 percent inspiration and 99 percent perspiration.”
努力、それは、正しさの積み上げです。
それはもちろん大切なのですが、“inspiration”がなくては、inspireがなくては、足りないのです。
inspiration(インスピレーション)は、自分の頭の中から出るものではありません。
上からの注ぎがあって、想定外の超常的な導きがあって、与えられるものなのです。
それはまるで、この博士たちの旅と同じではないでしょうか。
 
現代の私たちにも、同じことが言えます。
聖書研究や、神学の探求や、教会の歴史を学ぶことは、決して悪いことではありません。
正しいことと言ってもいいでしょう。
しかし、その延長線上にそのまま、神様との出会いはありません。
正しい聖書研究の果てに、真理との出会いはなく、救いの道も、永遠のいのちもないのです。
 
さらにもう一つ、超常的な導きが必要なのです。
それが、聖霊様の導きです。
そしてあなたは、道であり、真理であり、いのちであるイエスさまとの出会うのです。
 
博士たちは「別の道から自分の国へ帰って」(12節)行きました。
書かれてはいませんが、彼らが東方の国からエルサレムまで着た道も、最も理にかなったものだったことでしょう。
しかし、彼らは別の道を通ったのです。
それは、「夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けた」(12節)からであり、イエスさまに出会った喜びがあったからです。
彼らは、自分たちの正しさよりも、導きを選択したのです。
 
さあ、あなたの正しさにしばられず、正しさを超えて、新しい道を歩みましょう。
神様の導きは、いま、あなたの人生に用意されているのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.01.01
「元旦礼拝 ---大胆に---」
 
ですから私たちは、
あわれみを受け、また恵みをいただいて、
折にかなった助けを受けるために、
大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
ヘブル人への手紙 第4章16節
(2018年 ゴスペルハウス 年間聖句 )
 
ゴスペルハウスの2018年のテーマは、「大胆に」です。
 
私たちは、神様の前に出なくてはならないことがあります。
生きている間に体験する人もあるでしょうし、死んだ後に体験する人もいるでしょう。
でも、必ず神様の前に出なくてはならないのです。
 
さて、神様の前に出なくてはならなくなったときの、私たちの様子や心情を表すのはどんな言葉でしょう。
おずおず、びくびく、どきどき、おっかなびっくり・・・
これではまるで、校長室に呼び出された、いたずら男子中学生のようですね。
あ、私の体験ですけど。
 
なぜこんな反応になってしまうのでしょう。
それは、「隠すべきものを持っているから」です。
知られたくない、隠しておきたい、指摘されたくない、何かを持っているからです。
逆ギレも、同じような心理状態から生まれます。
 
これらは、全く大胆とはいえません。
なぜ、こんな反応をしてしまうのでしょうか。
 
次の事柄が、大きなヒントになります。
「大胆」という言葉が、聖書の中に何回出てくるかを調べてみました。
聖書の中には23回の「大胆」が書かれています。
そして、その内訳は、旧約聖書が0回で、新約聖書が23回なのです。
(新改訳聖書・坂本調べ)
 
23回の「大胆」の中には、大胆に人に語るという場面のものもありますが、それにしても対照的なデータです。
旧約聖書と新約聖書の間を分けるもの、それはもちろん、救い主イエスさまです。
救い主イエスさまがなければ、贖いの十字架がなければ、大胆はないのです。
 
あなたは、あなたの罪を、罪深さを認めることです。
それと同時に、イエスさまの十字架の赦しと贖いの完全性を認めるのです。
罪深い自分と、そこに注がれた完全な赦しとを、全身で受け止めるのです。
それを、全力で生きるのです。
そのとき、あなたは大胆に神様の前に出ることができるのです。
 
2017年は、あなたの価値を認めました。
2018年は、もう一歩先に前進しましょう。
そう、今年は「大胆の年」なのです!

ゴスペルハウスメッセージ 2017.12.31
「大晦日礼拝 ---あなたの価値---」
 
だから恐れることはありません。
あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
マタイによる福音書 第10章31節
(2017年 ゴスペルハウス年間聖句)
 
ゴスペルハウスでは2017年、「恐れない」「自己卑下に陥らない」ことを、重要なテーマにしてきました。
なぜ、恐れてはいけなくて、自己卑下してはいけないのか。
それは、あなたが「たくさんの雀よりもすぐれた者」だからです。
あなたが、価値あるものだからです。
 
さて、では、価値とは何でしょう。
聖書における価値とは、そのものを手に入れるために支払われた代価のことです。
そのものの質ではなく、支払われた代価なのです。
 
例えば、珍しい切手を購入するのに、100万円支払ったとしましょう。
このとき、この切手の価値は100万円というわけです。
たとえ額面が「10円」であっても、この切手の価値は100万円というわけです。
しかし、この10円切手を貼っただけでは、ハガキも出すことができません。
代金は100万円でも、額面(質)は10円だからです。
価値とは、質ではなく、支払われた額が問題なのです。
 
ですから、あなたの価値は、「そのままのあなたが素晴らしいから・・・」とか、「クリスチャンは立派な・・・」とか、そんなものではないのです。
あなたが価値あるのは、あなたのために支払われた代価が大きいからです。
 
あなたのために支払われた代価、それは、イエスさまのいのちです。
あなたを罪から解放するために、神様のひとり子イエスさまは、身代わりになって十字架についたのです。
これほど大きな代価が、他にあるでしょうか。
 
イエスさまの十字架によって、あなたの価値は神様のひとり子と同じ、つまり、あなたは神様の子どもとしての価値を得たのです。
あなたのために支払われた代価、イエスさまの十字架の愛の中で、神様の愛する子どもとして、これからも生きていきましょう!

ゴスペルハウスメッセージ 2017.12.24
「正しさにまさるもの(クリスマス2017)」ルカ2:1-7

1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

今年のアドベントは、「正しさにまさるもの」をテーマに、メッセージをしてきました。
正しさにまさるもの、それは、神様を喜ぶこと。
正しさにまさるもの、それは、神様の言葉を信じ、受け入れること。
正しさにまさるもの、それは、自分の正しさを捨てること。
正しさにまさるもの、それは、感情に流されないこと。

そして、クリスマスも、同じく「正しさにまさるもの」です。
正しさにまさるものを、その人生にお迎えし、受け入れたらどうなるのか。
それを、ヨセフとマリヤの体験からみていこうと思います。

ヨセフとマリヤは、自分たちの正しさを捨て、神様の言葉に生きることを選びました。
そして、身重のマリヤとともに、ヨセフは住民登録のためにベツレヘムに向かいました。
今から2千年も前のことですから、電車や車があったわけではありません。
徒歩か、馬やロバか、いずれにしても、臨月を迎える妊婦には険しい行程だったことでしょう。

神様の言葉に従い、険しい道のりを乗り越えてきた、マリヤとヨセフ。
ベツレヘムには歓迎があり、暖かい部屋と豊かな食事が用意されていても不思議ではありません。
私たちは、「神様に従順な信仰者には、苦難の先に、神様の報いがあります」と、ついつい考えがちではないでしょうか。

しかし、ヨセフとマリヤに待っていた現実は違いました。
「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(7節)
正しさにまさるものを生きているのに、居場所がなくなったのです。
そう、正しさにまさるものに生きると、この世での居場所はなくなるかもしれないのです。

正しさにまさるもの、それは繁栄や栄誉を約束するものではありません。
成功や賞賛は、得られないことも多いのです。

しかし、私たちには希望があります。
イエスさまは、この世に居場所がないところで、お生まれになったのです。
立つ瀬がないという言葉がありますが、あなたが居場所をなくしたとき、そこに神様は来てくださるのです。
あなたは、どんな状況にあっても、決して見捨てられることはないのです。
世界中の人があなたに対して無理解でも、世界中の人があなたに価値を見いだせなくても、神様はあなたを受け入れるのです。

クリスマスです。
ケーキやプレゼントもうれしいものですが、もっとうれしいものがあります。
それが、クリスマスの約束です。
あなたは、どんな時も見捨てられない。
神様は、あなたを愛しているのです。

安心して、正しさにまさるものを受け入れましょう。
正しさにまさるものに生きましょう。
クリスマスの約束は、あなたへの約束なのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.12.16
「正しさにまさるもの(アドベント第3週)」マタイ2:1-8 

1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

ヘロデ王は、悪い人、ひどい王として知られています。
たしかにこの後、ベツレヘム地方の2歳以下の男の子を皆殺しにさせたのですから、ひどい王でしょう。
その原因、その動機は、自分自身が王であり続けるということへのこだわりです。
しかし、王が王であり続けようとするのは、あたり前のことですし、ある意味正しいことともいえます。

ヘロデ王は、自分の地位・立場を脅かすものの存在に対して、驚き恐れ惑ったのです。
そして、周囲の人々は、これからヘロデ王が何をしだすのかと、恐れ惑ったのです。
ヘロデ王は、博士たちを手なづけ、だまし、その新しく生まれたというユダヤ人の王を殺そうとしました。

彼は自分自身の正しさにこだわり、正しさにまさるものに目を向けなかったのです。
自分の感情や立場の保全が、正しさよりも優先していたのです。
権力者がこのような状態では、まわりにいる人たちは大変です。

自分の気持ちや立場のために、地位や名誉を守るために、利益や優位性を保つために、正しさを曲げてウソまでつく。
これは、2000年前のヘロデ王だけのことではありません。
現代の、我が国を含む強国のリーダーたちだけでもありません。
あなたの中にもあるものなのです。

何かあったら、神様を喜ぶことも、神様を愛することも、神様を礼拝することさえできない者。
身勝手な、臆病な、ずるい人間。
正しさにまさるものを知っていながら、弱さゆえ、欲のゆえ、それを受け取ることを拒んでしまう。
私たちは、そんな自分自身を見据えなくてはならないのです。
だれか他の人のことでなく、自分自身の問題として。

しかし、こんな私たちにも希望があります。

こんな私のために、こんなあなたのために、イエスさまは生まれたのです。
立派でもなく、ずるく弱い、取るに足らない者のための救い主イエスさまのお誕生。
それが、クリスマスです。
あなたの弱さもずるさも罪をも知り、その身代わりになるためにイエスさまは来られたのです。
正しさにまさるものを見失い、迷路の中で恐れ惑っているのは、ヘロデ王だけじゃありません。
あなたが、その当事者なのです。

そんなあなたのための羊飼いが、イエスさまです。
正しさにまさるものを知っていながら、それでもはぐれてしまうあなたのために。
感情や状況に流されて、さまよってしまうあなたのために。
恐れなくてもいいものを恐れ、惑ってしまうあなたのために。
あなたの救い主がお生まれになりました。

あなたの羊飼いに導かれて、正しさにまさるものへと歩み出しましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.12.09
「正しさにまさるもの(アドベント第2週)」 ルカ1:34-38、マタイ1:18-25

ルカ1:34-38
34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

マタイ1:18-25
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

先週は、歴代誌から「正しさにまさるもの」と題し、正しさよりも神様を喜ぶことはまさるとお話ししました。
今週は、マリヤとヨセフの2人から、救い主の父母として選ばれた2人から、「正しさにまさるもの」を見ていきましょう。

主の使いが、結婚前の2人のところへそれぞれ来ました。
マリヤには目に見える形で、ヨセフには夢に現れて。
それは、処女マリヤを通してイエスさまがお生まれになるという、受胎告知でした。

それを聞いたときのマリヤの反応は、とても正しいものでした。
「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(34節)
医学的にも、だれの目にも、納得できる返答です。

また、ヨセフは、神様の前にも人の前にも正しい人でした。
彼が取るべき一番の正しさは、婚約中にもかかわらず妊娠したマリヤを非難することです。
しかし、マリヤを愛するヨセフは、その一番の正しさを捨て、「内密に去らせようと決めた」(19節)のです。
こうすることにより、マリヤは非難されることがなくなり、身勝手な離縁(婚約破棄)をしたヨセフが責められるのです。
ヨセフは愛をもって一番目の正しさを捨て、自らの犠牲をもって二番目の正しさを選択したのです。
本当に、謙虚な、謙遜な姿です。

しかし、神様からの使いの言葉は、この2人の正しさとは違ったのです。
マリヤは正しく、ヨセフは正しく愛のある人でした。
この2人に、神様はその正しさも愛も捨てさせたのです。
捨て去ることを求めたのです。

そして、マリヤとヨセフは、そうしました。
自分の正しさ、自分の愛を捨て、それにすがらず、神様の言葉を、神様の御心を受け入れたのです。
ここに信仰があります。
これこそ、本当の謙遜です、本当の謙虚です。

本当の謙遜とか謙虚というのは、他者に対して優しいとか、寛容であるということではないのです。
信仰者の謙遜とは、自分の愛も、自分の正しさも、自分の計画も、神様の御心の前で、神様の愛の前で、捨て去ることなのです。
謙遜は、人に対するものではないのです。
組織やリーダーに対するものでもありません。
本当の謙遜は、神様に対してのものなのです。

あなたの人生にも、神様からのチャレンジが、求めが、あるでしょう。
そのとき、どうしますか?
自分の正しさや、自分の愛や、自分の計画を主張しますか。
それとも、神様の言葉に従いますか。

あなたの正しさにまさる、あなたの愛にもまさる、神様の愛があります。
この愛の腕に抱かれて、生きていきましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.12.02
「正しさにまさるもの(アドベント第1週)」 歴代誌下 30:17-27

17 集団の中には、身を聖別していなかった者が多かったので、レビ人が、きよくないすべての人々のために、過越のいけにえをほふる役目につき、これを聖別して主にささげた。
18 民のうち大ぜいの者、すなわち、エフライムとマナセ、イッサカルとゼブルンの多くの者は、身をきよめておらず、しかも、しるされているのと異なったやり方で、過越のいけにえを食べてしまったので、ヒゼキヤは、彼らのために祈って言った。「いつくしみ深い主よ。このことの贖いをしてください。
19 彼らは、心を定めて神、彼らの父祖の神、主を求めたのですが、聖なるもののきよめのとおりにはいたしませんでした。」
20 主はヒゼキヤの願いを聞かれ、民をいやされた。
21 こうして、エルサレムにいたイスラエル人は、大きな喜びをもって七日の間、種を入れないパンの祭りを行なった。レビ人と祭司は、毎日、主に向かって強い調べの楽器をかなで、主をほめたたえた。
22 ヒゼキヤは、主の務めによく通じているすべてのレビ人の心に語りかけた。そこで彼らは、和解のいけにえをささげ、彼らの父祖の神、主に告白をしつつ、七日間、祝いの食物にあずかった。
23 それから、全集団は、あと七日間祭りを行なうことを決議し、喜びをもって七日間、祭りを行なった。
24 ユダの王ヒゼキヤは集団に一千頭の雄牛と七千頭の羊を贈り、つかさたちは集団に雄牛一千頭と羊一万頭を贈り、多くの祭司は身を聖別した。
25 こうして、ユダの全集団と祭司とレビ人、およびイスラエルから来た全集団、イスラエルの地から来た在留異国人、ユダに在住している者たちは、喜んだ。
26 エルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの時代からこのかた、こうしたことはエルサレムになかった。
27 それから、レビ人の祭司たちが立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まい、天に届いた。


ヒゼキヤ王は、すべてのイスラエルの民と過越の祭を行いたいと思いました。
ヒゼキヤ王の思いは、「神様に立ち返ろう!」でした。
本来、過越の祭は、第1の月の14日に行うこととされています。
しかし、準備が整わなかったため、ヒゼキヤ王たちは次の月に繰り下げて行うことにしたのです。
それほどまでに、ヒゼキヤ王はイスラエルの民に神様に立ち返ることを望んでいたのです。

そして、1月遅れの過越の祭は盛大に始まりました。
しかし、ここで、トラブルが発生したのです。
北部からの参加者たちが、過越の規則からはずれた方法で、過越のいけにえを食べてしまったのです。

ヒゼキヤは、彼らのために神様に祈りました。
「いつくしみ深い主よ。このことの贖いをしてください。
彼らは、心を定めて神、彼らの父祖の神、主を求めたのですが、聖なるもののきよめのとおりにはいたしませんでした。」(18‐19節)
彼らは赦され、いやされ、大きな喜びの中で祭は続けられました。

そして、彼らは大きな喜びの中で、もう7日間延長して祭を行うことを決議しました。
計14日間の過越の祭、エルサレムには大きな喜びがありました。

さて、ここまでが、この祭の概要です。
本来の過越の祭に比べて、次の点が変更されています。
・開催時期が違っている
・一部の人たちが、間違った様式で参加してしまっている
・開催期間が、2倍に延長されている
簡単に言えば、間違いだらけの過越の祭です。

しかし、神様はこの祭を大いに喜んでくださったのです。
「彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まい、天に届いた。」(27節)
完璧な正しさを求めるはずの神様が、間違いだらけのこの祭を喜んだのです。

正しさは、人間にとって、特にクリスチャンにとって、大切なものかもしれません。
神様の正しさを極めようと、知識や技能を身につけようとしている人たちも多いでしょう。
しかし、神様はそれよりも大切なこと、正しさにまさるものを私たちに示したのです。
それは、神様を喜ぶことです。
神様に立ち返ることです。

人間はだれでも不十分な存在です。
完全完璧な正しさなど、だれも手に入れることはできません。
ただ、正しさを超えたもの、正しさにまさるものをもつことは可能です。
心から神様を喜べばいいのです。

また、神様が私たちに示してくれた究極の愛も、正しさにまさるものでした。
神様の愛するひとり子イエスさまが、私たちの罪の身代わりになって十字架についたのです。
神様の正しさの前にあって、滅びるしかなかった私たちを救うために、イエスさまが死んだのです。
あなたに、この愛が注がれているのです。

さあ、心から神様を喜びましょう。
正しさにまさるものを持った人生がはじまります。
だれも裁くことのない人生、自分自身をも喜ぶ人生がはじまるのです。
アドベントです。
正しさにまさる究極の愛・イエスさまを、心から力いっぱい喜んでお迎えしましょう! 

ゴスペルハウスメッセージ 2017.11.26
「雲の上の空」 ピリピ4:4
4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。


喜びなさいというのは、聖書が私たちに何度も命じるすすめです。
この箇所だけでなく、何度も喜びなさいと命じられています。

テサロニケ人への第1の手紙5:16-18にも、こうあります。
16 いつも喜んでいなさい。
17 絶えず祈りなさい。
18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。


私たちは、条件さえ揃えば、喜ぶことは簡単です。
美味しいものを食べた、素敵な人に出会った、仕事がうまくいった、ほめられた等々。
しかし、聖書はそうは命じていないのです。
「いつも喜びなさい」と言うのです。

この「いつも」が、むずかしいのです。
私たちは、周りの状況とか、感情とか、いろんなことで邪魔されて喜べない時があるのです。
神様の愛はわかっているんだけど、救われたことはわかっているんだけど、でも、喜べないときもあるのです。

私は、飛行機から見る空、雲の上の空が大好きです。
雲の上の空は、いつも晴れです。
そして、地上から見るよりもずっと、青がきれいに見えるのです。
雨や曇りの日に飛行機に乗ると、飛行場でイライラ・モヤモヤすることがあります。
しかし、そんなときも雲の上まで出てしまえば、そこは青空。
それまでイライラ・モヤモヤしていたのが、バカらしくなるのです。
しかも、イライラの原因だった雲が、雲の上から見るときれいなんです。

神様と私たちとの関係も、同じことがいえます。
身のまわりの小さなことばかりに目を向けていると、それに目をふさがれてしまうと、よく見ることもできないし、苦しいし、喜べないのです。

神様によって、目をふさぐ雲の上に運んでもらうことです。
まるで、風に乗って舞い上がる鷲のように。
イザヤ書40:31には、こうあります。
「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
雲の上の空まで舞い上がったなら、今まで大きな問題と思い込んでいたことさえ、笑い話になるのです。

ここで、気をつけることが2つあります。
まず第一に、雲の上の空を見るためには、雲の中を通り抜ける必要があるということです。
雲を通り抜けるその間は、前後左右も上下も見えなくなります。
自分がどこにいるのかも、不安になるかもしれません。
しかし、そこで慌ててパニックを起こしてはいけません。
神様の腕の中に、神様の愛の中に、とどまり続けることです。

第二に、自分で羽ばたいて、自力で雲の上に行こうとしないことです。
鷲は、翼をバタバタと羽ばたいて上昇するわけではないのです。
風を受けて、上って行くのです。
「私はこんなにガンバったから・・・」という思いは、神様の愛を見失ってしまう原因になります。
あなたの人生から、神様の愛を追い出してしまうのです。
オバデヤ書1:4には、こうあります。
「あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。」

いつも青く、深く青い空に、神様によって押し上げられましょう。
雲の上の空、そこは、神様の愛のように、いつも晴れなのです。
あなたはそこで、いつも喜んでいていいのです。
あなたを悩ませた問題は、もはや、あなたを苦しませることはないのですから。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.11.18
「聞くこと」 ローマ 10:14-21

14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。
17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
18 でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」
19 でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」
20 またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。」
21 またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」

信じなくては、求められない。
聞かなくては、信じられない。
宣べ伝える人がいなくては、聞けない。
遣わされなくては、宣べ伝えられない。
実に、明快な論理ですね。

これを、信仰のステップという順に追っていくと、こうなります。
1.神様が、宣べ伝える人を遣わす。
2.福音の言葉を聞く。
3.聞いて信じる。
4.信じて、呼び求める。

1の「神様が、宣べ伝える人を遣わす」は、神様が主体です。
また、3「聞いて信じる」と4「信じて、呼び求める」は、御言葉にはいのちがあり、そのいのちが成し遂げることです。
ですから、私たち人間の側に残されているのは、2の「聞く」ということです。
もちろん、聞くことは「キリストについてのみことば」です。

さて、漫才やコントや落語などで笑うときに、2つの笑い方があります。
それは、「まわりが笑ったから、いっしょに笑う」と「聞いて面白かったから笑う」です。
言い換えれば、「よく聞きもせずに、まわりの反応にまかせる人」と「よく聞き、真剣に聞き、受け止め、吟味する人」です。
両者は、もちろん笑いのポイントも、心の動きも違ってきます。

そして、信仰生活ではこの「聞き方」が、大きな違いになってきます。
信仰の分水嶺と言ってもいいでしょう。
真剣に、まっすぐに、当事者として聞くことと、不十分で無責任な聞き方では、そのもたらす結果は自ずと違ってくるでしょう。

「牧師の説教は、信徒がほめることで伸ばす」という言葉を聞いたことがあります。
たしかにそういう側面もあるでしょう。
そして、真剣に、まっすぐに聞くことは、同じように、いえ、それ以上に語り手を伸ばすのです。
いい聞き手は、いい話し手を育てるのです。

よい聞き方の例を、ルカによる福音書から見てみましょう。
38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:38-42)

妹のマリヤは、全身を傾けて聞きました。
全身全霊をこめて聞き入っていました。
それを、イエスさまは良しとしたのです。

姉のマルタは、何も悪いことはしていません。
イエスさまをもてなすために、正しいことをしていたと言っていいでしょう。
しかし、彼女は自分の正しさを握りすぎてしまったのです。
そして、自分の正しさとマリヤの足りなさを、主張してしまったのです。
自分が主張しているうちは、聞くことは十分にはできないのです。

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」
イエスさまは、マルタを責めているのではありません。
方向転換を求めたのです。
自分の正しさを握るのではなく、神様の愛の言葉を、永遠のいのちの言葉を握りなさい。って。

これは、マルタだけに語られた言葉ですか。
いいえ、いま、あなたに語られている言葉です。
まわりに流されず、自分の正しさにより頼まず、全身全霊をこめて聞きましょう。
いのちの言葉は、また、それを宣べ伝える人は、あなたに与えられているのです。
まっすぐに、真剣に、あなたの耳で聞きましょう。
そして、そのいのちの中で、その愛の中で、あなたは生かされるのです。


ゴスペルハウスメッセージ 2017.11.11
「宮きよめ」マルコ11:15-18

15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、
16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。
17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」
18 祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。

イエスさまの「宮きよめ」の場面です。
受難週の出来事として共観福音書には書かれていますが、ヨハネ福音書には、それ以前のこととして書かれています。
内容も少し違っているので、もしかすると宮きよめは2回あったのかもしれませんね。

それはともかく、イエスさまは、神殿の異邦人の庭で大暴れです。
両替人や鳩を売る者たちは、捧げ物の売買で利益をむさぼっていました。
その利益のうちの一部は、祭司長たちにも流れていたことでしょう。
また、異邦人の庭を通路代わりにしている者たちもいました。

異邦人の庭、それは、異邦人が入ることを許されている場所です。
これより内側は、ユダヤ人の他に入ることはできません。
異邦人が神様を礼拝する場所、いわば、異邦人にとっての聖所といってもいい場所です。
そこを、金儲けのための場所や、近道にしていることへ、イエスさまが立ち上がったのです。

それは、神様への冒涜です。
また、異邦人たちの礼拝への軽視です。
ユダヤ人の異邦人への差別意識のあらわれでもあります。
イエスさまは、それを正常な状態に取り戻すために、大暴れしたのです。
これが、宮きよめ、神殿きよめ、神様の住まいのきよめです。

それに対して、祭司長、律法学者たちは、イエスさまを殺そうとしました。(18節)
捧げ物売買を通しての金儲けが、自分の利益になるからです。
異邦人を蔑むことで、自分の優越感が満足するからです。
利益と優越感が、反発のもとだったのです。

さて、現代の神様の宮はどこにあるでしょう。
神様は、どこに住まいを構えているでしょう。
それは、あなた自身です。
あなた自身が、神様の住まい、神様の宮です。
その宮は、きれいですか。

もし、あなたが望むなら、2000年前と同じようにイエスさまは「宮きよめ」をしてくださいます。
あなたという宮を、きよめてもらいましょう。
イエスさまは、もちろんそれができる方なのです。
そのままの、片付けることもきよめることもできない、あなたのままでお迎えしたらいいのです。
飾ることなく、そのままのあなたで、お迎えしたらいいのです。

「イエスさまをお迎えしたのに、来てくれない・・・」
「イエスさまは、私の宮きよめをしてくれない・・・」
そのように思う方もいるかも知れません。
それは、神様の時が、もうちょっと先なのかもしれません。

しかし、それと同時に、次のことを再確認してください。
自分の利益や、他者への蔑み、賞賛を求める心や、傲慢を守ろうとしていませんか。
それを守ろうとして、イエスさまを殺す相談をした祭司長や律法学者たちのようになっていませんか。
自分で片付けることのできない欲や優越感を、ごまかすことなく、真っ直ぐ見つめるのです。
そこを見据えて、そこを認めて、その上でイエスさまをお迎えしましょう。

自分で片付けられなくていいのです。
イエスさまの十字架は、そんな弱い者たちのものなのです。
自分の正しさを守らなくていいのです。
イエスさまの十字架以上に、私たちの正しさはないのです。
イエスさまの宮きよめを、あなたの人生に起こしてもらうのです。

イエスさまの大暴れを、愛の大暴れを、お迎えしましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.11.04
「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」 使徒 22:1-11
 
1 「兄弟たち、父たちよ。いま私が皆さんにしようとする弁明を聞いてください。」
2 パウロがヘブル語で語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。そこでパウロは話し続けた。
3 「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。
4 私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。
5 このことは、大祭司も、長老たちの全議会も証言してくれます。この人たちから、私は兄弟たちへあてた手紙までも受け取り、ダマスコへ向かって出発しました。そこにいる者たちを縛り上げ、エルサレムに連れて来て処罰するためでした。
6 ところが、旅を続けて、真昼ごろダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです。
7 私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞きました。
8 そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。』と言われました。
9 私といっしょにいた者たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした。
10 私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。』と尋ねると、主は私に、『起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる。』と言われました。
11 ところが、その光の輝きのために、私の目は何も見えなかったので、いっしょにいた者たちに手を引かれてダマスコにはいりました。
 
ダマスコ途上でのパウロの体験は、使徒行伝に3回書かれています。(第9,22,26章)
第9章は、まさにその出来事の記述で、残りの2回はパウロが語った言葉としてです。
今週の聖書箇所は、パウロが逮捕され、弁明の機会を得たときのものです。
 
3回のうち、この箇所だけが、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」(10節)というパウロの言葉が記されています。
イエスさまの言葉との対応を考えると、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」という言葉が入っていた方が、私はしっくりくる気がするのですが、真実は不明です。
 
ただ、はっきりと分かることがあります。
パウロは、常に、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」という問いを神様に向けていたということです。
パウロは、神様の導きを求めていたのです。
だからこそ、この弁明の場面で、この言葉を語ったのです。
 
神様の導きを求めること、もちろん、現代のキリスト者もすることです。
みなさんも、したことが何度もあるでしょう。
自分の知恵も力も及ばないとき、神様の導きは不可欠です。
 
さて、このように神様の導きを求め続けたパウロの生涯はどのようなものだったでしょう。
このことについては、パウロ自身が語っています。
コリント人への第二の手紙 11:23-27 です。
 
23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
 
パウロの苦労は、多かったのです。
パウロは苦しみ、迫害され、生命まで失いかけてていたのです。
これは、パウロの導きの求め方が悪かったわけでも、従い方が足りなかったわけでもありません。
神様は、あえてパウロにこのような道を与えたのです。
 
あなたの、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」はどうでしょう。
あなたが、神様の導きに求めるものは何でしょう。
成功ですか、繁栄ですか、賞賛ですか、勝利ですか。
あなたの計画を、主に叶えてもらうことですか。
それとも、主の計画を、あなたの人生に起こしてもらうことですか。
 
神様は、鉄人28号ではありません。
鉄人28号は、リモコンの操作通りに動きます。
正義の味方がリモコンを持てば、鉄人は正義の行いをします。
でも、悪の手先がリモコンを持てば、鉄人は悪の行いをするのです。
鉄人は、人格を持たないただの力、命令通りに動く機械なのです。
 
しかし、神様はただの力ではありません。
人格を持つ方です。
そして、奴隷ではなく、主権者です。
 
神様の導きは、あなたの気分を満足させるためのものではありません。
あなたの計画を遂行するためのものでもありません。
あえて、あなたに労苦を与えることもあるのです。
 
パウロに与えられた導きは、パウロに労苦を強いるものでした。
裁判も遅々として進まず、パウロは軟禁状態に置かれることになってしまいました。
しかし、そのことで、パウロはいわゆる獄中書簡といわれるものを書くことができたのです。
そして、その書簡たちは、これまでに何億人という人たちの魂に届けられ、救いに至る道、永遠の命の奥義を与えたのです。
 
いま、あなたへの神様の導きを求めましょう。
「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」
生きた神様の愛のわざの中にあって、愛の計画の中にあって、あなたの人生を、今日を、生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.10.21
「ないなら、あるなら」 1コリント 13:1-3

1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

コリント人への第一の手紙第13章は、愛の章として知られるところです。
「愛は寛容であり、愛は親切です。」(4節)の直前の箇所が、今週の聖書箇所です。

異言・預言・奥義・知識・信仰・施し・献身・犠牲、どれもすばらしいことです。
しかし、パウロはこう言うのです。
「愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」(1節)
「愛がないなら、何の値うちもありません。」(2節)
「愛がなければ、何の役にも立ちません。」(3節)

どんなにすばらしいものがあったとしても、そこにあなたの愛がないなら、無意味・無価値なのです。

しかし、ここを逆説的に言うならば、「あなたの愛があるなら、すべてはすばらしい」「愛があるなら、それは神様に捧げる価値のあるもの」ということになるでしょう。
異言・預言・奥義・知識・信仰・施し・献身・犠牲のような、いわゆる非日常的なことでなくてもです。
あなたが掃除機をかけているとき、そこを使う人への愛があるなら、それはすばらしいことなのです。
あなたがタマネギをむいているとき、遠い国の虐げられている人たちへの愛が伴うなら、それは神様に捧げる価値のあるものなのです。
あなたが、洗濯しているとき、車の運転をしているとき、買い物をしているとき、お風呂に入っているとき、その他どんなときでも、そこにあなたの愛があるなら、それは華々しい奇蹟と同じように、いえ、それ以上に値打ちのあるものなのです。
あなたの人生を、イキイキとしたものとすることでしょう。

ところが私たち人間は、一人残らず不完全な者です。
環境や状況によって、感情が振り回され、愛を注ぐことができなくなってしまうことがあるのです。
「愛があるなら、すばらしい」を知っているのに、「愛がないなら、何の値うちもありません。」を知っているのに、いえ、知っているからこそ、愛のない自分を見つけてしまうのです。

そう、あなたの愛には、限界があるのです。

しかし、私たちには希望があります。
不完全な私たちを、赦し、受け入れ、愛してくれる愛があるからです。
そう、イエスさまの十字架を通して示された、神様の無条件の愛です。
無条件の、無限の、完全な、本当の愛です。

目覚ましい奇蹟を起こしても、重い病気が癒やされても、すべての知識や栄誉を得たとしても、そこに本当の愛がないなら、無価値なのです。
それは、神様からのものではありません。
サタンの仕業です。
サタンは、本当の愛で愛することができません。
でも、それ以外のことは、なんでもできるのです。

本当の愛が、あなたの人生にあるなら、あなたの毎日にあるなら、それはあなたを本当に生かすものです。
たとえ、大きな業績を上げることができなくても、成功者とあがめられることがなくても、地味で平凡に見える毎日でも、あなたのその毎日の生活は、神様の宝物なのです。
あなたを赦し、愛し、受け入れ、揺らぐことない愛。
この愛はいま、無条件にあなたに与えられているのです。

あなたの愛でなく、イエスさまの十字架の愛を受け、その中で、宝物として生かされましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.10.15
「善を行なえ」詩篇 37:1-11

ダビデによる
1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
3 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
4 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。
7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
9 悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。
10 ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。
11 しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。


聖書は、正しい生き方や道徳を教える本ではありません。
そして、聖書のあちこちに「善を行なえ」「正しくあれ」「きよくあれ」と、書かれています。
この詩篇もそうです。
このことは、矛盾するように感じてしまう人もいるかもしれませんね。

しかし、この二つは矛盾しないのです。
なぜなら、「善を行なえ」という命令は、「できない自分を見つけるため」「できない自分を見せつけられるため」だからです。
自分自身ではどう解決しようもない罪を、きよめきれない汚れを、知るためなのです。

「正しく生きている自分がすばらしい。」
このように生きていくと、それはウソとゴマカシに埋められてしまいます。
自分の欠点が露見しないかとビクビクし、平安がありません。
そして、「ごめんなさい」と謝罪することのできない人生になってしまいます。

「正しく生きられないままの自分を、愛し、受け入れ、赦してくださる神様がすばらしい。」
このような人生には、喜びや平安や感謝が満ち溢れます。
そして、聖書が求めているのは、このような生き方なのです。
そのための、イエスさまの十字架(まさにこれが聖書の主題)なのです。

そして、私たちは「ごめんなさい」と謝ることができます。
また、祈りが生まれます。

私たちは、「イエスさまの御名」によって祈りますね。
それは、汚れと罪にまみれた自分の名では、祈るべき権利も、聞いてもらうべき価値もないからです。
イエスさまの御名、イエスさまの十字架こそが、本当の善です。
私たちのできる善など、その前にあっては、何の誇るべきところも価値もありません。
しかし、イエスさまの十字架は、だれか別の人のためのものではなく、あなたのためのものなのです。

イエスさまの十字架は、本当の善の行ないです。
それは、あなたに注がれているのです。
ただひとつ、あなたが持てる「善」は、あなたの行ないからではなく、イエスさまの行ないから与えられたものなのです。

あなた自身の善ではなく、このイエスさまの善の中に、御名の中に、十字架の愛の中に、生き続けましょう。
あなたは、その中に、とどまっていていいのです!

ゴスペルハウスメッセージ 2017.10.07
「招きとは、」マルコ 10:46-52

46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

この聖書箇所から、一年前の礼拝(2016.09.11)で「信仰とは、」というテーマでお話ししました。
信仰とは、「イエスさまをただ一つの持ち物にする生き方」です。
というのが結論でしたね。
前回の礼拝のペテロと同じことです。
今週はここから、「招きとは、」というテーマでお話ししたいと思います。

神様の招きとは、神様の招きを受ける条件とは何でしょう。
このように考えると、私たちは次のような間違った状態に陥ってしまいがちです。
他の人の招きを見聞きして、うらやましくなってしまう。
招きのはっきりしない自分を、自己卑下したり、信仰が足りないと責めてしまう。
妬みと自己嫌悪感、しばられたくないですね。

ここに出てくる盲人バルテマイは、あわれみを求めていただけでした。
私たちが考えてしまう、立派な招きを受けるための条件など、何ももっていないのです。
イエスさまの本質を理解したわけでも、神様の愛の奥義に通じていたわけでもありません。
その人生の苦しみゆえに、逃げることのできない現実のゆえに、自分の力の足りなさゆえに、あわれみを求めていただけなのです。

バルテマイは、理解していませんでした。
バルテマイは、覚悟ももっていませんでした。
理解も覚悟もなく、ただそこに神様の招きがあったのです。
「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」(49節)

招きの主導権は、招きの主権は、神様にあるのです。
神様の時に、神様の場所で、神様の目的をもって、神様の方法で、招きがあるのです。
しっかり理解したからとか、覚悟が決まったらとか、苦しみや悲しみが極限に達したらとかの、人間の側の決定権はないのです。
バルテマイだけではなく、あなたの人生においても同じことです。

招きは神様のものです。
あなたは何もしなくていいのです、何もできないのです。

そのままのあなたの今に、現実に、痛みに、傷に、苦しみに、神様の招きが来るのです。

その時、あなたに求められるのが信仰です。
そう、「イエスさまをただ一つの持ち物にする生き方」です。
バルテマイは、彼の唯一の財産というべき上着を脱ぎ捨てて、イエスさまの招きに従いました。
目が見えてからも、上着を取りに戻りませんでした。
あなたの人生にも、脱ぎ捨てるものはいっぱいあるはずです。

あなたの信仰が招きを呼ぶのではありません。
招きがあなたの信仰を呼び起こすのです。

招きは、あなたのもとへ来ます。
いま握っているものを手放し、本物をつかみ、新しい自分を生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.09.23
「うしなって、突き破る」 使徒 3:1-10


1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
2 すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

約2000年前、イエスさまの時代の神殿は、ヘロデの神殿と呼ば
れています。
構造は、外側から、異邦人の庭・婦人の庭・イスラエルの庭・祭司の庭・至聖所となっていました。
異邦人の庭には誰でも入れますが(イエスさまの宮きよめもここです)、婦人の庭から中には、ユダヤ人しか入れません。
「美しの門」は、異邦人の庭から婦人の庭に向かう門ではないかと言われています。
足のきかない男の人は、この門のところで施しを受けて生きていました。

なぜ彼はここにいたのでしょうか。
ここにいれば、神殿に礼拝に来る信心深い人(または、それらしき人)から施しを受けやすかったのです。
また、彼はそれ以上入ることもできなかったのです。
彼は生まれつき足がききませんでした。
ですから彼は、これより奥に入ることができなかったのです。
当時のユダヤでは、罪の結果そうなったと考えられており、彼は生まれつき呪われた者とみなされていました。

足がきかないことから、彼は自分を呪われた者と考えざるを得ませんでした。
神様から祝福されていないことを受け入れるしかありませんでした
神様から自分への祝福がないものですから、他人の祝福のおこぼれで生きていくしかないと考えざるを得なくなっていました。
これらは真実ではないのですが、状況からそう考えざるを得なかったのです。

そこにペテロとヨハネがやって来て、彼はいつものように施しを求めました。
しかし、ペテロの答えは「金銭はない」(6節)でした。
目が合ったのに、この答えでは、彼はがっかりしたことでしょう。
しかしペテロは続けます。
「イエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(6節)

名前は、力と権威を表します。
人格の実在の証明でもあります。
全知全能の救い主の名前なのです。
力がないわけがありません。

「イエス・キリストの名によって、歩きなさい。」
キリストは、神様からの救い主という意味です。
歩きなさいとは、歩けない人生・呪われたと考えていた人生からの解放の言葉です。
つまり、「神様は、あなたを呪っていない」という宣言です
そして、ただ宣言するだけでなく、力あるイエスさまの名前は、このことを実現したのです。
彼は立ち上がり、歩いきました。

この瞬間、彼は2つのものをうしないました。
1つは「呪われた人生」、もう1つは「施し(生活の糧)」です。
このような状況にあって、私たちは、ついつい否定的に考えがちです。
「ああ、明日からどうやって食べていこう。施しはもうもらえないし・・・」
そして、祝福をうしなってしまいがちです。

しかし、彼は違いました。
呪われた人生からの解放の喜びが大きかったのです。
そして、イエスさまの愛に激突したからです。
愛は恐れを消します。

そして彼は、ペテロたちといっしょに神様の前に賛美しに出かけて行きました。
もちろん、美しの門を通ってです。
それは、決して通ることのできなかった門でした。
彼の人生に、今まで立ちはだかっていた門でした。
それも、開けられるはずのない門ですから、壁と言ってもいいでしょう。
彼は、イエスさまによって、それを突き破ったのです。

あなたの人生の「美しの門」、決して通ることのできない門は何ですか。
イエスさまの力ある愛を受けて、その門の向こう側へ行きましょう
人生を変えるキリストとの出会いは、あなたのために用意されています。
そのためにうしなうものは、本当のあなたの人生には必要のないものなのです。

イエス・キリストの名によって、通ることのできなかった門は、もう、あなたの前に開け放たれているのです。
さあ、喜びにあふれて、歌いながら、踊りながら、神様の前に出ましょう。
目の前の壁を、イエスさまといっしょに突き破りましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.09.17
「百人隊長の謙遜」ルカ 7:1-10

1 イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムにはいられた。
2 ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。
3 百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。
4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
5 この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」
6 イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
7 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
8 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
9 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」
10 使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。


百人隊長はローマ人、つまり異邦人、割礼のない者です。
しかし、ユダヤ人を愛し、神様を求めていました。
その隊長のしもべが病気になったので、イエスさまに助けてもらおうとしたのです。

イエスさまのもとへお願いに来たのは、ユダヤ人の長老たちでした
しかも彼らは、熱心にお願いしました。
異邦人の百人隊長は、それほどまでに、ユダヤ人からの信頼を得ていたのです。
なぜなら、彼は自他ともに認める、ふさわしい人であり、資格のある人であり、正しい人だったのです。
「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」(4-5節)

神様に対する真剣さ、熱心さ、捧げ方、仕え方も含めて、良き人と言って差し支えないでしょう。

イエスさまに使いを出し、イエスさまをお迎えするにあたって、百人隊長は自身をかえりみました。
しもべの病の重さによって、しもべへの思いやりの大きさによって、彼は自分自身をかえりみることを忘れていたのかもしれません。
そして、気がついたのです。

「私には、資格がない!」(6節参照)

ここに謙遜があります。
謙遜とは、資格のある人が、腰を低くすることではありません。
ふさわしいと思っている人が、その素振りも見せないようにすることでもありません。
そんなものは、慇懃無礼か、偽善、欺瞞です。

謙遜とは、自分にまったく資格が無いことを認めることです。
自分が、ふさわしくないものであることを認めることです。
自分の醜さや欠けや汚れを、そのまま認めることです。

百人隊長は、ふさわしくない自分を、心の底から認めました。
病に倒れたしもべへの愛のゆえとは言え、イエスさまを呼びつけたことについて恥じ入りました。
無資格な自分を、思い上がっていた自分を、そのまま認めたのです

しかし、彼は失望しませんでした。
資格がない者へ、イエスさまが注ぐ愛を信じたのです。
そこに働く、神様の力を信じたのです。
決して見捨てられることはない。
ふさわしくない者も、絶対に見放されない。
神様の愛を、絶対的に信じ、期待したのです。

ここに、信仰があるのです。
「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」(9節)

この箇所は、「権威」や「言葉」をキーワードに読み解くことも多くあります。
しかし、信仰とは、神様の権威を認めることだけじゃないんです。
神様の言葉の力を求めることだけじゃないんです。

神様の愛にふさわしくないままの自分。
欠けだらけのままの自分。
汚れたままの自分。
傷だらけの自分。
それをそのまま認め、そこにまで届く神様の愛を信頼することなのです。

家畜小屋で産声を上げたイエスさまの誕生が、それを保証します。
血を流し、つばをかけられ、嘲笑われたイエスさまの十字架が、それを保証します。
あなたは、決して見捨てられることはないのです。

強くなくっていいのです。
正しくなくっていいのです。
偉くなくたっていいのです。
ふさわしくないあなたを認めましょう。
そのあなたにこそ、注がれる愛があるのです。
ふさわしくない者にこそ、ふさわしい愛があるのです。
それが、イエスさまの愛なんです。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.09.09
「新しい皿の塩」列王記下 2:19-22

19 この町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」
20 すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。
21 エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」
22 こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。

エリシャを通して起こされた、神様の奇蹟です。
新しい皿に盛られた塩は、何の変哲もない、ただの塩です。
そのただの塩が、奇蹟の引き金になったのです。

この奇蹟は、水が癒されたという本質的な癒やしです。
ほっとするとか、のんびりするとか、なごむ等の「癒し系」「癒やされるぅ」というような気休めや感情ではありません。
現実的な本質的な癒やしです。
しかも、塩を投げ込むという超現実的な方法を通しての、現実の水の癒やしなのです。

あなたも塩です。
聖書はこう言います。
「あなたがたは、地の塩です。」(マタイ5:13)
あなたも、この水を癒やした塩のように、奇蹟の引き金になれるのです。

それは、あなたがすばらしいのではありません。
あなたは、「ただの塩」なのです。
普通の、普通すぎるくらいの、塩なのです。

塩の奇蹟の働きは、新しい器に盛られて、神様に扱われてこその働きなのです。
新しい器、それは、あなたの人生の新しい土台です。
あなたの人生の土台を据え変えましょう。

どこにあなたは置かれるのか、置かれるべきなのか。
だれに、だれの手に、だれの心に、あなたは従うのか。
その時、ただの塩のままでは予想だにできなかった大きな神様のわざが、あなたの現実のもとにあらわれるのです。

イエスさまの十字架の赦し、イエスさまの十字架の愛、イエスさまの十字架のいのちという、新しい皿の上に盛られましょう。
その新しい皿の上で、神様の御手に触れられて、あなたはミラクルな塩になるのです。

新しい皿に盛られましょう。
神様の手にゆだねましょう。
本質的な癒やしは、まず、あなたが受けるのです!

ゴスペルハウスメッセージ 2017.09.02
「区別」 レビ20:24-26

24 わたしはあなたがたに言った、「あなたがたは、彼らの地を獲るであろう。わたしはこれをあなたがたに与えて、これを獲させるであろう。これは乳と蜜との流れる地である」。わたしはあなたがたを他の民から区別したあなたがたの神、主である。
25 あなたがたは清い獣と汚れた獣、汚れた鳥と清い鳥を区別しなければならない。わたしがあなたがたのために汚れたものとして区別した獣、または鳥またはすべて地を這うものによって、あなたがたの身を忌むべきものとしてはならない。
26 あなたがたはわたしに対して聖なる者でなければならない。主なるわたしは聖なる者で、あなたがたをわたしのものにしようと、他の民から区別したからである。

今週の聖書箇所は、「区別」という言葉が一番密度高く出てくるところです。
区別というのは、境界を決めることと言いかえることができます。
「ここまで」とか「これはここ」とかですね。
また、ある事柄についての判断と言い換えてもいいでしょう。

私たちは、毎日の生活で、区別をし続けています。
それは、生きるためであり、守るべきものを守るためであります。
もし、区別や境界がなければ、私たちは振り回され、わずらわされ、悩まされ、傷つき苦しむことでしょう。

それほどに必要不可欠な区別ですが、一つ問題点があります。
それは、私たちがすべてを知ることのできない、不完全な人間ということです。
不完全な人間がする区別は、もちろん不完全です。
不十分で、不正確で、まったく当てになるものではありません。
それで、勝手で不正確な区別がなされると、そこに、争いや差別や迫害が起きてしまうのです。

正当性に欠けた区別は、正統性に欠けた区別は、区別がない時と同じように、悲劇的なのです。

ここは先程も言いましたように、「区別」が一番集まった箇所です。
この箇所から、区別の秘訣を解き明かそうと思います。

「あなたがたは清い獣と汚れた獣、汚れた鳥と清い鳥を区別しなければならない。」(25節)
ここだけ読むと、区別は人間がすべきもののように感じるかも知れません。
しかし、そうではありません。
もともと、その区別は神様がした区別だからです。
「わたしがあなたがたのために汚れたものとして区別した」(25節)

この箇所にある他の「区別」も、すべて神様のする区別です。
「わたしはあなたがたを他の民から区別したあなたがたの神、主である。」(24節)
「あなたがたをわたしのものにしようと、他の民から区別したからである。」(26節)

つまり、区別とは神様のすることなのです。
人間がすべき区別は、神様の区別を受け入れることなのです。

ローマ人への手紙第4章19節にはこうあります。
「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」
アブラハムは、自分の区別(判断)を持っていました。
百歳のアブラハムには、子をなす能力のないこと。
九十歳のサラの胎は、すでに閉じていること。
アブラハム自身の区別では、この夫婦には子どもは授からないとされていました。

しかし、彼は自分の区別ではなく、神様の区別を、神様の約束を、受け入れて生きたのです。
死んだも同然の自分と胎の死んだサラという現実に直面してもなお、神様の区別を受け入れたのです。
「だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」(ローマ4:22)

そして、今に生きる私たちも、そのようにしていいのです。
私たちは状況を見て、このように区別(判断)することがあります。
「あの人は、どうしようもない・・・」
「この状況は、絶望的だ・・・」

そんな時、一つ思い出してほしいことがあります。
それは、神様の区別です。
「神様はこの人を、どう扱うんだろう。」
「イエスさまは、この状況をどう考えるんだろう。」
あなたがひいた区別の線(境界線)を、吟味してほしいのです。

そして、「あの人」や「この状況」よりも、もっと気をつけてもらいたいことがあります。
それは、あなた自身のこと。
あなた自身についてひく、境界線についてです。
「わたしはどこにいるんだろう」
「わたしは何者なんだろう」
あなたは、きちんと区別できていますか。
自己嫌悪や高慢に陥っていませんか。
愛に不足を感じていませんか。

死んだも同然の者、死ななければならない者、そのあなたにいのちを与えた神様がいます。
あなたのいのちを贖うために、十字架にかかって死なれたイエスさまがいます。
あなたは、愛されるべき者として区別されています。
あなたは、赦されるべき者として区別されています。
あなたは、高価で貴い、神様の宝物なのです。

この区別を受け入れて生きることが、私たちの義です。
信仰者の義です。
あなたを生かす神様の義の中に、愛される者としての区別の中に、あなたは生きていいんです。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.08.19
「だれに向く」 エゼキエル 第18章 

1 次のような主のことばが私にあった。
2 「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。
3 わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。
4 見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。
(中略)
20 罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。
21 しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。
22 彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行なった正しいことのために、彼は生きる。
23 わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。
(中略)
30 それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。――神である主の御告げ。――悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。
31 あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
32 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。

『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』(2節)
「親の因果が子に報い」という日本のことわざがありますが、ユダヤでも同じように使われていることわざです。
しかし、神様は、それを明確に否定します。
「父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(4節)
「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。」(20節)
神様は、その人ひとりと、1対1の関係を望んでいるのです。

ですから、あなたの家族がどんなに立派なクリスチャンだったとしても、それだけであなたは救われません。
あなたがどんな立派な信仰生活を送っても、あなたの家族はそれだけでは救われません。
あくまで、ひとりの人間として、神様に向き合わなければならないのです。

逆に、あなたがどんな状況であっても、どんな生育履歴があっても、家族の信仰がどうであっても、神様はあなたを救うのです。
神様の愛に、そんなものは障害にならないのです。

「罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(4節)
と、ありますが、神様は悪者すら滅びることを望みません。
生きることを望み、生きることを喜ぶのです。
「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」(23節)

神様が、あなたと結びたい関係は、「裁きの関係」ではなく「赦しの関係」なのです。
「死の関係」ではなく、「いのちの関係」なのです。

神様は、だれひとり滅びることを喜びません。
「だから、悔い改めて、生きよ。」(32節)
これが、神様の願いなのです。

ここでいう悔い改めとは、方向転換することです。
「翻って生きよ」(口語訳)
「お前たちは立ち帰って、生きよ」(新共同訳)
"Therefore turn and live!"(NKJV)
 
これは、難しい宗教儀式ではありません。
向きを変えることなのです。
「裁く神様」から「赦す神様」へ。
「滅びへの恐怖」から「いのちへの希望」へ。
「掟と縛り」から「愛と喜び」へ。

神様は、何度も何度も、方向転換を求めてきました。
しかし、それでも現実に縛り付けられている罪人は、悔い改めることが、向きを変えることができなかったのです。
「私の親が・・・・」
「置かれている環境が・・・・」
「だって、あの人が・・・・」

神様は、その愛を成就するために、方向転換できない人間のために、大きな犠牲を払ったのです。
それが、イエスさまの十字架です。
悔い改めできない私たちのために、神様が神様のひとり子を呪い、殺すという、大転換が起きたのです。

不完全な私たちの悔い改めは、一回きりではありません。
毎日毎日、道を踏み外してしまうわたしたちには、悔い改め・方向転換は、毎日必要なのです。
向き直る方向は決まっています。
イエスさまの十字架です。

日々、悔い改めましょう。
日々、十字架の血潮を浴びましょう。
それは、後悔や裁きのためではありません。
愛といのちと赦しを、あなたの人生に注ぐためです。

イエスさまは十字架にかかりました。
全世界の人のためではなく、ただあなたのために。
昔々の人のためではなく、今生きているあなたのために。
善良な人のためではなく、不完全なあなたのために。

十字架をほんとうに必要な罪人として、神様に向かい合って生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.08.12
「神様によって強められ」 2テサロニケ 2:16-17
 
16 どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、
17 あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。
 
テサロニケ人への第2の手紙には、4つの祈りが含まれています。
今週の聖書箇所は、そのうちの第2番目の箇所です。
 
信仰に堅く立つことへの勧めのあとに、この祈りはあります。
そう、信仰に堅く立つために必要な力は、あなた自身の力ではなく、神様の力なのです。
神様に信頼し、助けを求めるための祈りなのです。
 
そして、神さまが与えてくれるのは、「永遠の慰めとすばらしい望み」です。
慰めと望み、素晴らしいプレゼントですね。
しかし、考えてみましょう。
慰めが与えられるということは、「慰めが必要な状態」ということです。
望みが与えられるということは、「望みが不足している状態」ということです。
つまり、苦しみの中、迫害の中、悲しみの中、失望の中、ということです。
 
これは、2つのことを示しています。
第一に、あなたの苦しみや失望は、そのままで終わることはない、ということです。
神さまは、苦しみにあるあなたの、苦しみの真っ只中を慰めます。
そして、失望の中に、未来への希望を与えるのです。
 
第二に、あなたに与えられた苦しみや失望は、神様からの呪いではない、ということです。
私たちは不完全な者ですから、神様の御心に100%かなうような生き方をすることはできません。
だから、人に傷つき、状況に失望するのです。
しかし、そんなあなたを、神様は決して見捨てません。
 
それは、絶えることのない永遠の約束です。
どんな状況にあっても注がれ続ける、神様からのプレゼントです。
 
マルコによる福音書の第10章を開きましょう。
13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
 
このとき、イエスさまは最後のエルサレムへ向かう途上でした。
つまり、十字架の死へ向かう道にあったのです。
イエスさまの緊張は、理由はともかく、弟子たちにも伝わっていたことでしょう。
それで、弟子たちは人々をしかったのです。
 
しかし、イエスさまは受け入れ、祝福したのです。
極限状態にあって、なおもあなたに与えられる愛。
これが、あなたに注がれる「永遠の慰めとすばらしい望み」です。
 
あなたの努力ではなく、あなたの信仰ですらなく、ただ神様のゆえに与えられるプレゼント。
この「永遠の慰めとすばらしい望み」を、あなたの人生に!

ゴスペルハウスメッセージ 2017.08.06
「いのちとちからは」使徒行伝 7:30-38 

30 四十年たったとき、御使いが、モーセに、シナイ山の荒野で柴の燃える炎の中に現われました。
31 その光景を見たモーセは驚いて、それをよく見ようとして近寄ったとき、主の御声が聞こえました。
32 『わたしはあなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。』そこで、モーセは震え上がり、見定める勇気もなくなりました。
33 すると、主は彼にこう言われたのです。『あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたの立っている所は聖なる地である。
34 わたしは、確かにエジプトにいるわたしの民の苦難を見、そのうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下って来た。さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう。』
35 『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか。』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現われた御使いの手によって、支配者また解放者としてお遣わしになったのです。
36 この人が、彼らを導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年間荒野で、不思議なわざとしるしを行ないました。
37 このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。』と言ったのです。
38 また、この人が、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会において、生けるみことばを授かり、あなたがたに与えたのです。

使徒行伝第7章は、最初の殉教者ステパノの裁判での大演説です。
信仰の祖アブラハムからはじまって、モーセ、ダビデと、ステパノのメッセージは展開されていきます。
今週取り上げた箇所は、モーセの箇所の一部ですが、ぜひ全文をお読みください。

さて、ステパノが語っている相手は、ユダヤ人です。
ですから、ステパノに言われるまでもなく、アブラハムもモーセもダビデも知っています。
彼らは、旧約聖書を熟知しているのです。
その知っているあたりまえの中から、ステパノはイエスさまの愛、、イエスさまの言葉、イエスさまの力、イエスさまのいのちを語りました。

最初は、群衆はステパノを嘲笑していたことでしょう。
「イエスの弟子とやらが、どんな言い逃れをするのだ?」
「みじめに、いのち乞いでもしたらいい」
しかし、彼らには、悔い改めが必要になったのです。
もう、ステパノをバカにできなくなりました。

ステパノの語る言葉に従うか、ステパノの言葉を拒否するか。
彼らはこの二択の中で、悔い改めよりも怒りを選択しました。
そして、ステパノは石打ちにされ殉教したのです。

ステパノが語った言葉は、何の変哲もないメッセージでした。
ユダヤ人ならだれでも知っている、アブラハム・モーセ・ダビデです。
あたりまえの中のあたりまえです。
でも、そのあたりまえの中にいのちがあったのです。
あたりまえの中に力があったのです。

それが、御言葉、神様の言葉です。

あなたが福音を伝えるときも、同じことがいえます。
御言葉そのままでいいのです。
「イエスさまは、あなたのために十字架にかかりました。」
「神様は、あなたを愛しています。」
いのちも力も、御言葉が持っているのです。

世の中には、優れた語り手はたくさんいます。
到底真似出来ないような、見事な信仰生活を送っている人もいます。
数々の奇蹟を体験した証人も、枚挙にいとまがありません。

しかし、いのちはその語り手の才能の中にあるのではありません。
力は、信仰深い人の生活を源としていません。
奇蹟の体験が、あなたを贖ったわけでもないのです。

いのちも力も、御言葉の中にあるのです。
だれもが知っている、あたりまえの中にあるのです。
あなたの信仰を、あたりまえの中に戻しましょう。
そして、あなたの人生に、本当のいのちと力が、あふれますように。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.07.29
「わたしは、」創世記 24:28-38 

28 その娘は走って行って、自分の母の家の者に、これらのことを告げた。
29 リベカにはひとりの兄があって、その名をラバンと言った。ラバンは外へ出て泉のところにいるその人のもとへ走って行った。
30 彼は鼻の飾り輪と妹の腕にある腕輪を見、また、「あの人がこう私に言われました。」と言った妹リベカのことばを聞くとすぐ、その人のところに行った。すると見よ。その人は泉のほとり、らくだのそばに立っていた。
31 そこで彼は言った。「どうぞおいでください。主に祝福された方。どうして外に立っておられるのですか。私は家と、らくだのための場所を用意しております。」
32 それでその人は家の中にはいった。らくだの荷は解かれ、らくだにはわらと飼料が与えられ、その人の足と、その従者たちの足を洗う水も与えられた。
33 それから、その人の前に食事が出されたが、その人は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」「お話しください。」と言われて、
34 その人は言った。「私はアブラハムのしもべです。
35 主は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。
36 私の主人の妻サラは、年をとってから、ひとりの男の子を主人に産み、主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます。
37 私の主人は私に誓わせて、こう申しました。『私が住んでいるこの土地のカナン人の娘を私の息子の妻にめとってはならない。
38 あなたは私の父の家、私の親族のところへ行って、私の息子のために妻を迎えなくてはならない。』

創世記の第24章には、アブラハムの息子イサクの妻選びについて書かれています。
イサクの妻を探すために、アブラハムのしもべが派遣されました。
そして、神様の導きどおりに、しもべはリベカと出会ったのです。
リベカの家族に歓待されたしもべは、このように自己紹介しました。

「私はアブラハムのしもべです。」(34節)

彼は自身について、これ以上のことを語りません。
私は、これはすばらしいことだと思います。
彼には、これ以上に、この他に、誇るべきものがないのです。
これ以外に、表すべき関係もないのです。
彼にとって、「アブラハムのしもべ」であることは、ただ一つの確固たる立場であり、土台なのです。
他の人の了承も協力も承認も必要ない、彼の存在の基盤なのです。
アブラハムと彼との、1対1の信頼すべき、信用すべき、大切な関係なのです。

では、あなたはどうでしょう?
あなたの、誇るべきものはなんですか。
あなたの、人生の土台はなんですか。

私の場合を紹介しましょう。
私と妻が結婚する前、結婚するなどと思ってもいなかった頃のことです。
妻は、私が言った一言に心を乱されていました。
私は言ったことすら忘れていたのですが、彼女の心にスパッと切り込んだ言葉だったのです。

それは、
「ボクは神様の一人っ子」

彼女も当時すでにクリスチャンでしたから、「私だって神様の子どもなのに、何でこの人は一人っ子なんて言うんだろう」と怒っていたようです。
しかし、もう一方で、「あの信仰、あの神様への信頼はどこから来るんだろう」という興味も持ったのです。
こんなことがきっかけとなって、お付き合いが始まり、結婚することができたのです。
今では彼女も、「私も一人っ子」と言っています。

私はいまでも「神様の一人っ子」で、かつ、「神様に、やたらとえこひいきされている伝道師」です。
神様との自分の関係を、神様の取り計らいを考えたとき、一人っ子で、えこひいきされているとしか思えないのです。
それほどまでに、大きな愛が、私の人生の土台です。

イエスさまはあなたに、1対1の関係を求めています。
他のだれにも干渉されない、あなたとの愛の関係を望んでいるのです。

しもべが、アブラハムの力、アブラハムの守り、アブラハムへの所属の中に自身を確立したように、あなたは、イエスさまの愛の中に、イエスさまの恵みの中に、イエスさまの赦しの中に、あなたを確立していいのです。
あなたは、神様の唯一の愛の対象に、もうすでに、なっているのです。

あなたも、大胆に自己紹介してみましょう。
「わたしは、・・・!」
続くものは、なんですか。

いま、神様の愛を受けて、あなたの存在を手に入れましょう。
そして、力強く宣言しましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.07.22
「さまよいの意味」創世記 21:8-21 

8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
9 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。
10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」
11 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。
12 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。
13 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」
14 翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。
15 皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木の下に投げ出し、
16 自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない。」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。
17 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。
18 行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」
19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。
20 神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。
21 こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。

アブラハム100歳、サラが90歳のときに、約束の子イサクは誕生しました。
しかし、神様の約束を待ちきれなかったアブラハムとサラは、サラの女奴隷ハガルによって、イシュマエルを得ていました。
サラが主導したこのことが、今回の騒動の原因と言えそうです。
今週はここから、「さまよいの意味」と題して、御言葉を開いていきましょう。

サラには、自分の言い分(正義)がありました。
私はアブラハムの本妻で、ハガルは私の奴隷である。
なのに、奴隷の子どもが私の愛するイサクと同じように扱われるなんて、許されることではない。
奴隷のくせに、イシュマエルをみごもってからというもの、態度も横柄ではないか。
追い出す以外に、解決策はない!

ハガルには、ハガルの言い分(正義)があります。
私は、主人サラに言われるがままに、アブラハムの子イシュマエルを宿し、出産したのです。
イシュマエルのほうが年齢が上なので、イサクよりもしっかりして見えるでしょう。
私たち親子に、落ち度は何もありません。

アブラハムは、イサクもイシュマエルも愛していますから、苦悩しました。
よい解決方法は見つからず、傷つけ合うのを見るのは忍びないことです。

サラやハガルに限らず、人間は、自分の正義を主張し、戦いがちなものです。
もちろん、私もあなたも例外ではないでしょう。
しかし、そのままでは、自分の正しさを主張できる者と、打ちのめされて悲しむ者が生じてしまうだけです。
勝ち負けにこだわり続ける人生、勝てば上機嫌で、負ければ絶望、なんとも不安定なものです。

ここでは、サラの主張が通り、ハガルとイシュマエルは、わずかな食料と水だけを持って、追い出されてしまいました。
神様が、アブラハムにそうするように指示したからです。

わずかな食料と水だけを持って、ハガルは荒野をさまよい歩きました。
水が尽きた時に、彼女は絶望しました。
自分も、愛するイシュマエルも、死ななければならないと覚悟しました。

その時、神様の使いが、ハガルのもとにやって来たのです。
ハガルとイシュマエルの嘆きは、神様に届いたのです。
神様は、彼女たちに水を与え、いのちを与え、祝福を与えたのです。

彼女は、さまよいました、絶望しました。
しかし、そのことには意味があったのです。
それは、彼女が神様の力に出会うためです。
神様の恵みに、出会うためです。
神様の愛に、抱かれるためです。

創世記には、これより以前に、神様からさまよいなさいと命じられた人がいます。
カイン(第4章参照)です。
神様は、さまようことを通して、カインに愛を示そうとしたのです。
しかし、彼はさまようことをせずに、ノデの地に住み着いてしまいました。
さまようべきだったカインは、さまよえなかったのです。
愛に触れるはずだったカインは、愛を感じることができなかったのです。

ハガルは、カインのように適当な地を見つけて住み着くという力もありませんでした。
だから、自分自身に絶望するしかなかったのです。
だから、神様の言葉と力にすがるしかなかったのです。

あなたの人生にも、さまよわなければならないことがあるかもしれません。
あなたの正義を打ち砕かれて、悲しみとともに追い出されることもあるでしょう。
だれにも理解してもらうこともなく、居場所のない孤独も経験するかもしれません。
しかし、覚えていてください。
それは、神様の裁きのときではないのです。
あなたのさまよいは、絶望への一里塚ではないのです。

あなたは、見捨てられてはないのです。
さまよいの中で、痛みと孤独の中で、神様の愛に出会いましょう。


さまよい、それは、神様の愛と力が、あなたの人生に与えられるためのステージです。
無理解と孤独、それは、神様の恵みにあなたが出会うためのステップです。
さまよいや孤独の原因が、あなた自身にあるように感じても、その機会をも神様は用いるのです。


ゴスペルハウスメッセージ 2017.07.16
「あなたの花」創世記 18:20-33
 
20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。
21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。
23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」
26 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」
29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」
30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」
31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」
32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
33 主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。
 
みなさんは、信仰生活の「松竹梅」を知っていますか。
もともと松竹梅には、上下関係はないそうですが、鰻丼などは松・竹・梅の序列がありますね。
信仰生活にも、同じように松竹梅があるのです。
 
「梅」の信仰とは、『うめえ話ばかり求める信仰』です。
仕事が成功しますように、お金が儲かりますように、スポーツで優秀な成績になりますように・・・・
人間の欲望にはキリがありません。
そんなご利益を求める信仰は、上等とはいえません。
 
「竹」の信仰とは、『高ぇ(たけぇ)プライドに凝り固まった信仰』です。
キリスト者と異教徒をことさらに区別し、「私たちは選ばれた人。彼らは滅びゆく魂。」と定義します。
こんなプライドには、愛の香りはしませんね。
 
最も上等な「松」の信仰とは、『神様のときを、神様の言葉を、待つ(松)ことのできる信仰』です。
聖書の中の信仰の成功者たちは、ことごとく松の信仰を身につけています。
逆に、待ちきれない人たちが、ことごとく失意を味わうことになるのです。
待ち切ること、それは、信仰生活においてとても大切なことなのです。
 
しかし、待つことは実は大きなエネルギーを必要とします。
それで、人間はトラブルばかり起こしてしまうのです。
 
今週の聖書箇所のアブラハムも、待ちきれない性格でした。
神様に示された土地へ移住したら、そこに飢饉がありました。
彼はさっそく、そこから再移動してしまいます。
また、外国に行って、妻のサラの美貌のゆえに、わが身に危険が迫るのではないかと考えました。
彼はすぐさま、さらに「妹である」と嘘をつくという小細工をしました。
さらに、子どもが与えられるという約束が与えられたのに、なかなかサラは妊娠しません。
アブラハムはサラの勧めもあり、女奴隷ハガルによってイシュマエルという息子を得ました。
 
信仰の父と呼ばれるのが恥ずかしいほど、彼は待ちきれない者だったのです。
 
しかし、待ちきれない、松の信仰を得られない人には、その人ならではの花があるのです。
 
この箇所は、アブラハムが99歳の頃です。
直前の18章前半で、イサクの誕生が予告されています。
 
アブラハムは、神様からソドムとゴモラの町を滅ぼすと聞かされます。
ソドムには、甥のロトが住んでいます。
そのためもあってか、アブラハムは神様に聞きます。
「 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。」(24節)
神様は、答えました。
「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」(26節)
 
アブラハムは、聞き続けます。
「もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。」(28節)
「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」(29節)
「もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」(30節)
「もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」(31節)
「もしやそこに十人見つかるかもしれません。」(32節)
 
くどいほどの、とりなしです。
何度も何度も、神様に聞き続けるのです。
しかし、神様はそれらをすべて、よしとされました。
 
アブラハムは、待ちきれない性格なので松の信仰は得られません。
しかし、彼は別の信仰を得たのです。
それは、「菊」の人生、そう、「聞く」の人生です。
松になれない人は、その人生に、菊の花を咲かせればいいのです。
 
神様は、いま、生きています。
あなたの目の前に、生きているのです。
そして、あなたを愛し、あなたを受け入れているのです。
待ちきれないとき、あなたは、「聞く」べきです、何度でも。
神様が、それを、よしとされているのです。
 
「菊」の人生にも、注意点があります。
「神様に言うことを聞かせる」ではなく、「神様に聞く」ということです。
また、「あなたの心に聞く」ではなく、「神様の御心を聞く」ということです。
主権者は、あなたではなく、神様なのです。
 
アブラハムも、聞きました。
待ちきれないから、聞きました。
 
でも、それでいいのです。
聞くことで、あなたに与えられる役割もあるのです。
アブラハムは、ソドムとゴモラのために、とりなしをしました。
世界中で彼にだけ与えられた役割です。
待ちきれない弱さゆえの、「菊」の人生ならではの役割です。
 
「松」の人生でなくても、「菊」の人生もありなのです。
 
あなたの個性を、神様は認めています。
「松」の人生でも「菊」の人生でも、神様を主としたときに、あなたの人生は変わるのです。
あなたの心ではなく、神様の心に従うとき、
あなたの心ではなく、神様の心を待つとき、
あなたの心ではなく、神様の心に聞くとき、
あなたの人生に、神様の御業があらわれるのです。
 
何かするのではなく、「待つ」「聞く」。
そこに、あなたならではの役割があるのです。
 
あなたの花を、あなたの菊の花を、立派に咲かせるための秘訣があります。
あなたは、そのままで愛されていることを知ることです。
そのままで認められ、受け入れられていることを知ることです。
そして、その自分を生きることです。
その保証が、イエスさまの十字架です。
あなたは、神様の愛から離されることはないのです。
イエスさまの十字架によって、あなたは愛され、認められ、受け入れられるのです。
 
待ちきれない弱さの中に、菊の花、あなたの花を咲かせましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.07.08
「感情と努力」 列王記下 5:10-14 

10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。
12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」
14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

列王記下の第5章は、ナアマンのことだけが書かれていますので、ぜひ章全体を読んでいただきたいと思います。
ナアマンは、アラムの将軍でした。
彼は重い皮膚病を患っていたので、エリシャに直してもらおうとやって来ました。
財宝を携え、アラムの王の手紙を持ち、イスラエルにやって来たのです。

そんなナアマンに対してエリシャは、しもべをやってこう言わせました。
「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」(10節)
何も難しいことではありません。
しかし、ナアマンは従うことができませんでした。
簡単すぎたから従うことができなかったのです。

もっと努力を求められたら、彼の感情は満足したことでしょう。
つまりは、エリシャの対応は、ナアマンの好みに合わなかったのです。
「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。」(11節)
この言葉が、それを如実に表しています。
つまり、好き嫌いの問題と言い換えてもいいでしょう。

私が塾を経営しているとき、数学の苦手な生徒が入塾してきました。
私は彼女に、どういう分野が苦手なのかを聞き、その解決方法を与えました。
すぐさま、彼女はその単元の問題が解けるようになったのです。
「これで安心だね」と私が言うと、彼女は不安そうに答えました。
「このやり方で、学校で解いてもいいですか?」
彼女は、自分がこんな簡単にできるようになるとは思えない、もっと悩むべきと考えたのです。
これも、感情の問題です。
はじめて出会った私に対して、彼女は全幅の信頼を置くことができなかったのです。
その後、何度か授業を重ねていくうちに、彼女の感情のほつれは解けました。

私たちには、感情があります。
好き嫌いがあります。
でも、信頼していい人からの言葉は、好き嫌いを超えていいのです。
私は授業をする時に「数学キライなままでもいいよ。それでもできるようになっちゃうから」と話します。
感情を超えて、好き嫌いを超えて、現実がやって来るのです。
いうまでもなく、神様からの言葉は、私の数学の授業以上に、完全に信頼に足るものです。

こういう問いにあなたはどう答えますか。
「勉強ができるために、また、能力を伸ばすために、努力は必要か?」
ほとんどの人は、「はい、必要です」と答えるでしょう。
そこでさらに質問を続けます。
「それはだれの努力ですか?」
私の答えは、「教師(教える側)」です。
教師の工夫努力が十分ならば、授業を受ける側は容易に能力を伸ばせるのです。

こういう例ならもっと分かるでしょう。
「美味しい料理を食べるのに努力が必要なのは、料理人か食べる人か、どちらでしょう」
言うまでもなく料理人ですね。
食べる人は、ほとんど何の努力も必要ありません。

くどいようですが、さらにもう一つ。
「かつお節でダシを取るための努力は、かつお節購入前に終わっている」
比較的簡単な作業でダシを取れるかつお節ですが、その製造過程で多くの手間ひまがかけられているのです。
だから購入者は、台所で簡単な作業のみでいいのです。
努力はすでに、製造過程で終わっているのです。

上手な料理人の料理は、そのまま食べていいのです。
かつお節のダシは、何時間も煮出さなくていいのです。
自分が努力しないことについて、あなたの感情がどうであれ、好みがどうであれ、問題ではないのです。
好き嫌いを超えましょう。
キライなままでいいから、受け入れていいのです。

好き嫌いは問題ではないと言ってきましたが、1つ例外があります。
それは、神様の場合です。
神様は、全知全能ですから、その好き嫌いも完璧な好き嫌いなのです。
つまり、好きなものは好きでよいもので、嫌いなものは嫌いでなくてはならないものなのです。

神様は、罪を憎みます。
つまり、罪が嫌いなのです。
ですから、罪人は神様の国・天国に入ることはできません。
神様の好き嫌いは完璧な好き嫌いなのですから、ここは譲ることができません。

しかし、神様はそんな不完全な人間を、愛してやまないのです。

この完全で完璧な好き嫌いを満たすために必要だったのが、イエスさまの十字架です。
イエスさまの十字架によって、あなたは救われました。
イエスさまの身代わりによって、あなたは赦されました。
あなたが何の努力をしたわけでもないのにです。
あなたの感情や好き嫌いにかかわらずにです。

かつお節の製造工程のように、あなたが手にする前にすべての努力は支払われているのです。
二千年前に、すでに完了しているのです。

あなたの感情や努力や好き嫌いが、問題なのではありません。
だれか他の人の感情や努力や好き嫌いが、問題なのでもありません。
神様の感情が、そして、イエスさまの努力が、あなたを神様の子としたのです。

嫌いなままでも、救われます。
受け入れられなくても、赦されています。
本物の愛は、そんなあなたに開かれているのです。

ゴスペルハウスメッセージ2017.06.25
「決意と正しさを超えるもの」 ルカ 9:57-62
 
57 さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」
58 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
59 イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
60 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
61 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
 
 
ここでは、3人の人がイエスさまと会話しています。
今日は、この箇所から、「決意と正しさを超えるもの」というテーマで、御言葉を開いていきましょう。
 
一番目の人は、強い決意を持ってイエスさまに話しました。
この箇所と同じ出来事を書いている、マタイによる福音書第8章では、この人は律法学者とされています。
「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」(57節)
 
彼の強い決意、強い決心、熱意の中に、イエスさまは報いを求める部分を見つけました。
そこで、イエスさまは答えました。
「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」(58節)
「私についてきても、人からの報いはないよ」「あなたが求める賞賛のかわりに、無理解があるよ」「あなたが期待する歓迎のかわりに、迫害があるよ」「あなたが期待に反する孤独があるよ」と、イエスさまは言っているのです。
 
決意も、決心も、熱意も、悪いものではありません。
しかし、あなたの決意やあなたの決心、あなたの熱意だけでは、乗り越えられないものもあるのです。
 
二番目の人は、正しさを持ってイエスさまと話しました。
イエスさまの「ついて来なさい」という招きに対して、彼はこう答えました。
「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」(59節)
子どもが死んだ父の葬りをするのは、当たり前の正しいことです。
 
それに対してのイエスさまの答えは、意外なほど冷たく感じるものでした。
「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」(60節)
 
イエスさまは、家族を喪った人の悲しみを無視するような方ではありません。
弔いの気持ちや、葬りの行動を否定する方でもありません。
それなのに、なぜ、このような答えをしたのでしょうか。
 
それは、この人の父親が、まだ死んでないし、死にかけてもないからです。
きっと、まったくの健康体でしょう。
イエスさまの招きに対して、すぐに従いたくないために、「子としての正しいこと」をたてにとっているだけなのです。
「父親がいるので、いま私は従いません。」という意志表示です。
 
年月が経って父親が死んだならば、きっと彼はこう言うでしょう。
「母親だけを残すわけにはいかないので・・・・」
母親も死ねば、「まだ嫁いでいない妹が・・・」「病気のおじさんが・・・」「頼りない息子が・・・・」
いくらでも、理由はできてしまいます。
それらすべてが死に絶えるまで、彼はイエスさまに従うことはありません。
「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(60節)の「死人たち」とは、「あなたが理由にしたがっている人たち」ということなのです。
 
子として、家族として、正しい(ように見える)理由をつけて、イエスさまについて行くことをやめようとしているだけなのです。
三番目の人も、まったく同様です。
 
イエスさまは、あなたを招いています。
ともに歩もうと、愛の中にいなさいと、招待しているのです。
 
しかし、過ぎた決意・決心・熱意によって、イエスさまよりも前を歩いてしまうことがあります。
他人の賞賛を得たいがために、イエスさまよりも前に出てしまうため、イエスさまには背を向けてしまうことになります。
イエスさまを見つめていないので、どこに歩んでいるのか、何をしているのか、わからなくなってしまうのです。
 
また、過ぎた正しさによって、イエスさまよりも後ろに下がりすぎてしまうこともあります。
イエスさまの背中だけは見えるのですが、イエスさまの表情が見えないので、イエスさまから愛されているという実感を得られません。
 
決意も正しさも、大切なものです。
しかし、その決意や正しさが、イエスさまとの関係を悪くするなら、つまづきの原因なら、何を求めたらいいのでしょう。
 
それは、やはり決意と正しさです。
しかしそれは、あなたの決意や正しさではありません。
イエスさまの決意や正しさなのです。
 
あなたの決意とイエスさまの決意と、どちらがあなたを救いましたか。
あなたの正しさとイエスさまの正しさと、どちらがあなたを導きますか。
言わずもがなですね。
 
では、あなたの願いとイエスさまの願いと、どちらをあなたの人生に実現したいですか。
 
あなたの生きる毎日が、神様の愛とともにありますように。
 
 
(参考:並行箇所)
マタイによる福音書第8章
19 そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」
20 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
21 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」

坂本 秀雄 (伝道師)

Author:坂本 秀雄 (伝道師)

ゴスペルハウスは、超教派のキリスト教伝道所です。
神様の愛で建てられ、神様の愛を伝えています。

2008年にブラジル・サンパウロから帰国した家族が、山形県の川西町に移住して楽しくゴスペルハウスな生活をしています。
そして今度は隣町の高畠へ引っ越しました。
どなたでもお気軽にお越しください。

ゴスペルハウスには、あなたのための席が用意されています。

01 | 2018/02 | 03
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 - - -
お気軽にお越しください。
山形県東置賜郡高畠町
安久津1070

電車でお越しの方は、高畠駅までお迎えします。

賛美・御言葉・聖餐を中心とした、明るい雰囲気の礼拝です。
はっきり言って、楽しいです。

同時間帯で、「子ども礼拝」も行なっています。
大人も子どもも、クリスチャンもそうでない方も、ぜひご一緒に集いましょう。

集会の後には、ご一緒に夕食を頂きます。
伝道師みずから、腕をふるって料理します。
おいしいですよ。(もちろん無料)