2017 / 08
≪ 2017 / 07 - - 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 - - 2017 / 09 ≫

ゴスペルハウスメッセージ 2017.08.06
「いのちとちからは」使徒行伝 7:30-38 

30 四十年たったとき、御使いが、モーセに、シナイ山の荒野で柴の燃える炎の中に現われました。
31 その光景を見たモーセは驚いて、それをよく見ようとして近寄ったとき、主の御声が聞こえました。
32 『わたしはあなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。』そこで、モーセは震え上がり、見定める勇気もなくなりました。
33 すると、主は彼にこう言われたのです。『あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたの立っている所は聖なる地である。
34 わたしは、確かにエジプトにいるわたしの民の苦難を見、そのうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下って来た。さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう。』
35 『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか。』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現われた御使いの手によって、支配者また解放者としてお遣わしになったのです。
36 この人が、彼らを導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年間荒野で、不思議なわざとしるしを行ないました。
37 このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。』と言ったのです。
38 また、この人が、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会において、生けるみことばを授かり、あなたがたに与えたのです。

使徒行伝第7章は、最初の殉教者ステパノの裁判での大演説です。
信仰の祖アブラハムからはじまって、モーセ、ダビデと、ステパノのメッセージは展開されていきます。
今週取り上げた箇所は、モーセの箇所の一部ですが、ぜひ全文をお読みください。

さて、ステパノが語っている相手は、ユダヤ人です。
ですから、ステパノに言われるまでもなく、アブラハムもモーセもダビデも知っています。
彼らは、旧約聖書を熟知しているのです。
その知っているあたりまえの中から、ステパノはイエスさまの愛、、イエスさまの言葉、イエスさまの力、イエスさまのいのちを語りました。

最初は、群衆はステパノを嘲笑していたことでしょう。
「イエスの弟子とやらが、どんな言い逃れをするのだ?」
「みじめに、いのち乞いでもしたらいい」
しかし、彼らには、悔い改めが必要になったのです。
もう、ステパノをバカにできなくなりました。

ステパノの語る言葉に従うか、ステパノの言葉を拒否するか。
彼らはこの二択の中で、悔い改めよりも怒りを選択しました。
そして、ステパノは石打ちにされ殉教したのです。

ステパノが語った言葉は、何の変哲もないメッセージでした。
ユダヤ人ならだれでも知っている、アブラハム・モーセ・ダビデです。
あたりまえの中のあたりまえです。
でも、そのあたりまえの中にいのちがあったのです。
あたりまえの中に力があったのです。

それが、御言葉、神様の言葉です。

あなたが福音を伝えるときも、同じことがいえます。
御言葉そのままでいいのです。
「イエスさまは、あなたのために十字架にかかりました。」
「神様は、あなたを愛しています。」
いのちも力も、御言葉が持っているのです。

世の中には、優れた語り手はたくさんいます。
到底真似出来ないような、見事な信仰生活を送っている人もいます。
数々の奇蹟を体験した証人も、枚挙にいとまがありません。

しかし、いのちはその語り手の才能の中にあるのではありません。
力は、信仰深い人の生活を源としていません。
奇蹟の体験が、あなたを贖ったわけでもないのです。

いのちも力も、御言葉の中にあるのです。
だれもが知っている、あたりまえの中にあるのです。
あなたの信仰を、あたりまえの中に戻しましょう。
そして、あなたの人生に、本当のいのちと力が、あふれますように。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.07.29
「わたしは、」創世記 24:28-38 

28 その娘は走って行って、自分の母の家の者に、これらのことを告げた。
29 リベカにはひとりの兄があって、その名をラバンと言った。ラバンは外へ出て泉のところにいるその人のもとへ走って行った。
30 彼は鼻の飾り輪と妹の腕にある腕輪を見、また、「あの人がこう私に言われました。」と言った妹リベカのことばを聞くとすぐ、その人のところに行った。すると見よ。その人は泉のほとり、らくだのそばに立っていた。
31 そこで彼は言った。「どうぞおいでください。主に祝福された方。どうして外に立っておられるのですか。私は家と、らくだのための場所を用意しております。」
32 それでその人は家の中にはいった。らくだの荷は解かれ、らくだにはわらと飼料が与えられ、その人の足と、その従者たちの足を洗う水も与えられた。
33 それから、その人の前に食事が出されたが、その人は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」「お話しください。」と言われて、
34 その人は言った。「私はアブラハムのしもべです。
35 主は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。
36 私の主人の妻サラは、年をとってから、ひとりの男の子を主人に産み、主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます。
37 私の主人は私に誓わせて、こう申しました。『私が住んでいるこの土地のカナン人の娘を私の息子の妻にめとってはならない。
38 あなたは私の父の家、私の親族のところへ行って、私の息子のために妻を迎えなくてはならない。』

創世記の第24章には、アブラハムの息子イサクの妻選びについて書かれています。
イサクの妻を探すために、アブラハムのしもべが派遣されました。
そして、神様の導きどおりに、しもべはリベカと出会ったのです。
リベカの家族に歓待されたしもべは、このように自己紹介しました。

「私はアブラハムのしもべです。」(34節)

彼は自身について、これ以上のことを語りません。
私は、これはすばらしいことだと思います。
彼には、これ以上に、この他に、誇るべきものがないのです。
これ以外に、表すべき関係もないのです。
彼にとって、「アブラハムのしもべ」であることは、ただ一つの確固たる立場であり、土台なのです。
他の人の了承も協力も承認も必要ない、彼の存在の基盤なのです。
アブラハムと彼との、1対1の信頼すべき、信用すべき、大切な関係なのです。

では、あなたはどうでしょう?
あなたの、誇るべきものはなんですか。
あなたの、人生の土台はなんですか。

私の場合を紹介しましょう。
私と妻が結婚する前、結婚するなどと思ってもいなかった頃のことです。
妻は、私が言った一言に心を乱されていました。
私は言ったことすら忘れていたのですが、彼女の心にスパッと切り込んだ言葉だったのです。

それは、
「ボクは神様の一人っ子」

彼女も当時すでにクリスチャンでしたから、「私だって神様の子どもなのに、何でこの人は一人っ子なんて言うんだろう」と怒っていたようです。
しかし、もう一方で、「あの信仰、あの神様への信頼はどこから来るんだろう」という興味も持ったのです。
こんなことがきっかけとなって、お付き合いが始まり、結婚することができたのです。
今では彼女も、「私も一人っ子」と言っています。

私はいまでも「神様の一人っ子」で、かつ、「神様に、やたらとえこひいきされている伝道師」です。
神様との自分の関係を、神様の取り計らいを考えたとき、一人っ子で、えこひいきされているとしか思えないのです。
それほどまでに、大きな愛が、私の人生の土台です。

イエスさまはあなたに、1対1の関係を求めています。
他のだれにも干渉されない、あなたとの愛の関係を望んでいるのです。

しもべが、アブラハムの力、アブラハムの守り、アブラハムへの所属の中に自身を確立したように、あなたは、イエスさまの愛の中に、イエスさまの恵みの中に、イエスさまの赦しの中に、あなたを確立していいのです。
あなたは、神様の唯一の愛の対象に、もうすでに、なっているのです。

あなたも、大胆に自己紹介してみましょう。
「わたしは、・・・!」
続くものは、なんですか。

いま、神様の愛を受けて、あなたの存在を手に入れましょう。
そして、力強く宣言しましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.07.22
「さまよいの意味」創世記 21:8-21 

8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
9 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。
10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」
11 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。
12 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。
13 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」
14 翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。
15 皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木の下に投げ出し、
16 自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない。」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。
17 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。
18 行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」
19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。
20 神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。
21 こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。

アブラハム100歳、サラが90歳のときに、約束の子イサクは誕生しました。
しかし、神様の約束を待ちきれなかったアブラハムとサラは、サラの女奴隷ハガルによって、イシュマエルを得ていました。
サラが主導したこのことが、今回の騒動の原因と言えそうです。
今週はここから、「さまよいの意味」と題して、御言葉を開いていきましょう。

サラには、自分の言い分(正義)がありました。
私はアブラハムの本妻で、ハガルは私の奴隷である。
なのに、奴隷の子どもが私の愛するイサクと同じように扱われるなんて、許されることではない。
奴隷のくせに、イシュマエルをみごもってからというもの、態度も横柄ではないか。
追い出す以外に、解決策はない!

ハガルには、ハガルの言い分(正義)があります。
私は、主人サラに言われるがままに、アブラハムの子イシュマエルを宿し、出産したのです。
イシュマエルのほうが年齢が上なので、イサクよりもしっかりして見えるでしょう。
私たち親子に、落ち度は何もありません。

アブラハムは、イサクもイシュマエルも愛していますから、苦悩しました。
よい解決方法は見つからず、傷つけ合うのを見るのは忍びないことです。

サラやハガルに限らず、人間は、自分の正義を主張し、戦いがちなものです。
もちろん、私もあなたも例外ではないでしょう。
しかし、そのままでは、自分の正しさを主張できる者と、打ちのめされて悲しむ者が生じてしまうだけです。
勝ち負けにこだわり続ける人生、勝てば上機嫌で、負ければ絶望、なんとも不安定なものです。

ここでは、サラの主張が通り、ハガルとイシュマエルは、わずかな食料と水だけを持って、追い出されてしまいました。
神様が、アブラハムにそうするように指示したからです。

わずかな食料と水だけを持って、ハガルは荒野をさまよい歩きました。
水が尽きた時に、彼女は絶望しました。
自分も、愛するイシュマエルも、死ななければならないと覚悟しました。

その時、神様の使いが、ハガルのもとにやって来たのです。
ハガルとイシュマエルの嘆きは、神様に届いたのです。
神様は、彼女たちに水を与え、いのちを与え、祝福を与えたのです。

彼女は、さまよいました、絶望しました。
しかし、そのことには意味があったのです。
それは、彼女が神様の力に出会うためです。
神様の恵みに、出会うためです。
神様の愛に、抱かれるためです。

創世記には、これより以前に、神様からさまよいなさいと命じられた人がいます。
カイン(第4章参照)です。
神様は、さまようことを通して、カインに愛を示そうとしたのです。
しかし、彼はさまようことをせずに、ノデの地に住み着いてしまいました。
さまようべきだったカインは、さまよえなかったのです。
愛に触れるはずだったカインは、愛を感じることができなかったのです。

ハガルは、カインのように適当な地を見つけて住み着くという力もありませんでした。
だから、自分自身に絶望するしかなかったのです。
だから、神様の言葉と力にすがるしかなかったのです。

あなたの人生にも、さまよわなければならないことがあるかもしれません。
あなたの正義を打ち砕かれて、悲しみとともに追い出されることもあるでしょう。
だれにも理解してもらうこともなく、居場所のない孤独も経験するかもしれません。
しかし、覚えていてください。
それは、神様の裁きのときではないのです。
あなたのさまよいは、絶望への一里塚ではないのです。

あなたは、見捨てられてはないのです。
さまよいの中で、痛みと孤独の中で、神様の愛に出会いましょう。


さまよい、それは、神様の愛と力が、あなたの人生に与えられるためのステージです。
無理解と孤独、それは、神様の恵みにあなたが出会うためのステップです。
さまよいや孤独の原因が、あなた自身にあるように感じても、その機会をも神様は用いるのです。


ゴスペルハウスメッセージ 2017.07.16
「あなたの花」創世記 18:20-33
 
20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。
21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。
23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」
26 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」
29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」
30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」
31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」
32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
33 主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。
 
みなさんは、信仰生活の「松竹梅」を知っていますか。
もともと松竹梅には、上下関係はないそうですが、鰻丼などは松・竹・梅の序列がありますね。
信仰生活にも、同じように松竹梅があるのです。
 
「梅」の信仰とは、『うめえ話ばかり求める信仰』です。
仕事が成功しますように、お金が儲かりますように、スポーツで優秀な成績になりますように・・・・
人間の欲望にはキリがありません。
そんなご利益を求める信仰は、上等とはいえません。
 
「竹」の信仰とは、『高ぇ(たけぇ)プライドに凝り固まった信仰』です。
キリスト者と異教徒をことさらに区別し、「私たちは選ばれた人。彼らは滅びゆく魂。」と定義します。
こんなプライドには、愛の香りはしませんね。
 
最も上等な「松」の信仰とは、『神様のときを、神様の言葉を、待つ(松)ことのできる信仰』です。
聖書の中の信仰の成功者たちは、ことごとく松の信仰を身につけています。
逆に、待ちきれない人たちが、ことごとく失意を味わうことになるのです。
待ち切ること、それは、信仰生活においてとても大切なことなのです。
 
しかし、待つことは実は大きなエネルギーを必要とします。
それで、人間はトラブルばかり起こしてしまうのです。
 
今週の聖書箇所のアブラハムも、待ちきれない性格でした。
神様に示された土地へ移住したら、そこに飢饉がありました。
彼はさっそく、そこから再移動してしまいます。
また、外国に行って、妻のサラの美貌のゆえに、わが身に危険が迫るのではないかと考えました。
彼はすぐさま、さらに「妹である」と嘘をつくという小細工をしました。
さらに、子どもが与えられるという約束が与えられたのに、なかなかサラは妊娠しません。
アブラハムはサラの勧めもあり、女奴隷ハガルによってイシュマエルという息子を得ました。
 
信仰の父と呼ばれるのが恥ずかしいほど、彼は待ちきれない者だったのです。
 
しかし、待ちきれない、松の信仰を得られない人には、その人ならではの花があるのです。
 
この箇所は、アブラハムが99歳の頃です。
直前の18章前半で、イサクの誕生が予告されています。
 
アブラハムは、神様からソドムとゴモラの町を滅ぼすと聞かされます。
ソドムには、甥のロトが住んでいます。
そのためもあってか、アブラハムは神様に聞きます。
「 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。」(24節)
神様は、答えました。
「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」(26節)
 
アブラハムは、聞き続けます。
「もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。」(28節)
「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」(29節)
「もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」(30節)
「もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」(31節)
「もしやそこに十人見つかるかもしれません。」(32節)
 
くどいほどの、とりなしです。
何度も何度も、神様に聞き続けるのです。
しかし、神様はそれらをすべて、よしとされました。
 
アブラハムは、待ちきれない性格なので松の信仰は得られません。
しかし、彼は別の信仰を得たのです。
それは、「菊」の人生、そう、「聞く」の人生です。
松になれない人は、その人生に、菊の花を咲かせればいいのです。
 
神様は、いま、生きています。
あなたの目の前に、生きているのです。
そして、あなたを愛し、あなたを受け入れているのです。
待ちきれないとき、あなたは、「聞く」べきです、何度でも。
神様が、それを、よしとされているのです。
 
「菊」の人生にも、注意点があります。
「神様に言うことを聞かせる」ではなく、「神様に聞く」ということです。
また、「あなたの心に聞く」ではなく、「神様の御心を聞く」ということです。
主権者は、あなたではなく、神様なのです。
 
アブラハムも、聞きました。
待ちきれないから、聞きました。
 
でも、それでいいのです。
聞くことで、あなたに与えられる役割もあるのです。
アブラハムは、ソドムとゴモラのために、とりなしをしました。
世界中で彼にだけ与えられた役割です。
待ちきれない弱さゆえの、「菊」の人生ならではの役割です。
 
「松」の人生でなくても、「菊」の人生もありなのです。
 
あなたの個性を、神様は認めています。
「松」の人生でも「菊」の人生でも、神様を主としたときに、あなたの人生は変わるのです。
あなたの心ではなく、神様の心に従うとき、
あなたの心ではなく、神様の心を待つとき、
あなたの心ではなく、神様の心に聞くとき、
あなたの人生に、神様の御業があらわれるのです。
 
何かするのではなく、「待つ」「聞く」。
そこに、あなたならではの役割があるのです。
 
あなたの花を、あなたの菊の花を、立派に咲かせるための秘訣があります。
あなたは、そのままで愛されていることを知ることです。
そのままで認められ、受け入れられていることを知ることです。
そして、その自分を生きることです。
その保証が、イエスさまの十字架です。
あなたは、神様の愛から離されることはないのです。
イエスさまの十字架によって、あなたは愛され、認められ、受け入れられるのです。
 
待ちきれない弱さの中に、菊の花、あなたの花を咲かせましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.07.08
「感情と努力」 列王記下 5:10-14 

10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。
12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」
14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

列王記下の第5章は、ナアマンのことだけが書かれていますので、ぜひ章全体を読んでいただきたいと思います。
ナアマンは、アラムの将軍でした。
彼は重い皮膚病を患っていたので、エリシャに直してもらおうとやって来ました。
財宝を携え、アラムの王の手紙を持ち、イスラエルにやって来たのです。

そんなナアマンに対してエリシャは、しもべをやってこう言わせました。
「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」(10節)
何も難しいことではありません。
しかし、ナアマンは従うことができませんでした。
簡単すぎたから従うことができなかったのです。

もっと努力を求められたら、彼の感情は満足したことでしょう。
つまりは、エリシャの対応は、ナアマンの好みに合わなかったのです。
「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。」(11節)
この言葉が、それを如実に表しています。
つまり、好き嫌いの問題と言い換えてもいいでしょう。

私が塾を経営しているとき、数学の苦手な生徒が入塾してきました。
私は彼女に、どういう分野が苦手なのかを聞き、その解決方法を与えました。
すぐさま、彼女はその単元の問題が解けるようになったのです。
「これで安心だね」と私が言うと、彼女は不安そうに答えました。
「このやり方で、学校で解いてもいいですか?」
彼女は、自分がこんな簡単にできるようになるとは思えない、もっと悩むべきと考えたのです。
これも、感情の問題です。
はじめて出会った私に対して、彼女は全幅の信頼を置くことができなかったのです。
その後、何度か授業を重ねていくうちに、彼女の感情のほつれは解けました。

私たちには、感情があります。
好き嫌いがあります。
でも、信頼していい人からの言葉は、好き嫌いを超えていいのです。
私は授業をする時に「数学キライなままでもいいよ。それでもできるようになっちゃうから」と話します。
感情を超えて、好き嫌いを超えて、現実がやって来るのです。
いうまでもなく、神様からの言葉は、私の数学の授業以上に、完全に信頼に足るものです。

こういう問いにあなたはどう答えますか。
「勉強ができるために、また、能力を伸ばすために、努力は必要か?」
ほとんどの人は、「はい、必要です」と答えるでしょう。
そこでさらに質問を続けます。
「それはだれの努力ですか?」
私の答えは、「教師(教える側)」です。
教師の工夫努力が十分ならば、授業を受ける側は容易に能力を伸ばせるのです。

こういう例ならもっと分かるでしょう。
「美味しい料理を食べるのに努力が必要なのは、料理人か食べる人か、どちらでしょう」
言うまでもなく料理人ですね。
食べる人は、ほとんど何の努力も必要ありません。

くどいようですが、さらにもう一つ。
「かつお節でダシを取るための努力は、かつお節購入前に終わっている」
比較的簡単な作業でダシを取れるかつお節ですが、その製造過程で多くの手間ひまがかけられているのです。
だから購入者は、台所で簡単な作業のみでいいのです。
努力はすでに、製造過程で終わっているのです。

上手な料理人の料理は、そのまま食べていいのです。
かつお節のダシは、何時間も煮出さなくていいのです。
自分が努力しないことについて、あなたの感情がどうであれ、好みがどうであれ、問題ではないのです。
好き嫌いを超えましょう。
キライなままでいいから、受け入れていいのです。

好き嫌いは問題ではないと言ってきましたが、1つ例外があります。
それは、神様の場合です。
神様は、全知全能ですから、その好き嫌いも完璧な好き嫌いなのです。
つまり、好きなものは好きでよいもので、嫌いなものは嫌いでなくてはならないものなのです。

神様は、罪を憎みます。
つまり、罪が嫌いなのです。
ですから、罪人は神様の国・天国に入ることはできません。
神様の好き嫌いは完璧な好き嫌いなのですから、ここは譲ることができません。

しかし、神様はそんな不完全な人間を、愛してやまないのです。

この完全で完璧な好き嫌いを満たすために必要だったのが、イエスさまの十字架です。
イエスさまの十字架によって、あなたは救われました。
イエスさまの身代わりによって、あなたは赦されました。
あなたが何の努力をしたわけでもないのにです。
あなたの感情や好き嫌いにかかわらずにです。

かつお節の製造工程のように、あなたが手にする前にすべての努力は支払われているのです。
二千年前に、すでに完了しているのです。

あなたの感情や努力や好き嫌いが、問題なのではありません。
だれか他の人の感情や努力や好き嫌いが、問題なのでもありません。
神様の感情が、そして、イエスさまの努力が、あなたを神様の子としたのです。

嫌いなままでも、救われます。
受け入れられなくても、赦されています。
本物の愛は、そんなあなたに開かれているのです。

ゴスペルハウスメッセージ2017.06.25
「決意と正しさを超えるもの」 ルカ 9:57-62
 
57 さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」
58 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
59 イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
60 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
61 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
 
 
ここでは、3人の人がイエスさまと会話しています。
今日は、この箇所から、「決意と正しさを超えるもの」というテーマで、御言葉を開いていきましょう。
 
一番目の人は、強い決意を持ってイエスさまに話しました。
この箇所と同じ出来事を書いている、マタイによる福音書第8章では、この人は律法学者とされています。
「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」(57節)
 
彼の強い決意、強い決心、熱意の中に、イエスさまは報いを求める部分を見つけました。
そこで、イエスさまは答えました。
「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」(58節)
「私についてきても、人からの報いはないよ」「あなたが求める賞賛のかわりに、無理解があるよ」「あなたが期待する歓迎のかわりに、迫害があるよ」「あなたが期待に反する孤独があるよ」と、イエスさまは言っているのです。
 
決意も、決心も、熱意も、悪いものではありません。
しかし、あなたの決意やあなたの決心、あなたの熱意だけでは、乗り越えられないものもあるのです。
 
二番目の人は、正しさを持ってイエスさまと話しました。
イエスさまの「ついて来なさい」という招きに対して、彼はこう答えました。
「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」(59節)
子どもが死んだ父の葬りをするのは、当たり前の正しいことです。
 
それに対してのイエスさまの答えは、意外なほど冷たく感じるものでした。
「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」(60節)
 
イエスさまは、家族を喪った人の悲しみを無視するような方ではありません。
弔いの気持ちや、葬りの行動を否定する方でもありません。
それなのに、なぜ、このような答えをしたのでしょうか。
 
それは、この人の父親が、まだ死んでないし、死にかけてもないからです。
きっと、まったくの健康体でしょう。
イエスさまの招きに対して、すぐに従いたくないために、「子としての正しいこと」をたてにとっているだけなのです。
「父親がいるので、いま私は従いません。」という意志表示です。
 
年月が経って父親が死んだならば、きっと彼はこう言うでしょう。
「母親だけを残すわけにはいかないので・・・・」
母親も死ねば、「まだ嫁いでいない妹が・・・」「病気のおじさんが・・・」「頼りない息子が・・・・」
いくらでも、理由はできてしまいます。
それらすべてが死に絶えるまで、彼はイエスさまに従うことはありません。
「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(60節)の「死人たち」とは、「あなたが理由にしたがっている人たち」ということなのです。
 
子として、家族として、正しい(ように見える)理由をつけて、イエスさまについて行くことをやめようとしているだけなのです。
三番目の人も、まったく同様です。
 
イエスさまは、あなたを招いています。
ともに歩もうと、愛の中にいなさいと、招待しているのです。
 
しかし、過ぎた決意・決心・熱意によって、イエスさまよりも前を歩いてしまうことがあります。
他人の賞賛を得たいがために、イエスさまよりも前に出てしまうため、イエスさまには背を向けてしまうことになります。
イエスさまを見つめていないので、どこに歩んでいるのか、何をしているのか、わからなくなってしまうのです。
 
また、過ぎた正しさによって、イエスさまよりも後ろに下がりすぎてしまうこともあります。
イエスさまの背中だけは見えるのですが、イエスさまの表情が見えないので、イエスさまから愛されているという実感を得られません。
 
決意も正しさも、大切なものです。
しかし、その決意や正しさが、イエスさまとの関係を悪くするなら、つまづきの原因なら、何を求めたらいいのでしょう。
 
それは、やはり決意と正しさです。
しかしそれは、あなたの決意や正しさではありません。
イエスさまの決意や正しさなのです。
 
あなたの決意とイエスさまの決意と、どちらがあなたを救いましたか。
あなたの正しさとイエスさまの正しさと、どちらがあなたを導きますか。
言わずもがなですね。
 
では、あなたの願いとイエスさまの願いと、どちらをあなたの人生に実現したいですか。
 
あなたの生きる毎日が、神様の愛とともにありますように。
 
 
(参考:並行箇所)
マタイによる福音書第8章
19 そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」
20 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
21 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」

ゴスペルハウス父の日メッセージ 2017.06.17
「父の執念と愛」 ルカ 15:17-24

17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

今週の聖書箇所は、「放蕩息子のたとえ」としてよく知られているところです。
ルカによる福音書の第15章は、「見失った羊のたとえ」「なくした銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」の3つで構成されています。
短い章なので、ぜひ全体をお読みください。
これら3つのたとえは、1つのテーマを表現しています。

放蕩息子のたとえは、「悔い改めて、神様のところへ立ち帰ろう」というテーマのように語られることもありますが、それは適切ではありません。

第1に、前にある2つのたとえと食い違います。
迷い出た一匹の羊も、なくなった一枚の銀貨も、立ち帰ってはいません。
失われたまま、帰ることもできないでいるのです。
羊は、無知のために、群れから迷い出ました。
無力のために、見通す能力がないために、帰ってくることができないのです。
銀貨は、何かのアクシデントか、誰かの仕業によって、失われました。
もちろん、、銀貨は動くこともできませんから、帰ってくることができないのです。

この弟は、わかっていながら、失われること、迷い出ることを選びました。
そして、また彼も、失われたまま、帰ることもできないでいるのです。

第2に、この放蕩息子は、悔い改めてもいなければ、戻って来てもいません。
彼は、父のところへ行けば食べ物があることを思い出し、帰ろうとしただけです。
飢え死にしそうな自分を救うために、父親に謝ろうとしただけです。(16‐18節)
そして、彼は中途半端にしか戻ってきていません。
「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(20節)
途中まで帰っただけなのです。
途中まで帰るのと、きちんと帰るのは別です。
父親が走り寄らなければ、彼は道の途中で引き返してしまったことでしょう。
これは、ドラマでも、現実でも、よくあることです。

ルカ第15章のテーマは、「失われたものを捜す神様の愛・神様の執念」です。
迷い出た一匹の羊のために、九十九匹の羊を残して捜しに行く。
迷い、おびえ、傷ついた羊を見つける愛と執念。
なくなった一枚の銀貨のために、全力を尽くし、見つけたら大喜びする。
ホコリの中、薄暗がりの中で、無力にうずくまっている銀貨を見つける執念。
いなくなった息子、中途半端にしか戻れない息子のために、走り寄って彼を抱き、口づけする。
自分の意志で出て行き、帰ることができないでいる、愚かな息子を抱きしめる愛と執念。
この神様の愛と執念がテーマなのです。

そして、神様の愛と執念のために、イエスさまは死んだのです。
神様のもとから迷い出てしまった人間を救うため。
自分で立ち返って戻ることができない人間のため。
立ち返り方が中途半端な人間のため。
イエスさまが十字架にかかり、命がけでとりなしをしたのです。

悔い改めがテーマではないのです。
「神様は、神様の愛は、あなた方が思っているような弱いものではない。神様に対する考えを改めなさい。」
というのが、ここのテーマなのです。
2-3節にこうあります。
「すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。
『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。』
そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。」
神様の存在をカン違いしてしまっている彼らに対して、イエスさまが語ったたとえなのです。

もし、「立ち返りと悔い改め」がテーマなら、「神様の愛と執念」がわからなければ、あなたは神様とともに喜べません。
25節以降の兄のように、弟の足りなさと自分の正しさを主張するだけになるでしょう。

神様の、この愛と執念がわかれば、神様とともに喜べます。
あなたは、連れ戻された一匹の羊のために喜べます。
あなたは、捜し出された一枚の銀貨のために喜べます。
あなたは、走り寄って口づけされた放蕩息子のために喜べます。

あなたは、わかるはずです。
わかります!
あなた、その愛と執念が注がれた存在なのですから。
その愛と執念によって、イエスさまの十字架によって、救われた者なんですから。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.06.10
「ペンテコステ」 使徒行伝 2:1-13
 
1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言った。
13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。
 
今日は、ペンテコステ礼拝です。
本当は、先週6月4日がペンテコステだったのですが、ゴスペルハウス礼拝のお休みを頂いたので、ちょっと遅めのペンテコステ礼拝です。
 
イエスさまは十字架で死なれて、3日目によみがえりました。
そして、復活から50日目にあたるのが、ペンテコステです。
今週の聖書箇所には、その日の出来事が書いてあります。
 
この記事の少し前に、こう書いてあります。
「そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。」(使徒行伝1:15)
120名と聞いて、あなたは多いと思いますか、少ないと思いますか。
私は、少ないと思います。
なぜなら、イエスさまが群衆に食事を与える奇蹟を行なったとき、そこには大人の男だけで三千人、五千人がいたのです。
女性や子どもも含めれば、一万人以上いたと考えてもいいでしょう。
 
それに比べたら、120名はたったの1%です。
風前の灯と言ってもいいでしょう。
彼らはそんな状況の中で、祈りに専念し、また、ユダの抜けたあとの十二弟子を選びました。
力強く福音を伝えたり、町々に出て行って証しをしたりすることもありませんでした。
 
十字架に掛かる前の、イエスさまが一緒にいてくれた頃の勢いや安心感はありません。
復活したイエスさまに出会ったときの、驚きも喜びもありません。
イエスさまが、天に戻ってしまって10日間、不安も、恐れも、戸惑いもあったことでしょう。
 
こんな時に、ペンテコステの出来事が起こったのです。
 
はじめの確信もイエスさまの死で揺らぎ、復活したイエスさまも昇天し、弟子たちは途方に暮れています。
喜びや愛や信仰に溢れていたわけではない。
はじめの感激も、はじめの愛も、薄れ、忘れかけたような弟子たち。
イエスさまが生きていた頃には、ふたりずつ遣わされて福音を述べ伝えることもできたのに(参照・ルカ第10章)、いまは、隠れて祈ることしかできないのです。
 
しかし神様は、こんな弱くみじめな彼らを見捨てることはなかったのです。
 
そしてこれは、二千年前の、エルサレムだけで起こることではありません。
あなたにも起こりうることなのです。
 
福音にはじめてであったときの感激から、ふわっと離れてしまう。
イエスさまの愛に触れていたのに、その愛の大きさを忘れてしまう。
喜びとともに獲得した、はじめの信仰が揺らいでしまう。
あるいは、日々の営みに追われ、心が麻痺してしまう。
 
こんなことは、だれにでも起こりうることではないでしょうか。
クリスチャンは、スーパーマンではないのです。
完璧な人格と強靭な精神力とを備えているわけでもないのです。
そして、そんな私たちを、神様は見捨てないのです。
 
あなたが、はじめの愛を見失い、はじめの感激を忘れ、はじめの確信が揺らぐとき、そんなときこそ、あなたのペンテコステが必要なのです。
 
では、あなたのペンテコステが起こるために、あなたはどうしたらいいのでしょう。
「こうしたら、必ず起こる」という法則があるわけではありません。
ただ、あなたの弱さを認め、おろおろしながらも、神様に頼ることです。
神様は、決してあなたを見捨てることはありません。
神様は、あなたに一番ふさわしい時に、あなたのペンテコステをあなたにプレゼントするのです。
 
あなたのペンテコステのために、お祈りしています。

ゴスペルハウスメッセージ 2015.05.14
「母の日」 レビ記第12章
 
1 それから、主はモーセに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人に告げて言え。女が身重になり、男の子を産んだときは、その女は七日の間汚れる。その女は月のさわりの不浄の期間のように、汚れる。
3 ――八日目には、その子の包皮の肉に割礼をしなければならない。――
4 その女はさらに三十三日間、血のきよめのために、こもらなければならない。そのきよめの期間が満ちるまでは、聖なるものにいっさい触れてはならない。また聖所にはいってもならない。
5 もし、女の子を産めば、月のさわりのときと同じく、二週間汚れる。その女はさらに六十六日間、血のきよめのために、こもらなければならない。
6 彼女のきよめの期間が満ちたなら、それが息子の場合であっても、娘の場合であっても、その女は全焼のいけにえとして一歳の子羊を一頭と、罪のためのいけにえとして家鳩のひなか、山鳩を一羽、会見の天幕の入口にいる祭司のところに持って来なければならない。
7 祭司はこれを主の前にささげ、彼女のために贖いをしなさい。彼女はその出血からきよめられる。これが男の子でも、女の子でも、子を産む女についてのおしえである。
8 しかし、もし彼女が羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のいけにえとし、もう一羽は罪のためのいけにえとしなさい。祭司は彼女のために贖いをする。彼女はきよめられる。」
 
今日は母の日礼拝です。
女性と母との違いは、子どもを産んだかどうかで決まります。
今日の聖書箇所は、レビ記の第12章すべてです。
子どもを産んだ女性、つまり母のことだけ書いてあるという、聖書の中でも珍しい章です。
 
私たちはすべて、女性から生まれました。
つまり、母親から生まれたのです。
例外は、一人もありません。
 
新しいいのちが生まれるために、母親には、具体的にどんな役割があるのでしょうか。
 
母親は、いのちをささげる役割を与えられています。
現代でも、出産というのは母親のいのちの危険を伴うものです。
ましてや、聖書が書かれた時代は言わずもがなです。
にもかかわらず、母親は新しいいのちの誕生のために、その危険に挑むのです。
 
母親は、血を流す役割を与えられています。
この聖書箇所にもあるように、出産は出血を伴うものです。
産んだときだけではなく、その後しばらくは出血します。
母親は新しいいのちの誕生のために、血を流すのです。
 
母親は、体を分け与える役割を与えられています。
おなかの中で形作られる赤ちゃんの体は、すべて母親の体からもらった材料でできています。
骨でさえ、母親の骨の成分をへその緒を通してもらうのです。
母親は新しいいのちの誕生のために、体を割き、分け与えるのです。
 
母親は、呪われる役割を与えられています。
この箇所では、何度も「汚れる」という言葉が出てきます。
きよめの期間は、聖なるものに触れることも、聖所に入ることも禁止です。(4節参照)
神様から断絶された、呪われた状態と言ってもいいでしょう。
母親は新しいいのちの誕生のために、自ら呪われることをいとわない存在なのです。
 
もっとも、汚れて聖なるものに触れられないおかげで、女性はしっかり休めるというプラス面をみることもできます。
神様の愛の配慮深さが感じられますね。
 
「血を流す役割」「いのちをささげる役割」「体を分け与える役割」「呪われる役割」が、いのちの創造における母親の役割です。
しかも、これらは無条件です。
何か条件をつけられたなら、それをクリアできる胎児も新生児も乳児も一人もおらず、だれも生きていけないでしょう。
 
この4つの役割、さらに無条件であることを聞いて、ピンと来た人は鋭い人です。
そう、これは私たちが新しいいのちに生きるために、イエスさまが背負った役割と同じなのです。
母親の役割は、イエスさまの救いのひな型なのです
 
イエスさまは、私たちが罪赦されて新しいいのちを得るために、神様の子となるために、
・十字架で血を流しました。
・十字架でいのちをささげました。
・いのちのパンとして、体を分け与えました。
・十字架上ですべての呪いを背負いました。
 
しかも、これらは無条件で与えられるのです。
だれひとりとして、失格になる人はいないのです。
だれも、イエスさまの愛から捨てられることはないのです。
 
すべての人に共通すること。
それは、女性から、母親から生まれたということです。
つまり、「血を流す役割」「いのちをささげる役割」「体を分け与える役割」「呪われる役割」が、そこに捧げられたのです。
 
イエスさまの「血を流す愛」「いのちをささげる愛」「体を分け与える愛」「呪われる愛」、この4つの愛が、あなたに注がれているのです。
しかも、無条件の愛で。
5つの愛が、あなたを招いているのです。
 
母の日を、喜びましょう。
あなたを、喜びましょう。
あなたに与えられた神様からのプレゼント、4つの愛、5つの愛を、心から喜びましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.05.06
「ノアの子孫たち」 創世記第10章
 
1 これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。
2 ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。
3 ゴメルの子孫はアシュケナズ、リファテ、トガルマ。
4 ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人。
5 これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。
6 ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。
7 クシュの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、ラマ、サブテカ。ラマの子孫はシェバ、デダン。
8 クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。
9 彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ。」と言われるようになった。
10 彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。
11 その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、
12 およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。
13 ミツライムはルデ人、アナミム人、レハビム人、ナフトヒム人、
14 パテロス人、カスルヒム人――これからペリシテ人が出た――、カフトル人を生んだ。
15 カナンは長子シドン、ヘテ、
16 エブス人、エモリ人、ギルガシ人、
17 ヒビ人、アルキ人、シニ人、
18 アルワデ人、ツェマリ人、ハマテ人を生んだ。その後、カナン人の諸氏族が分かれ出た。
19 それでカナン人の領土は、シドンからゲラルに向かってガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムに向かってレシャにまで及んだ。
20 以上が、その氏族、その国語ごとに、その地方、その国により示したハムの子孫である。
21 セムにも子が生まれた。セムはエベルのすべての子孫の先祖であって、ヤペテの兄であった。
22 セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム。
23 アラムの子孫はウツ、フル、ゲテル、マシュ。
24 アルパクシャデはシェラフを生み、シェラフはエベルを生んだ。
25 エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。
26 ヨクタンは、アルモダデ、シェレフ、ハツァルマベテ、エラフ、
27 ハドラム、ウザル、ディクラ、
28 オバル、アビマエル、シェバ、
29 オフィル、ハビラ、ヨバブを生んだ。これらはみな、ヨクタンの子孫であった。
30 彼らの定住地は、メシャからセファルに及ぶ東の高原地帯であった。
31 以上は、それぞれ氏族、国語、地方、国ごとに示したセムの子孫である。
32 以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。
 
今から20年前のこと。
クリスチャンになった私が、はじめに与えられた奉仕は、小学生の教会学校の先生でした。
クリスチャンになる直前まで大手予備校の講師だったこともあり、子どもへの対応ができ、話すのも得手ということで、選ばれたのでしょう。
 
小学4年生から6年生までの担当になった私は、毎週、子どもたちに福音を語り続けていました。
「Aくん、イエスさまは君を、いのちを捨てるほどに愛しているんだよ」
「イエスさまの十字架によって、Bさんは、神様の子どもとされたんだ」
「CくんもDさんも、永遠のいのちをいただいてるんだ」
私は、100%の確信を持って、子どもたちに語りました。
福音を伝えること、それは、とてつもない喜びでした。
 
しかし、その喜びを得ながら、私の心は一つの鬱屈を抱えていました。
“この子たちは、100%イエスさまの十字架で救われる。もちろん、私も救われるはずだ。
でも、もしかすると、私のように罪深く、良いわざも行なえない、取るに足らない者は、救いから漏れるのではないだろうか。”
99%は大丈夫と思っているのですが、1%ほどの危惧が、私の心に暗い影を落としていたのです。
 
そんな状態の私が、聖書を開いた時に、この創世記第10章が目に留まりました。
ここには、ノアの子孫たちが書かれています。
ヤペテの子孫が14氏族、ハムの子孫が30氏族、セムの子孫が26氏族、計70氏族です。
彼らのうちの多くは、他の聖書箇所に出てくることのない者です。
名だたる者でない、特筆すべき者でもない、そんな人たちです。
しかし、神様は彼らのすべてを知り、すべてを認め、すべてを受け入れてくれたのです。
 
この事実は、私の人生を一変させました。
 
神様の愛は、特別な人にだけ与えられるものではない。
神様の愛を受けるには、何の資格もいらない。
立派な行ないができなくても、どんなに罪深くても、どんなに弱くても、神様の愛は注がれている。
 
私の1%の鬱屈は、神様の愛によって、完全に払拭されました。
私は、この弱く醜いままで、神様に知られ、認められ、受け入れられていたのです。
私は今、100%の愛で満たされています。
 
私が立派ではなくても、神様の愛が立派なのです。
私が特筆すべき者ではなくても、イエスさまの十字架が特筆すべきものなのです。
 
この愛の招きに、あなたも招かれています。
あなたは、あなたのまま、神様に知られ、認められ、受け入れられているのです。
100%の確信を持って、私はあなたにお伝えします!

ゴスペルハウスメッセージ 2017.04.29
「みっつのポイント」詩篇 第103篇
 
ダビデによる
1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。
6 主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行なわれる。
7 主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。
8 主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
9 主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。
10 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
11 天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
12 東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
13 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
14 主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。
15 人の日は、草のよう。野の花のように咲く。
16 風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。
17 しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、
18 主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ。
19 主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。
20 主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。
21 主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者たちよ。
22 主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 
私がはじめて人前で聖書のメッセージをお伝えしたのは、1996年9月のことでした。
クリスチャンになって半年経った頃、青年会でのご奉仕をさせてもらったのです。
そのときの聖書箇所が、今週の聖書箇所と同じ、詩篇第103篇でした。
ブラジルで伝道していた2006年11月にも、詩篇第103篇でメッセージしました。
そして今日ですから、約10年ごとに同じ箇所からのメッセージということになります。
 
当時は、1-2節でメッセージしたのですが、今回は全部です。
1-2節の呼びかけがあり、それは、3節以降のすばらしい約束を得るための鍵なのです。
3節以降を要約すると、こういう内容です。
「あなたがどこにいても、何をしていても、どんなときでも、あなたがどんな人でも、神様の愛はあなたとともにある」
 
さて、私たち人間は、記憶の仕方に特徴があるようです。
他の人からされた、いいこと。→忘れやすい
他の人からされた、いやなこと。→忘れない
自分が他の人にした、いいこと。→忘れない
自分が他の人にした、悪いこと。→忘れやすい
 
機械ではない私たち人間は、感情もあってこのような心の働きになってしまうようです。
本当は忘れたほうがいいことを、ずっと忘れられない。
覚えておかなければならないことを、忘れてしまう。
 
たとえば、お気に入りの洋服を着て街に出かけたとしましょう。
そこで出会った5人の人にほめられたとしても、6人目の人にけなされたとしたら、家に帰ったときに覚えているのは、けなされたことだけです。
昔の歌に、「幸せを数えたら片手にさえあまる。不幸せ数えたら両手でも足りない」とあるのも、このような心の働きにあるのでしょう。
 
私はこのような姿(自分を含めて)を見るときに、罪ある不十分な人間の姿をまざまざと見せ付けられた気がします。
罪ある人間の問題なのか、サタンの策略なのか、私たちはこういう傾向にあるようです。
マイナスの感情(言葉)は人の心に刺さり、簡単には抜けません。
しかし、プラスのものは一過性のようです。
 
これでは、恵みも愛も、見失ってしまいますね。
だから、トラブルやストレスが尽きないで、それに振り回されてしまうのです。
 
さて、今週の聖書箇所はこういいます。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(2節)
辛かったことや悔しかったことは、何一つ忘れないことも簡単です。
しかし、良くしてくださったことを何一つ忘れないでいるのは難しいことです。
 
では、このような状態から抜け出すためには、どうしたらいいでしょうか。
 
20年前、10年前、私がこの箇所からメッセージしたとき、私はそこに集った人たちにカードを配りました。
「神様の良くしてくださったことを何一つ忘れないように、このカードに神様が良くしてくださったことをひとつひとつ書きましょう。
そして、これからあなたに起こったいいことも、次々にカードに書き加えていってください。
忘れてしまっても、そのカードに書いてあれば大丈夫ですから。」
 
今日はカードを配りませんが、ポイントのひとつ目はここにあります。
「覚えておくべきことを、覚えておく」
カードに書くのもいいですし、ノートでも、パソコンでも、SNSでも構いません。
書き残すことで、マイナスの感情に振り回されそうな時に、恵みを思い出せるのです。
 
ふたつ目のポイントは、「忘れがちなことを、思い出せるキーを作る」というころです。
例えば、「私はコーヒーを飲んだら、恵みを思い出せる」とか「この場所に行くと、神様の愛を取り戻せる」とか、自分で作るのです。
 
ちなみに、私のキーは子どもです。
長男のはれるは、妻が医者に「妊娠は不可能」と宣言された後に授かった子どもです。
ですから、いのちの源である神様が、私たちのために与えてくれた子どもということを、いつも思い起こさせます。
次男タリタ・三男ダヴィも、長女ほまれも、末っ子結も、それぞれの理由で神様の愛を思い起こさせます。
また、私はハワイという言葉を聞くたびに、神様への感謝があふれます。
他にもたくさんの祝福へのキーを神様は私に与えてくださったのです。
このキーをしっかりと握ることで、私たちは祝福から引き離されにくくなります。
 
みっつ目のポイントは、「忘れるべきことを、忘れる」です。
私たち夫婦は、新婚当初、毎日のようにケンカをしていました。
些細な事でケンカとなり、そのケンカの不愉快な感情が次のケンカの種を生み、またケンカする。
そして妻は家を飛び出し、私はオロオロさがし、また不愉快になる。
まったく負のスパイラルです。
 
こんな私たちの夫婦ゲンカをとめたのは忘れることでした。
「神様、忘れる能力をください。」
私が神様に祈ると、神様はすぐに、それをかなえてくださいました。
それからというもの、私はケンカしても、翌朝、目が覚めたときには、ケンカの原因を忘れているのです。
妻も、相手が内容すら忘れてしまっているので、ケンカしようがありません。
こうして、我が家に平和が与えられたのです。
 
ただし、私のようにうかつに祈るのは注意が必要です。
「神様、忘れる能力をください。」という私の祈りを、神様は誠実に聞いてくださいました。
それからというもの、物忘れがひどくて仕方がないのです。
 
「覚えておくべきことを、覚えておく」
「忘れがちなことを、思い出せるキーを作る」
「忘れるべきことを、忘れる」
これが、3節以降にあるすばらしい約束を手に入れるための、みっつのポイントです。
 
ここで、もう一つ忘れてはならないことがあります。
それは、聖書の大原則「神様は命令しっぱなしではない」ということです。
その意味は2つあります
「神様は、それをなすべき力を、あなたに与えてくれます。」
「神様は、あなたに命令したことを、それ以上の基準で神様自身がします。」
 
「神様は、それをなすべき力を、あなたに与えてくれます。」
たしかに神様は、私のために、忘れる力を与えてくれました。
あなたにも、必要な助けと力を与えてくれます。
 
「神様は、あなたに命令したことを、それ以上の基準で神様自身がします。」
みっつを順番に見ていきましょう。
「覚えておくべきことを、覚えておく」
神様は全知全能ですから、これは言うまでもありません。
あなたのいいところも、悪いところも、すべて覚えています。
「忘れがちなことを、思い出せるキーを作る」
全知全能の神様は、ご自身がそのキーそのものです。
忘れることのない神様なのですから、他のキーは必要ありません。
 
問題は、みっつ目「忘れるべきことを、忘れる」です。
全知全能の神様にとって、忘れることは非常に難しいことです。
いえ、忘れることなど、できないのです。
でも、忘れなくてはならないのです。
 
このジレンマを解消するために、忘れることができない神様があなたの罪を忘れるために、最大の覚悟と愛をもってなした出来事が、イエスさまの十字架なのです。
あなたの罪を忘れないままでは、あなたを愛することができない神様の、あなたへの愛のしるしです。
 
「主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。」(9-10節)
忘れることのできない方が、忘れてくださったのです。
正義を行使しなければならない方が、正義を捨てたのです。
イエスさまの十字架によって、それが成し遂げられたのです。
 
私たちは、不完全な存在ですから、感情に振り回されることもあるでしょう。
しかし、神様は振り回されることはありません。
あなたを愛すると約束したら、愛しぬくのです。
あなたの罪は、思い出されないのです。
 
あなたがどこにいても、何をしていても、どんなときでも、あなたがどんな人でも、神様の愛はあなたとともにあるのです!

ゴスペルハウスメッセージ 2017.04.22
「正しさをこえたなすべきこと」 ルカ 24:13-35

13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
19 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。
20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。
35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

今週の聖書箇所は、イエスさまの復活の日の夕方の出来事です。
2人の弟子は、イエスさまの死に落胆したのでしょう。
エルサレムから離れて行こうとしています。
エマオへ道の途中、その2人にイエスさまが表れたのです。
しかし、彼らにはその人がイエスさまであると、すぐにはわかりませんでした。
なぜ彼らにはわからなかったのでしょうか。
 
19節の「どんな事ですか。」というイエスさまの問いかけに、彼らは答えています。
19~24節の彼らの言葉には、何の間違いもありません。
常識的にみて全く正しい説明です。
ただ一点を除いて、全く完全な説明と言ってもいいでしょう。
しかし、イエスさまはこう言われました。
「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」(25節)

彼らには、一番大切なものが欠けていたのです。
それは、復活への信仰であり、復活への希望です。
それは、前々から、イエスさまが宣言していたことでした。
しかし、彼らはイエスさまの予告よりも、自分たちの常識や判断を重視したのです。

なぜこんなことになっていたのでしょうか。
彼らの目は、なぜ開かれていなかったのでしょうか。
それは、彼らが正しかったからです。
正しいがゆえに、自分の正しさよりも、神様の言葉を下にしてしまったのです。
それは、イエスさまの死が現実のものだったからです。
だから、目に見えるイエスさまの死よりも、神様の力・神様の約束を下にしてしまったのです。

これは、2000年前だけのことではありません。
現代の私たちの問題でもあるのです。
私たちの目も、開かれる必要があるのです。

神様が導いてくれるのはわかるし、聖書にもそう書いてあるんだけど、目の前の問題が大きすぎて、神様の働きがわからない。
今、私が直面している困難や誹謗中傷がつらすぎて、目に見えない神様の存在や力ははっきりとわからない。
自分の苦しみや悲しみが大きすぎて心を占領してしまって、神様の存在も神様の力も心の片隅に追いやられてしまう。
こんなふうになることはないでしょうか。
自分の正しさや自分の悲しみや苦しみが、目を閉ざしてしまうのです。

私たちは、目を開かれる必要があります。
ここで、この弟子たちが目を開かれたステップを見てみましょう。
それが、あなたが目を開かれるためのステップでもあります。

1.イエスさまは、ご自身が近づいてきます。
「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」(15節)
イエスさまは、こちらが求める前に近づいてきます。

2.イエスさまは、先に話しかけます。
「イエスは彼らに言われた。『歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。』」(17節)
イエスさまは、こちらが話しかけられる前に話しかけます。

3.イエスさまは、しっかりと教えてくれます。
「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(27節)

4.イエスさまは、願えばいっしょにいてくれます。
「彼らが、『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。』と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。」(29節)
イエスさまは、こちらが願えば、いっしょにいてくれます。

5.イエスさまは、目を開いてくれます。
「それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。」(31節)
イエスさまは、閉じてしまった目を開いてくれます。

まとめてみます。
1.イエスさまは、ご自身で近づいてきます。
2.イエスさまは、先に話しかけます。
3.イエスさまは、しっかりと教えてくれます。
4.イエスさまは、願えばいっしょにいてくれます。
5.イエスさまは、目を開いてくれます。

この中で、あなたがすべきことは何でしょう。
あなたが出来ることは何でしょう。
それは、「4」のいっしょにいてほしいと願うことだけです。
それ以外は、全てイエスさまが主導で、私たちは受け取るだけなのです。

正しさの追求よりも、教理の探求よりも、あなたの目が開かれるために大切なこと。
あなたがイエスさまの愛に生きるために大切なこと。
それは、あなたの人生にイエスさまを求め、あなたの人生にイエスさまを歓迎することです。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)
この言葉は、まさにこの事の約束そのものでしょう。

正しくなくてもいいのです。
正しさをこえたなすべきことが、あなたには与えられているのです。

ゴスペルハウス・イースター礼拝 2015.04.15
「ふたつの居場所」 ルカ 24:1-11
 
1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
3 はいって見ると、主イエスのからだはなかった。
4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
8 女たちはイエスのみことばを思い出した。
9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
10 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
11 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。
 
イースターおめでとうございます。
今年のイースター礼拝は、「ふたつの居場所」というテーマで、御言葉を開いていきましょう。
 
さて、聖書クイズです。
聖書に書かれている、イエスさまの一番最初の言葉は何でしょう。
 
地上に来られたイエスさまに限定するならば、その答えはルカによる福音書第2章49節です。
「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
 
また、イエスさまが十字架にかかったあとに、イエスさまについて神様から与えられた一番最初の言葉が、今日の聖書箇所の中にあります。
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。」(5-6節)
 
どちらも、イエスさまがどこにいるのかが、主題になっています。
 
ふたつの居場所のうち、ひとつ目は、「イエスさまの居場所」です。
イエスさまの一番最初の言葉も、よみがえった後の一番最初の言葉も、イエスさまの居場所について語っています。
少年イエスさまをさがしていたマリアとヨセフに対し、イエスさまの亡き骸をさがしていた女たちに対して、居場所を宣言するのです。
 
彼女たちだけでなく、私たち人間は、イエスさまの居場所を見失いやすいものです。
 
ところで、墓にイエスさまの亡き骸をさがしに来た彼女たちの行動は、まったく正しいものです。
たしかに、十字架上でイエスさまは死にました。
そして、墓に葬られました。
大きな石でフタもしました。
これは間違いのない事実です。
ですから、イエスさまを墓にさがしに来たのは、当然であり、常識であり、理性的であります。
そこにイエスさまがいないなどということは、考えられないことです。
実際、帰ってきた女性たちが「イエスさまがよみがえった」と弟子たちに告げたとき、彼らにはたわごとのように思われたのですから。(ルカ24:11参照)
 
でも、そこにイエスさまはいなかったのです。
 
私たちも、イエスさまの居場所を考えるとき、つい、当然と思われるところをさがそうとします。
教会の集まりの中に、聖書研究の果てに、牧師の言葉の中に、大きな聖会の中に・・・
でも、そこには見つからないのです。
 
イエスさまは、隠れているわけではありません。
イエスさまの居場所は、いつもはっきりしています。
「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
「よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」
 
突然ですが、聖書クイズ、第二問です。
聖書に書かれている、イエスさまの地上での最後の言葉は何でしょう。
 
それは、マタイによる福音書の巻末、第28章20節にあります。
ここでも聖書は、イエスさまの居場所を語っているのです。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
 
イエスさまは、いつも、あなたとともにいるのです。
洗礼の有無に関係なく、聖書理解の深さによらず、礼拝出席の多寡によらず、です。
あなたの苦しみの真っ只中に、あなたの悲しみの真っ只中に、あなたのもがきの真っ只中に、イエスさまはそこにいるのです。
イエスさまは、決してあなたを見捨てず、あなたから離れることもないのです。
イエスさまの居場所を、覚えていてください。
そして、イエスさまの言葉を、忘れないでください。
 
ふたつの居場所のふたつ目は、「あなたの居場所」です。
 
イエスさまは、あなたのために十字架にかかりました。
イエスさまは、あなたのために、三日目によみがえりました。
あなたの居場所は、イエスさまといっしょなのです。
 
ここで、5節にこうあります。
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」
イエスさまは、死人の中にいないのです。
ということは、あなたも死人の中にはいないのです。
 
なのに、私たちは死人の中に自分自身をさがしてしまうのです。
「過去にこんなことがあったから・・・」
「親がこんなふうだったから・・・」
「こんなことされたから・・・」
過去に縛られて、そこにとどまってしまうのです。
 
それは、当然のように思えるかも知れません。
必然的に、過去が現在と未来を作り上げてしまうように感じるかも知れません。
 
しかし、そうではありません。
イエスさまと生きているあなたは、死んでしまった時間(過去)に、縛られることいはないのです。
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」(5節)
あなたの居場所は、そこではないのです。
 
イエスさまの居場所、イエスさまは、あなたとともにいるのです。
あなたの居場所、あなたは、イエスさまとともにいるのです。
ふたつの居場所は、はっきりしているのです。
 
あなたの苦しみや悲しみの真っ只中にイエスさまがいます。
イエスさまの愛の真ん中に、あなたがいます。
これが、イースターの喜びです。
ふたつの居場所を、忘れないでください。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.04.08
「非常に喜んでも」 ルカ23:4-11

4 ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には何の罪も見つからない。」と言った。
5 しかし彼らはあくまで言い張って、「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動しているのです。」と言った。
6 それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねて、
7 ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころエルサレムにいたからである。
8 ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行なう何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。
9 それで、いろいろと質問したが、イエスは彼に何もお答えにならなかった。
10 祭司長たちと律法学者たちは立って、イエスを激しく訴えていた。
11 ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。

イエスさまに出会って、イエスさまを見て、非常に喜んだ男がヘロデです。
英語の聖書には、"Herod was very pleased" と書かれています。(TEV参照)
この"very pleased"という表現は、この箇所以外には、創世記第1章31節にあるだけです。
神様が、天地創造を終えて、非常に良かったという箇所です。
それほど、ヘロデはイエスさまに出会ったことを喜んだのです。

しかし、ヘロデはまた、イエスさまと出会ったにもかかわらず、唯一話してもらえなかった男でもあります。
これは、イエスさまが十字架にかかる日のできごとです。
ピラトは、自分の手に余りそうなイエスさまの処理を、ヘロデにさせようとしました。
かねてからイエスさまに興味を持っていたヘロデは、喜んでイエスさまを迎えたが、イエスさまは何も話さなかったのです。

私たちがブラジルに行くにあたって、神様は明確な導きを与えてくれました。
教団や教会に派遣されたわけではない私たちを、神様は責任を持って導いてくれたのです。
ビザや永住権の取得、仕事や育児についても、私たちの人生へ、確かな神様の導きがありました。

このようなことをお話しすると、
「なぜあなたたちにだけ、神様の声が聞こえるの?!」
「私には神様の声がない。私にはわからない。」
と言われることがあります。
聞こえる人とそうでない人がいる理由は、私にはわかりません。
神様は自由な方で、ちっぽけな私には理解できないことのだらけなのです。

ただ、秘訣は一つあるようです。
それは、神様の声を聞いたなら、徹底的に従うという決心です。
次の2つの違いを明確につかんでください。
「神様の願うことを、自分の人生に起こしてもらう」と、
「自分の願うことを、神様に起こしてもらう」です。

ヘロデはまさに、後者でした。
「ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行なう何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。」(8節)
彼は、自分の興味・感情の満足のために、イエスさまを使おうとしているだけです。
イエスさまに従うわけでもなく、しかも対決姿勢すらありません。
ただの観客・見物人です。
しかも、支配的な姿勢を持った見物人です。
「お前、水をぶどう酒に変えたそうじゃないか。ほれ、ここでやってみろ。」
というような態度なのです。

イエスさまは、たくさんの人に話しかけてきました。
イエスさまに敵対する者にも、従う人にも、イエスさまを愛する人にも、イエスさまを憎む人にも、強い人にも弱い人にも、理解者にも無理解者にも話してきたのです。
そのイエスさまが、ここでとうとう、ヘロデに対して口を閉ざしました。
支配的な態度の見物人であるヘロデに対してです。

しかし、果たしてヘロデだけの問題でしょうか。
もしあなたが「神様の導きがわからない」、「神様の声が聞こえない」と感じるなら、自分自身を吟味することをおすすめします。
「自分の願うことを、神様に起こしてもらう」という姿勢ならば、話してもらえないかも知れません。
また、神様が話してくれても、自分に都合のいいことしか聞かないかも知れません。
あるいは、神様の声が聞こえていても、神様の導きに気づいていても、自分の欲求と違うならば、認められないのかも知れません。

チョコレートが大好きな子どもがいたとしましょう。
その子が、チョコばかり欲しがったとしても、食事のたびにチョコだけを食べさせ続ける親はいません。
それは、子どもを愛しているからです。
子どもを愛する親は、子どものために、もっといいものを与えようとしてくれるのです。
神様も、もちろん、そうです。

イエスさまは私たちと話したがっています。
見物客であることも、支配者であることもやめましょう。
「神様の願うことを、自分の人生に起こしてもらう」と、徹底的に従う決心をしてみましょう。
イエスさまの教えてくださったお祈り、主の祈りには、こうあります。
「(神様の)みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」
この「地」とは、あなたの人生のことなのです。
「神様の願うことが、天であらわされるように、私の人生にもあらわしてください!」
イエスさまは、そう祈りなさいと教えてくれたのです。

また、「神様の願うことを、自分の人生に起こしてもらう」ことは、不自由なことではありません。
愛する子どものために、親が計画したことに従った子どもは、不自由にはなりません。
より一層、自由になるのです。
もっと自分を伸ばし、もっと喜びを持ち、もっと解放されて生きるのです。
そう、 "very pleased"の人生は、あなたの前に開かれているのです。

不完全な人間でさえ、愛する子どもには、本当に良いものをと考えて与えるものを選択します。
ましてや神様は、私たちの最善を知っていて、私たちのために最高のものを用意しているのです。
神様の願うことをあなたの人生にしっかりと受け取りましょう。
もっと自由に、もっと喜び、もっと愛される、もっと祝福あふれる、"very pleased"の人生を歩むのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.04.01
「誠実の限界」 マルコ 14:27-31,66-72

27 イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。
28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」
30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」
31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。

66 ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、
67 ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」
68 しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。
69 すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。
70 しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」
71 しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。
72 するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。

ペテロは、自分の強さと自分の誠実さと自分の勇気を知っていました。
ですから、イエスさまの言われたことに対して、同意できませんでした。
「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」(29節)
「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(31節)
また、ルカによる福音書でもこう言っています。
「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)

「他人はともかく、自分がイエスさまを裏切るはずがない、覚悟はできているんだから」
これがペテロの真っ正直な確信であり、自信でありました。
他の弟子たちも同様でした。

しかし、ゲッセマネでイエスさまが逮捕されると、弟子たちはみんな散り散りに逃げてしまったのです。
ペテロも、他の弟子たちも、逮捕されたイエスさまに従って行くことはできなかったのです。

しかし、ペテロは強く、勇気があり、誠実でした。
イエスさまへの強引な裁判の行なわれている大祭司の庭に入って行ったのです。
逮捕される危険があるにも関わらず、ペテロの勇気は、ペテロの誠実は、ペテロをここに送ったのです。

ペテロが3回イエスさまを知らないと言ったのも、ペテロの強さの証しです。
強さがないなら、1回目で逃げ出していたことでしょう。
ペテロは非難される筋合いはないのです。
ただひとり、危険を顧みずに、ここに居続ける。
多少腰の引けたところもあるかもしれませんが、強く、誠実で、勇気ある行動でしょう。

ここで、鶏が鳴きます。
ペテロは泣き出しました。
それは、自分の卑怯さについての後悔ではありません。
かれは、「イエスのおことばを思い出し」(72節)て、泣いたのです。

イエスさまは、ペテロの誠実も勇気も強さも知っていました。
それだけでなく、それらの限界をも知っていたのです。
だから、「わたしを知らないと三度言います。」(30節)というペテロへの言葉だったのです。

ペテロは、自分の誠実の限界を知りました。
そして、その限界を知った上で、あえて愛してくださるイエスさまを知ったのです。
その愛の大きさに対して、彼は激しく泣くことしかできなかったのです。

あなたの誠実さも、あなたの勇気も、あなたの強さも、神様はご存じです。
そして、それらの限界も、もちろん知っています。
その神様が、あなたを愛しているのです。
それは、ひとり子を十字架にかけて、あなたの身代わりに殺すほどの愛です。

あなたが罪の力に対して十分に強ければ、罪に陥らないような十分な誠実さがあれば、イエスさまは死ななくてすみました。
しかし、だれひとり、そのような強さも誠実さも持ち合わせていなかったのです。
イエスさまの十字架は、すべての人に向けられた神様の愛なのです。

あなたの誠実の限界は、あなたの人生に、神様の愛と力が合わられるための舞台なのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.03.25
「あなたはどこに」 ルカ 22:14-24

14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
21 しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。
22 人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。」
23 そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。
24 また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。

今週の聖書箇所は、十字架の前夜、最後の晩餐の場面です。
これから舞台は、ゲッセマネでの祈り、イエスさまの逮捕、十字架への裁判と、名場面が続きます。
多くの絵画の題材にもなっているので、見た方も多いでしょう。

この名場面の中で、イエスさまのまわりには、さまざまな人たちがいます。

イエスさまを裏切ろうとしているユダがいます。
彼は、自分の望んでいるようにイエスさまに振舞ってほしかったのでしょう。
だれが裏切り者か知りたくて、さぐっている人たちがいます。
だれが一番偉いかと議論している人たちがいます。
騒ぎに関係なく、過ぎ越しの食事に専念している人もいたでしょう
わけもわからないけど、イエスさまのそばにいることを喜びにした人もいたでしょう。
ゲッセマネの祈りでは、待ちきれずに居眠りしてしまうヨハネたちがいました。
逮捕の場面では逃げ出す弟子たち。
恐れのあまり、「イエスさまを知らない」と言ったペテロもいました。
自殺したユダもいます。
他にもたくさんの人たちが、名場面を彩っています。

今日は、それらの人物を論じるのではありません。

この名場面の中で、あなたはどこにいますか。

イエスさまを、自分の望み通りにしたい人はいませんか。
「祈れば必ず叶う」と、イエスさまを下僕にしていませんか。
他の人の言葉ばかりが気になる人はいませんか。
自分をことさら偉く見せよう、偉くなろうという人はいませんか。
自分には関係ないことと、自分のことだけを考えている人はいませんか。
特別なことがないからと、信仰が寝てしまっている人はいませんか
苦しみをイエスさまに打ち明けられず、自分自身を責めている人はいませんか。

この名場面の中で、あなたはだれですか。

私はあなたに希望します。
偉くなくって、いいのです。
よくわかんなくて、いいのです。
目を覚まして、イエスさまから目を離さないでいましょう。
イエスさまのそばにいる喜びに、満たされましょう。
イエスさまに愛されている愛に、満たされましょう。
愛のしるしの十字架は、あなたの目の前に示されているのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.03.18
「信仰を生かす行ない」 ヤコブ2:15-17
 
15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
 
クリスチャンになると、未信者の方からこう言われることもあるでしょう。
「あなたの信仰はどんなものなのか、教えて下さい。見せてください」
「あなたの信仰は、どこにあるんですか?」
 
このように聞かれると、「毎週礼拝出てるから」とか「聖書たくさん読んでるから」とか「奉仕してるから」とか「伝道に燃えているから」とか「献金を実践しているから」とかいろいろ言いたくなるでしょう。
しかし、本当にこれらのものが、確固たる信仰を示すものになるでしょうか。
もし、「そうだ」と言える人がいるならば、その人は「嘘つきか鈍感かバカ」であると、私は思うのです。
 
伝道も、奉仕も、聖書を読むことも、献金も、本当に突き詰めてやっていった時に気がつくことは、「自分の足りなさと弱さ」です。
 
聖書は、クリスチャンをたたえる本ではありません。
教会や牧師や神父をたたえる本でもありません。
聖書は、神様をたたえ、イエスさまをたたえる本なのです。
 
罪を一切おかさずに、死に至るまで神様に従順だったイエスさま。
その方こそが、この方だけが、行ないで信仰を示すことができるのです。
イエスさま以外には、行ないで信仰を示すことができないのです。
 
では、私たちの信仰は、私たちの行ないによって殺されてしまったのでしょうか。
私たちの信仰は、死んだ信仰なのでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
 
聖書の大原則を思い出しましょう。
それは「神様は、聖書は、命令しっぱなしではない」ということでした。
命令した場合、それを成し遂げるための力を与えてくれます。
そして、下した命令を、神様自身が徹底的に守るということです。
 
「行ないで信仰を示しなさい」と神様が命じるときには、神様がまずそれを実践するのです。
たしかに、行ないのない信仰は、死んだ信仰です。
行ないが、あなたの信仰を生かすのです。
ただし、「だれの行ないですか」という点を忘れてはいけません。
 
そう、イエスさまの行ないが、あなたの信仰を生かすのです。
あなたの行ないではなく、イエスさまの行ないです。
十字架の死に至るまで、神様の御心に対してまったく従順な、イエスさまの行ないです。
イエスさまの愛が、十字架の血潮が、あなたに信仰を与え、その信仰を活かしているのです。
 
その時に、16節の言葉が心に迫ります。
「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」(16節)
もちろん、これはあなたが他の人に向かって言うという仮定の言葉でしょう。
しかし、イエスさまがあなたにかける、愛の言葉として、光を放つのです。
安らぎの中に生きなさいと、イエスさまはあなたに語りかけるのです。
 
これは、あてにならない空手形ではありません。
いのちがけの、愛の招きです。
十字架という愛の行ないによって、生かされましょう。
生かされた喜びに、満たされましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.03.11
「忘れない」 創世記 15:9-12,17
 
 9 すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」
10 彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。
11 猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。
12 日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。
 
17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。
 
アブラム(後のアブラハム)に対して、神様は祝福の約束をしました。
しかし、子のないアブラムは、祝福されても相続人がないので、下僕に相続されるのかと神様に尋ねました。
その時に、アブラムにもわかるようにと、神様が命じたのがこの箇所です。
 
裂かれたいけにえの間で契約するのは、「契約を破ったならば、このいけにえのようになる」というあらわれです。
つまり、契約に対して、生命をかけるということです。
アブラムはとても厳粛な気持ちで、この契約の時を迎えたことでしょう。
裂かれたいけにえの肉や血のにおいを嗅ぎつけた猛禽たちがやって来ましたが、アブラムは頑張って追い払います。
それは当然です。
だって、神様との、生命をかけた、厳粛な契約の場なのですから。
 
しかし、夕暮れ時になっても、神様は現れませんでした。
アブラムは緊張が続いたためか、猛禽がいなくなってホッとしたのか、いずれにしても、油断したかのように眠ってしまいました。
 
ブラジルにいた頃のことです。
アボカドを食べたあとに、「この種を植えたら、芽が出るかな?」と、庭に種を1個植えたことがありました。
しばらくしても芽が出ないので、「じゃあ、もう1個」と、繰り返し庭の別の場所に植えました。
狭い庭に11個の種を植えても、何も起きなかったので、「ああ、何も起こらなかった」と、がっかりしていました。
ですが、アボカドのことを忘れていたそんなある日、1つの芽生えを見つけました。
喜んでいると、次の日にも、その次の日にも、芽生えが見つかり、狭い庭は11本のアボカドの芽生えでいっぱいになりました。
私はあきらめ、忘れていたのですが、アボカドの中のいのち・神様の与えたいのちは、それを忘れてはいなかったのです。
 
アブラムが深い眠りに落ちているとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎました。
アブラムは通り過ぎることはできませんでしたが、神様は通り過ぎ、契約を成し遂げたのです。
 
そう、神様は忘れない方です。
神様の愛は、油断しない愛なのです。
 
それは、人間の思い通りではないかもしれません。
忘れた頃に、油断した頃に、絶望した頃に、やって来るのかもしれません。
しかし、それは予想以上、想定以上の恵みであり愛なのです。
 
神様は、アブラムに契約の責任を負わせませんでした。
ただひとりで、裂かれたいけにえの間を通ったのです。
それは、アブラムの足りなさに対してもアブラムの不誠実や弱さに対しても、責任を負わせないという覚悟です。
すべて、神様が責任を負うという覚悟の愛に満ちた契約なのです。
 
そうです。
それがイエスさまの十字架にあらわされた愛なのです。
 
あなたにも、この同じ愛が注がれています。
決して忘れることのない愛。
決して油断することのない愛。
いのちがけの覚悟の愛。
イエスさまの十字架から、惜しみなくあふれるばかりに与えられているのです。
 
あなたは、神様から決して忘れられることはありません。
どんなことがあっても、神様はあなたを見捨てることはありません。
すべてを捨てた覚悟の愛が、あなたに与えられているのです。
 
この愛の中で生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.03.05
「痛みとともに」 マラキ3:10

10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

この箇所は、聖書の中で唯一「神様をためしてみよ」と書かれているところです。
それは、十分の一の捧げ物をもってためすことで、十分の一献金のすすめも語られることがあるでしょう。
「十分の一で神様をためして、祝福を注がれよう!」

しかし、祝福が捧げた以上に与えられるなら、それは献金ではなくて投資です。
捧げるではなく、もうけ話です。
十分の一でためして祝福されたら、次は十分の二、三、四、五、六・・・と増やしていきましょう。
捧げる痛みに耐えられなくなるまで、どんどん増やしてください。
痛みをともにしない捧げ物は、神様への本当の捧げ物にはならないのです。

創世記4章で、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来て捧げました。
羊の初子、しかも最良のもの、この羊の可愛さと言ったらないでしょう。
また、その羊を残しておけば、群れはもっともっと豊かになるはずです。
しかし、アベルは痛みとともに最良の初子を捧げたのです。

創世記22章で、アブラハムは神様に「全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」と命じられました。
妻サラからたった一人生まれた愛する息子、神様の約束を受けたイサクを捧げるアブラハムの心の痛みは計り知れません。

士師記11章で、エフタは、神様との誓いを果たすために、ひとり娘を捧げました。
まさか、自分の娘をいけにえにすることになるとは思わなかったエフタの心は、張り裂けんばかりの痛みです。

ルカ21章では、貧しいやもめがレプタ銅貨を2枚捧げました。
まったく少額な捧げ物ですが、彼女の生活費のすべてだったのです。
1枚残すこともできたろうに、彼女は痛みとともに捧げきったのです。

彼らはすべて、痛みとともに捧げました。
「どうせ戻ってくるから」とか「それ以上になるから」と、打算で捧げた人はいません。
「十分の一でいいなら」と、値切ってもいません。

あなたに求められるのは、痛みとともに捧げる捧げ物です。
憎しみ、ゆるせない怒り、栄誉、自分の正しさ、娘や息子、自分自身のすべて・・・・
捧げれば祝福になって戻ってくるという見返りも求めません。
十分の一なんて値切ることも必要ありません。
十分の十、いえ、十分の十五といえるくらい、すべて捧げるのです。

なぜ、神様は私たちにそんな厳しい捧げ物を要求するのでしょうか。
ここで、私たちは聖書の大原則に立ち返りましょう。
それは「神様は、命令しっぱなしではない」ということです。
・神様は、私たちに命令を成し遂げる力を与えてくれます。
・神様は、私たちに命じた命令を、ご自身がもっと厳格に守ります。

そうです。
あなたのために、痛みとともに、すべてを捧げた方がいるのです。
それは、愛するひとり子を、あなたの罪のために差し出した神様です。
それは、あなたのために、十字架の死にまで徹底的に自身を捧げたイエスさまです。
あなたを愛しているからです。

この愛は、何があっても、どんなときでも、あなたのものです。
あなたがどんな人であっても、何をしていようと、取り去られることはないのです。

だから、あなたもできます。
この愛だけしっかり握っていたら、あなたにはできるのです。
あなたを縛っているすべてのものを、痛みとともに捧げましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.02.25
「理想と現実の中に」詩篇 第94篇
 
ある人はこう言いました。
「詩篇第93篇は理想を歌い、第94篇は現実を歌う」
第93篇は、神様を確固たる土台にした理想的な人生・ハレルヤの人生をうたいます。
それに対して、第94篇は、現実の世界の中での、神様の裁きを願う声からはじまります。
敵を呪うような雰囲気さえある詩篇です。
 
聖書は、そして神様は、理想だけを強制するわけではありません。
理想だけを強調するわけでもありません。
理想と現実の間で苦しむ私たちを神様は知っています。
そして、その私たちから、神様は決して離れていません。
すぐそばにいるのです。
 
理想の生活と現実の生活の対比と同じように、私たちは、本音の生活と建前の生活をもっています。
私は、赤ちゃんのすてきさ、かわいさの一つは、本音で生きていることだと思います。
心に正直に、まっすぐに生きている姿は、私たちに力を与えてくれます。
何ともいじらしく、かわいらしい純真さです。
(ただ、実際に子育てするのは大変なことなんですが・・・)
 
しかし、そのまま大人にまで生きると、どうでしょう。
その人生は、ピュアですてきかも知れません。
しかし、そのことによって、他の人を傷つけ、また、傷つけられてしまうことでしょう。
本音で生きることの難しさ、悲しさを見る思いです。
 
同じように、神様を純粋に信じて生きるとき、辛い、悲しいと思えるときがあります。
この詩篇記者も、同じように苦しみにあっています。
だから、復讐を願っているのです。
呪いの詩篇の様相を呈しているのです。
 
人を呪うことは、もちろん、いいこととは言えないでしょう。
でも、呪い、復讐を願うような私たちの現実に、神様はそっぽを向かないのです。
私たちの弱さや醜さが、神様を失うことにはならないのです。
もし、そうだったら、私たちのためにイエスさまは十字架につかなかったでしょう。
イエスさまの十字架が、私たちが見捨てられていない証拠です。
 
私たちは理想と現実の間で苦しみます。
しかし、神様は理想にも現実にもいて、私たちを愛しているのです。
この事実を知ったとき、この事実を人生に受け入れたとき、あなたの人生が変わります。
二つに分断されていたあなたの理想と現実が、神様の愛によって一つになるのです。
そう、あなたの人生の中で、神様のいのちがイキイキと生きはじめるのです。
 
あなたの弱さを、神様は知っています。
あなたの苦しみを、神様は知っています。
理想と現実の間でもがき苦しむあなたを、神様は決して見捨てません。
神様のいのちが、あなたの人生に光と喜びを与えます。
そう、理想も現実もあなたの人生、本音も建前も神様の愛の中なのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.02.18
「隠されていない」 Ⅱコリント1:12-13
 
12 私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。
13 私たちは、あなたがたへの手紙で、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません。そして私は、あなたがたが十分に理解してくれることを望みます。
 
パウロは、コリントに訪問する予定を立てていました。
しかし、その予定を、二度にわたって変更せざるを得なくなりました。
そのことは、コリントの人たちに不審感を生じさせたのです。
「自分たちコリントは、パウロに軽視された」
「隠された理由や隠された裏取引があって、パウロはそれで利益を得ているんだろう」
もとより、問題を起こしやすいコリントの人たちは、このように考えていたのではないでしょうか。
 
それに対するパウロの弁明が、今週の聖書箇所です。
パウロには、何もやましいことはありませんでした。
何も隠していないし、裏取引もありません。
かれは、神様にのみ従い、神様にゆだねて生きてきたのです。
 
私たちも、利益のため、保身のため、体裁をつくろうため、何かを隠してしまうことがあります。
あるいは、隠そうとしてしまうことがあります。
やましい思いにかられながら、裏取引をしてしまうこともあるかもしれません。
人間の知恵なんて、そんなものです。
 
しかし、神様は違います。
神様は、私たちに何も隠していません。
聖書は、神様の愛を、はっきりと啓示しています。
神様には、裏取引もありません。
神様に従うことで、何かを神様から要求されることもありません。
イエスさまが、すべて支払い済みだからです。
ただ、「私の愛の中にとどまりなさい」だけが私たちへ求められているのです。
 
「信号が赤になったら、止まる」これは当たり前ですね。
「俺は赤が好きだから、赤で進むんだぁ」と暴走する車は、まずありません。
日本で買い物するためには、支払いは日本の通貨「円」ですね。
「ブラジルレアルだって価値があるんだぜ」と言ったって、許してくれるお店は少ないでしょう。
信号や通貨、これらを当たり前に私たちは受け入れています。
それは、生きていくためです。
苦痛や強制を感じる人は少ないでしょう。
 
神様の国に、神様の愛の中に、あなたが生きるのも同じことです。
何も隠されていない神様の無限の愛に、どっぷりと浸かりましょう。
イエスさまの十字架からあふれる恵みを、たっぷりと浴びましょう。
あなたが、本当に生きるために。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.02.12
「パウロのアイデンティティー」 パウロ書簡1:1
 
神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、(ローマ人への手紙)
神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、(コリント人への第一の手紙)
使徒となったパウロ――私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。――(ガラテヤ人への手紙)
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。(エペソ人への手紙)
神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、(コロサイ人への手紙)
パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。(テサロニケ人への第一の手紙)
私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロから、(テモテへの第一の手紙)
神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ――私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。(テトスへの手紙)
キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンへ。また、(ピレモンへの手紙)
 
パウロは、新約聖書中の13の書簡を書きました。
その多くが、冒頭に自己紹介を含む挨拶が書かれています。
今週は、そんなパウロ書簡の冒頭第1章1節を集めてみました。
 
パウロは、キリキヤのタルソで生まれたユダヤ人で、生まれながらのローマ市民権を持っており、ガマリエルのもとで律法を学びました。
はじめはキリスト教の迫害者でしたが、ダマスコに行く途中にイエスさまに出会いました。
その結果目が見えなくなり、ダマスコでアナニヤというキリスト者に祈られ、目が見えるようになりました。
そして、バルナバとともに、イエスさまの福音を述べ伝える旅に出たのです。
途中、迫害や艱難に遭遇し、激動の人生を歩んでいます。
 
このようにざっと書くだけでも、パウロのPRポイントはたくさんあります。
自己紹介がどれだけあっても、人を飽きさせることのない、てんこもりの人生です。
しかし、パウロは手紙の冒頭には、その自己紹介には、一切これらのPRポイントを語りません。
「キリスト・イエスのしもべパウロ」「キリスト・イエスの使徒として召されたパウロ」「キリスト・イエスの囚人であるパウロ」など、あっさりとしたものです。
 
パウロがPRポイントを語らなかったのは、みんなが知っているからでしょうか。
いえ、そうではありません。
私たちは、もしみんなが知っていたとしても、ことさらに書きたがってしまうものです。
 
「元・不登校」とか「元・暴走族」などのように、過去のマイナス(に思われるようなもの)を材料にしたり、
「有名大学卒業」とか「元・カリスマ◯◯」などのように、過去のプラス(に思われるようなもの)を材料にしたりして、
自分を高めようとしてしまいます。
また、「こんな親に育てられたから」とか「あんなことをされたから」という過去の経験で、自分を卑下したり、逆に高慢になったりしてしまうのです。
 
こういう状況に陥ってしまう人の多くは、「過去は変えられない」と思っています。
また、自己主張・自己アピールするための材料でもあるので、過去を変えたいとも思いません。
そして、過去に乗っかったり、過去に縛られたりして、安心してしまうのです。
 
しかし、聖書はあなたに、「過去はあなたを縛らない」と宣言します。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント5:17)
 
イエスさまとともにあるなら、新しい自分を生きられるのです。
パウロの自己紹介は、まさに、そのようなものです。
過去はいろいろあったかもしれないけど、今はイエスさまとともに生きる者、これがパウロのアイデンティティーなのです。
 
過去は変えられないと、あきらめなくていいのです。
過去を誇りにすることも、過去にとらわれてしまうことも、必要ないのです。
あなたは、神様に愛されている今の自分を生きればいいのです。
そして、そこから、神様に愛されていた過去の自分を見つけるのです。
そう、新しい過去が、あなたに与えられるのです。
 
パウロは、新しい過去を手に入れ、新しい自分を生きました。
イエスさまの愛が、それを成し遂げたのです。
そして、そんなパウロのアイデンティティーが、今、あなたのアイデンティティーになるのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.02.04
「天の御国を見つけると」 マタイ13:44-46

44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。


今週の聖書箇所は、「天の御国のたとえ」の箇所です。
ここには、2つのケースが書かれています。
1つ目は、畑に隠された(他人の)宝を、見つけてしまった場合です。
この発見には、多分に偶発的な要素があります。
2つ目は、真珠を捜している商人が、良い真珠を見つけた場合です。
こちらは、偶発的というわけではなく、意識した求めがなされています。

しかし、この両者、どちらも同じ反応をしているのです。
それは、「持ち物を全部売り払って、それを手に入れる」ということです。
天の御国、神様の国、神様の愛の中に生きる、ここに出会ったものは、同じ反応をするのです。
やや偶発的な与えられ方をしたとしても、自発的に求め続けたとしても、です。

天の御国を手に入れるために、天の御国を自分のものとするために、持ち物を全部売り払うのです。
それは、それ以外のすべてのものが、不要になる、価値のない物となることです。

聖書には「求めなさい。そうすれば受けるのです。」ということがよく書かれています。
それで、私たちはいろいろなものを、いろいろなことを求め望みます。
しかし、もし天の御国があなたの前に出現したのなら、それらすべてのものが不要で無価値になるのです。
求めていたもの以上のものが、あなたの人生に起こってしまうからです。
だから、求めていたものを手放せるのです。

それは、苦痛を伴いません。
求めていたものを手放すことは、44節にあるように「大喜び」なのです。

「聖書読んでも、喜べません」
「そんなこと言っても、手放すのは苦しいばっかりです」
そういうあなたも、いるかもしれません。
それは、まだ見つけられていないだけです。
まだ、捜しあてていないだけです。

イエスさまは約束しました。
「あなたのために、天の御国には場所がある」
これは、死んだら天国に行けるように準備してるから、というだけのことではありません。
すでにここに、天の御国が、神様の愛が、あなたのためにあるのです。
畑の中に埋められた宝のように、見つけられていない良い真珠のように、すでに存在しているのです。
まだ、見えていないだけ、出会っていないだけなのです。

あなたは今、様々なものを求め、願っているかもしれません。
何かに欠乏を感じ、必要を感じているかもしれません。
でも、あなたの本当の不足は、神様との出会いだけ、天の御国だけなのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.01.28
「落とした斧」 列王記下 6:1-7 

1 預言者のともがらがエリシャに、「ご覧のとおり、私たちがあなたといっしょに住んでいるこの場所は狭くなりましたので、
2 ヨルダン川に行きましょう。そこからめいめい一本ずつ材木を切り出して、そこに、私たちの住む所を作りましょう。」と言うと、エリシャは、「行きなさい。」と言った。
3 すると、そのひとりが、「あなたもどうか、思い切ってしもべたちといっしょに行ってください。」と言ったので、エリシャは、「では、私も行こう。」と言って、
4 彼らといっしょに出かけた。彼らは、ヨルダン川に着くと、木を切り倒した。
5 ひとりが材木を倒しているとき、斧の頭を水の中に落としてしまった。彼は叫んで言った。「ああ、わが主。あれは借り物です。」
6 神の人は言った。「どこに落としたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切って、そこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。
7 彼が、「それを拾い上げなさい。」と言ったので、その人は手を伸ばして、それを取り上げた。

預言者のひとりが、斧の頭をヨルダン川の水の中に落としてしまいました。
エリシャが一本の枝を切って投げ込むと、斧の頭が浮かび上がって、拾うことができました。
日本でもカナヅチと言ったら泳げない人のことを指すように、斧の頭が浮くなど、まったく予想ができない事柄です。
しかし、神様は、人間の予想を超えた方法で、あるいは人間が望んでもいないような方法で、解決を与えることがあるのです。

さて、その前のエリシャの言葉です。
「どこに落としたのか。」(6節)

神様は、すべてをご存じです。
だから、斧の頭を浮かび上がらせることができたのです。
なのに、あえて神様は「どこに落としたのか。」と聞くのです。

それは、神様には不要だけど、人間には必要だからです。

神様は、この他の場所でも、人間に問いかけます。
「あなたは、どこにいるのか。」

あなたの現在地、あなたの苦しみの現在地、あなたの悲しみの現在地・・・
神様は知っています。
知っていて、あなたに聞くのです。
どうなりたいのか? 何を望むのか? どこに行きたいのか?

それは、私たち人間が、自分自身の位置を知るためです。

以前の礼拝でも何度かお話したことがありますが、地図の読み方にはポイントがあります。
地図上の2点がわからなければ、地図はまったく読めないということです。
1点は、「目的地」です。
これは、比較的簡単に見つけることができます。
そして2点目は、「現在地」です。
「出発地」ではありません。
目的地や出発地に比べて、現在地は地図上で見つけることが難しいものです。
でも、そこがわからなければ、地図は読めません。
カーナビなどのナビゲーションシステムは、自動的に現在地を示してくれるので、わかりやすいのです。

あなたの本当の求め、あなたの本当の苦しみ、あなたの本当の解決を、あなたがはっきりと知るために。
あなたが本当になすべきことを、あなたが知るために。
神様はあなたの現在地を、あなたに聞くのです。

「どこに落としたのか。」
あなたの求めは、どこにあるの?
あなたの苦しみは、どこにあるの?

神様の解決は、多くの場合、人間の思うこととは違う方法です。
時が違い、場所が違い、方法も道具も、すべてが思い通りになりません。
でも、あなたにとっての最善なのです。

あなたの予想や考えとはまったく異なるけどあなたにとっての最善が、神様の用意する答えです。

ちょっと不安になるかもしれません。
でも、その体験を繰り返せば、それもあなたの安心になります。
生きた神様との、ワクワクとして毎日が始まります。
神様の最善の中に生きましょう。

おはようございます。
エリフのセリフ、長いですねぇ。
でも、よく読んでみると、私たちが引き起こしてしまいがちな、神様への誤解が読み取れますねぇ。
知っているようで、知らない神様の愛。

ヨブ記 第37章

1 これによって私の心はおののき、その所からとびのく。
2 しかと聞け。その御声の荒れ狂うのを。その御口から出るとどろきを。
3 神はそのいなずまを全天の下、まっすぐに進ませる。それを地の果て果てまでも。
4 そのあとでかみなりが鳴りとどろく。神はそのいかめしい声で雷鳴をとどろかせ、その声の聞こえるときも、いなずまを引き止めない。
5 神は、御声で驚くほどに雷鳴をとどろかせ、私たちの知りえない大きなことをされる。
6 神は雪に向かって、地に降れ、と命じ、夕立に、激しい大雨に命じる。
7 神はすべての人の手を封じ込める。神の造った人間が知るために。
8 獣は巣にもぐり、ほら穴にうずくまる。
9 つむじ風は天の室から吹き、寒さは北から来る。
10 神の息によって氷が張り、広い水が凍りつく。
11 神は濃い雲に水気を負わせ、雲が、そのいなずまをまき散らす。
12 これは神の指図によって巡り回り、命じられるままに世界の地の面で事を行なう。
13 神がこれを起こさせるのは、懲らしめのため、あるいは、ご自身の地のため、あるいは、恵みを施すためである。
14 これに耳を傾けよ。ヨブ。神の奇しいみわざを、じっと考えよ。
15 あなたは知っているか。神がどのようにこれらに命じ、その雲にいなずまをひらめかせるかを。
16 あなたは濃い雲のつり合いを知っているか。完全な知識を持つ方の不思議なみわざを。
17 また、南風で地がもだすとき、あなたの着物がいかに熱くなるかを。
18 あなたは、鋳た鏡のように堅い大空を神とともに張り延ばすことができるのか
19 神に何と言うべきかを私たちに教えよ。やみのために、私たちはことばを並べることができない。
20 私が語りたいと、神にどうして伝えられようか。人が尋ねるなら、必ず彼は滅ぼされる。
21 今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。
22 北から黄金の輝きが現われ、神の回りには恐るべき尊厳がある。
23 私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。
24 だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.01.21
「徹頭徹尾」 イザヤ44:6-8

6 イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。
7 わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。
8 恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。


神様はひとり、ただ、すべてを作られた創造主。
救い主もひとり、ただ、すべての罪の赦しのための御子・イエスさま。
聖書66巻は、そのはじめから終わりまで、このことについて一貫してぶれません。
創世記も、出エジプト記も、ダビデの生涯も、福音書も、そして黙示録も、他の書簡も。
まさに、徹頭徹尾です。

あなたの人生も、同じです。

地上のいのちのはじまりに、神様が共にいました。
あなたのいのちは、神さまがはじめられたのです。
新しいいのちに導かれたときも、そこに十字架の赦しがありました。
イエスさまがいなくては、あなたの新しいいのちは、はじまりませんでした。
地上でのいのちの終わり、永遠のいのちのはじまりも、もちろん神様とともにです。

そして、あなたの毎日に、日々の生活に、神様がともにいます。

あなたの人生に、ひとりの神様がいるのです。
ふたりはいません。
この事実に、だれも無関係ではいられないのです。

なのに、私たち人間は、自分が神のようであろうとしてしまいます。
自分の人生のただひとりの主権者のようになり、自分の判断を最優先してしまうのです。
そして、自分自身で決めておいて、その行く末を恐れてしまうのです。
「善悪を知る木の実」を食べた、はじめての罪の深さを、罪の力の凄さを、思わずにはいられません。

カラクリが分かったら、恐ろしさは、消滅します。
カラクリが分かったら、重荷は、ぐっと軽くなります。
カラクリが分かったら、迷路は、抜け出せる道に変わります。

あなたの恐れに、つける薬があるということです。
あなたの恐れには、「自分が主になってしまう」というカラクリがあったのです。

主を主とする。
主の羊として、主を羊飼いとして生きる。
明日を見ることは自分にはできないけど、神様にゆだねて、神さまの導きのままに生きる。

知らない土地でタクシーに乗ったら、あなたは行き先を告げ、ドライバーに道順をまかせるでしょう。
神様は、どんな優秀なドライバーよりも、あなたの人生の道案内として優秀です。

主を主とすることに、徹頭徹尾しましょう。
そのとき、あなたの人生の荒れ地・岩場は、緑の牧場に変わるのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2017.01.01
「恐れることはありません」
 
だから恐れることはありません。
あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
マタイによる福音書 第10章31節
(2017年 ゴスペルハウス年間聖句)
 
神様は、聖書の御言葉で私たちに語りかけてくることがあります。
また、神様は、私たちに直接語りかけてくることもあります。
生きて働く全能の神様なので、できないことは何もないのです。
 
しかし、どんな御言葉も、どんな神様からの働きかけも、強力に跳ね返そうとする力が私たち自身の中にあるのです。
それは、「自分なんてダメだ」や「私にはわからない」です。
 
「自分なんてダメだ」とつぶやくことで、宣言してしまうことで、低い位置に自分を固定してしまいます。
だから、神様の招きが、怖いのです。
「私にはわからない」と決めてしまうので、神様の招きが、受け入れられないのです。
 
聖書は何回も、「恐れるな」「恐れることはありません」と、あなたに語りかけています。
その招きは、人間の視点では恐ろしいことかもしれないけれども、神様の視点ではあなたへの最善なのです。
でも、でも、でも・・・・と、私たちはグズグズしてしまうのです。
 
イエスさまは、人間が恐れを持ちやすいことは、もちろん知っていました。
人を恐れないで、神様の愛を信じて!
これが、イエスさまの招きです。
 
イエスさまが、あなたをどんなに愛してくれているのか。
神様にとって、あなたはどれほど大切な存在なのか。
この深い愛の中に生かされましょう。
今までも、もちろんそうでしたけど、あらためて2017年は特に、この愛を味わいましょう。
 
神様の愛の中に、あなたをしっかりと立たせましょう。

ゴスペルハウスクリスマスメッセージ 2016.12.24
「クリスマス」 ルカ 2:1-7

1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。


クリスマスおめでとうございます。
今年のアドベントは、「正しさ」をテーマに、メッセージを続けてきました。

受胎告知を受けたマリヤは、「そんなことはありえない」と、正しい答えをしました。
しかし、御使いはマリヤにその正しさを捨てるように促し、マリヤは正しさを捨てました。
自分自身の正しさよりも、神様の言葉に従うことを選択したのです。

ヨセフは、マリヤの懐妊を知ったときに、愛のゆえに一番正しいことを捨てました。
マリヤが罰せられることを、ヨセフは選べなかったのです。
彼は、自分が罰せられるという、二番目の正しさを選びました。
しかし、神様は、その両方の正しさを捨てるように、ヨセフに命じたのです。
ヨセフは、律法の正しさよりも、愛の正しさよりも、神様の言葉に従いました。

ヘロデ王は、新しいユダヤの王の誕生の知らせに、恐れおののきました。
「自分自身こそが王である」という、自身の勝手な正しさを捨てることができませんでした。
それで、虐殺にまで及んだのです。

インマヌエルのために、マリヤとヨセフは、正しさを捨てました。
神様は、あなたにも、あなたの正しさを捨てるように、神様の言葉に生きるように、招いています。

さて、「聖書の大原則」を、覚えていますか。
それは、「神様は命令しっぱなしではない」ということです。
それには、2つの側面があります。

1つ目は「神様は命令したときに、それを達成できるように、支えてくれる。」です。
たしかに、マリヤとヨセフが神様の言葉に従うために、神様は御使いを送り、彼らを支え導きました。

2つ目は「神様は命令したときに、自分自身もその命令を守る。」です。
神様が、正しさを捨てるように命じたということは、神様自身も正しさを捨てるということです。
そして、たしかに神様は正しさを捨てたのです。

神様は、栄光も権威も力も尊敬も受けるべきお方です。
それこそが、神様の正しいあり方です。
しかし、それらをすべて捨てて、貧しさの中に、イエスさまは家畜小屋で生まれたのです。

あなたと共にいるために、インマヌエルのために、神様が正しさを捨てました。
あなたに、何か特別な資格があったわけではありません。
ただ、神様の愛が、ここにあるのです。

神様は、その正しさを捨ててまで、あなたと共にいることを選んだのです。
この愛の中に、クリスマスの愛の中に、あなたは生きていいのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2016.12.10(アドベント-3)
「正しい人であった」 マタイ 1:18-25
 
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。
 
「夫のヨセフは正しい人であって」(19節)とあるように、ヨセフは正しい人でした。
そのヨセフの婚約者のマリヤが、ヨセフと結ばれる前にみごもったのです。
もちろん、お腹の赤ちゃんは、ヨセフの子どもではありません。
 
この場合、正しい人の取る行動は、申命記22章に書かれています。
「ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。」(申命記22:23-24)
マリヤは、その不義のために、石打ちで殺されなければならないのです。
 
しかし、正しさは愛に勝つことができません。
正しいヨセフは愛のために、一番正しい方法をやめて、二番目に正しい方法を選ぼうと決心しました。
「彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」(19節)
これは、マリヤとの婚約を、ヨセフの意志で解消するということです。
こうすれば、マリヤが石で打たれることはなく、ヨセフが彼の身勝手を責められるだけでいいのです。
 
しかし、神様は、ヨセフの一番正しい方法も、二番目に正しい方法も、捨てさせました。
それは、マリヤをそのまま妻として迎えることでした。
 
これは一番愚かな道です。
また、正しい道でもありません。
周囲のあざけりが来るでしょう。
疑いの眼差しを向けられるでしょう。
不評判や無理解も、当然起こりましょう。
新しく歩む家族にとっては、イバラの道と言っていいでしょう。
 
しかし、それは愛のある道なのです。
 
正しさを捨てた先の愛。
あざけりや疑いや不評判や無理解、その先の愛の道。
そう、イエスさまの十字架への道そのものではありませんか。
 
妻マリヤも、夫ヨセフも、正しい人でした。
しかし、神様はその正しさを捨てることを要求したのです。
正しさの代わりに、神様の言葉によって生きることを、神様は彼らに命じたのです。
そして、マリヤの産んだイエスさまも、自分の正しさを捨てて、神様の御心に従い切ったのです。
 
私はここで、人類最初の罪を思い起こします。
それは、「善悪を知る木の実」を食べてしまったこと。
その結果、人間は自分たちの「(勝手な)正しさ」を身につけたのです。
それまでは神様の言葉に生かされていたのに、神様の正しさの中に生きていたのに。
 
マリヤとヨセフへの神様の要求は、もう一度神様との愛の関係への入口になったのです。
 
マリヤとヨセフは、そしてイエスさまは、正しさを捨てました。
そして、神様の言葉に従いました。
それは、インマヌエル(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)のため。
あなたが神様とともに生きるためです。
 
あなたのために、正しさを捨てた方がいます。
あなたは、正しい人のままでいますか。
それとも、正しさをこえた愛の道を歩みますか。

ゴスペルハウスメッセージ2016.12.03(アドベント-2)
「あなたへの受胎告知」ルカ 1:26-38
 
26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
28 御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
 
今週の聖書箇所は「受胎告知」として有名な箇所です。
ここから、「あなたへの受胎告知」というテーマで、御言葉を開きましょう。
 
「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(34節)
このマリヤの発言は、まったく正しいものです。
処女であるマリヤは、妊娠するはずがありません。
だから、赤ちゃんは生まれっこないのです。
非の打ち所がないほどに、マリヤは正しいのです。
 
しかし、御使いは続けます。
「神にとって不可能なことは一つもありません。」(37節)
 
マリヤはこの言葉を受けて、自分自身の正しさを手放しました。
それは、客観的に見てもまったく正しいものだったにも関わらずです。
「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(38節)
 
神様が言ったなら、それはなる。
神様が言ったなら、受け入れる。
だって、神様には不可能がないのだから、なんでもできるのだから。
 
これが信仰です。
 
全知全能の神様の前に、自分の不完全な善悪の基準や常識や知識や習慣を振りかざしても、意味はないのです。
だって、神様にはできないことはないのですから。
神様ができるといったなら、それはできることなのです。
 
ここで一つ、勘違いしないでおいてほしいことがあります。
それは、「神様はなんでのできるのだから、願ったことを何でもしてもらえる」という間違いです。
自分の願望を叶えるために神様を利用するなら、あなたは自分を神様以上の地位に置こうとしているのです。
神様をあなたの下僕にしてはいけません。
むしろ、あなたの願望を手放してでも、神様の言葉を優先することが必要なのです。
 
マリヤは、この非常識な神様の言葉を優先しました。
自分自身のうえに、神様の言葉が成就することを、承諾したのです。
たとえそれが望んでいない内容でも、たとえそれがあまりに突飛でも。
 
そして、あなたに注がれた神様の愛、それも突飛で信じられないものでした。
神様のひとり子が、人間の子として生まれ、十字架で死ぬ。
何の罪も犯していないのに、呪われた者としてよみにくだる。
それは、あなたの罪の身代わりになったから。
あなたは、神様のひとり子のいのちと引き換えに、罪赦されたのです。
 
この非常識な愛を土台にして、いま、あなたの人生に神様の言葉が与えられます。
その時、あなたはどうしますか?
自分自身の知識や常識や善悪の判断にしがみつきますか。
それとも、神様のおことばどおりにあなたの身になることを認め、願いますか。
そう、それが、あなたへの受胎告知なのです。
 
正しさを超えた神様の力、神様の言葉、神様の愛が、あなたの人生にやってきます。
あなたへの受胎告知に、さあ、あなたはどう向き合いますか。

坂本 秀雄 (伝道師)

Author:坂本 秀雄 (伝道師)

ゴスペルハウスは、超教派のキリスト教伝道所です。
神様の愛で建てられ、神様の愛を伝えています。

2008年にブラジル・サンパウロから帰国した家族が、山形県の川西町に移住して楽しくゴスペルハウスな生活をしています。
そして今度は隣町の高畠へ引っ越しました。
どなたでもお気軽にお越しください。

ゴスペルハウスには、あなたのための席が用意されています。

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
お気軽にお越しください。
山形県東置賜郡高畠町
安久津1070

電車でお越しの方は、高畠駅までお迎えします。

賛美・御言葉・聖餐を中心とした、明るい雰囲気の礼拝です。
はっきり言って、楽しいです。

同時間帯で、「子ども礼拝」も行なっています。
大人も子どもも、クリスチャンもそうでない方も、ぜひご一緒に集いましょう。

集会の後には、ご一緒に夕食を頂きます。
伝道師みずから、腕をふるって料理します。
おいしいですよ。(もちろん無料)