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ゴスペルハウスメッセージ 2019.02.10
「愛のための覚悟」エステル 4:10-5:8,7:1-6

4:10 エステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えた。
4:11 「王の家臣たちも王の諸州の民も、だれでも知っているように、召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、男でも女でも死刑に処せられるという法令があります。ただし、王がその人に金の笏を差し伸ばせば、その人は生きながらえます。私はこの三十日間、まだ王のところへ行くようにと召されていません。」
4:12 彼がエステルのことばをモルデカイに告げると、
4:13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。
4:14 もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」
4:15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。
4:16 「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」
4:17 モルデカイは出て行って、エステルが彼に頼んだとおりにした。

5:1 三日目になり、エステルは王妃の衣装を着て、王室の正面にある王宮の奥の中庭に立った。王は王室の入り口の正面にある王宮の玉座に座っていた。
5:2 王が、中庭に立っている王妃エステルを見たとき、彼女は王の好意を得た。王は手にしている金の笏をエステルに差し伸ばした。エステルは近寄って、その笏の先に触れた。
5:3 王は彼女に言った。「どうしたのだ。王妃エステル。何を望んでいるのか。王国の半分でも、あなたにやれるのだが。」
5:4 エステルは答えた。「もしも王様がよろしければ、今日、私が王様のために設ける宴会にハマンとご一緒にお越しください。」
5:5 すると王は「ハマンを急いで来させて、エステルの言ったようにしよう」と言った。王とハマンはエステルが設けた宴会にやって来た。
5:6 その酒宴の席上、王はエステルに尋ねた。「あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」
5:7 エステルは答えて言った。「私が願い、望んでいることは、
5:8 もしも私が王様のご好意を受けることができ、また王様がよろしくて、私の願いをゆるし、私の望みをかなえていただけますなら、私が設ける宴会に、もう一度ハマンとご一緒にお越しください。そうすれば、明日、私は王様のおっしゃったとおりにいたします。」

7:1 王とハマンは王妃エステルの宴会にやって来た。
7:2 この酒宴の二日目にも、王はエステルに尋ねた。「あなたは何を願っているのか。王妃エステル。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」
7:3 王妃エステルは答えた。「王様。もしも私があなた様のご好意を受けることができ、また王様がよろしければ、私の願いを聞き入れて、私にいのちを与え、私の望みを聞き入れて、私の民族にもいのちを与えてください。
7:4 私も私の民族も、売られて、根絶やしにされ、虐殺され、滅ぼされようとしています。私たちが男女の奴隷として売られるだけなら、私は黙っていたことでしょうが、そうはいきません。その迫害する者は、王のお受けになる損失を償うことはできないのですから。」
7:5 クセルクセス王は王妃エステルに言った。「そんなことをしようと心に企んでいる者は、いったいだれか。どこにいるのか。」
7:6 エステルは言った。「迫害する者、敵とは、この悪人ハマンです。」ハマンは王と王妃の前で震え上がった。

エステル記は、ペルシャのクセルクセス王の妃となったエステルの物語です。
たった10章の、短いお話しですから、ぜひとも全文を読んでいただきたいと思います。
聖書66巻の中にあっては珍しく、「神」「主」という言葉が一度も出てこないエステル記。
そこにある神様からのメッセージを、ともに開いていきましょう。

ユダヤ人であるモルデカイは、おじの娘であるエステルを育てることになりました。
彼らは、捕囚として連れてこられたユダヤ人たちの子孫です。

ユダヤ人は、人を拝むことがありません。
ただ、神様だけが礼拝対象だからです。
異邦人は、人をあたかも神のようにして礼拝します。
ペルシャ第2の権力者であるハマンに対して、モルデカイがひれ伏さなかったところから、トラブルが始まります。

信仰者は時として、信仰者ゆえの軋轢やトラブルに遭遇します。
それは、信仰が成長するための、力強くするための、試練かもしれません。
いずれにしても、「神様を信じたら、100%思いのまま希望が叶う」というわけではありません。

ハマンは、ユダヤ人を全滅させる、皆殺しにする法令を作りました。
まったく個人的な感情からです。

悲しみに暮れるモルデカイに、エステルは使いを送ります。
二人のやり取りの中で、モルデカイはエステルに決断を迫ります。
そして、ユダヤ人を救うために、安全な地位も、いのちをも、エステルは懸けることにしたのです。
愛のための覚悟が、ここにあります。
そして、その覚悟が、ハマンを滅ぼすきっかけ・原動力となるのです。

奇しくも今週はバレンタインデーがあります。
いまや、チョコを買って渡す儀式の日、お菓子屋さんの書き入れ時です。
たくさんのチョコレートが、スーパーやデパートにも並び、カゴいっぱいにチョコを買って、配る女性の方も多いでしょう。

しかし、私が中学生の頃には、義理チョコ友チョコなどという習慣はなく、チョコを渡す方にも、受け取る方にも、覚悟が必要とされました。
それは、愛を伝えるための覚悟であり、愛を受け取るための覚悟です。
今でももちろん、こういう覚悟のチョコレートはあるでしょうが。

自分の立場がどうなろうと、相手との関係が壊れるかも知れなくても、愛のための覚悟を持って、チョコレートを渡し、受け取っていたのです。

エステルも、自分の立場も、いのちをも、失うかも知れない覚悟を持って、愛を貫いたのです。
これは、だれのひな型でしょう?

そう、イエスさまです。
神様のひとり子という立場を捨て、呪われることを厭わず、誤解や嘲笑の中にあって、非難や迫害の中にあって、イエスさまは、あなたを赦すという愛を貫いたのです。

この覚悟の愛が、あなたに注がれているのです。
愛のための、愛を受け取るための、あなたの覚悟を、いま、決めましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.01.26
「見ているもの・見られていること」エレミヤ1:11-17
 
11 主のことばが私にあった。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」
12 すると主は私に言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」
13 再び主のことばが私にあった。「あなたは何を見ているのか。」私は言った。「煮え立った釜を見ています。それは北からこちらに傾いています。」
14 すると主は私に言われた。「わざわいが北から、この地の全住民の上に降りかかる。
15 今わたしは、北のすべての王国の民に呼びかけている。──主のことば──彼らはやって来て、エルサレムの門の入り口で、周囲のすべての城壁とユダのすべての町に向かいそれぞれ王座を設ける。
16 わたしは、この地の全住民の悪に対してことごとくさばきを下す。彼らがわたしを捨てて、ほかの神々に犠牲を供え、自分の手で造った物を拝んだからだ。
17 さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしがあなたを彼らの顔の前でおびえさせる。
 
旧約聖書の中の預言者に、神様は、何かを見せて、そして問いかけることを何度もしています。
今週の聖書箇所は、そのうちの一つですし、他にも、アモスに、ゼカリヤに、同じように神様は見せて聞きました。
 
エレミヤ 24:3 そのとき、主が私に、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いほうは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」
 
アモス 7:8 主は私に言われた。「アモス、何を見ているのか。」私が「下げ振りです」と言うと、主は言われた。「見よ。わたしは下げ振りを、わたしの民イスラエルの真ん中に垂れ下げる。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。
 
アモス 8:2 主は言われた。「アモス。何を見ているのか。」私が、「一かごの夏の果物です」と言うと、主は私に言われた。「わたしの民イスラエルに終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。
 
ゼカリヤ 4:2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「私が見ると、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があります。この上部にあるともしび皿には、それぞれ七本の管が付いています。
 
ゼカリヤ 5:2 御使いは私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「飛んでいる巻物を見ています。その長さは二十キュビト、幅は十キュビトです。」
 
神様は、その経験を通して、その人に対する計画と約束、国民に対する計画と約束、それらを見せて語ったのです。
 
これは何も、旧約聖書に限ったことではありません。
預言者だけに限ったことでもありません。
今、あなたにも起こりうる事柄なのです。
そう、神様が、あなたに見せるものがあるのです。
あなたに語りたいことがあるのです。
 
そのときに、あなたはどうしますか?
1つ目には、神様のみこころに従う、みこころに沿うという生き方があります。
2つ目には、自分が見たいように、見たいものだけを受け入れるという生き方があります。
3つ目には、他の人に自分がどう見られるかで行動を決めるという生き方があります。
(これは、他の人に対して自分がどうあるかということではなく、どう見られるかということです)
 
それぞれを言い換えれば、次のように言うこともできます。
1つ目は、神様と自分の関係を、最大の柱として生きることです。
正義と自分との関係です。
2つ目は、自分自身だけで完結する生き方です。
自分が正義という生き方です。
3つ目は、他人と自分の関係を、最大の柱として生きることです。
世間が正義の、世間体に生きるとも言えます。
 
どれを、あなたの人生の柱として、生きるかが問われているのです。
 
神様は今、あなたに何を見せていますか。
「あなたは何を見ているのか。」
これは、あなたへの言葉なのです。
様々な状況の中で、様々な関係の中で、また直接的に、幻や夢の中で、神様はあなたに見せたいものがあるのです。
あなたに与えたい、約束や計画があるのです。
 
あなたは、神様のみこころを受けて生きますか?
あなたは、自分の計画を生きますか?
あなたは、他人の目を気にして生きますか?
 
イエスさまの十字架の愛の中で、本当のあなたの生き方を、生きぬきましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.01.19
「あなたの赦しと神様の赦しと」マタイ18:21-35

21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

以前にも何回かお話したことがありますが、言葉の種類を減らすということは、曖昧さを抱えるということです。
例えば、「どうも」という言葉です。
ブラジルにいるときに、日本語を学んでいるブラジル人に指摘されたことがあります。
「『どうも』っていう日本語は、オールマイティだな。こんにちはも、さよならも、ありがとうも、ごめんなさいも、全部どうもですんでしまう。」
たしかに、その通りだと思いました。
他にも、「うそっ」とか「やばい」、「微妙」、「ふつう」など、多くの言葉を飲み込んでしまった言葉はいくつもあります。
便利なようですが、意味の深まりもなく、曖昧な言葉です。

では、それを踏まえて、質問です。
「イエスさまの十字架で救えない罪、イエスさまの十字架で赦されない罪はあるでしょうか?」

答えは「ない」です、簡単ですね。
イエスさまは、すべての人のすべての罪を身代わりに背負ったのですから。

「じゃあ、クリスチャンは殺人を犯しても、無罪なのか」とか、
「それじゃあ、警察も裁判所もいらないじゃないか」とか、
「クリスチャンなんだから、何したっていいのさ」とか、
誤解する人があるかも知れません。
しかし、もちろんそうではありません。
それは、罪という言葉を取り違えているからです、罪という言葉を曖昧にしてしまっているからです。

「聖書の言う(神様に対する)罪」と「犯罪行為」が、罪という一言にまとまってしまって、曖昧になっているからです。
私は英語は得意ではないのですが、"sin" と "crime" の違いともいえるでしょう。

では、それを踏まえて、再度の質問です。
「イエスさまの十字架で救えない罪、イエスさまの十字架で赦されない罪はあるでしょうか?」
答えは「ない」、しかあり得ません。

しかし、罪という言葉を勘違いしてしまったら、「ある」という答えになりかねません。
その結果、他の人を裁く心が生じてしまうのです。
特に、弱い人たちや少数派の人たちに対して、裁きを下すのです。
神様の心を見失ってしまうのです。
そして、状況が変わったなら、自分自身を裁かなければならなくなるのです。

このような状況を回避・克服するには、どうしたらいいでしょうか。
それは、「自分の感情」と「真実」を区別することです。
「赦せないという気持ちになるけど、神様に事実赦されている。」と認めることです。
「自分の思い」と「神様の思い」を区別することです。
「自分の正義」と「神様の正義」と言い換えてもいいでしょう。

神様が赦しているのに、自分が赦すことができない。
神様の善悪ではなく、自分の善悪が優先されてしまう。
これが罪なのです。
このとき、他の人を裁くということの、本質が変わります。
「他人の罪の問題」から「自分の罪の問題」に変わるのです。
(もちろん、犯罪行為については別です)

本当に赦されなければならないのは、だれなのか。
わからなければ、あなたは自縄自縛に陥ります。
わかったならば、十字架はあなたの人生に意味を持つものとなります。
だれかのための十字架ではなく、あなたのための十字架に変わるのです。
ただのシンボルでもアクセサリーでもない、人生の土台となるのです。

あなたの思いを、神様の思いに添わせましょう。
あなたの正義を、神様の正義にかなうものとしましょう。
あなたの赦しを、神様の赦しの深さにしましょう。

その時、神様の平安と神様の赦しが、あなたのものとなるのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.01.13
「弱い者に」ルカ16:19-22

19 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20 その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
21 彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
22 しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。

今日の聖書箇所は、イエスさまのたとえ話の冒頭です。
ですから、本来の話の本質は、この後ということになります。
しかし、貧富の差の大きかった当時としては、現実に起こりうる、また、現実に起きていた状況ともいえるでしょう。

金持ちの男は、自分の家の門前にいる貧しいラザロに無関心でした。
金持ちは、ことさら、ラザロに注意を払わなくてはならない義務はありません。
また、葬儀の手配をする義務もありません。
ラザロを知っていた他の人にしても、同じことでしょう。
そのためラザロは、だれにも葬られることなく、御使いたちによって、連れて行かれたのです。

金持ちも、まわりの人も、自分の持っている権利の上に、"正当に"乗っかっていたのです。
負わなくてもいい義務を、"正当に"免れていたのです。

私は、先日の上京の折に、ご奉仕の他に、ひとつの自分なりの目標を持っていました。
それは、「エスカレーターの右側に立ち止まって乗ること」です。
JRがアナウンスしていることもありますし、何より、幼い子ども連れや体を怪我した人などの安全のためでもあるからです。
子育て真っ最中で、なおかつ、時々松葉杖生活をしていた私には、他人事ではないからです。
(そのために、髪の毛をピンクにしたという念の入れようです)

その事を他の人に話したところ、
「今までやってたんだから、直らないっすよ。しかたないでしょ」とか、
「まあ、(勝手に)がんばって」と、反応されました。
まるっきり他人事、あるいは、既得権を侵さすなという具合です。

それはまるで、この金持ちや、イエスさまの時代の律法学者やパリサイ人と同じです。
貧しい人々、体の不自由な人々、異邦人、取税人などなど、彼らは蔑み、自らの保身をし続けてきたのです。

私たちは、そうであってはなりません。
本日交読した詩篇41篇にもこうあります。
「幸いなことよ 弱っている者に心を配る人は。わざわいの日に 主はその人を助け出される。」(詩篇41:1)
また、聖書には直接関係ありませんが、漫画家のやなせたかしさんはこう言います。
「アンパンマンは、自分の顔をちぎって人に食べさせる。
本人も傷つくんだけど、それによって人を助ける。
そういう捨て身、献身の心なくしては正義は行えない。」

なにも、それだけではありません。
なにより、イエスさまがそのようにしたのです。

罪の前に、まったく無力で、何もできない人のために。
神様のために、何も役に立つことのできない人のために。
イエスさまは、すべてを捨てたのです。
神様のひとり子という立場を捨て、権利を捨て、十字架の死に至るまで徹底的に愛を示し続けたのです。

この愛は、あなたに注がれている愛です。
この愛の中で、あなたもこの愛を生きようではありませんか。
他人事や無関心に生きるのではなく、与えられた権利にしがみつくのではなく、ほんとうの自由を生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.01.05
「門を通して見える真実」ヨハネの福音書 第10章9節

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。(ゴスペルハウス 2019年 年間聖句)

今週も、ゴスペルハウスの年間聖句からのメッセージです。
元旦礼拝では、「イエスさまは唯一つの救いの門」「その門を出入りするたびに、繰り返し確認・確信する」ということをお話しました。

先日、Q&A形式のキリスト教関係のある本を読んでいたところ、このような質問のページがありました。
問「聖書には、何が書いてあるのですか?」

さあ、あなたなら、なんと答えますか。
旧約聖書は、「人はどこから来たのか」「どう生きるべきか」「神様について」「律法」・・・
新約聖書は、「クリスチャンとは何か」「救われたものとしての生き方」「教会の歴史」・・・
いろいろなことが思い浮かぶかもしれませんね。

しかし、私はそうは思いません。
聖書に書かれているのは、「イエス・キリスト」です。
イエスさまは、神様の愛と赦しの具体的な現れです。
旧約聖書は、その到来を前もって示しています。
新約聖書は、その到来を証ししているのです。

聖書は、旧約新約合わせて66巻。
その書簡一つ一つの主題は、「神様の愛、イエス・キリスト」です。
聖書は、旧約新約合わせて1189章。
その章のそれぞれの主題は、「神様の愛、イエス・キリスト」です。
一問一答という言葉がありますが、六十六問一答、千百八十九問一答です。
そこを外して聖書を読むなら、意味がない読み方です。
そこが外れているなら、聖書ですらないのです。

年間聖句の「イエスさまは門」の3つ目のポイントは、「門・ドアは、そこを通して向こう側を見ることができるところ」です。
聖書は、イエスさまによって表された神様の愛を通して読まなければ、意味がわかりません。
誤解し、神様の愛が呪いにすら変わってしまいます。
完全な贖い、無条件の愛、恵みとして与えられる救い、それらの十字架の本質を通さずに読むなら、聖書は意味がありません。

そして、生きることも同じです。

イエスさまを通して、十字架を通して、神様の愛を通して、あなたが人生を見るなら、あなたの人生の真実が見えます。
見える事実は、今までと同じかもしれません。
しかし、そこにある意味が、劇的に変わります。
その出来事の、本質が変えられるのです。

イエスさまという門を通して、あなたの人生を見直しましょう。
注がれた愛、恵み、赦しを通して、あなたの人生は変わるのです。
過去の意味が変わります。
過去の本質が変わります。
そう、イエスさまは、あなたの過去を変えることのできる方、癒やすことのできる方なのです。

過去だけでなく、現在の現実に、苦しいこと、思い通りにならないこともあるでしょう。
しかし、それは呪いではありません。
もちろん、神様からの罰でもありません。
イエスさまの十字架が、あなたのものであるからには、だれも何もあなたを呪うことはできないのです。
もう一度、イエスさまを通して、その事実にある真実を見つめましょう。

イエスさまは、あなたの門です。
愛と恵みと赦しは、あなたのものです。
新しい人生が、あなたに与えられているのです。


ゴスペルハウスメッセージ 2019.01.01
「イエスさまは門」ヨハネの福音書 第10章9節
(ゴスペルハウス 2019年 年間聖句)

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。

I am the door. If anyone enters by Me, he will be saved, and will go in and out and find pasture. (NKJ)

I am the gate. Those who come in by me will be saved; they will come in and go out and find pasture. (TEV)

あけましておめでとうございます。
2019年が始まりました。
今年も、イエスさまの愛とともにあゆみましょう!

ゴスペルハウスは、毎年、年間聖句を掲げ、テーマをもって礼拝をしています。
2017年は、「恐れるな、あなたには価値がある」(マタイ10:31)。
2018年は、「恵みの御座に大胆に近づけ、あなたは赦されている」(ヘブル4:16)。
そして今年は、「イエスさまは門」(ヨハネ10:9)です。

英語の聖書を見ると、I am the door. という記述とI am the gate. という記述があります。
door と gate の違いはありますが、いずれにしても、出入りするところであることは確かです。

イエスさまは門とは、第一に「唯一の救いの門」ということです。
イエスさまの他に、救いはありません。
クリスチャンは寛容であると言われることもありますが、この点に関しては寛容であってはなりません。
あくまで、かたくなに、頑固に、こだわらなければならないところです。
しかもこの救いは、受ける側の努力、つまりあなたの努力なしに与えられる救いです。
報酬としてではなく、恵みとしての救いなのです。

第二に、「日々そこを通り、体験し、確認する門」ということです。
聖句の後半に「また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」とあるとおりです。
羊飼いに飼われている羊は、昼は柵の外で牧草を食べ、夜は門を通って柵の中に入って休みます。
毎日、門を確認し、通るのです。
門を通らないで出入りする羊は、一匹もいません。
私たちは、イエスさまによって赦され、価値ある者とされたのです。
その事実を日々確認し、そのいのちを日々生きるのです。

アダムとエバが住んでいたエデンの園のルールは1つでした。
「しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。」(創世記2:17)
それ以外は、まったく自由に食べてよかったのです。

今も、ルールは1つです。
それが、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」なのです。
救いは1つです。
その愛の中にとどまるなら、あなたはほんとうの自由を生きることができるのです。

自由というのは、わがまま気まま、勝手な生き方、ではありません。
だれかに勝とうとか、押しのけようとか、少しでも得をしようとか、考えなくてもいい自由です。
つまり、解放された自由なのです。
神様の愛の中に生きる自由、神様の愛とともに生きる自由です。

イエスさまは門です。
この門を、あなたの毎日の門にしましょう。
愛を浴びて、愛に触れて、あなたの日々を過ごしましょう。


ゴスペルハウスメッセージ 2018.12.30
「見るもの、聞くもの」マタイ 2:1-12

1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。
4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。
6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。
8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。
9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。
10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。

私たちには、五感という感覚が与えられています。
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚というものですね。
今回のテーマの「見るもの、聞くもの」というのも、その五感のうちにあります。
私たち人間は、離れているものを認識するのには嗅覚がおそまつなので、見るもの、聞くものとしたのです。

「見るもの、聞くもの」とは、何に関心を寄せているのか、何を判断材料にしているのかということです。
ヘロデ王、エルサレム中の人々、博士たちと、三者の「見るもの、聞くもの」をみていきましょう。

ヘロデ王は、自分の感情や自分勝手な正義(王位の安泰)を、判断材料にしていました。
そのためには、彼は何でもしました。
嘘をつき騙すことも、破壊も殺人もです。
事実、彼は自分の王位を守るために、自分の家族すら殺しているのです。

エルサレム中の人々は、ヘロデ王の機嫌や気持ちや言葉に、関心を寄せていました。
なぜなら、そうすることが自分の身を守ることでもあり、利益を得るためにも必須だったからです。
忖度し、追従し、保身と利益確保に腐心していました。

自分勝手な王と、忖度する周辺の者たち。
二千年前の外国のこととは思えませんね。

そして、博士たちです。
イエスさまに出会うまで、彼らは、知識や学識、また真心ある常識を、判断材料にし、大切にしていました。
だからこそ、星の出現からユダヤの王が誕生したことを知り、ふさわしい贈り物を携え、正しい道・正しい手続きを進み、ベツレヘムまで到着したのです。
まったく、正しい生き方をしてきたと言っていいでしょう。

しかし、彼らはイエスさまに出会いました。
そして、神様からの警告の言葉を受けました。
博士たちは、神様のわざと神様の言葉に出会ったのです。
そのとき、彼らの生き方が変わりました。

彼らは、神様の言葉通り、別の道を通って帰っていきました。
彼らが来た道は、まったく正しいルートだったにもかかわらずです。
彼らは、正しさよりもさらに勝る生き方を、手に入れたのです。

クリスマス、それは、神様のひとり子・イエスさまが地上に誕生したことをお祝いするときです。
しかも、地上の王として降誕したのではなく、すべての人の罪を背負うために来たのです。
身代わりになって、十字架上で死ぬために生まれてきたのです。
これは、最大の神様のわざです。
これ以上の奇蹟はありません、これ以上の愛はありません。

いま、博士たちのように、あなたも生き方を変えていいのです。
多くのクリスチャンがそうであるように、あなたはきっと今まで、正しい(と思われる)生き方をしてきたことでしょう。
しかし、神様によって、正しさをこえる生き方が示されたのです。
示されただけでなく、あなたに与えられているのです。

あなたの生き方を、正しさをこえたものに、今日、しませんか。
あなたのための救い主が、あなたにそれをプレゼントするのです。

ゴスペルハウスクリスマスメッセージ 2018.12.22
「お迎えできない場所に」ルカ2:1-20

1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

クリスマスおめでとうございます。
今週の聖書箇所は、イエスさまのお誕生の場面です。
初めてのクリスマスの場面です。

住民登録のために、マリアとヨセフは、ベツレヘムにいました。
しかし、宿屋には、子どもを静かに産むことのできる、安全に産むことのできる、場所がなかったのです。
それで、イエスさまは家畜小屋の中で、お生まれになったのです。
そこに謙遜があり、そこに慰めもあるのですが、まったく、安全でも衛生的でもない出産でした。

ダビデの町ベツレヘムは、住民登録のために、たくさんの人がいました。
宿屋も、出産のための施設ではありません。
様々な状況で、様々な条件で、救い主イエスさまをお迎えする準備がなかったのです。
イエスさまのために捧げる場所がなかったのです。

しかし、これは単に二千年前のベツレヘムだけの問題でしょうか。
私たちの心や、私たちの状況も同じではありませんか。
「あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ」とか、「あれもしたい、これもしたい」と、自分の計画や希望が心を占めていませんか。
それでは、イエスさまのための場所は確保できません。
また、悔しさ、悲しさ、妬みなどの様々な思いが渦巻いて、救い主イエスさまを静かにお迎えできない状況にありませんか。
二千年前のベツレヘムと、どこに違いがあるのでしょう。

でも、私たちには希望があります。
そんな、お迎えもできないような場所に、事実、イエスさまはお生まれになったのです。
お迎えできない場所に、あえて来てくれるのが、愛です。
あるはずのないところに、それでもあるのが、愛です。
ふさわしくない者に、あえて与えられるのが、愛です。

神様の愛は、報い・報酬ではなく、恵みなのです。

日本では今、自己責任という言葉が流行っています。
この自己責任とは、自分を律するための言葉として使われることは、ほぼありません。
他人の苦境や逆境を、傍から責めるときにだけ使われる言葉です。
自分は安全な場所にいて無責任で、他人には責任を負わせるための言葉なのです。
また、因果応報という言葉は、ずっとある言葉です。
良い種をまけば良いことが起こり、悪い種をまけば悪いことが起こる。
自己責任も、因果応報も、今の日本人気質に合うようです。

しかし、イエスさまの与える愛は、違います。
お迎えできない場所に、与えられるのです。
ベツレヘムに、ユダヤ人に、全人類に、そして、あなたに。

あるはずがない愛を、あなたは受けているのです。
あるはずがない恵みが、あなたに与えられるのです。
この愛と恵みを、本当にあなた自身のものとして、しっかり味わって、毎日をあゆみましょう。

そのためのクリスマスが来たのです。
メリークリスマス!

ゴスペルハウスメッセージ 2018.12.01
「バプテスマのヨハネの父と母 ---アドベント(1)」ルカ 1:5-25,57-66

5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。
8 さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
9 祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
10 彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。
11 すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。
12 これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。
13 御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。
14 その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
15 その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、
16 イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
17 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」
18 ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」
19 御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
20 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
21 民はザカリヤを待っていたが、神殿で手間取っているので、不思議に思っていた。
22 やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。それで、彼が神殿で幻を見たことが分かった。ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。
23 やがて務めの期間が終わり、彼は自分の家に帰った。
24-25 しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五か月の間、安静にしていた。

57 さて、月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。
58 近所の人たちや親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、彼女とともに喜んだ。
59 八日目になり、人々は幼子に割礼を施すためにやって来た。彼らは幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、
60 母親は「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
61 彼らは彼女に「あなたの親族には、そのような名の人は一人もいません」と言った。
62 そして、幼子にどういう名をつけるつもりか、身振りで父親に尋ねた。
63 すると彼は書き板を持って来させて、「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。
64 すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
65 近所に住む人たちはみな恐れを抱いた。そして、これらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体に語り伝えられていった。
66 聞いた人たちはみな、これらのことを心にとどめ、「いったいこの子は何になるのでしょうか」と言った。主の御手がその子とともにあったからである。


今週の聖書箇所は、バプテスマのヨハネの誕生のいきさつです。

父親のザカリヤは、祭司職です。
神殿に入って香を焚いた後は、神様の御心を民に告げるという役割があります。
しかし、御使いガブリエルとのやり取りの中で、、ザカリヤは口がきけなくなってしまいました。
62節に、「身振りで父親(ザカリヤ)に尋ねた。」ともあるので、耳も聞こえない状態であったのかもしれません。
口が聞けず、耳の状態もあやしいザカリヤは、祭司職としては、あまり役に立たないものというのが現状でしょう。

母親のエリサベツは、不妊の女性でした。
そして、高齢になってから、思いがけない妊娠で、ヨハネを身ごもりました。
「五か月の間、安静にしていた」(25節)というのも、体を案じてのことでしょう。
安静中ですから、体を使った労働の働き手としては、ちょっと不足しています。

二千年も前のことですから、夫のザカリヤも妻のエリサベツも、他の人に支えられなければ、神様に支えられなくては、生きていくことさえ難しい状態です。
毎日マナが降っていた、モーセの時代とはわけが違うのです。

少し役に立たない、少し力不足の、そんな老夫婦。
しかし、そこには神様の用意した、大きな役割があったのです。

「彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。」(17節)
人類史上最高の預言者である、バプテスマのヨハネを、生み、育てる者として、この夫婦は選ばれたのです。
救い主の到来の喜びを、周りの人たちに、いえ、二千年後の私たちにさえ、残してくれたのです。

そして、あなたにも、その大きな役割があります。
「私は役に立たないものなので・・・」とか、
「僕にはちょっと力不足で・・・」とか、
なんとなく自己卑下したくなる時が、あなたにもあるかもしれません。
しかし、そんなあなたの人生に、そんなあなたの現状に、神様は大きな喜びの役割を、大きな愛の役割を、用意しているのです。

それは、聖書には記されないかもしれません。
メダルも表彰状も、もらえないかもしれません。
ニュースで報道されることもないでしょう。
でも、神様にとって、それは特別な、それは大きな、あなただけに託された役目なのです。
あなたの人生への、神様からのプレゼントなのです。

いま、苦しくても、
いま、役に立たないように感じても、
いま、思い通りにならなくても、
神様は、あなたを呪ってなどいません。
それは、あなたが大いなる喜びの声を上げるための、備えの期間なのです。

神様から与えられる、喜びの役割の中で、あなたは生きていいのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.12.08
「神様のみこころにかなう願い---アドベント(2)」 列王記上3:1-15

1 ソロモンはエジプトの王ファラオと姻戚の関係を結んだ。彼はファラオの娘をめとり、ダビデの町に連れて来て、自分の家と主の家、およびエルサレムの周りの城壁を築き終えるまで、そこにとどまらせた。
2 当時はまだ、主の御名のために家が建てられていなかったので、民はただ、高き所でいけにえを献げていた。
3 ソロモンは主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいた。ただし、彼は高き所でいけにえを献げ、香をたいていた。
4 王はいけにえを献げようとギブオンへ行った。そこが最も重要な高き所だったからである。ソロモンはそこの祭壇の上で千匹の全焼のささげ物を献げた。
5 ギブオンで主は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなたに対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子を彼にお与えになりました。
7 わが神、主よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。
8 そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。
9 善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
10 これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。
11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、
12 見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。
13 そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。
14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう。」
15 ソロモンが目を覚ますと、見よ、それは夢であった。彼はエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを献げ、すべての家来たちのために祝宴を開いた。

ソロモンは、イスラエルの3代目の王です。
初代の王は、サウル王。
2代目の王は、サウル王のしもべであり、サウル王の娘と結婚もしたダビデ王。
ソロモンは、そのダビデの子どもです。

サウル王もダビデ王も、人間的な弱さを持っていました。
サウル王は、ダビデに対する嫉妬のあまり、何度もダビデを殺そうとしました。
また、サムエルを待ち切れないで、自分自身でいけにえを捧げるというあやまちを犯しています。(サムエル記上 第13章)
ダビデ王は、ウリヤの妻(バテ・シェバ)を手に入れるために、しもべであるウリヤを殺害させました。(サムエル記下 第11章)
また、ダビデの子ども同士の憎しみ合いや殺し合いが起こるほど、家族関係に問題を抱えていました。
ただ、サウル王とダビデ王の違いは、神様へ立ち返ることができたかどうかだけです。

ソロモンは、先代の王、先々代の王の、弱さを知っていました。
ソロモン自身が、バテ・シェバから生まれたのですから。
また、神様の民イスラエルの王となることの重責も知っていました。

そのソロモンに、神様がこう問いかけたのです。
「あなたに何を与えようか。願え。」(5節)

ソロモンは、こう答えました。
「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」(9節)
彼が求めたのは、「聞き分ける心」です。
歴代誌下第1章にも同じ箇所があり、そこでは「知恵と知識」(歴代誌下1:10)と書かれています。
聖書カルタに「ソロモンは 知恵を神から さずかった」と書かれているとおりです。
それは、民を正しくさばくためです。
ソロモンは、民のために、神様のために、このことを願ったのです。

ソロモンの願いは、神様のみこころにかなったものでした。
それで、神様はそれ以上の祝福をソロモンに与えたのです。
「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、
見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。
そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。」(11-13節)

ソロモンは、みこころにかなった願いをしました。
神様は、それをよしとしたのです
ソロモンは、与えられた人生の中で、与えられた役割の中で、神様のみこころにかなった願いをしました。
具体的には、イスラエルの王として、先代、先々代の王の弱さも知った上で、民のために、神様のために、聞き分ける心を願ったのです。

さあ、ではあなたは、あなたが与えられている人生の中で、与えられた役割の中で、神様に何を願いますか。
「あなたに何を与えようか。願え。」(5節)
神様は、あなたに問いかけるのです。

長寿ですか? お金持ちになることですか? 敵を滅ぼすことですか?
それはもしかしたら、大事なことかもしれません。
人からの称賛ですか? 人を支配することですか?
それは、かえって邪魔なものかもしれません。
私たちは王ではないので、「聞き分ける心」をもらっても、しかたがありません。

では、私たちが願うことのできる、みこころにかなった願いとは何でしょう。
聖書を2箇所開きましょう。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16 )
「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(ヨハネ6:40 )

神様のみこころにかなう願いとは、「あなたの人生に、イエスさまを迎えなさい」ということなのです。

当たり前と思うかもしれません。
しかし、これは当たり前のことではないのです。
ソロモン王でさえ、このことを願うことができませんでした。
なぜなら、彼はイエスさまが生まれるよりもずっと前に生きていたからです。

また、その願いをあなたが願えるようにするためには、大きな犠牲がありました。
それは、神様のひとり子・イエスさまが、十字架の死に至るまで、徹底的に神様のみこころに従ったからです。
それは、全人類の呪いを受けて身代わりの死を与えるために、御子を地上におくった神様の覚悟の愛があったからです。

ただ、あなたのために、この従順と愛があったのです。
まったくの恵みとして、無条件にあなたに与えられる、神様からのプレゼントです。

クリスマスに備えるこのとき、神様のみこころにかなう願いを、あなたの願いにしましょう。


ゴスペルハウスメッセージ 2018.11.17
「レンガ積みの人生・石積みの人生」 創世記 11:1-9

1 さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。
2 人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。
3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。
4 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」
5 そのとき主は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。
6 主は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。
7 さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」
8 主が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで主が全地の話しことばを混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされたからである。


バベルの塔として有名な箇所です。
この場で、言葉が神様によって混乱させられたのは、神様からの呪いではなく、神様からの恵みであるということは以前お話したことがあります。
今週は、「石の代わりにれんが」に注目して、御言葉を開いていきましょう。

石は、自然天然のもので、様々な形・大きさをしています。
れんがは、人工物で、決まった形をしています。
縦に積むことを考えたら、れんがの方がずっと楽です。
形がそろっているからです。
自然のままの石は、縦に4段積むのも、難しいものです。
「石積みアート」「ロックバランシング」という積み方もあるようですが。

しかし、積みやすい、形や大きさの決まったレンガやブロックの壁は、地震であっさり崩れます。
それに対して、様々な形や大きさの石を組み上げて作られた石垣は、ずっと崩れにくいものです。
熊本の地震や東日本大震災のときには、一部それらの石垣も崩れましたが、崩れたことが驚かれたということが、その強さを逆に物語っているのではないでしょうか。
もし、エジプトのスフィンクスがその場にいたなら、鼻だけでなく、頭も胴もバラバラになったのではないかと、私は思うのです。

私たちが教会を立てあげるのに、一人ひとりが大切です。
それぞれに個性があり、得手・不得手があり、長所・短所があり、それでいいんです。
みんなおんなじだったら、管理するのに都合がいいかも知れませんが、弱く脆いものになってしまうでしょう。

また、あなたの人生も同じです。
良かったこと、辛かったこと、うれしいこと、悲しいこと、大きな出来事、小さな出来事・・・・様々な経験があっていいんです。
それがあなたの人生を豊かに、強く、しなやかな、あなたらしいものにするのですから。

ただ、積み手の問題があります。
れんが積みの人生なら、形も大きさも決まっているので、誰でも同じように積むことができます。
しかし、石積みの人生は、いい加減な積み方ではすぐに崩壊してしまって、成り立ちません。
あなたの石積みの人生を活かすためには、名人が必要なのです。
まるで、熊本城の石垣を作った加藤清正のような、石積みの名人・達人が必要なのです。

その名人が、イエスさまです。

あなたの良さも悪さも知った上で、苦しみや悲しみや喜びも、現在も過去も、あなたの髪の毛一本、細胞1個に至るまで知った上で、イエスさまがあなたを本来のあなたへと立てあげるのです。
強く、豊かで、魅力あるあなたが、イエスさまによって立てあげられるのです。

喜びは、だれでも人生の宝にすることができます。
しかし、あなたの苦しみを、人生の宝にするのは、イエスさまだけです。
あなたの悲しみを、あなたの人生の宝にできるのも、イエスさまだけです。

イエスさまの手にある、石積みの人生を、生きてみませんか。

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ゴスペルハウスメッセージ 2018.11.10
「失敗の中の望みの綱」 歴代誌下 18:1-6

1 ヨシャファテには富と誉れが豊かに与えられたが、彼はアハブと姻戚関係に入った。
2 数年後、彼がサマリアのアハブのところに下って行くと、アハブは彼および彼とともにいた民のために、おびただしい数の羊や牛を屠り、ラモテ・ギルアデに攻め上るよう誘った。
3 イスラエルの王アハブはユダの王ヨシャファテに言った。「私とともにラモテ・ギルアデに行ってくれませんか。」彼は答えた。「私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。ともに戦いに臨みましょう。」
4 ヨシャファテはイスラエルの王に言った。「まず、主のことばを伺ってください。」
5 イスラエルの王は、四百人の預言者を集めて、彼らに尋ねた。「われわれはラモテ・ギルアデに戦いに行くべきか。それとも、私はやめるべきか。」彼らは答えた。「あなたは攻め上ってください。神は王様の手にこれを渡されます。」
6 ヨシャファテは、「ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか」と言った。

歴代誌に書かれている多くの王の中で、南北分裂以降に特に良い王と記されているのは、ヨシャファテ、ヒゼキヤ、ヨシアです。
アハブは、最悪の王と言ってもいいでしょう。
王妃のイゼベルとともに、まったく良いところがありません。
その、ヨシャファテとアハブが、今週の聖書箇所です。

ヨシャファテの人生の中での、最大の失敗と言われているのが、この章です。
ヨシャファテの息子ヨラムと、アハブとイゼベルの娘アタルヤを結婚させたのです。
南北両国の和解のため、統一のためだったのかも知れませんが、偶像崇拝という負の財産を残すことになりました。
優しい性格だったのか、単に弱かったのか、悪意のないままに、ヨシャファテは大失敗をしました。

アハブは、ラモテ・ギルアデを奪還すべく、アラムとの戦いにヨシャファテを誘います。
ヨシャファテは了承しますが、「主のことば」つまり「主のみこころ」を伺うように望みます。

イゼベルには、450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者がいると書かれています。(列王記上18:19)
もしかすると、ここにある400人の預言者は、アシェラの預言者だったかも知れませんね。
彼らは、アハブ王の気に入るような言葉だけを話しました。

ヨシャファテは、更にもう一度、「ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか」(6節)と重ねます。
この後に登場するのが、預言者ミカヤです。
彼は、アハブがこの戦いに行けば生きて帰ってこないことを告げます。
それでもアハブは出陣し、卑怯な変装までして難を逃れようとしたのですが、死ぬこととなりました。

ヨシャファテの人生最後の失敗。
それは、優しさや和を貴ぶという、良いものから生まれたものでした。
しかし、失敗などというのは、そういうものではないかと思うのです。
私たちの人生には、良いものはいっぱいあります。
その良いものを選んでも、失敗につながるのです。

では、私たちの望みの綱は何でしょう。
それは、良いものではなく、「最も良いもの」を選ぶことです。
ヨシャファテは、「主のことば」「主のみこころ」には、こだわりました。
最も良いものにこだわった彼は、やはり良い王なのです。

良い人生、それは、失敗が一度もない人生ではありません。
失敗の中で、誤りの中で、もう一度神様のみこころをたずねる生き方です。
ダビデも失敗だらけでした。
アブラハムも失敗だらけでした。
でも彼らは、そんな失敗の中で、神様を自分の目の前にして生きていたのです。
ヨシャファテも、その一点で、救われました。

あなたも失敗します。
失敗していいんです。
その中で、神様のみこころは何か、神様があなたに何を求め、どんな導きをするのか。
そのことを求めてほしいのです。
呪われることはありません。
呪いはすべて、イエスさまの十字架にかけられたのですから。

失敗の中の望みの綱を、見失わないで歩みましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.11.03
「疲れを選択する主」 ヨハネ 4:1-6

1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。

ガリラヤとユダヤの往復にサマリアを経由するのは、通常のコースです。
4節に、「しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」とわざわざ記されているのは、何か事情・理由があったのかも知れません。

ここの続きは、「サマリアの女」として知られている箇所です。
一人の女性が、イエスさまに出会い、人生のやり直しをしていく箇所です。
「第六の時」(6節)とありますが、これは正午ごろのことです。
徒歩の旅をするのにも、水汲みに来るのにも、適した時刻ではありません。

イエスさまは、疲れていても、この井戸の傍らに来るという選択をしたのです。
真っ昼間に、ヘトヘトになってでも、そこに来る必要を感じたのです。
それは、たった一人の女性のためです。
彼女の人生のために、彼女のいのちのために、疲れることをあえて選んでここに来たのです。

ここに、骨髄バンクのポスターがあります。
骨髄のドナー募集のポスターです。
ドナーに登録すること、ドナーとして骨髄液を提供すること、これはたしかに良いことです。
それしか、いのちを救う方法のない患者さんにとっては、なくてはならないことです。
(私も登録していたのですが、ブラジル滞在が引っかかりとなって、ドナー登録を抹消されました。)

しかし、そこにはリスクもあります。
背骨から骨髄液を抜くのですから、リスクが有るのが当たり前かもしれません。
まったく見ず知らずの人のために、これから知ることもかなわない人のために、ドナーとなった人はリスクを負うのです。
もちろん、リスク発生の可能性は少ないものです。
が、何も得るものがない中で、リスクを負うのです。

私は、ドナー登録を推進したいわけでも、否定したいわけでもありません。
リスクがあって、リターンがないというドナーの現実を紹介しただけです。
「この現実の中で、あなたはどう生きますか。」という問いをしたいのです。

イエスさまは、あえて疲れることを選んで、このサマリアの女性のために、敵対しているサマリアの女性のために、この井戸に来ました。
しかし、あなたのためにイエスさまが選択したのは、「疲れ」ではなく、「死」でした。
しかも、呪われた死であり、蔑まれた死であり、苦しい死だったのです。
骨髄ドナーのように、少ない可能性のリスクではなく、100%の死です。
リスクの大きさは、生きたまま心臓を提供するのと同じです。

この覚悟の愛に、この覚悟の選択に、あなたは命を与えられたのです。
この現実の中で、あなたはどう生きますか。
あなたの人生を、どう捧げますか。
あなたは、どんな選択をして生きていきますか。

自分の利益も、大事です。
自分の自由も権利も、大事です。
でも、それらをあえて選択しないという自由、それらをあえて捨てるという権利、これもあなたにはあるのです。

なぜなら、イエスさまがそういう選択をしたからこそ、あなたはいのちを与えられているのですから。
その選択の上に、あなたの生涯は成り立っているのですから。
永遠のいのちをあなたに与えるために、イエスさまは選択したのです。

あえて、3回聞きます。
この現実の中で、あなたはどう生きますか。



ゴスペルハウスメッセージ 2018.10.20
「着たのです。着けなさい。」 コロサイ 3:9-14

9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、
10 新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。
11 そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。
12 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。
13 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。

キリスト者の特徴の一つとして、「新しい人」として生きるということがあります。
古い自分を卒業して、神様に新しくされて、新しい自分を生きるのです。
イエスさまの十字架の血潮によって、何の条件もなしに、新しい自分を生きるのです。
それは、すべての人に与えられた、神様からの愛のプレゼントです。

「そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。」(11節)
知識や哲学を尊重するギリシヤ人も、血筋や神学を大事にするユダヤ人も、割礼のような宗教儀式も、関係ありません。
未開の地にすんでいる人も、粗野な人の代表とされるスクテヤ人も、奴隷と自由人という立場や地位の違いも関係ありません。
どんな人も、何の区別もないのです。
人は何かと区別をしたがりますが、神様の愛は何も区別しません。
ただキリストのみ、ただ十字架の一方的な愛によるのです。

しかし、不完全な私たち人間は、新しい人になったつもりでも、なかなかその通りに生きられないことがあります。
失敗するたびに、
「まだまだできないなぁ」
「新しい人になったはずなのに・・・・」
「なぜ、古い自分が出てきてしまうのか・・・・」
と言って、自分自身を責めることもしばしばです。
そして、十字架の血潮の価値を忘れてしまうのです。

しかし、こうあります。
「新しい人を着たのです。」(10節)
新しい人になったではなく、新しい人を着たのです。
自分の努力などで中身を変えるのではなく、一方的な愛によって新しい人を着せてもらったのです。
イエスさまの血潮を浴びるのは、体の中からではなく、外からです。
その血潮は、防火服が灼熱の炎からあなたを守るように、裁きの座であなたを義とするのです。
神様の目に、あなたは義となるのです。

イエスさまの身代わりの死の、最初のひな型はどこだと思いますか。
アブラハムが、イサクを捧げるところですか? いいえ、もっと以前です。
ノアの洪水のところですか? いいえ、もっと以前です。
カインとアベルですか? いいえ、もっと以前です。

それは、創世記の3:21にあります。
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。」
アダムとエバの罪を覆うために、神様は生きものの皮を使って衣を作ったのです。
そのためには、生きものの死が必要でした。
このときも、神様は新しい人を、新しい神様との関係を、彼らに着させてくれたのです。

何度も言いますが、不完全な私たちは、それでも失敗します。
それでいいのです。
それでもあなた自身を責めなくていいのです。
それは、着物が強風であおられて、すそが乱れたようなものです。
どんな服だって、着崩れすることがあるのです。
当時のマントのような上着なら、仕方のないことでしょう。

そんなときに大切なことは、上着に帯を結ぶことです。
「 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」(14節)
愛を結ぶというと、「私、そんなに愛を持っていないから・・・・」と思うかもしれません。
しかし、この愛は、あなたから出てくる愛ではありません。
私たちの感情は、お天気が変わるだけでも揺らぎます。
まったく当てになりません。

この愛は、イエスさまの十字架上の愛です。
無理解とあざけりと激痛の中で、あなたのために示されたイエスさまの愛です。
それは、強い意志の愛です。
死んだ後に天国に行けるという権利を与えるだけのものではありません。
今、あなたが新しい人として、揺るがされないで生きるための、愛の帯なのです。
日々、イエスさまの十字架の愛を、あなたの腰に、しっかりと結びましょう。

あなたはもう、新しい人を着ています。
あなたは新しい人として生きていいのです。
イエスさまの愛の帯をぎゅっと結んで、さあ、一歩を踏み出しましょう。 

ゴスペルハウスメッセージ 2018.10.14
「しかし、あなたがたは」

申命記
1:25 彼らはその地の果物を手に入れ、私たちのもとに持って帰って来た。そして報告をし、「私たちの神、主が私たちに与えようとしておられる地は良い地です」と言った。
1:26 しかし、あなたがたは上って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。

士師記
10:11 主はイスラエルの子らに言われた。「わたしは、かつてエジプト人、アモリ人、アンモン人、ペリシテ人から、
10:12 また、シドン人、アマレク人、マオン人があなたがたを虐げてあなたがたがわたしに叫んだとき、あなたがたを彼らの手から救ったではないか。
10:13 しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。

詩篇
81:10 わたしはあなたの神 主である。わたしがあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう。
81:11 しかしわたしの民はわたしの声を聞かず イスラエルはわたしに服従しなかった。

イザヤ書
30:15 イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。

エレミヤ書
34:14 「七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。六年の間あなたに仕えさせ、その後あなたは彼を自由の身にせよ」と。しかし、あなたがたの先祖は、わたしに聞かず、耳を傾けもしなかった。

アモス書
2:11 わたしが、あなたがたの息子たちから預言者を、あなたがたの若者からナジル人を起こしたのだ。そうではなかったか。イスラエルの子らよ。──主のことば──
2:12 しかし、あなたがたはナジル人に酒を飲ませ、預言者には『預言するな』と命じた。

マラキ書
1:2 「わたしはあなたがたを愛している。──主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。

マラキ書
3:7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。

使徒の働き
13:46 「神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています。ですから、見なさい、私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます。

以上、旧約時代の「しかし、あなたがたは」
以下、新約時代の「しかし、あなたがたは」

ルカの福音書
21:16 あなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにも裏切られます。中には殺される人もいます。
21:17 また、わたしの名のために、すべての人に憎まれます。
21:18 しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。

ヨハネの福音書
16:20 まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。

コリント人への手紙 第一
1:30 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。

ルカの福音書
6:35 しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。


今週の聖書箇所は、聖書のあちこちにある「しかし、あなたがたは」を開いてみましょう。
「しかし、あなたがたは」は、聖書の中に、約50回あります。

旧約聖書の時代の「しかし、あなたがたは」は、人間が神様を拒み続けた、裏切り続けた、その歴史を語る言葉です。
神様から、何度も何度も、注がれた愛と恵み、招き、助けに対して、一時的な立ち返りはあるものの、人間は裏切り続けてきました。

人間は、神様に従えないのです。
人間は、自らがあたかも神様であるかのように、振る舞いたいのです。
これこそ、「罪」の本質と言えましょう。
「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって」(創世記3:5)と、ヘビが言ったのは、まさに的を射ていたのです。

罪の時代、旧約聖書の時代、「しかし、あなたがたは」は、拒否と裏切りの言葉だったのです。

そんな私たち人間のもとに、イエスさまが来られました。
従い切れない者のために、裏切り続ける者のために、拒否し続ける者のために。
地上に来られ、十字架にかかった方、死に至るまで従順なイエスさま。
人の罪をすべて、人の呪いをすべて、変わって背負われたイエスさま。

この方が来られたとき、「しかし、あなたがたは」は、まったく新しい言葉になったのです。

「しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。」(ルカ21:18)
あたながたは、守られるのです。

「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」(ヨハネ16:20)
あなたがたには、喜びが与えられるのです。

「しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。」(1コリント1:30)
あなたがたは、イエスさまの愛のうちにあるのです。

「しかし、あなたがたは」は、もう、拒否と裏切りの言葉ではなくなりました。
価値なき者に、資格のない者に、注がれる愛の言葉になったのです。
そのためには、イエスさまが血を流す必要がありました。
いのちを捨てる必要がありました。
神様の子としての栄誉を捨てる必要がありました。
それほどまでに、あなたは愛されているのです。

そのうえで、次の言葉を味わいましょう。
「しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。」(ルカ6:35)
この言葉は、私たちへのすすめの言葉でもあります。
が、それ以上に、イエスさまの覚悟の言葉でもあるのです。
イエスさまの命令は、神様の命令は、聖書の命令は、人間に課すだけでなく、神様自らがまず実践されるからです。

「しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。」(ルカ6:35)
この言葉は、裏切り続けるあなたに対する、神様の強い意志をともなった愛の言葉です。
感情の愛ではなく、強い強い意志の愛。
この愛の中に、あなたはいるのです。

強い意志の愛の中に生きる者として、今日を生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.10.06
「欠けも弱さも」列王記下7:3-11

3 さて、ツァラアトに冒された四人の人が、町の門の入り口にいた。彼らは互いに言った。「われわれはどうして死ぬまでここに座っていなければならないのか。
4 たとえ町に入ろうと言ったところで、町は食糧難だから、われわれはそこで死ななければならない。ここに座っていても死ぬだけだ。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるなら、われわれは生き延びられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」
5 こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。すると、なんと、そこにはだれもいなかった。
6 これは、主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らが口々に「見よ。イスラエルの王が、ヒッタイト人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲って来る」と言い、
7 夕暮れに立って逃げ、自分たちの天幕や馬やろば、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったからであった。
8 ツァラアトに冒されたこの人たちは、陣営の端に来て、一つの天幕に入って食べたり飲んだりし、そこから銀や金や衣服を持ち出して隠した。また戻って来てはほかの天幕に入り、そこからも持ち出して隠した。
9 彼らは互いに言った。「われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう。」
10 彼らは町に入って門衛を呼び、彼らに告げた。「われわれがアラムの陣営に入ってみると、なんとそこにはだれの姿もなく、人の声もありませんでした。ただ、馬やろばがつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした。」
11 そこで門衛たちは叫んで、門内の王の家に告げた。

今週の聖書の箇所は、第6章24節からの一連の出来事なので、そこから読んでいただくとわかりやすいかと思います。
ここまでのあらすじは、こうです。
アラム軍が襲来し、サマリアを包囲します。
サマリアには大飢饉もあって、自分の子供を食べて飢えをしのごうとする者まで出ました。
イスラエルの王は、エリシャに対して的はずれな殺意を抱き、侍従をエリシャのもとへ送ります。
エリシャは侍従に、明日、解放されることを告げますが、侍従は信じないで帰ります。

その日のその後のことが、今週の聖書箇所です。

汚れた者とされ、町の中で他の人とともに生きていくことができない、ツァラアトの人たちが、町の門にいました。
町の中を飢饉が襲い、町の外をアラム軍が包囲しています。
サマリア中が、にっちもさっちも行かない状態です。
ツァラアトの彼らには、もはや、何も希望が残っていないように感じられたことでしょう。

「われわれはどうして死ぬまでここに座っていなければならないのか。たとえ町に入ろうと言ったところで、町は食糧難だから、われわれはそこで死ななければならない。ここに座っていても死ぬだけだ。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるなら、われわれは生き延びられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」(3-4節)

彼らは、欠けを受け入れ、汚れを受け入れ、人の力(自他ともに)に絶望しました。
それで、アラム軍の陣営に入り込むことにしたのです。
それは、自暴自棄がなせるわざだったのかも知れません。

しかし、彼らはそこで、神様の奇蹟の目撃者となりました。
神様の奇蹟の祝福の受け手となりました。
そして、神様の奇蹟の証人となったのです。

彼らは、自分たちだけに利益を貯め込むことを良しとしないで、町の門衛たちに伝えに行きました。
そう、彼らは、良き日の、良き知らせの、伝え人になったのです。
欠けも弱さも受け入れ、絶望の果てに得たもの、それは、神様からの良い知らせだったのです。
欠けも弱さもあったからこそ、彼らはそこに行き着いたのです。

彼らのこの姿は、まさに、今のクリスチャンそのものではないでしょうか。
罪を認め、人の力の救いに絶望し、そこで十字架の赦し、イエスさまの愛に出会う。
十字架の奇蹟の受け手となり、その良き知らせの、伝え人になる。
彼ら4人は、今のクリスチャンの、今のあなたの、ひな型なのです。

さて、この良き知らせを聞いた王は、どうしたでしょう。
彼は、それを、疑いました、ばかにしました。
良き知らせの内容が、王の想定できる範囲を超えていたのです。
だから、彼は信じることができなかったのです。
良き知らせは、事実なのにもかかわらずです。

あなたが良き知らせを伝えたときも、同じかも知れません。
「神様のひとり子が、あなたの罪を赦すために、十字架にかかって死にました。だから、あなたの罪は、完全に赦されているのです。」
この事実は、確かな事実です。
しかし、受け手の想定できる範囲を遥かに超えている場合、受け手は信じることができないかも知れないのです。
事実、救われているのにもかかわらずです。

しかし、希望はあります。
王は疑いましたが、神様の奇蹟の事実は、サマリア中を救ったのです。
あなたが伝える良い知らせも、あなたが思っているタイミングではないかも知れませんが、あなたが思っている方法ではないかも知れませんが、受け手を救う力を持っているのです。
良き知らせを、伝え続けましょう!

あなたの欠けも弱さも、あなたを呪うことはできません。
あなたが絶望しても、他人があなたに絶望しても、構いません。
あなたの欠けも弱さも知った上で、愛してくださるイエスさまがいるのです。
この奇蹟の受け手として、この良き知らせの伝え手として、今日も、神様の言葉と、神様の愛と、ともに生きましょう

ゴスペルハウスメッセージ 2018.09.29
「解放する主」ルカ5:12-15

12 さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」
13 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。
14 イエスは彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのため、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」
15 しかし、イエスのうわさはますます広まり、大勢の群衆が話を聞くために、また病気を癒やしてもらうために集まって来た。

ツァラアト、重い皮膚病、それはこの人の人生に大きくのしかかっていました。
当時、ツァラアトの人は汚れた者とされ、その人に触れると、他の人まで汚れるとされていました。
なので、他の人に出会うと、近づかないように、大声で叫ばなければならないとされていました。
それは、ひどい屈辱のある生活です。
自分が自分であることが、そのまま悔しさになるという生活です。

「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」(12節)
この男の人の望みは、ツァラアトの癒やしだったのかもしれません。
きよくしてもらうことと、いやすことは、ほぼ同じことなのです。

それに対するイエスさまの反応は、13節にあるとおりです。
「イエスは手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。」(13節)
イエスさまは、その汚れた人に触れたのです。
触れずにいやすことができるのに、イエスさまは、あえてこの人に触れたのです。
実際、他の場面では、イエスさまは触れずにツァラアトをいやしているのです。

それが、イエスさまの心なのです。
どれほど汚れているとされている人にも、ためらうことなく触れてくださる方なのです。
そして、そのことによって、自分自身が汚れてしまうことに、何のためらいもない方なのです。
この愛は、もちろんあなたにも注がれています。

さらに、もう一つの側面からこの出来事を見てみましょう。

ツァラアトは、当時は治療法のない病気で、それを患っているものは汚れた者とされていました。
発病したという過去のひとつの出来事が、彼の現在を「汚れた者」として縛るのです。
また、治療法のない病気なので、かなりの高確率で、未来をも縛り付けるのです。

そこに、イエスさまが来られ、過去からの縛りから、現在の彼を解放し、未来の彼を解放したのです。
イエスさまは、その人の過去にとらわれず、その人の現在を受け入れ、その人に未来を与える方なのです。
姦淫の現場で捕らえられた女性(ヨハネ7:53-)もそうです。
また、イエスさまが招いた弟子たち、ペテロやマタイなども、そうでしょう。

そして、あなたにも私にも、様々な過去があります。
その過去に縛られ、とらわれ、限界を決めてしまいます。
「親がこうだったから・・・」「出会った人が・・・」「病歴が・・・」など、マイナスで苦しかった過去の場合もあるでしょう。
「私は元○○○で・・・」「こんないい学校を出て・・・」など、自慢の出来事やプライドのもとになる過去もあるでしょう。

これらが、今のあなたから自由を奪い、未来のあなたをも束縛するのです。
過去の縛りは、プラスもマイナスも、かなり強力にあなたを押さえつけるのです。

「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」(12節)
彼のこの一言は、過去からの解放のための一言です。
そして、過去から開放されるための、あなたの一言でもあるのです。

過去からあなたを解放するのは、過去から未来を解放するのは、あなたの力ではありません。
あなたを過去から解放するのは、イエスさまなのです。
あなたを愛してやまない、神様のひとり子、救い主。
この方に、あなたの過去を明け渡しましょう。
そして、解放されたあなたを、神様とともに生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.09.22
「」ヨハネの黙示録 3:20

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。
だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

食事というのは、「同じ釜の飯を食べる」といった言葉があるように、非常に親密さを増すものです。
聖書の中にも、たくさんの食事の場面が出てきます。
有名な最後の晩餐、5000人の食事の奇蹟、復活したイエスさまが弟子のための魚とパンを準備されたこと、ザアカイの家やマタイの家での宴会、などなど数えていったらメッセージの時間がなくなってしまいます。
ちなみに、私がはじめて教会に行くことになったきっかけも、食事会につられてでした。
私の人生にとっては、この食事は最大の奇蹟のときでもありました。
 
本日の聖書箇所も、食事の箇所です。
ここでわたしと書いてあるのは、イエスさまのことです。
よく絵画にも描かれていて、共通するのはそのドアにはノブがないということです。
イエスさまは、戸の外に立ったまま、入ることができないのです。
そして、紳士的なイエスさまは、ドアを蹴破って入ってくることもないのです。
この箇所は、よく、「イエスさまをお迎えすること」の大切さを示すのに使われる箇所です。
 
しかし、本日はちょっと違ったところに焦点を当ててみたいと思います。
それは、「イエスさまが私たちの心の戸の前まで来てくださった」という事です。
普通、幸せは私たちが探し当てるものです。
先週のメッセージの「山登り」も同じことですね。
探して、求めて、努力して、手に入れるものです。
しかし、ここではそうではないのです。
 
イエスさまが私たちのところへ来てくださったのです。
イエスさまは、私たちを永遠のいのち、本当の愛、真実の道に導くために来ました。
神様の永遠の愛に愛され、神様の永遠に喜びに喜ばれるために来たのです。
こんな、罪深い私たち一人ひとりの戸の前まで来てくださったのです。
 
私たちが幸せを探すのではなく、幸せが私たちを探して、やって来たのです。
私たちが天国を探すのではなく、天国が私たちを探して、やって来たのです。
これがキリスト教の原則です。
こんな大きな奇蹟は、もはやコペルニクス的転換以上のもの、はるかに以上のものです。
そして、私たちがこの奇蹟・この原則を受け入れるなら、イエスさまは私たちとともに、食事をするのです。
ゆっくりと、イエスさまとともに、楽しい時を過ごすことができるのです。
そう、奇蹟が成就するのです。
 
さあ、私たちはイエスさまとともに、楽しい食事をしようではありませんか。
天国は、あなたの人生の、あなたの日常の、真っ只中、目の前まで来ているのですから。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.09.15
「幸いです」マタイ 5:3
3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
 
マタイ5章3節から13節は、「至福の教え」といわれている箇所です。
「・・・の者は幸いです。」というかたちで、8つ並んでいます。
今週の聖書箇所はその1番目です。
 
ここで、幸いという言葉を説明します。
聖書の中で「幸い」を表す代表的な語は3語あります。
ここで使われている言葉は、ギリシャ語でマカリオスという言葉です。
新聖書辞典によりますと、マカリオスは次のような言葉です。
マカリオス〈ギリシャ語〉
いくつかの例外を除いて霊的な祝福について用いられている。
時間や状況によって変動するはかないこの世の幸福ではなく、悲しみや不遇によっても消されることのない神の祝福を意味する。
 
「心の貧しい者は幸いです。」
ここで使われている貧しいという言葉は、関西地方で使われる挨拶、
「もうかりまっか?」「あきまへんわ」というレベルの貧しさではありません。
マンガのドラえもんで、のび太の母親が家計簿を見つめながら、「今月も赤字だわ」というレベルでもないのです。
日々の生活が苦しいというのではなく、無一文、無一物の貧しさなのです。
 
このレベルで心が貧しいというのは、謙遜という言葉で済まされるものではありません。
私たちが謙遜という言葉を使うとき、ややもすると、謙遜しているということを無意識に誇ってしまう傾向があります。
そうではなく、この心の貧しさは、自分自身への徹底的な絶望の状態なのです。
 
「天の御国はその人のものだからです。」
これは、そのうちに、いつか、手に入るということではありません。
いま、すでに天国を得ているといっているのです。
 
このようなことを言われることがあります。
「どの神様も一緒でしょ。どの宗教も一緒。山登りと同じようなもので、いろんな道があるけど、登りつめた先の頂上に神様がいる。」
 
確かに宗教というのは、善行を積んで、心を聖くして、神様に近づいていくという側面があります。
登って行けば行くほど、神様の聖さがわかってきます。
そして、神様の聖さゆえに、自分の醜さが見えてくるのです。
まるで、光が強いところで、影が濃くなるように。
 
そのとき、私たちはどうしましょう。
見て見ぬ振りをして、希望がないのを知りながら登り続けるのも一つの方法です。
「どうせ私はこんな者だから」と開き直って、そこに腰を下ろすのも一つの方法です。
諦めて下山し、聖さから離れることで自分の醜さを隠すことも出来るでしょう。
 
しかし、ここに、もう一つの方法があります。
自分自身に絶望し、崖から身を投げる。という方法です。
神様の聖さに照らされ、自分自身に何の善も見出せなくなったとき、私たちは絶望し、自分自身を誇ることをやめるのではないでしょうか。
しかし、私たちには希望があります。
崖下には、イエスさまがいるのです。
 
私たちはどんなに頑張って登っても、神様の所へは行けません。
なぜなら、神様は絶対的な聖さで、私たちは不完全だからです。
でも、そのような私たちのために、神の子イエスさまが来られたのです。
しかも、絶望の淵の底に来られたのです。
そして、イエスさまは十字架上で、いのちをかけて私たちを救ってくださいました。
私たちの心の貧しさを埋めて、神様の子としての特権を与えてくださったのです。
自分自身に絶望したとき、イエスさまによって新しい自分自身の価値を得るのです。
それは、神様の子としての自分です。
それは、天国のいのちです。
 
私はメッセージで、神様の愛をお伝えしてきました。
また、神様の素晴らしさ、光に象徴される聖さをお伝えしてきました。
それは、自分自身に絶望するためです。
自分自身の中に神様に誇れる善のかけらもないことに気がつくためです。
そのとき、イエスさまによって、本当の自由、本当の希望が得られるのです。
それが神様の支配。いま、ここにある天国です。
絶望しましょう、本当の希望を手に入れるために。
 
偽りの謙遜という誇りを捨てましょう。
あなたは、人間に絶望していいのです。
あなた自身に絶望していいのです。
そこに、イエスさまがおられます。
あなたの本当の希望、本当の自由はここにあります。
あなたの本当の価値も、ここにあるのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.09.08
「ついて来なさい」 マタイ4:19 

19イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

イエスさまは、聖書の中で何度も何度も「ついて来なさい」と、語りました。
今週は、その言葉に焦点を当てて、御言葉を開きましょう。

私は学生時代、ヨット部に所属していました。
全国大会にも常連のように出場していたのですが、大学1年のときのインカレのときのことです。
そのレース会場は、今まで一度も乗ったことのない海域でした。
それで、その地区で一番強い大学の、一番強いチームのあとについて行く作戦を取りました。
スピードには自信があったので、その海域を知っているチームが作る作戦・選ぶコースをついて行けば、必ず上位に行けると踏んでいたからです。
この作戦を「青い鳥作戦」と名付け、第1レースに臨みました。

案の定、私たちのチームは上位でフィニッシュし、青い鳥作戦は成功しました。

それを聞いた同じ大学の先輩も、「じゃあ、俺もやってみる」と言って、別のチームを選んでついて行くことにしました。
しかし彼が選んだチームは、残念なことに、上位に来ることができなかったため、その先輩も下位に沈んでしまいました。
それで次のレースからは自分でコースを選んだのですが、結果は散々でした。

さて、私は、愛知県生まれなのですが、愛知県には「郷土三英傑」という言い方があります。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人です。
このうち、秀吉はついていく天才だと、私は思うのです。
天才である信長にビジョンを与えられ、その支持に従って、秀吉は猛進しました。
秀吉は、信長にただひたすら、ついて行ったのです。
信長が生きている間、秀吉は快進撃を続けました。

しかし、信長が亡くなった後、秀吉はビジョンを自ら作り出さなくてはならなくなり、迷走するような状態に陥りました。

青い鳥作戦は、あてにならないものについて行くことで崩壊します。
また、あてになると思っていた導き手も、信長がそうだったように、いつまでも生きているわけではありません。
そして、自分勝手に道を進めば、さらに悔しい結果になってしまうのです。

「ついて来なさい」
あなたに問いかけるのは、あなたの人生に問いかけるのは、イエスさまです。
それは、青い鳥よりもずっと、確かな方です。
それは、永遠のいのちを持って、はじめから終わりまで存在される方です。
聖書を読んだ人なら、だれでもわかる、だれでも知っている、確固たる永遠の導き手です。
あなたの人生にビジョンを与え、かつ、なすべきこと、進むべき道を示す方です。

そう、あなたの前には、イエスさまの足あとがあるのです。

それは、他の人から見たら、嘲りの道かもしれません。
愚かに見える、効率・能率の悪い道かもしれません。
でも、それがあなたへのイエスさまの足あとなら、あなたはその足あとに従って歩めばいいのです。
イエスさまは、あなたのための唯一の道です、唯一の真理です、唯一のいのちです。

他の人の言葉に惑わされたり、自分の中の希望や計画にとらわれたり、そして、自分勝手な道を進んでしまったり。
私たちは従いきれないのも、実情です。
わかっていても、ついて行けないのも、実情です。

でも、そんなあなたのもとにも、そんなあなたの前にも、また、イエスさまは道を示してくれるのです。
そして、「ついて来なさい」と、招いてくれるのです。
イエスさまは、決してあなたを見捨てず、決してあなたから離れないのです。
何度でも、いつでも、あなたはやり直すチャンスを貰っているのです。

この愛の方の言葉に、ついて行きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.09.02
「あなたの結ぶ実は」 マタイ7:15-23 

15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。
16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。
20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。
21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

マタイの福音書第5~7章は、「山上の説教」として知られている箇所です。
今週の聖書箇所は、その最終章の7章後半、山上の説教の最終盤です。
ここでは、読み手に選択を求めています。
「あなたは、どう生きるのか!」

ここには、2つの悪い者たちが出てきます。
偽預言者たち(15-20節)と、不法を行う者たち(21-23節)です。

「良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。」(17節)
もし、悪い木が、見た目が良い実によく似ている実を結んだとしても、似ているだけではダメなのです。
それは、良い実ではないのです。

「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(21節)
口先で信仰者ぶるのではなく、父なる神様のみこころを行う必要があるのです。

ところで、父のみこころとは何でしょう。
もし、神様から与えられた律法どおりにということならこうなります。
「きちんとしなさい。できない者は、悪い実を結ぶ悪い木だ。
似たような実を結ぶだけではダメだ。切り倒して、火に投げ込んでやる。」
クリスチャンであっても、洗礼受けてても、行いが伴わない者は、アウト!
どんな小さな違反も、赦されることはありません。

しかし、これを語っているのは、イエスさまです。
父のみこころを地上に実現するために来た、神様のひとり子です。
ただひとりの救い主、ただひとつの道、ただひとつのいのちです。
イエスさまこそが、父なる神様のみこころなのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
イエスさまによって、その十字架によって、救われなさい。
父なる神様のみこころは、はっきりしています。

あなたは、律法によれば、悪い枝です。
悪い実りしか得られず、切り倒されて火に投げ込まれるべき存在です。
だから、あなたはイエスさまに結ばれなさい。

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)

あなたは、イエスさまに接ぎ木された、枝なのです。
良い木に接がれた悪い枝のあなたは、悪い実を結ばないのです。
良い木はみな良い実を結ぶのです。(実際の植物の生態はともかく)
悪い木の悪い枝であるあなたの頑張りではなく、良い木に接がれること、それが大事なのです。
そして、接がれた木から与えられる、いのちを生きるのです。

そうすれば、この箇所に続く「岩の上に建物を建てた者と砂の上に建物を建てた者」のたとえ話もわかるでしょう。
そう、土台が違うだけなのです。
土台の選択を、あなたは迫られているのです。

自分の努力や、自分の頑張りで、救いを得ようとする者、得ようとさせる者。
これこそが、偽預言者たちであり、不法を行う者たちなのです。

不法を行わないで、生きましょう。
父なる神様のみこころの中で、いのちを頂いて、生きましょう。
イエスさまに接ぎ木されて、良い木として、生きましょう。
あなたは、良い実を結ぶ、良い木の枝として生きることができるのです。


ゴスペルハウスメッセージ 2018.08.25
「逆走は危険です」創世記30:1-13

1 ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見た。ラケルは姉に嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死にます。」
2 ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。「私が神に代われるというのか。胎の実をおまえに宿らせないのは神なのだ。」
3 彼女は言った。「ここに、私の女奴隷のビルハがいます。彼女のところに入り、彼女が私の膝に子を産むようにしてください。そうすれば、彼女によって私も子を得られるでしょう。」
4 ラケルは彼に女奴隷ビルハを妻として与えたので、ヤコブは彼女のところに入った。
5 ビルハは身ごもり、ヤコブに男の子を産んだ。
6 そこでラケルは、「神は私をかばってくださり、私の声を聞き入れて、私に男の子を与えてくださった」と言った。それゆえ、彼女はその子をダンと名づけた。
7 ラケルの女奴隷ビルハは再び身ごもって、ヤコブに二番目の男の子を産んだ。
8 そこでラケルは、「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言って、その子をナフタリと名づけた。
9 レアは自分が子を産まなくなったのを見て、彼女の女奴隷ジルパをヤコブに妻として与えた。
10 レアの女奴隷ジルパはヤコブに男の子を産んだ。
11 レアは「幸運が来た」と言って、その子をガドと名づけた。
12 レアの女奴隷ジルパはヤコブに二番目の男の子を産んだ。
13 レアは、「なんと幸せなことでしょう。女たちは私を幸せ者と言うでしょう」と言って、その子をアシェルと名づけた。

私の学生時代の同級生に、ちはやさんという方がいます。
彼女が運転免許を取ったすぐあとのこと、彼女はお母さんを助手席に乗せて、地元の町をドライブしました。
運転しているちはやさんに、お母さんが優しい声で話しかけました。
「ちはやぁ、ちはやぁ?」
「なに、お母さん、いま運転中だから、あまり話しかけないで」
「そうかい、ちはやぁ・・・」
お母さんの不安そうな声を聞いて、ちはやさんは尋ねました。
「何なの?お母さん」
「ちはや、さっきからずっと右側走ってるよ」
「え!早く言ってよ!!」
ちはやさんは、片側一車線の対面通行の道路を、二車線の道路と間違えて、逆走していたのです。

さて、「人類史上、最も祝福された家系は?」と聞かれたら、あなたはなんと答えますか。
私は、アブラハム・イサク・ヤコブと続く、アブラハムの家系を選びます。
自らの祝福だけでなく、全人類の祝福の基となったのですから。
今週の聖書箇所に登場するヤコブは、のちにイスラエルという名前を与えられ、この家系のシンボルとも言えましょう。

しかし、ヤコブの家族は、目に見えるところではかなり問題があったようです。
ヤコブは双子の弟で、兄エサウを父イサクが偏愛し、ヤコブは母リベカに偏愛され、弟が兄を出し抜くように長子の権利を掠め取り、目がかすんで見えなくなったイサクをだまして祝福を奪い取りました。
エサウはヤコブに対して殺意を覚え、ヤコブはリベカの策によって逃亡します
逃亡先のおじのラバンの家でも、結婚をめぐって騙され、ラバンの子どもたちから疎まれます。
レアとラケルの姉妹を妻として迎えたら、妻同士のいさかい、文字通りの骨肉の争いです。
お昼のメロドラマでも設定しないほどの、ドロドロとした現実が、ヤコブの生活だったのです。

神様に祝福され、神様を知っているこの家族に、なぜこのようなことが起きたのでしょう。
「ノンクリスチャンならまだしも・・・」と考える人もいるかも知れません。
「すべての人間は罪人だからしょうがない・・・」とあきらめる人もいるかも知れません。
しかし、それでは何も前に進みません。

何がこの家族をバラバラにしたのか。
何がこの家族に足りなかったのか。
謙遜、思いやり、寛容、善意・・・
たしかにそうかも知れませんが、もっと、最も、根本的なところに間違いがあるのです。

彼らには、生きた神様への祈りが足りませんでした。

彼らは、もちろん神様は知っています。
祈ってもいました。
ただ、それは、自分の苦しさや願望や都合を訴えただけです。
いわば、一方通行の祈りです。
たとえば、死んだ神様や、しゃべらない神様や、働かない神様や、心のない神様ならそうするしかないでしょう。
しかし、現実に、いま、生きて働く神様なのです。

そう、祈りは双方向の対面通行なのです。
なのに、片側二車線の一方通行のように、一方的に話し続け、神様の言葉を聞くことをしなかったのです。
その結果、それぞれの自分の思いがぶつかりあって、バラバラになってしまったのです。
神様の言葉を聞くことをせず、その場所を人間の思いで逆走してしまったのです。
「ちはやぁ・・・」と、こまった声が聞こえてきそうではありませんか。

神様の前に静まりましょう。
自分の思いや、自分の心をさぐるのではなく、神様の御声を待ちましょう。
聖書かるたの「さ」にこうあります。
「サムエルを 呼んでいるのは 主なる神」
そしてサムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」(1サムエル記3:10)と、双方向を徹底したのです。
いえ、それどころか、神様側からの言葉を優先したのです。

心をからっぽにして、神様の御声をみこころを、受け取る。
祈りは、話すだけでなく、聞くことです。
聞き上手の祈り手になりましょう。
それは、人間の言葉への聞き上手ではなく、神様の言葉への聞き上手です。
人の言葉や自分の思いに振り回されない、強い祈りの戦士に、信仰の勇士になりましょう。
そのとき、神様のみこころは、あなたのいまに、現実に、生活に、あらわれるのです。
そして、あなたは本当の神様の、生きた神様の、証人となるのです。

逆走の祈りではなく、たっぷりと神様の言葉を受け取りましょう。
あなたは、聞き上手の祈り手なのです。
そして、注がれた愛の中に生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ2018.08.18
「あらゆる民の祈りの家」イザヤ56:1-8

1 主はこう言われる。「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近いからだ。わたしの義が現れるのも。」
2 幸いなことよ。安息日を守って、これを汚さず、どんな悪事からもその手を守る人は。このように行う人、このことを堅く保つ人の子は。
3 主に連なる異国の民は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。
4 なぜなら、主がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
5 わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。
6 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、
7 わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。
8 ──イスラエルの散らされた者たちを集める方、神である主のことば──すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える。」

イザヤ書は全部で66章あります。
その中で、40章以降を第二イザヤ、56章以降を第三イザヤと考える聖書学者さんもいます。
その分類に従えば、今週の聖書箇所は第三イザヤの冒頭ということになりますね。

3節に「異国の民」「宦官」という言葉が出てきます。
彼らは、ここまで神様の民から、差別を受けてきた人々です。
のみならず、ここからも差別を受け続けてしまった人々でもあります。

しかし、神様はいうのです。
「安息日を守り、契約を堅く保つなら、受け入れる」と。
安息日を守るというのは、こういうことです。
生きている時間を、いのちを、生活を、神様から頂いたものと認め、その一部を取り分けて(聖別して)、神様にお返しする。
また、契約を堅く保つとは、生きた神様の生きた言葉の中にとどまることです。
そうすれば、イスラエルの民と同じように、いえ、それ以上に、神様はその人を受け入れるのです。

神様の家は、地上においても、天上においても、あらゆる民に開かれているのです。
これは大きな希望のメッセージです。
イザヤから約700年後の、イエスさまの時代になってでさえ、成就されていなかったほどの、大きな大きな希望の預言なのです。

異邦人である私たちも、また、他の人から「できそこない」と言われても、神様は見捨てないのです。
ただ、いのちの神様、生きた神様を認め、その約束にとどまるなら、大きな希望が与えられるのです。

イザヤから700年後の、イエスさまの時代はどうだったでしょうか。
異邦人は蔑まれ、体の不自由な人は差別されていました。
祈る場所さえ、ユダヤ人たちに取り上げられているような状態でした。
それで、イエスさまは宮清めをしたのです。

マルコ11:17にこうあります。
そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」

人間の罪が、差別や優越感が、神様の大きな希望の預言や祝福に、蓋をしてしまったのです。
それは、差別されている側だけでなく、差別している側の人からも、喜びを奪い取るものでした。
平安を奪い取るものでした。

あらゆる民の祈りの家が、あらゆる民にとって手の届かない場所になってしまったのです。
あらゆる民に開かれていたものが、あらゆる民に閉ざされたものになってしまったのです。
それは、人間の弱さ、醜さ、身勝手さ、そう、罪のためです。

イエスさまは、そこに道をつけ、そこの門を開くために、十字架にかかったのです。
その十字架が、流されたイエスさまの血潮が、あらゆる民の祈りの家を開くのです。

弱いあなたも、ずるいあなたも、すべての罪は赦されています。
イエスさまの十字架とともに、あなたの祈りの家へ、歩みましょう。


ゴスペルハウスメッセージ 2018.08.12
「動揺の原因」サムエル記上21:10-15

10 ダビデはその日、ただちにサウルから逃れ、ガテの王アキシュのところに来た。
11 アキシュの家来たちはアキシュに言った。「この人は、かの地の王ダビデではありませんか。皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」
12 ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。
13 ダビデは彼らの前でおかしくなったかのようにふるまい、捕らえられて気が変になったふりをした。彼は門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりした。
14 アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見ているように、この男は気がふれている。なぜ、私のところに連れて来たのか。
15 私のところに気がふれた者が不足しているとでもいうのか。私の前で気がふれているのを見せるために、この男を連れて来るとは。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」


聖書かるたの「た」には、こうあります。
『たくさんの 歌を作った ダビデ王』
ダビデは、立琴でサウル王を慰め癒やしました。
にもかかわらず、サウル王に命を狙われることになります。
サウル王の息子ヨナタンとダビデは、深い友情で結ばれていました。
しかし、サウル王の殺意が決定的なものになったとき、ダビデはそこを離れることにしたのです。
そして、ノブの祭司のところへ行き、ゴリアテの使っていた剣を手に入れ、その後、ペリシテの5大都市の1つ、ガデへ行ったのです。

聖書かるたの「お」は、こうです。
『大男 ゴリアテ倒した ダビデさん』
ペリシテの英雄、ゴリアテを倒したのは、少年ダビデでした。
そのダビデが、ゴリアテの剣を持って、ペリシテ人の国にいるのです。
大胆というか、そこしかサウルから逃れることができないというか、ギリギリの選択です。
それだけ、ダビデが追い詰められていたということでしょう。

そこで、アキシュの家来たちの言葉が聞こえてきました。
ダビデは恐れて、気が変になったふり、ダビデでないふりをしたのです。
写真もテレビもない時代ですから、他人のふりも可能だったのかも知れません。

ある人たちは、「ダビデは信仰が弱まった」「神様への信頼が足りなかった」と、責めたり、たしなめたりします。
しかし、そうではなく、他人事ではなく、これは私たち自身の問題です。
人間すべての問題ともいえるでしょう。
十字架前夜のペテロも、同じように他の人の言葉を恐れて、イエスさまを否認しましたね。

「じゃ、どうしようもないじゃない」・・・ではありません。
問題というのは、原因がわかれば、対処もできるのです。

ダビデは、神様に油注がれていました。
すでに、王として神様に選ばれていたのです。
現状は、サウル王に追われる立場ですが、神様にとってはすでに王なのです。
これが、神様の約束です。
アキシュの家来たちの「この人は、かの地の王ダビデではありませんか。」(11節)というのは、あながち間違ってはいないのです。

しかし、そのアキシュの家来たちの言葉が、ダビデを恐れさせました。
ダビデは、神様の約束の言葉よりも、眼の前の人間の言葉を恐れ信じたのです。
あてにならない人の言葉を、あてにならない人を、信じてしまうことは、つまり、振り回されてしまうことです。
ヤコブがそうでした。
母リベカの言葉に振り回され、逃亡せざるを得なくなりました。
アブラハムやイサクが、妻を「妹」と偽ったのも同じです。
さきほど言ったペテロの否認も、サウル王の失敗も、同じです。
人の言葉を恐れると、振り回されてしまうのです。
神様の約束に立ち帰ることが、必要なのです。

「あの人がこう言ったから・・・」「あの人は、私のことをこう思っているに違いない」
こんな事ばかり考えていたら、神様の事を考える隙間も余裕も、なくなってしまうでしょう。

神様は、あなたをなんと言っていますか?
神様は、あなたをどれほど大事に愛していますか?
あなたのために、ひとり子イエスさまを殺すほどの、大きな思い約束と愛がそこにあるのです。

あなたの想像を超える、大きな赦しが、そこにあるのです。
ダビデにも、ヤコブにも、ペテロにも、神様からの回復の場がありました。
原因がわかっても、対処しようとしても、失敗することがあります。
人間は、それほどに弱い存在なのです。
でも、それでも赦して、励ましてくれる、愛の神様がいるのです。

この愛の中に、生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.08.04
「一つも無駄にならないように」ヨハネ 6:5-14

5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。
7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。
14 人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。


聖書には4つの福音書があり、それぞれに特徴もあります。
イエスさまの復活は、4つの福音書すべてに書かれている奇跡です。
復活以外で、唯一4つの福音書すべてに記されている奇跡が、今週の聖書箇所の五千人の給食です。

沢山の人達がイエスさまについてきて、ピリポにイエスさまがチャレンジします。
そのとき、アンデレが少年を連れてきて、大麦のパン5つと2匹の魚で全員が満足いくまで食べ、残りを集めると十二のかごがいっぱいになったというのがあらすじです。

今週は、ヨハネの福音書だけに書かれているイエスさまの言葉、
「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」(12節)
に注目して、御言葉を開きます。

パン切れ、訳によってはパンくずと書かれているものもありますが、基本的には要らないものです。
不要なもので、使用済みで、ゴミ同然と言ってもいいでしょう。
期待されていない、利用価値がないものとも言えます。

しかし今や、十二かごいっぱいのパン切れは、神様の栄光をあらわすものであり、祝福された証しの品になったのです。

もしあなたが、パン切れやパンくずのように、他人に期待されていなくても、価値がないとされても、憎まれても、蔑まれたとしても、神様は決して見捨てないのです。
最後に集められたパン切れが、1つだけだったり、1かごだけだったりしたら、「私はそこから漏れているかも」と思ってしまうかも知れません。
しかし、そうではないのです。
十二かごいっぱいのパン切れは、すべての人に開かれた神様からの愛を示しているのです。
神様は、「一つも無駄にならないように」したのです。
それは、ひとりも愛から漏れることのないように、ということです。

神様は、あなたを絶対に見捨てないのです。
イエスさまは、そのために十字架について、死んだのです。
その姿は、イスラエルに与えられた、パン切れのようでした。
いのちのパンであるイエスさまが、パン切れ・パンくずになってでも、あなたを神様の愛の中に取り戻したかったのです。

パン切れのようなイエスさまが、パン切れのようなあなたを、捨てるはずがありません。
パンくずのようなイエスさまが、パンくずのようなあなたを、愛さないはずがありません。
人の目には、不要で、無価値に見えるかも知れないけれども、神様にとってあなたは宝物なのです。
だから、無理に立派なパンのふりをする必要はないのです。
背伸びも、嫉妬も、ごまかしも、必要ないのです。

愛されるパン切れとして、愛されるパンくずとして、
新しい価値の中で、あなたを生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.07.28
「いつもの中に」ルカ 22:39-42

39 それからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた。弟子たちもイエスに従った。
40 いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。
41 そして、ご自分は弟子たちから離れて、石を投げて届くほどのところに行き、ひざまずいて祈られた。
42 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」

今週の聖書箇所は、十字架前夜、いわゆる「最後の晩餐」の後のことです。
聖書の中で、「いつもの」という言葉は、新改訳聖書では8回出てきます。
そのうち唯一、2節続けて「いつもの」が登場するのが、ここの39節と40節です。

イエスさまは、いつものようにオリーブ山へ行き、いつもの場所に着きました。
でも、そこでのイエスさまと神様とのやり取りは、いつものもの、いつも通りではありませんでした。
十字架を目前にして、苦しみ悶えるイエスさまがそこにいました。
それでも、そんな状況の中で、神様のみこころに従い切ると、決心するイエスさま。
いつものように、いつもの場所での、特別な出来事です。
人類史を変える、史上最大の出来事は、いつもの中に行われたのです。

いつものときに、いつもの場所で。
神様はここに、いつものこと以上の、いつものこと以外の、スペシャルを与える方なのです。

いつもの時、いつもの場所が、特別なとき、特別な場所に変わったのは、このときだけではありません。
先週のメッセージのお話したサムエルもそうでした。
サウルやダビデが王に選ばれたときもそうでしょう。
アブラハム、ギデオン、モーセ、思いつくまま上げていけば、キリがないでしょう。

私や妻にも、ありました。
そして、もちろん、あなたにもあるのです。

特別な場所や特別な集会、特別な教会や特別な修養会、特別な牧師のメッセージ・・・
それらは、悪いものではないでしょう。
しかし、あなたのいつもの中に、神様は特別な出会いを、特別な導きを、用意しているのです。
あなたのいつもは、もう、つまらないただの繰り返しではないのです。
あなたの神様の、大切な出会いの場所なのです。

あなたのいつもの日々を、大切に生きてみませんか。
あなたのいつもの場所を、大切にしてみませんか。
そして、神様との特別な出会いに、神様からのスペシャルなプレゼントに、期待してみませんか。

あなたの人生は、あなたの毎日は、あなたのいつもは、神様に祝福されているのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.07.15
「孤独は、罰か?呪いか?」創世記28:10-17
 
10 ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。
11 彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。
12 すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
13 そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
16 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
17 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
 
ヤコブは、ひとり旅に出ました。
叔父のラバンの家に、妻を探しに行く旅です。
こう言うと、ウキウキした旅のように感じるかも知れませんが、実際は、逃亡の旅です。
 
母のリベカと共謀して、父イサクと兄エサウをだまし、その結果、エサウから殺意を抱かれます。
双子の子供のうち、弟ヤコブだけを偏愛する母とは、今生の別れとなってしまいました。
身一つで、石を枕に野宿するヤコブ。
それは、財産家であるイサクの子供としては、惨めすぎる姿です。
 
孤独、孤立、ひとりぽっち、自分の行動が招いたとはいえ、なんともさびしい姿でしょう。
 
しかし、そんな惨めな状態のヤコブに、神様の声が、神様の約束が与えられたのです。
そう、孤独は、罰でも呪いでもなく、神様があなたに声を掛けるチャンスなのです。
神様とあなたが、1対1の出会いを得るチャンスなのです。
あなたが、神様に向き合うための必要な場面だったのです。
 
それまでのヤコブは、愛する母親リベカの声しか聞いていませんでした。
 
「母は彼に言った。『子よ、あなたへののろいは私の身にあるように。ただ私の言うことをよく聞いて、行って子やぎを取って来なさい。』」(創世記27:13)
この言葉から、ヤコブは父親をだましたのです。
 
「さあ今、子よ、私の言うことをよく聞きなさい。すぐに立って、ハランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。」(創世記27:43)
しかし、たくらみが発覚すると、リベカは逃げろというのです。
 
母親の愛から出たものとはいえ、なんとも、あてにならない言葉です。
 
そんなあてにならない言葉から解放されて、本当の力ある言葉、いのちのある言葉、その言葉に導かれて生きる。
神様の言葉、愛の言葉に生きる。
そのために、ヤコブには孤独が必要だったのです。
 
聖書の中には、孤独の中で神様に出会った人々がたくさんいます。
モーセもそう、ダビデもそう、ヨナもそう、アブラハムもそう。
中でも、いっときに大量発生した出来事は、バベルの塔でしょう。
誰とも言葉が通じないとき、群衆の中での孤独に陥るとき、ただ一人神様だけを見上げるチャンスがあるのです。
 
聖書だけでなく、過去だけでなく、今ここにいる一人ひとりの中にも、そういう経験をされた方は少なくないでしょう。
 
あなたが今、孤独であっても、過去に孤独があったとしても、これから孤独に襲われたとしても、それは呪いでも罰でもないのです。
 
あなたの孤独を、あなたは恐れなくていいのです。
あてにならない言葉から、解放されましょう。
あてにならない関係から、卒業しましょう。
 
一人ぼっちは心配しなくていい、そういう生き方があるのです。
力ある、神様の愛の言葉に、愛の約束に、しっかりとあなたを留めましょう!

ゴスペルハウスメッセージ 2018.07.08
「伝えるべきこと」申命記6:20-25

20 後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神である主が命じられた、このさとしと掟と定めはどういうことですか」と言うなら、
21 あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでファラオの奴隷であったが、主が力強い御手をもって私たちをエジプトから導き出された。
22 主は私たちの目の前で、エジプトに対し、ファラオとその全家族に対して、大きくて害をもたらすしるしと不思議を行い、
23 私たちをそこから導き出された。それは、私たちの父祖たちに誓われた地に私たちを導き入れ、その地を私たちに与えるためであった。
24 それで主は、私たちがこのすべての掟を行い、自分たちの神である主を恐れるように命じられたのである。今日のように、いつまでも私たちが幸せになり、私たちが生かされるためである。
25 私たちの神、主が命じられたように御前でこのすべての命令を守り行うとき、それは私たちの義となるのである。」

今週の聖書の箇所は、モーセが民に語っています。
もし、息子に「このさとしと掟と定めはどういうことですか」(20節)と質問されたとき、どう応えるかという内容です。
その内容とは、
1.奴隷からの解放
2.支配者への、恐るべき神様のみわざ
3.確かな、約束への導き
4.いつまでもいのちにとどまる
5.神様に義とされる
に、要約されます。

神様の掟と命令を守るときに、神様からの報いがあるというのです。
いわゆる、「契約」です。

しかし、この契約は、不平等な契約です。
一方的ばかりが負担の多い、いびつな契約です。
たとえて言えば、「10円でフェラーリの新車を購入できます」というほどの不平等さなのです。
つまり、民には負担が軽く、神様にばかり負担の大きい契約なのです。

第7章12節以降を少し読んでみましょう。

7:12 もしあなたがたがこれらの定めを聞き、これを守り行うなら、あなたの神、主は、あなたの父祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、
7:13 あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたを増やす。主があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われた地で、あなたの胎の実も、穀物、新しいぶどう酒、油などの大地の実りも、またあなたの群れの中の子牛、群れの中の子羊も祝福される。
7:14 あなたはあらゆる民の中で最も祝福される。あなたのうちには、子のいない男、子のいない女はいなくなる。あなたの家畜も同様である。
7:15 主はあらゆる病気をあなたから取り除き、あなたが経験したあのエジプトの悪疫を、一つもあなたにはもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下される。

この内容も、神様側にとって見れば、割に合わないものです。
そもそも、アブラハムと神様が、創世記第15章で締結した契約からして、徹底的に不平等でした。
アブラハムが寝ている間に、神様だけが命懸けの契約を交わしたのです。

神様からの命令は、神様からの掟は、不平等な契約を通して、神様からの愛を受けるためです。
そこから目を離さないために、神様は掟を定めてくれたのです。
目を離して、それを見失い、まるで得ていないかのような人生を送らないためです。

先程の1~5を、もう一度見てみましょう。
1.奴隷からの解放
2.支配者への、恐るべき神様のみわざ
3.確かな、約束への導き
4.いつまでもいのちにとどまる
5.神様に義とされる
そして、これが不平等な、一方的なものだったのです。
そう、これは、イエスさまとあなたとの契約です。

罪の奴隷であったあなたのために、イエスさまは身代わりになって十字架にかかってくださったのです。
それだけでなく、三日目によみがえって、永遠のいのちを与えてくれたのです。

あなたに与えられているのは、神様の子どもに与えられているのは、重い契約の縛りではありません。
大きな祝福の約束なのです。
しかも、その契約のための支払いは、二千年前の十字架で済んでいるのです。

ある人が、こう言いました。
「あなたが生きていることが、あなたの最大の価値なのです。」
私は、もっと大きな価値を宣言します。
「あなたが神様に生かされていることが、あなたの最大の価値なのです。」

伝えるべきこと、胸に刻むべきこと、
最大の価値の中で、あなたを輝かせましょう!

ゴスペルハウスメッセージ 2018.06.30
「イエスさまとともに歩む」マルコ 5:22-37

22 すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、
23 こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」
35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」
36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
37 イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。

ユダヤの会堂司であるヤイロが、イエスさまと懇意にするということは、大きなリスクを伴うものでした。
それは、イエスさまは当時、ユダヤ教指導者たちから、嫌悪されていたからです。
しかし、娘が瀕死という状況にあって、ヤイロはその立場も誇りも捨てて、イエスさまの足もとにひれ伏したのです。

ヤイロの決心は、イエスさまの力を知っているからです。
しかし、失うものもの多いため、きっと、家族親族でも賛否両論だったことでしょう。
「会堂司の立場を失ったら、どうするつもり?」
「イエスに頼っても、病が癒やされるかどうかわからない!」

しかし、ヤイロは決心しました。
そして、イエスさまはヤイロと一緒に行くことになりました。
ヤイロももちろん、イエスさまとともに歩みます。
それは、大きな決意の歩みです。
しかも、少し心は揺れながら。

そこに現れたのが、長血に苦しんでいる女性です。

イエスさまは、立ち止まりました。
ヤイロも、立ち止まらざるを得ません。
一刻を争う、瀕死の娘を想うヤイロの気持ちはどんなだったでしょう。
もう、気が気ではありません。
「そんなの、明日でもいいじゃないか!」
「わたしは、すべてを捨てたっていうのに!」
「娘は、今にも死にそうなんです!」

そんなときにもたらされたのが、娘の死の報告でした。
ヤイロの家から、わざわざ使いが来たのは、家族親族の中に、イエスさまとの交流を反対する人も多かったことの証左でしょう。

ヤイロは、イエスさまとともに歩む必要がなくなってしまいました。
もう、娘は死んでしまったのです。
いえ、歩む必要がなくなったどころか、歩まないほうが良くなったのです。

そんなヤイロに、イエスさまは語りかけます。
「恐れないで、ただ信じていなさい。」(36節)

私たちは、自分の決心でイエスさまとともに歩めると、神様とともに歩めると、思っています。
しかし、そんなことのできる人はいないのです。
もし、いたとするなら、イエスさまの十字架は無意味です。
出エジプトのときに、圧倒的な神様の力を見せつけられたイスラエルの民でさえ、つまずいたのです。
これが、罪人の姿です。

イエスさまが十字架に掛かる前、ペテロはどんな事があっても、イエスさまに従うと言い切りました。
しかし、イエスさまが逮捕されたときのことが、ルカ 22:54にあります。 
「彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。」
ペテロはコソコソついて行くことしかできず、挙句の果てに3回もイエスさまを否認したのです。
もちろん、ペテロだけが弱いのではありません。

でも、そんな弱い私たちでもいいのです。
そんな弱いあなただからこそ、イエスさまの十字架の愛が、注がれるのです。
イエスさまからの、回復の言葉が与えられるのです。

イエスさまとともに歩みましょう。
ヤイロのように、思い通りにならない状況があるかも知れません。
ペテロのように、思い通りにならない自分がいるかも知れません。
つまずくことも、転ぶことも、裏切ることもあるでしょう。
臆病になることも、くじけることもあるでしょう。

でも、神様の愛は、そんなことではくじけません。
ここに、あなたの希望があるのです。
あなたは弱くても、神様の愛は強いのです。

あなたの歩みで、弱さを抱えたままで、悲しさを抱えたままで、イエスさまとともに歩みましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.06.23
「不正に得た契約の実」ヨシュア記 第9章
 
ヨシュアをリーダーに、ヨルダン川を渡り、エリコ、アイと快進撃を続けるイスラエルの民。
そんな彼らの前に、2つの異なった対応をする勢力が現れました。
 
1つは、連合して、イスラエルに戦いを挑もうとする勢力。
「さて、ヨルダン川の西側の山地、シェフェラ、レバノンに至る大海の全沿岸のヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちはみな、これを聞くと、ともに集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。」(1-2節)
 
もう1つは、イスラエルと和睦を目指す勢力、ギブオン人です。
彼らは、イスラエルに対して、害意も敵意もありませんでしたが、和睦のためにイスラエルをだましました。
イスラエルの力を恐れ、自分たちの正体を隠し、イスラエルに取り入ったのです。
「あなたがたは何者か。どこから来たのか。」(8節)とヨシュアに聞かれても、のらりくらりと返答をして、煙に巻いてしまいます。
必要な情報を隠し、真実を曲げ、イスラエルとの和睦を獲得したのです。
 
この契約は、はっきりと不正な契約です。
そして、3日の後に、この不正が発覚します。
しかし、イスラエルの族長たちは言いました。
「私たちはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。」(19節)
 
不正に得た契約、その契約の実に対して、イスラエルは真実をもって応えたのです。
揺るぎない契約が、不正を通したにもかかわらず、彼らに与えられたのです。
実際、この第9章に続く第10章では、ギブオン人の要請に従って、イスラエルは戦闘に参加しているのです。
それは、凄まじい戦いでした。
イスラエルは、いのちをかけて、不正な契約に対して、真実な実を与えたのです。
しかも、神様はそのことを良しとされ、1日の長さまで変える奇蹟を行っています。
 
こんなギブオン人は、ずるい。かもしれません。
しかし、不正に得た契約の実は、ギブオン人だけでなく、あなたも、私も得ているのです。
 
それは、イエスさまの十字架です。
 
あなたの救いに対して、あなたの罪からの解放に対して、あなたの決心や、信仰的な行動・態度は、何の役にも立ちません。
もし、役に立つのだとすれば、それは正当な報酬であり、正当な契約の実です。
しかし、現実は、何の役にも立たないのです。
 
ただイエスさまが十字架にかかったことで、何の努力も、実績も、資格もないまま、あなたに永遠のいのちの契約が与えられたのです。
まさに、あなたが不正に得た契約の実です。
それは、永遠のいのち、完全な赦し、罪からの解放。
揺るぎない契約が、あなたのものになったのです。
 
ギブオン人は、ヨシュアに、こう言いました。
「あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちを扱ってください。」(25節)
 
今、この宣言を、あなたの神様への宣言にしましょう。
神様の御心のままに、神様のお目にかなうように、あなたを扱ってもらいましょう。
 
自分の力や頑張りではなく、不正に得た契約の実。
それは、十字架の愛によって得た、契約の実。
この愛の実の中で、神様の望むとおりのあなたを、生きてみませんか。
 
 
(聖書箇所が長いので、下に記載しました)
 
1 さて、ヨルダン川の西側の山地、シェフェラ、レバノンに至る大海の全沿岸のヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちはみな、これを聞くと、
2 ともに集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。
3 ギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行ったことを聞くと、
4 彼らもまた策略をめぐらし、変装をした。古びた袋と、古びて破れて継ぎ当てをしたぶどう酒の皮袋をろばに負わせ、
5 繕った古い履き物を足にはき、古びた上着を身に着けた。彼らの食糧のパンはみな乾いて、ぼろぼろになっていた。
6 彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。「私たちは遠い国から参りました。ですから今、私たちと盟約を結んでください。」
7 イスラエルの子らはそのヒビ人たちに言った。「おそらく、あなたがたは、私たちのただ中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結べるだろうか。」
8 彼らはヨシュアに言った。「私たちは、あなたのしもべです。」ヨシュアは彼らに言った。「あなたがたは何者か。どこから来たのか。」
9 彼らは彼に言った。「しもべどもは、あなたの神、主の名のゆえにとても遠い国から参りました。主のうわさ、および主がエジプトで行われたすべてのこと、
10 主がヨルダンの川向こうのアモリ人の二人の王、ヘシュボンの王シホン、およびアシュタロテにいたバシャンの王オグになさった、すべてのことを聞いたからです。
11 私たちの長老や、私たちの国の住民はみな私たちに言いました。『旅のための食糧を手にして彼らに会いに出かけなさい。そして彼らに、「私たちは、あなたがたのしもべです。今、どうか私たちと盟約を結んでください」と言いなさい。』
12 これが私たちのパンです。私たちがあなたがたのところに来ようと出た日、それぞれ自分の家で食糧として準備したときには、まだ温かかったのですが、今はご覧のとおり、干からびて、ぼろぼろになってしまいました。
13 これがぶどう酒の皮袋です。私たちがこれらを満たしたときには新しかったのですが、ご覧のとおり破れてしまいました。これが私たちの上着と私たちの履き物です。とても長い旅のため古びてしまいました。」
14 そこで人々は彼らの食糧の一部を受け取った。しかし、主の指示を求めなかった。
15 ヨシュアは彼らと和を講じ、彼らを生かしておく盟約を結んだ。会衆の上に立つ族長たちは彼らに誓った。
16 彼らと盟約を結んでから三日たったとき、人々は彼らが近くの者たちで、自分たちのただ中に住んでいるということを聞いた。
17 そこでイスラエルの子らは出発し、三日目に彼らの町々に着いた。彼らの町々とはギブオン、ケフィラ、ベエロテ、およびキルヤテ・エアリムであった。
18 イスラエルの子らは彼らを討たなかった。会衆の上に立つ族長たちがイスラエルの神、主にかけて彼らに誓ったからである。しかし、全会衆は族長たちに向かって不平を言った。
19 族長たちはみな全会衆に言った。「私たちはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。
20 私たちは彼らにこうしよう。彼らを生かしておこう。そうすれば、私たちが彼らに誓った誓いのために、御怒りが私たちの上に下ることはないだろう。」
21 族長たちは全会衆に言った。「彼らを生かしておこう。」彼らは全会衆のために薪を割る者、水を汲む者となった。族長たちが彼らについて言ったとおりである。
22 ヨシュアは彼らを呼び寄せて、彼らに言った。「あなたがたは私たちのただ中に住んでいながら、なぜ、『私たちは、あなたがたからとても遠いところの者です』と言って私たちを欺いたのか。
23 今、あなたがたはのろわれる。あなたがたの中から、奴隷たち、私の神の家のために薪を割る者と水を汲む者が絶えることはない。」
24 彼らはヨシュアに答えた。「しもべどもは、はっきり知らされました。あなたの神、主がこの全土をあなたがたに与え、その地の全住民をあなたがたの前から根絶やしにするように、しもべモーセにお命じになったことを。それで私たちは、自分のいのちのことであなたがたを非常に恐れ、このようなことをしたのです。
25 ご覧ください。今、私たちはあなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちを扱ってください。」
26 ヨシュアは彼らが言うようにし、彼らをイスラエルの子らの手から救った。それで彼らは殺されなかった。
27 ヨシュアはその日、彼らを会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれる場所で薪を割る者と水を汲む者とし、今日に至っている。

坂本 秀雄 (伝道師)

Author:坂本 秀雄 (伝道師)

ゴスペルハウスは、超教派のキリスト教伝道所です。
神様の愛で建てられ、神様の愛を伝えています。

2008年にブラジル・サンパウロから帰国した家族が、山形県の川西町に移住して楽しくゴスペルハウスな生活をしています。
そして今度は隣町の高畠へ引っ越しました。
どなたでもお気軽にお越しください。

ゴスペルハウスには、あなたのための席が用意されています。

お気軽にお越しください。
山形県東置賜郡高畠町
安久津1070

電車でお越しの方は、高畠駅までお迎えします。

賛美・御言葉・聖餐を中心とした、明るい雰囲気の礼拝です。
はっきり言って、楽しいです。

同時間帯で、「子ども礼拝」も行なっています。
大人も子どもも、クリスチャンもそうでない方も、ぜひご一緒に集いましょう。

集会の後には、ご一緒に夕食を頂きます。
伝道師みずから、腕をふるって料理します。
おいしいですよ。(もちろん無料)