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ゴスペルハウスメッセージ 2018.11.17
「レンガ積みの人生・石積みの人生」 創世記 11:1-9

1 さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。
2 人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。
3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。
4 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」
5 そのとき主は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。
6 主は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。
7 さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」
8 主が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで主が全地の話しことばを混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされたからである。


バベルの塔として有名な箇所です。
この場で、言葉が神様によって混乱させられたのは、神様からの呪いではなく、神様からの恵みであるということは以前お話したことがあります。
今週は、「石の代わりにれんが」に注目して、御言葉を開いていきましょう。

石は、自然天然のもので、様々な形・大きさをしています。
れんがは、人工物で、決まった形をしています。
縦に積むことを考えたら、れんがの方がずっと楽です。
形がそろっているからです。
自然のままの石は、縦に4段積むのも、難しいものです。
「石積みアート」「ロックバランシング」という積み方もあるようですが。

しかし、積みやすい、形や大きさの決まったレンガやブロックの壁は、地震であっさり崩れます。
それに対して、様々な形や大きさの石を組み上げて作られた石垣は、ずっと崩れにくいものです。
熊本の地震や東日本大震災のときには、一部それらの石垣も崩れましたが、崩れたことが驚かれたということが、その強さを逆に物語っているのではないでしょうか。
もし、エジプトのスフィンクスがその場にいたなら、鼻だけでなく、頭も胴もバラバラになったのではないかと、私は思うのです。

私たちが教会を立てあげるのに、一人ひとりが大切です。
それぞれに個性があり、得手・不得手があり、長所・短所があり、それでいいんです。
みんなおんなじだったら、管理するのに都合がいいかも知れませんが、弱く脆いものになってしまうでしょう。

また、あなたの人生も同じです。
良かったこと、辛かったこと、うれしいこと、悲しいこと、大きな出来事、小さな出来事・・・・様々な経験があっていいんです。
それがあなたの人生を豊かに、強く、しなやかな、あなたらしいものにするのですから。

ただ、積み手の問題があります。
れんが積みの人生なら、形も大きさも決まっているので、誰でも同じように積むことができます。
しかし、石積みの人生は、いい加減な積み方ではすぐに崩壊してしまって、成り立ちません。
あなたの石積みの人生を活かすためには、名人が必要なのです。
まるで、熊本城の石垣を作った加藤清正のような、石積みの名人・達人が必要なのです。

その名人が、イエスさまです。

あなたの良さも悪さも知った上で、苦しみや悲しみや喜びも、現在も過去も、あなたの髪の毛一本、細胞1個に至るまで知った上で、イエスさまがあなたを本来のあなたへと立てあげるのです。
強く、豊かで、魅力あるあなたが、イエスさまによって立てあげられるのです。

喜びは、だれでも人生の宝にすることができます。
しかし、あなたの苦しみを、人生の宝にするのは、イエスさまだけです。
あなたの悲しみを、あなたの人生の宝にできるのも、イエスさまだけです。

イエスさまの手にある、石積みの人生を、生きてみませんか。

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ゴスペルハウスメッセージ 2018.11.10
「失敗の中の望みの綱」 歴代誌下 18:1-6

1 ヨシャファテには富と誉れが豊かに与えられたが、彼はアハブと姻戚関係に入った。
2 数年後、彼がサマリアのアハブのところに下って行くと、アハブは彼および彼とともにいた民のために、おびただしい数の羊や牛を屠り、ラモテ・ギルアデに攻め上るよう誘った。
3 イスラエルの王アハブはユダの王ヨシャファテに言った。「私とともにラモテ・ギルアデに行ってくれませんか。」彼は答えた。「私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。ともに戦いに臨みましょう。」
4 ヨシャファテはイスラエルの王に言った。「まず、主のことばを伺ってください。」
5 イスラエルの王は、四百人の預言者を集めて、彼らに尋ねた。「われわれはラモテ・ギルアデに戦いに行くべきか。それとも、私はやめるべきか。」彼らは答えた。「あなたは攻め上ってください。神は王様の手にこれを渡されます。」
6 ヨシャファテは、「ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか」と言った。

歴代誌に書かれている多くの王の中で、南北分裂以降に特に良い王と記されているのは、ヨシャファテ、ヒゼキヤ、ヨシアです。
アハブは、最悪の王と言ってもいいでしょう。
王妃のイゼベルとともに、まったく良いところがありません。
その、ヨシャファテとアハブが、今週の聖書箇所です。

ヨシャファテの人生の中での、最大の失敗と言われているのが、この章です。
ヨシャファテの息子ヨラムと、アハブとイゼベルの娘アタルヤを結婚させたのです。
南北両国の和解のため、統一のためだったのかも知れませんが、偶像崇拝という負の財産を残すことになりました。
優しい性格だったのか、単に弱かったのか、悪意のないままに、ヨシャファテは大失敗をしました。

アハブは、ラモテ・ギルアデを奪還すべく、アラムとの戦いにヨシャファテを誘います。
ヨシャファテは了承しますが、「主のことば」つまり「主のみこころ」を伺うように望みます。

イゼベルには、450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者がいると書かれています。(列王記上18:19)
もしかすると、ここにある400人の預言者は、アシェラの預言者だったかも知れませんね。
彼らは、アハブ王の気に入るような言葉だけを話しました。

ヨシャファテは、更にもう一度、「ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか」(6節)と重ねます。
この後に登場するのが、預言者ミカヤです。
彼は、アハブがこの戦いに行けば生きて帰ってこないことを告げます。
それでもアハブは出陣し、卑怯な変装までして難を逃れようとしたのですが、死ぬこととなりました。

ヨシャファテの人生最後の失敗。
それは、優しさや和を貴ぶという、良いものから生まれたものでした。
しかし、失敗などというのは、そういうものではないかと思うのです。
私たちの人生には、良いものはいっぱいあります。
その良いものを選んでも、失敗につながるのです。

では、私たちの望みの綱は何でしょう。
それは、良いものではなく、「最も良いもの」を選ぶことです。
ヨシャファテは、「主のことば」「主のみこころ」には、こだわりました。
最も良いものにこだわった彼は、やはり良い王なのです。

良い人生、それは、失敗が一度もない人生ではありません。
失敗の中で、誤りの中で、もう一度神様のみこころをたずねる生き方です。
ダビデも失敗だらけでした。
アブラハムも失敗だらけでした。
でも彼らは、そんな失敗の中で、神様を自分の目の前にして生きていたのです。
ヨシャファテも、その一点で、救われました。

あなたも失敗します。
失敗していいんです。
その中で、神様のみこころは何か、神様があなたに何を求め、どんな導きをするのか。
そのことを求めてほしいのです。
呪われることはありません。
呪いはすべて、イエスさまの十字架にかけられたのですから。

失敗の中の望みの綱を、見失わないで歩みましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.11.03
「疲れを選択する主」 ヨハネ 4:1-6

1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。

ガリラヤとユダヤの往復にサマリアを経由するのは、通常のコースです。
4節に、「しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」とわざわざ記されているのは、何か事情・理由があったのかも知れません。

ここの続きは、「サマリアの女」として知られている箇所です。
一人の女性が、イエスさまに出会い、人生のやり直しをしていく箇所です。
「第六の時」(6節)とありますが、これは正午ごろのことです。
徒歩の旅をするのにも、水汲みに来るのにも、適した時刻ではありません。

イエスさまは、疲れていても、この井戸の傍らに来るという選択をしたのです。
真っ昼間に、ヘトヘトになってでも、そこに来る必要を感じたのです。
それは、たった一人の女性のためです。
彼女の人生のために、彼女のいのちのために、疲れることをあえて選んでここに来たのです。

ここに、骨髄バンクのポスターがあります。
骨髄のドナー募集のポスターです。
ドナーに登録すること、ドナーとして骨髄液を提供すること、これはたしかに良いことです。
それしか、いのちを救う方法のない患者さんにとっては、なくてはならないことです。
(私も登録していたのですが、ブラジル滞在が引っかかりとなって、ドナー登録を抹消されました。)

しかし、そこにはリスクもあります。
背骨から骨髄液を抜くのですから、リスクが有るのが当たり前かもしれません。
まったく見ず知らずの人のために、これから知ることもかなわない人のために、ドナーとなった人はリスクを負うのです。
もちろん、リスク発生の可能性は少ないものです。
が、何も得るものがない中で、リスクを負うのです。

私は、ドナー登録を推進したいわけでも、否定したいわけでもありません。
リスクがあって、リターンがないというドナーの現実を紹介しただけです。
「この現実の中で、あなたはどう生きますか。」という問いをしたいのです。

イエスさまは、あえて疲れることを選んで、このサマリアの女性のために、敵対しているサマリアの女性のために、この井戸に来ました。
しかし、あなたのためにイエスさまが選択したのは、「疲れ」ではなく、「死」でした。
しかも、呪われた死であり、蔑まれた死であり、苦しい死だったのです。
骨髄ドナーのように、少ない可能性のリスクではなく、100%の死です。
リスクの大きさは、生きたまま心臓を提供するのと同じです。

この覚悟の愛に、この覚悟の選択に、あなたは命を与えられたのです。
この現実の中で、あなたはどう生きますか。
あなたの人生を、どう捧げますか。
あなたは、どんな選択をして生きていきますか。

自分の利益も、大事です。
自分の自由も権利も、大事です。
でも、それらをあえて選択しないという自由、それらをあえて捨てるという権利、これもあなたにはあるのです。

なぜなら、イエスさまがそういう選択をしたからこそ、あなたはいのちを与えられているのですから。
その選択の上に、あなたの生涯は成り立っているのですから。
永遠のいのちをあなたに与えるために、イエスさまは選択したのです。

あえて、3回聞きます。
この現実の中で、あなたはどう生きますか。



ゴスペルハウスメッセージ 2018.10.20
「着たのです。着けなさい。」 コロサイ 3:9-14

9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、
10 新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。
11 そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。
12 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。
13 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。

キリスト者の特徴の一つとして、「新しい人」として生きるということがあります。
古い自分を卒業して、神様に新しくされて、新しい自分を生きるのです。
イエスさまの十字架の血潮によって、何の条件もなしに、新しい自分を生きるのです。
それは、すべての人に与えられた、神様からの愛のプレゼントです。

「そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。」(11節)
知識や哲学を尊重するギリシヤ人も、血筋や神学を大事にするユダヤ人も、割礼のような宗教儀式も、関係ありません。
未開の地にすんでいる人も、粗野な人の代表とされるスクテヤ人も、奴隷と自由人という立場や地位の違いも関係ありません。
どんな人も、何の区別もないのです。
人は何かと区別をしたがりますが、神様の愛は何も区別しません。
ただキリストのみ、ただ十字架の一方的な愛によるのです。

しかし、不完全な私たち人間は、新しい人になったつもりでも、なかなかその通りに生きられないことがあります。
失敗するたびに、
「まだまだできないなぁ」
「新しい人になったはずなのに・・・・」
「なぜ、古い自分が出てきてしまうのか・・・・」
と言って、自分自身を責めることもしばしばです。
そして、十字架の血潮の価値を忘れてしまうのです。

しかし、こうあります。
「新しい人を着たのです。」(10節)
新しい人になったではなく、新しい人を着たのです。
自分の努力などで中身を変えるのではなく、一方的な愛によって新しい人を着せてもらったのです。
イエスさまの血潮を浴びるのは、体の中からではなく、外からです。
その血潮は、防火服が灼熱の炎からあなたを守るように、裁きの座であなたを義とするのです。
神様の目に、あなたは義となるのです。

イエスさまの身代わりの死の、最初のひな型はどこだと思いますか。
アブラハムが、イサクを捧げるところですか? いいえ、もっと以前です。
ノアの洪水のところですか? いいえ、もっと以前です。
カインとアベルですか? いいえ、もっと以前です。

それは、創世記の3:21にあります。
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。」
アダムとエバの罪を覆うために、神様は生きものの皮を使って衣を作ったのです。
そのためには、生きものの死が必要でした。
このときも、神様は新しい人を、新しい神様との関係を、彼らに着させてくれたのです。

何度も言いますが、不完全な私たちは、それでも失敗します。
それでいいのです。
それでもあなた自身を責めなくていいのです。
それは、着物が強風であおられて、すそが乱れたようなものです。
どんな服だって、着崩れすることがあるのです。
当時のマントのような上着なら、仕方のないことでしょう。

そんなときに大切なことは、上着に帯を結ぶことです。
「 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」(14節)
愛を結ぶというと、「私、そんなに愛を持っていないから・・・・」と思うかもしれません。
しかし、この愛は、あなたから出てくる愛ではありません。
私たちの感情は、お天気が変わるだけでも揺らぎます。
まったく当てになりません。

この愛は、イエスさまの十字架上の愛です。
無理解とあざけりと激痛の中で、あなたのために示されたイエスさまの愛です。
それは、強い意志の愛です。
死んだ後に天国に行けるという権利を与えるだけのものではありません。
今、あなたが新しい人として、揺るがされないで生きるための、愛の帯なのです。
日々、イエスさまの十字架の愛を、あなたの腰に、しっかりと結びましょう。

あなたはもう、新しい人を着ています。
あなたは新しい人として生きていいのです。
イエスさまの愛の帯をぎゅっと結んで、さあ、一歩を踏み出しましょう。 

ゴスペルハウスメッセージ 2018.10.14
「しかし、あなたがたは」

申命記
1:25 彼らはその地の果物を手に入れ、私たちのもとに持って帰って来た。そして報告をし、「私たちの神、主が私たちに与えようとしておられる地は良い地です」と言った。
1:26 しかし、あなたがたは上って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。

士師記
10:11 主はイスラエルの子らに言われた。「わたしは、かつてエジプト人、アモリ人、アンモン人、ペリシテ人から、
10:12 また、シドン人、アマレク人、マオン人があなたがたを虐げてあなたがたがわたしに叫んだとき、あなたがたを彼らの手から救ったではないか。
10:13 しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。

詩篇
81:10 わたしはあなたの神 主である。わたしがあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう。
81:11 しかしわたしの民はわたしの声を聞かず イスラエルはわたしに服従しなかった。

イザヤ書
30:15 イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。

エレミヤ書
34:14 「七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。六年の間あなたに仕えさせ、その後あなたは彼を自由の身にせよ」と。しかし、あなたがたの先祖は、わたしに聞かず、耳を傾けもしなかった。

アモス書
2:11 わたしが、あなたがたの息子たちから預言者を、あなたがたの若者からナジル人を起こしたのだ。そうではなかったか。イスラエルの子らよ。──主のことば──
2:12 しかし、あなたがたはナジル人に酒を飲ませ、預言者には『預言するな』と命じた。

マラキ書
1:2 「わたしはあなたがたを愛している。──主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。

マラキ書
3:7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。

使徒の働き
13:46 「神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています。ですから、見なさい、私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます。

以上、旧約時代の「しかし、あなたがたは」
以下、新約時代の「しかし、あなたがたは」

ルカの福音書
21:16 あなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにも裏切られます。中には殺される人もいます。
21:17 また、わたしの名のために、すべての人に憎まれます。
21:18 しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。

ヨハネの福音書
16:20 まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。

コリント人への手紙 第一
1:30 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。

ルカの福音書
6:35 しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。


今週の聖書箇所は、聖書のあちこちにある「しかし、あなたがたは」を開いてみましょう。
「しかし、あなたがたは」は、聖書の中に、約50回あります。

旧約聖書の時代の「しかし、あなたがたは」は、人間が神様を拒み続けた、裏切り続けた、その歴史を語る言葉です。
神様から、何度も何度も、注がれた愛と恵み、招き、助けに対して、一時的な立ち返りはあるものの、人間は裏切り続けてきました。

人間は、神様に従えないのです。
人間は、自らがあたかも神様であるかのように、振る舞いたいのです。
これこそ、「罪」の本質と言えましょう。
「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって」(創世記3:5)と、ヘビが言ったのは、まさに的を射ていたのです。

罪の時代、旧約聖書の時代、「しかし、あなたがたは」は、拒否と裏切りの言葉だったのです。

そんな私たち人間のもとに、イエスさまが来られました。
従い切れない者のために、裏切り続ける者のために、拒否し続ける者のために。
地上に来られ、十字架にかかった方、死に至るまで従順なイエスさま。
人の罪をすべて、人の呪いをすべて、変わって背負われたイエスさま。

この方が来られたとき、「しかし、あなたがたは」は、まったく新しい言葉になったのです。

「しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。」(ルカ21:18)
あたながたは、守られるのです。

「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」(ヨハネ16:20)
あなたがたには、喜びが与えられるのです。

「しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。」(1コリント1:30)
あなたがたは、イエスさまの愛のうちにあるのです。

「しかし、あなたがたは」は、もう、拒否と裏切りの言葉ではなくなりました。
価値なき者に、資格のない者に、注がれる愛の言葉になったのです。
そのためには、イエスさまが血を流す必要がありました。
いのちを捨てる必要がありました。
神様の子としての栄誉を捨てる必要がありました。
それほどまでに、あなたは愛されているのです。

そのうえで、次の言葉を味わいましょう。
「しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。」(ルカ6:35)
この言葉は、私たちへのすすめの言葉でもあります。
が、それ以上に、イエスさまの覚悟の言葉でもあるのです。
イエスさまの命令は、神様の命令は、聖書の命令は、人間に課すだけでなく、神様自らがまず実践されるからです。

「しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。」(ルカ6:35)
この言葉は、裏切り続けるあなたに対する、神様の強い意志をともなった愛の言葉です。
感情の愛ではなく、強い強い意志の愛。
この愛の中に、あなたはいるのです。

強い意志の愛の中に生きる者として、今日を生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.10.06
「欠けも弱さも」列王記下7:3-11

3 さて、ツァラアトに冒された四人の人が、町の門の入り口にいた。彼らは互いに言った。「われわれはどうして死ぬまでここに座っていなければならないのか。
4 たとえ町に入ろうと言ったところで、町は食糧難だから、われわれはそこで死ななければならない。ここに座っていても死ぬだけだ。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるなら、われわれは生き延びられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」
5 こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。すると、なんと、そこにはだれもいなかった。
6 これは、主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らが口々に「見よ。イスラエルの王が、ヒッタイト人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲って来る」と言い、
7 夕暮れに立って逃げ、自分たちの天幕や馬やろば、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったからであった。
8 ツァラアトに冒されたこの人たちは、陣営の端に来て、一つの天幕に入って食べたり飲んだりし、そこから銀や金や衣服を持ち出して隠した。また戻って来てはほかの天幕に入り、そこからも持ち出して隠した。
9 彼らは互いに言った。「われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう。」
10 彼らは町に入って門衛を呼び、彼らに告げた。「われわれがアラムの陣営に入ってみると、なんとそこにはだれの姿もなく、人の声もありませんでした。ただ、馬やろばがつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした。」
11 そこで門衛たちは叫んで、門内の王の家に告げた。

今週の聖書の箇所は、第6章24節からの一連の出来事なので、そこから読んでいただくとわかりやすいかと思います。
ここまでのあらすじは、こうです。
アラム軍が襲来し、サマリアを包囲します。
サマリアには大飢饉もあって、自分の子供を食べて飢えをしのごうとする者まで出ました。
イスラエルの王は、エリシャに対して的はずれな殺意を抱き、侍従をエリシャのもとへ送ります。
エリシャは侍従に、明日、解放されることを告げますが、侍従は信じないで帰ります。

その日のその後のことが、今週の聖書箇所です。

汚れた者とされ、町の中で他の人とともに生きていくことができない、ツァラアトの人たちが、町の門にいました。
町の中を飢饉が襲い、町の外をアラム軍が包囲しています。
サマリア中が、にっちもさっちも行かない状態です。
ツァラアトの彼らには、もはや、何も希望が残っていないように感じられたことでしょう。

「われわれはどうして死ぬまでここに座っていなければならないのか。たとえ町に入ろうと言ったところで、町は食糧難だから、われわれはそこで死ななければならない。ここに座っていても死ぬだけだ。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるなら、われわれは生き延びられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」(3-4節)

彼らは、欠けを受け入れ、汚れを受け入れ、人の力(自他ともに)に絶望しました。
それで、アラム軍の陣営に入り込むことにしたのです。
それは、自暴自棄がなせるわざだったのかも知れません。

しかし、彼らはそこで、神様の奇蹟の目撃者となりました。
神様の奇蹟の祝福の受け手となりました。
そして、神様の奇蹟の証人となったのです。

彼らは、自分たちだけに利益を貯め込むことを良しとしないで、町の門衛たちに伝えに行きました。
そう、彼らは、良き日の、良き知らせの、伝え人になったのです。
欠けも弱さも受け入れ、絶望の果てに得たもの、それは、神様からの良い知らせだったのです。
欠けも弱さもあったからこそ、彼らはそこに行き着いたのです。

彼らのこの姿は、まさに、今のクリスチャンそのものではないでしょうか。
罪を認め、人の力の救いに絶望し、そこで十字架の赦し、イエスさまの愛に出会う。
十字架の奇蹟の受け手となり、その良き知らせの、伝え人になる。
彼ら4人は、今のクリスチャンの、今のあなたの、ひな型なのです。

さて、この良き知らせを聞いた王は、どうしたでしょう。
彼は、それを、疑いました、ばかにしました。
良き知らせの内容が、王の想定できる範囲を超えていたのです。
だから、彼は信じることができなかったのです。
良き知らせは、事実なのにもかかわらずです。

あなたが良き知らせを伝えたときも、同じかも知れません。
「神様のひとり子が、あなたの罪を赦すために、十字架にかかって死にました。だから、あなたの罪は、完全に赦されているのです。」
この事実は、確かな事実です。
しかし、受け手の想定できる範囲を遥かに超えている場合、受け手は信じることができないかも知れないのです。
事実、救われているのにもかかわらずです。

しかし、希望はあります。
王は疑いましたが、神様の奇蹟の事実は、サマリア中を救ったのです。
あなたが伝える良い知らせも、あなたが思っているタイミングではないかも知れませんが、あなたが思っている方法ではないかも知れませんが、受け手を救う力を持っているのです。
良き知らせを、伝え続けましょう!

あなたの欠けも弱さも、あなたを呪うことはできません。
あなたが絶望しても、他人があなたに絶望しても、構いません。
あなたの欠けも弱さも知った上で、愛してくださるイエスさまがいるのです。
この奇蹟の受け手として、この良き知らせの伝え手として、今日も、神様の言葉と、神様の愛と、ともに生きましょう

ゴスペルハウスメッセージ 2018.09.29
「解放する主」ルカ5:12-15

12 さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」
13 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。
14 イエスは彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのため、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」
15 しかし、イエスのうわさはますます広まり、大勢の群衆が話を聞くために、また病気を癒やしてもらうために集まって来た。

ツァラアト、重い皮膚病、それはこの人の人生に大きくのしかかっていました。
当時、ツァラアトの人は汚れた者とされ、その人に触れると、他の人まで汚れるとされていました。
なので、他の人に出会うと、近づかないように、大声で叫ばなければならないとされていました。
それは、ひどい屈辱のある生活です。
自分が自分であることが、そのまま悔しさになるという生活です。

「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」(12節)
この男の人の望みは、ツァラアトの癒やしだったのかもしれません。
きよくしてもらうことと、いやすことは、ほぼ同じことなのです。

それに対するイエスさまの反応は、13節にあるとおりです。
「イエスは手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。」(13節)
イエスさまは、その汚れた人に触れたのです。
触れずにいやすことができるのに、イエスさまは、あえてこの人に触れたのです。
実際、他の場面では、イエスさまは触れずにツァラアトをいやしているのです。

それが、イエスさまの心なのです。
どれほど汚れているとされている人にも、ためらうことなく触れてくださる方なのです。
そして、そのことによって、自分自身が汚れてしまうことに、何のためらいもない方なのです。
この愛は、もちろんあなたにも注がれています。

さらに、もう一つの側面からこの出来事を見てみましょう。

ツァラアトは、当時は治療法のない病気で、それを患っているものは汚れた者とされていました。
発病したという過去のひとつの出来事が、彼の現在を「汚れた者」として縛るのです。
また、治療法のない病気なので、かなりの高確率で、未来をも縛り付けるのです。

そこに、イエスさまが来られ、過去からの縛りから、現在の彼を解放し、未来の彼を解放したのです。
イエスさまは、その人の過去にとらわれず、その人の現在を受け入れ、その人に未来を与える方なのです。
姦淫の現場で捕らえられた女性(ヨハネ7:53-)もそうです。
また、イエスさまが招いた弟子たち、ペテロやマタイなども、そうでしょう。

そして、あなたにも私にも、様々な過去があります。
その過去に縛られ、とらわれ、限界を決めてしまいます。
「親がこうだったから・・・」「出会った人が・・・」「病歴が・・・」など、マイナスで苦しかった過去の場合もあるでしょう。
「私は元○○○で・・・」「こんないい学校を出て・・・」など、自慢の出来事やプライドのもとになる過去もあるでしょう。

これらが、今のあなたから自由を奪い、未来のあなたをも束縛するのです。
過去の縛りは、プラスもマイナスも、かなり強力にあなたを押さえつけるのです。

「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」(12節)
彼のこの一言は、過去からの解放のための一言です。
そして、過去から開放されるための、あなたの一言でもあるのです。

過去からあなたを解放するのは、過去から未来を解放するのは、あなたの力ではありません。
あなたを過去から解放するのは、イエスさまなのです。
あなたを愛してやまない、神様のひとり子、救い主。
この方に、あなたの過去を明け渡しましょう。
そして、解放されたあなたを、神様とともに生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.09.22
「」ヨハネの黙示録 3:20

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。
だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

食事というのは、「同じ釜の飯を食べる」といった言葉があるように、非常に親密さを増すものです。
聖書の中にも、たくさんの食事の場面が出てきます。
有名な最後の晩餐、5000人の食事の奇蹟、復活したイエスさまが弟子のための魚とパンを準備されたこと、ザアカイの家やマタイの家での宴会、などなど数えていったらメッセージの時間がなくなってしまいます。
ちなみに、私がはじめて教会に行くことになったきっかけも、食事会につられてでした。
私の人生にとっては、この食事は最大の奇蹟のときでもありました。
 
本日の聖書箇所も、食事の箇所です。
ここでわたしと書いてあるのは、イエスさまのことです。
よく絵画にも描かれていて、共通するのはそのドアにはノブがないということです。
イエスさまは、戸の外に立ったまま、入ることができないのです。
そして、紳士的なイエスさまは、ドアを蹴破って入ってくることもないのです。
この箇所は、よく、「イエスさまをお迎えすること」の大切さを示すのに使われる箇所です。
 
しかし、本日はちょっと違ったところに焦点を当ててみたいと思います。
それは、「イエスさまが私たちの心の戸の前まで来てくださった」という事です。
普通、幸せは私たちが探し当てるものです。
先週のメッセージの「山登り」も同じことですね。
探して、求めて、努力して、手に入れるものです。
しかし、ここではそうではないのです。
 
イエスさまが私たちのところへ来てくださったのです。
イエスさまは、私たちを永遠のいのち、本当の愛、真実の道に導くために来ました。
神様の永遠の愛に愛され、神様の永遠に喜びに喜ばれるために来たのです。
こんな、罪深い私たち一人ひとりの戸の前まで来てくださったのです。
 
私たちが幸せを探すのではなく、幸せが私たちを探して、やって来たのです。
私たちが天国を探すのではなく、天国が私たちを探して、やって来たのです。
これがキリスト教の原則です。
こんな大きな奇蹟は、もはやコペルニクス的転換以上のもの、はるかに以上のものです。
そして、私たちがこの奇蹟・この原則を受け入れるなら、イエスさまは私たちとともに、食事をするのです。
ゆっくりと、イエスさまとともに、楽しい時を過ごすことができるのです。
そう、奇蹟が成就するのです。
 
さあ、私たちはイエスさまとともに、楽しい食事をしようではありませんか。
天国は、あなたの人生の、あなたの日常の、真っ只中、目の前まで来ているのですから。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.09.15
「幸いです」マタイ 5:3
3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
 
マタイ5章3節から13節は、「至福の教え」といわれている箇所です。
「・・・の者は幸いです。」というかたちで、8つ並んでいます。
今週の聖書箇所はその1番目です。
 
ここで、幸いという言葉を説明します。
聖書の中で「幸い」を表す代表的な語は3語あります。
ここで使われている言葉は、ギリシャ語でマカリオスという言葉です。
新聖書辞典によりますと、マカリオスは次のような言葉です。
マカリオス〈ギリシャ語〉
いくつかの例外を除いて霊的な祝福について用いられている。
時間や状況によって変動するはかないこの世の幸福ではなく、悲しみや不遇によっても消されることのない神の祝福を意味する。
 
「心の貧しい者は幸いです。」
ここで使われている貧しいという言葉は、関西地方で使われる挨拶、
「もうかりまっか?」「あきまへんわ」というレベルの貧しさではありません。
マンガのドラえもんで、のび太の母親が家計簿を見つめながら、「今月も赤字だわ」というレベルでもないのです。
日々の生活が苦しいというのではなく、無一文、無一物の貧しさなのです。
 
このレベルで心が貧しいというのは、謙遜という言葉で済まされるものではありません。
私たちが謙遜という言葉を使うとき、ややもすると、謙遜しているということを無意識に誇ってしまう傾向があります。
そうではなく、この心の貧しさは、自分自身への徹底的な絶望の状態なのです。
 
「天の御国はその人のものだからです。」
これは、そのうちに、いつか、手に入るということではありません。
いま、すでに天国を得ているといっているのです。
 
このようなことを言われることがあります。
「どの神様も一緒でしょ。どの宗教も一緒。山登りと同じようなもので、いろんな道があるけど、登りつめた先の頂上に神様がいる。」
 
確かに宗教というのは、善行を積んで、心を聖くして、神様に近づいていくという側面があります。
登って行けば行くほど、神様の聖さがわかってきます。
そして、神様の聖さゆえに、自分の醜さが見えてくるのです。
まるで、光が強いところで、影が濃くなるように。
 
そのとき、私たちはどうしましょう。
見て見ぬ振りをして、希望がないのを知りながら登り続けるのも一つの方法です。
「どうせ私はこんな者だから」と開き直って、そこに腰を下ろすのも一つの方法です。
諦めて下山し、聖さから離れることで自分の醜さを隠すことも出来るでしょう。
 
しかし、ここに、もう一つの方法があります。
自分自身に絶望し、崖から身を投げる。という方法です。
神様の聖さに照らされ、自分自身に何の善も見出せなくなったとき、私たちは絶望し、自分自身を誇ることをやめるのではないでしょうか。
しかし、私たちには希望があります。
崖下には、イエスさまがいるのです。
 
私たちはどんなに頑張って登っても、神様の所へは行けません。
なぜなら、神様は絶対的な聖さで、私たちは不完全だからです。
でも、そのような私たちのために、神の子イエスさまが来られたのです。
しかも、絶望の淵の底に来られたのです。
そして、イエスさまは十字架上で、いのちをかけて私たちを救ってくださいました。
私たちの心の貧しさを埋めて、神様の子としての特権を与えてくださったのです。
自分自身に絶望したとき、イエスさまによって新しい自分自身の価値を得るのです。
それは、神様の子としての自分です。
それは、天国のいのちです。
 
私はメッセージで、神様の愛をお伝えしてきました。
また、神様の素晴らしさ、光に象徴される聖さをお伝えしてきました。
それは、自分自身に絶望するためです。
自分自身の中に神様に誇れる善のかけらもないことに気がつくためです。
そのとき、イエスさまによって、本当の自由、本当の希望が得られるのです。
それが神様の支配。いま、ここにある天国です。
絶望しましょう、本当の希望を手に入れるために。
 
偽りの謙遜という誇りを捨てましょう。
あなたは、人間に絶望していいのです。
あなた自身に絶望していいのです。
そこに、イエスさまがおられます。
あなたの本当の希望、本当の自由はここにあります。
あなたの本当の価値も、ここにあるのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.09.08
「ついて来なさい」 マタイ4:19 

19イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

イエスさまは、聖書の中で何度も何度も「ついて来なさい」と、語りました。
今週は、その言葉に焦点を当てて、御言葉を開きましょう。

私は学生時代、ヨット部に所属していました。
全国大会にも常連のように出場していたのですが、大学1年のときのインカレのときのことです。
そのレース会場は、今まで一度も乗ったことのない海域でした。
それで、その地区で一番強い大学の、一番強いチームのあとについて行く作戦を取りました。
スピードには自信があったので、その海域を知っているチームが作る作戦・選ぶコースをついて行けば、必ず上位に行けると踏んでいたからです。
この作戦を「青い鳥作戦」と名付け、第1レースに臨みました。

案の定、私たちのチームは上位でフィニッシュし、青い鳥作戦は成功しました。

それを聞いた同じ大学の先輩も、「じゃあ、俺もやってみる」と言って、別のチームを選んでついて行くことにしました。
しかし彼が選んだチームは、残念なことに、上位に来ることができなかったため、その先輩も下位に沈んでしまいました。
それで次のレースからは自分でコースを選んだのですが、結果は散々でした。

さて、私は、愛知県生まれなのですが、愛知県には「郷土三英傑」という言い方があります。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人です。
このうち、秀吉はついていく天才だと、私は思うのです。
天才である信長にビジョンを与えられ、その支持に従って、秀吉は猛進しました。
秀吉は、信長にただひたすら、ついて行ったのです。
信長が生きている間、秀吉は快進撃を続けました。

しかし、信長が亡くなった後、秀吉はビジョンを自ら作り出さなくてはならなくなり、迷走するような状態に陥りました。

青い鳥作戦は、あてにならないものについて行くことで崩壊します。
また、あてになると思っていた導き手も、信長がそうだったように、いつまでも生きているわけではありません。
そして、自分勝手に道を進めば、さらに悔しい結果になってしまうのです。

「ついて来なさい」
あなたに問いかけるのは、あなたの人生に問いかけるのは、イエスさまです。
それは、青い鳥よりもずっと、確かな方です。
それは、永遠のいのちを持って、はじめから終わりまで存在される方です。
聖書を読んだ人なら、だれでもわかる、だれでも知っている、確固たる永遠の導き手です。
あなたの人生にビジョンを与え、かつ、なすべきこと、進むべき道を示す方です。

そう、あなたの前には、イエスさまの足あとがあるのです。

それは、他の人から見たら、嘲りの道かもしれません。
愚かに見える、効率・能率の悪い道かもしれません。
でも、それがあなたへのイエスさまの足あとなら、あなたはその足あとに従って歩めばいいのです。
イエスさまは、あなたのための唯一の道です、唯一の真理です、唯一のいのちです。

他の人の言葉に惑わされたり、自分の中の希望や計画にとらわれたり、そして、自分勝手な道を進んでしまったり。
私たちは従いきれないのも、実情です。
わかっていても、ついて行けないのも、実情です。

でも、そんなあなたのもとにも、そんなあなたの前にも、また、イエスさまは道を示してくれるのです。
そして、「ついて来なさい」と、招いてくれるのです。
イエスさまは、決してあなたを見捨てず、決してあなたから離れないのです。
何度でも、いつでも、あなたはやり直すチャンスを貰っているのです。

この愛の方の言葉に、ついて行きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.09.02
「あなたの結ぶ実は」 マタイ7:15-23 

15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。
16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。
20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。
21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

マタイの福音書第5~7章は、「山上の説教」として知られている箇所です。
今週の聖書箇所は、その最終章の7章後半、山上の説教の最終盤です。
ここでは、読み手に選択を求めています。
「あなたは、どう生きるのか!」

ここには、2つの悪い者たちが出てきます。
偽預言者たち(15-20節)と、不法を行う者たち(21-23節)です。

「良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。」(17節)
もし、悪い木が、見た目が良い実によく似ている実を結んだとしても、似ているだけではダメなのです。
それは、良い実ではないのです。

「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(21節)
口先で信仰者ぶるのではなく、父なる神様のみこころを行う必要があるのです。

ところで、父のみこころとは何でしょう。
もし、神様から与えられた律法どおりにということならこうなります。
「きちんとしなさい。できない者は、悪い実を結ぶ悪い木だ。
似たような実を結ぶだけではダメだ。切り倒して、火に投げ込んでやる。」
クリスチャンであっても、洗礼受けてても、行いが伴わない者は、アウト!
どんな小さな違反も、赦されることはありません。

しかし、これを語っているのは、イエスさまです。
父のみこころを地上に実現するために来た、神様のひとり子です。
ただひとりの救い主、ただひとつの道、ただひとつのいのちです。
イエスさまこそが、父なる神様のみこころなのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
イエスさまによって、その十字架によって、救われなさい。
父なる神様のみこころは、はっきりしています。

あなたは、律法によれば、悪い枝です。
悪い実りしか得られず、切り倒されて火に投げ込まれるべき存在です。
だから、あなたはイエスさまに結ばれなさい。

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)

あなたは、イエスさまに接ぎ木された、枝なのです。
良い木に接がれた悪い枝のあなたは、悪い実を結ばないのです。
良い木はみな良い実を結ぶのです。(実際の植物の生態はともかく)
悪い木の悪い枝であるあなたの頑張りではなく、良い木に接がれること、それが大事なのです。
そして、接がれた木から与えられる、いのちを生きるのです。

そうすれば、この箇所に続く「岩の上に建物を建てた者と砂の上に建物を建てた者」のたとえ話もわかるでしょう。
そう、土台が違うだけなのです。
土台の選択を、あなたは迫られているのです。

自分の努力や、自分の頑張りで、救いを得ようとする者、得ようとさせる者。
これこそが、偽預言者たちであり、不法を行う者たちなのです。

不法を行わないで、生きましょう。
父なる神様のみこころの中で、いのちを頂いて、生きましょう。
イエスさまに接ぎ木されて、良い木として、生きましょう。
あなたは、良い実を結ぶ、良い木の枝として生きることができるのです。


ゴスペルハウスメッセージ 2018.08.25
「逆走は危険です」創世記30:1-13

1 ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見た。ラケルは姉に嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死にます。」
2 ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。「私が神に代われるというのか。胎の実をおまえに宿らせないのは神なのだ。」
3 彼女は言った。「ここに、私の女奴隷のビルハがいます。彼女のところに入り、彼女が私の膝に子を産むようにしてください。そうすれば、彼女によって私も子を得られるでしょう。」
4 ラケルは彼に女奴隷ビルハを妻として与えたので、ヤコブは彼女のところに入った。
5 ビルハは身ごもり、ヤコブに男の子を産んだ。
6 そこでラケルは、「神は私をかばってくださり、私の声を聞き入れて、私に男の子を与えてくださった」と言った。それゆえ、彼女はその子をダンと名づけた。
7 ラケルの女奴隷ビルハは再び身ごもって、ヤコブに二番目の男の子を産んだ。
8 そこでラケルは、「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言って、その子をナフタリと名づけた。
9 レアは自分が子を産まなくなったのを見て、彼女の女奴隷ジルパをヤコブに妻として与えた。
10 レアの女奴隷ジルパはヤコブに男の子を産んだ。
11 レアは「幸運が来た」と言って、その子をガドと名づけた。
12 レアの女奴隷ジルパはヤコブに二番目の男の子を産んだ。
13 レアは、「なんと幸せなことでしょう。女たちは私を幸せ者と言うでしょう」と言って、その子をアシェルと名づけた。

私の学生時代の同級生に、ちはやさんという方がいます。
彼女が運転免許を取ったすぐあとのこと、彼女はお母さんを助手席に乗せて、地元の町をドライブしました。
運転しているちはやさんに、お母さんが優しい声で話しかけました。
「ちはやぁ、ちはやぁ?」
「なに、お母さん、いま運転中だから、あまり話しかけないで」
「そうかい、ちはやぁ・・・」
お母さんの不安そうな声を聞いて、ちはやさんは尋ねました。
「何なの?お母さん」
「ちはや、さっきからずっと右側走ってるよ」
「え!早く言ってよ!!」
ちはやさんは、片側一車線の対面通行の道路を、二車線の道路と間違えて、逆走していたのです。

さて、「人類史上、最も祝福された家系は?」と聞かれたら、あなたはなんと答えますか。
私は、アブラハム・イサク・ヤコブと続く、アブラハムの家系を選びます。
自らの祝福だけでなく、全人類の祝福の基となったのですから。
今週の聖書箇所に登場するヤコブは、のちにイスラエルという名前を与えられ、この家系のシンボルとも言えましょう。

しかし、ヤコブの家族は、目に見えるところではかなり問題があったようです。
ヤコブは双子の弟で、兄エサウを父イサクが偏愛し、ヤコブは母リベカに偏愛され、弟が兄を出し抜くように長子の権利を掠め取り、目がかすんで見えなくなったイサクをだまして祝福を奪い取りました。
エサウはヤコブに対して殺意を覚え、ヤコブはリベカの策によって逃亡します
逃亡先のおじのラバンの家でも、結婚をめぐって騙され、ラバンの子どもたちから疎まれます。
レアとラケルの姉妹を妻として迎えたら、妻同士のいさかい、文字通りの骨肉の争いです。
お昼のメロドラマでも設定しないほどの、ドロドロとした現実が、ヤコブの生活だったのです。

神様に祝福され、神様を知っているこの家族に、なぜこのようなことが起きたのでしょう。
「ノンクリスチャンならまだしも・・・」と考える人もいるかも知れません。
「すべての人間は罪人だからしょうがない・・・」とあきらめる人もいるかも知れません。
しかし、それでは何も前に進みません。

何がこの家族をバラバラにしたのか。
何がこの家族に足りなかったのか。
謙遜、思いやり、寛容、善意・・・
たしかにそうかも知れませんが、もっと、最も、根本的なところに間違いがあるのです。

彼らには、生きた神様への祈りが足りませんでした。

彼らは、もちろん神様は知っています。
祈ってもいました。
ただ、それは、自分の苦しさや願望や都合を訴えただけです。
いわば、一方通行の祈りです。
たとえば、死んだ神様や、しゃべらない神様や、働かない神様や、心のない神様ならそうするしかないでしょう。
しかし、現実に、いま、生きて働く神様なのです。

そう、祈りは双方向の対面通行なのです。
なのに、片側二車線の一方通行のように、一方的に話し続け、神様の言葉を聞くことをしなかったのです。
その結果、それぞれの自分の思いがぶつかりあって、バラバラになってしまったのです。
神様の言葉を聞くことをせず、その場所を人間の思いで逆走してしまったのです。
「ちはやぁ・・・」と、こまった声が聞こえてきそうではありませんか。

神様の前に静まりましょう。
自分の思いや、自分の心をさぐるのではなく、神様の御声を待ちましょう。
聖書かるたの「さ」にこうあります。
「サムエルを 呼んでいるのは 主なる神」
そしてサムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」(1サムエル記3:10)と、双方向を徹底したのです。
いえ、それどころか、神様側からの言葉を優先したのです。

心をからっぽにして、神様の御声をみこころを、受け取る。
祈りは、話すだけでなく、聞くことです。
聞き上手の祈り手になりましょう。
それは、人間の言葉への聞き上手ではなく、神様の言葉への聞き上手です。
人の言葉や自分の思いに振り回されない、強い祈りの戦士に、信仰の勇士になりましょう。
そのとき、神様のみこころは、あなたのいまに、現実に、生活に、あらわれるのです。
そして、あなたは本当の神様の、生きた神様の、証人となるのです。

逆走の祈りではなく、たっぷりと神様の言葉を受け取りましょう。
あなたは、聞き上手の祈り手なのです。
そして、注がれた愛の中に生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ2018.08.18
「あらゆる民の祈りの家」イザヤ56:1-8

1 主はこう言われる。「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近いからだ。わたしの義が現れるのも。」
2 幸いなことよ。安息日を守って、これを汚さず、どんな悪事からもその手を守る人は。このように行う人、このことを堅く保つ人の子は。
3 主に連なる異国の民は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。
4 なぜなら、主がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
5 わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。
6 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、
7 わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。
8 ──イスラエルの散らされた者たちを集める方、神である主のことば──すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える。」

イザヤ書は全部で66章あります。
その中で、40章以降を第二イザヤ、56章以降を第三イザヤと考える聖書学者さんもいます。
その分類に従えば、今週の聖書箇所は第三イザヤの冒頭ということになりますね。

3節に「異国の民」「宦官」という言葉が出てきます。
彼らは、ここまで神様の民から、差別を受けてきた人々です。
のみならず、ここからも差別を受け続けてしまった人々でもあります。

しかし、神様はいうのです。
「安息日を守り、契約を堅く保つなら、受け入れる」と。
安息日を守るというのは、こういうことです。
生きている時間を、いのちを、生活を、神様から頂いたものと認め、その一部を取り分けて(聖別して)、神様にお返しする。
また、契約を堅く保つとは、生きた神様の生きた言葉の中にとどまることです。
そうすれば、イスラエルの民と同じように、いえ、それ以上に、神様はその人を受け入れるのです。

神様の家は、地上においても、天上においても、あらゆる民に開かれているのです。
これは大きな希望のメッセージです。
イザヤから約700年後の、イエスさまの時代になってでさえ、成就されていなかったほどの、大きな大きな希望の預言なのです。

異邦人である私たちも、また、他の人から「できそこない」と言われても、神様は見捨てないのです。
ただ、いのちの神様、生きた神様を認め、その約束にとどまるなら、大きな希望が与えられるのです。

イザヤから700年後の、イエスさまの時代はどうだったでしょうか。
異邦人は蔑まれ、体の不自由な人は差別されていました。
祈る場所さえ、ユダヤ人たちに取り上げられているような状態でした。
それで、イエスさまは宮清めをしたのです。

マルコ11:17にこうあります。
そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」

人間の罪が、差別や優越感が、神様の大きな希望の預言や祝福に、蓋をしてしまったのです。
それは、差別されている側だけでなく、差別している側の人からも、喜びを奪い取るものでした。
平安を奪い取るものでした。

あらゆる民の祈りの家が、あらゆる民にとって手の届かない場所になってしまったのです。
あらゆる民に開かれていたものが、あらゆる民に閉ざされたものになってしまったのです。
それは、人間の弱さ、醜さ、身勝手さ、そう、罪のためです。

イエスさまは、そこに道をつけ、そこの門を開くために、十字架にかかったのです。
その十字架が、流されたイエスさまの血潮が、あらゆる民の祈りの家を開くのです。

弱いあなたも、ずるいあなたも、すべての罪は赦されています。
イエスさまの十字架とともに、あなたの祈りの家へ、歩みましょう。


ゴスペルハウスメッセージ 2018.08.12
「動揺の原因」サムエル記上21:10-15

10 ダビデはその日、ただちにサウルから逃れ、ガテの王アキシュのところに来た。
11 アキシュの家来たちはアキシュに言った。「この人は、かの地の王ダビデではありませんか。皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」
12 ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。
13 ダビデは彼らの前でおかしくなったかのようにふるまい、捕らえられて気が変になったふりをした。彼は門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりした。
14 アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見ているように、この男は気がふれている。なぜ、私のところに連れて来たのか。
15 私のところに気がふれた者が不足しているとでもいうのか。私の前で気がふれているのを見せるために、この男を連れて来るとは。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」


聖書かるたの「た」には、こうあります。
『たくさんの 歌を作った ダビデ王』
ダビデは、立琴でサウル王を慰め癒やしました。
にもかかわらず、サウル王に命を狙われることになります。
サウル王の息子ヨナタンとダビデは、深い友情で結ばれていました。
しかし、サウル王の殺意が決定的なものになったとき、ダビデはそこを離れることにしたのです。
そして、ノブの祭司のところへ行き、ゴリアテの使っていた剣を手に入れ、その後、ペリシテの5大都市の1つ、ガデへ行ったのです。

聖書かるたの「お」は、こうです。
『大男 ゴリアテ倒した ダビデさん』
ペリシテの英雄、ゴリアテを倒したのは、少年ダビデでした。
そのダビデが、ゴリアテの剣を持って、ペリシテ人の国にいるのです。
大胆というか、そこしかサウルから逃れることができないというか、ギリギリの選択です。
それだけ、ダビデが追い詰められていたということでしょう。

そこで、アキシュの家来たちの言葉が聞こえてきました。
ダビデは恐れて、気が変になったふり、ダビデでないふりをしたのです。
写真もテレビもない時代ですから、他人のふりも可能だったのかも知れません。

ある人たちは、「ダビデは信仰が弱まった」「神様への信頼が足りなかった」と、責めたり、たしなめたりします。
しかし、そうではなく、他人事ではなく、これは私たち自身の問題です。
人間すべての問題ともいえるでしょう。
十字架前夜のペテロも、同じように他の人の言葉を恐れて、イエスさまを否認しましたね。

「じゃ、どうしようもないじゃない」・・・ではありません。
問題というのは、原因がわかれば、対処もできるのです。

ダビデは、神様に油注がれていました。
すでに、王として神様に選ばれていたのです。
現状は、サウル王に追われる立場ですが、神様にとってはすでに王なのです。
これが、神様の約束です。
アキシュの家来たちの「この人は、かの地の王ダビデではありませんか。」(11節)というのは、あながち間違ってはいないのです。

しかし、そのアキシュの家来たちの言葉が、ダビデを恐れさせました。
ダビデは、神様の約束の言葉よりも、眼の前の人間の言葉を恐れ信じたのです。
あてにならない人の言葉を、あてにならない人を、信じてしまうことは、つまり、振り回されてしまうことです。
ヤコブがそうでした。
母リベカの言葉に振り回され、逃亡せざるを得なくなりました。
アブラハムやイサクが、妻を「妹」と偽ったのも同じです。
さきほど言ったペテロの否認も、サウル王の失敗も、同じです。
人の言葉を恐れると、振り回されてしまうのです。
神様の約束に立ち帰ることが、必要なのです。

「あの人がこう言ったから・・・」「あの人は、私のことをこう思っているに違いない」
こんな事ばかり考えていたら、神様の事を考える隙間も余裕も、なくなってしまうでしょう。

神様は、あなたをなんと言っていますか?
神様は、あなたをどれほど大事に愛していますか?
あなたのために、ひとり子イエスさまを殺すほどの、大きな思い約束と愛がそこにあるのです。

あなたの想像を超える、大きな赦しが、そこにあるのです。
ダビデにも、ヤコブにも、ペテロにも、神様からの回復の場がありました。
原因がわかっても、対処しようとしても、失敗することがあります。
人間は、それほどに弱い存在なのです。
でも、それでも赦して、励ましてくれる、愛の神様がいるのです。

この愛の中に、生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.08.04
「一つも無駄にならないように」ヨハネ 6:5-14

5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。
7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。
14 人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。


聖書には4つの福音書があり、それぞれに特徴もあります。
イエスさまの復活は、4つの福音書すべてに書かれている奇跡です。
復活以外で、唯一4つの福音書すべてに記されている奇跡が、今週の聖書箇所の五千人の給食です。

沢山の人達がイエスさまについてきて、ピリポにイエスさまがチャレンジします。
そのとき、アンデレが少年を連れてきて、大麦のパン5つと2匹の魚で全員が満足いくまで食べ、残りを集めると十二のかごがいっぱいになったというのがあらすじです。

今週は、ヨハネの福音書だけに書かれているイエスさまの言葉、
「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」(12節)
に注目して、御言葉を開きます。

パン切れ、訳によってはパンくずと書かれているものもありますが、基本的には要らないものです。
不要なもので、使用済みで、ゴミ同然と言ってもいいでしょう。
期待されていない、利用価値がないものとも言えます。

しかし今や、十二かごいっぱいのパン切れは、神様の栄光をあらわすものであり、祝福された証しの品になったのです。

もしあなたが、パン切れやパンくずのように、他人に期待されていなくても、価値がないとされても、憎まれても、蔑まれたとしても、神様は決して見捨てないのです。
最後に集められたパン切れが、1つだけだったり、1かごだけだったりしたら、「私はそこから漏れているかも」と思ってしまうかも知れません。
しかし、そうではないのです。
十二かごいっぱいのパン切れは、すべての人に開かれた神様からの愛を示しているのです。
神様は、「一つも無駄にならないように」したのです。
それは、ひとりも愛から漏れることのないように、ということです。

神様は、あなたを絶対に見捨てないのです。
イエスさまは、そのために十字架について、死んだのです。
その姿は、イスラエルに与えられた、パン切れのようでした。
いのちのパンであるイエスさまが、パン切れ・パンくずになってでも、あなたを神様の愛の中に取り戻したかったのです。

パン切れのようなイエスさまが、パン切れのようなあなたを、捨てるはずがありません。
パンくずのようなイエスさまが、パンくずのようなあなたを、愛さないはずがありません。
人の目には、不要で、無価値に見えるかも知れないけれども、神様にとってあなたは宝物なのです。
だから、無理に立派なパンのふりをする必要はないのです。
背伸びも、嫉妬も、ごまかしも、必要ないのです。

愛されるパン切れとして、愛されるパンくずとして、
新しい価値の中で、あなたを生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.07.28
「いつもの中に」ルカ 22:39-42

39 それからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた。弟子たちもイエスに従った。
40 いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。
41 そして、ご自分は弟子たちから離れて、石を投げて届くほどのところに行き、ひざまずいて祈られた。
42 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」

今週の聖書箇所は、十字架前夜、いわゆる「最後の晩餐」の後のことです。
聖書の中で、「いつもの」という言葉は、新改訳聖書では8回出てきます。
そのうち唯一、2節続けて「いつもの」が登場するのが、ここの39節と40節です。

イエスさまは、いつものようにオリーブ山へ行き、いつもの場所に着きました。
でも、そこでのイエスさまと神様とのやり取りは、いつものもの、いつも通りではありませんでした。
十字架を目前にして、苦しみ悶えるイエスさまがそこにいました。
それでも、そんな状況の中で、神様のみこころに従い切ると、決心するイエスさま。
いつものように、いつもの場所での、特別な出来事です。
人類史を変える、史上最大の出来事は、いつもの中に行われたのです。

いつものときに、いつもの場所で。
神様はここに、いつものこと以上の、いつものこと以外の、スペシャルを与える方なのです。

いつもの時、いつもの場所が、特別なとき、特別な場所に変わったのは、このときだけではありません。
先週のメッセージのお話したサムエルもそうでした。
サウルやダビデが王に選ばれたときもそうでしょう。
アブラハム、ギデオン、モーセ、思いつくまま上げていけば、キリがないでしょう。

私や妻にも、ありました。
そして、もちろん、あなたにもあるのです。

特別な場所や特別な集会、特別な教会や特別な修養会、特別な牧師のメッセージ・・・
それらは、悪いものではないでしょう。
しかし、あなたのいつもの中に、神様は特別な出会いを、特別な導きを、用意しているのです。
あなたのいつもは、もう、つまらないただの繰り返しではないのです。
あなたの神様の、大切な出会いの場所なのです。

あなたのいつもの日々を、大切に生きてみませんか。
あなたのいつもの場所を、大切にしてみませんか。
そして、神様との特別な出会いに、神様からのスペシャルなプレゼントに、期待してみませんか。

あなたの人生は、あなたの毎日は、あなたのいつもは、神様に祝福されているのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.07.15
「孤独は、罰か?呪いか?」創世記28:10-17
 
10 ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。
11 彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。
12 すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
13 そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
16 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
17 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
 
ヤコブは、ひとり旅に出ました。
叔父のラバンの家に、妻を探しに行く旅です。
こう言うと、ウキウキした旅のように感じるかも知れませんが、実際は、逃亡の旅です。
 
母のリベカと共謀して、父イサクと兄エサウをだまし、その結果、エサウから殺意を抱かれます。
双子の子供のうち、弟ヤコブだけを偏愛する母とは、今生の別れとなってしまいました。
身一つで、石を枕に野宿するヤコブ。
それは、財産家であるイサクの子供としては、惨めすぎる姿です。
 
孤独、孤立、ひとりぽっち、自分の行動が招いたとはいえ、なんともさびしい姿でしょう。
 
しかし、そんな惨めな状態のヤコブに、神様の声が、神様の約束が与えられたのです。
そう、孤独は、罰でも呪いでもなく、神様があなたに声を掛けるチャンスなのです。
神様とあなたが、1対1の出会いを得るチャンスなのです。
あなたが、神様に向き合うための必要な場面だったのです。
 
それまでのヤコブは、愛する母親リベカの声しか聞いていませんでした。
 
「母は彼に言った。『子よ、あなたへののろいは私の身にあるように。ただ私の言うことをよく聞いて、行って子やぎを取って来なさい。』」(創世記27:13)
この言葉から、ヤコブは父親をだましたのです。
 
「さあ今、子よ、私の言うことをよく聞きなさい。すぐに立って、ハランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。」(創世記27:43)
しかし、たくらみが発覚すると、リベカは逃げろというのです。
 
母親の愛から出たものとはいえ、なんとも、あてにならない言葉です。
 
そんなあてにならない言葉から解放されて、本当の力ある言葉、いのちのある言葉、その言葉に導かれて生きる。
神様の言葉、愛の言葉に生きる。
そのために、ヤコブには孤独が必要だったのです。
 
聖書の中には、孤独の中で神様に出会った人々がたくさんいます。
モーセもそう、ダビデもそう、ヨナもそう、アブラハムもそう。
中でも、いっときに大量発生した出来事は、バベルの塔でしょう。
誰とも言葉が通じないとき、群衆の中での孤独に陥るとき、ただ一人神様だけを見上げるチャンスがあるのです。
 
聖書だけでなく、過去だけでなく、今ここにいる一人ひとりの中にも、そういう経験をされた方は少なくないでしょう。
 
あなたが今、孤独であっても、過去に孤独があったとしても、これから孤独に襲われたとしても、それは呪いでも罰でもないのです。
 
あなたの孤独を、あなたは恐れなくていいのです。
あてにならない言葉から、解放されましょう。
あてにならない関係から、卒業しましょう。
 
一人ぼっちは心配しなくていい、そういう生き方があるのです。
力ある、神様の愛の言葉に、愛の約束に、しっかりとあなたを留めましょう!

ゴスペルハウスメッセージ 2018.07.08
「伝えるべきこと」申命記6:20-25

20 後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神である主が命じられた、このさとしと掟と定めはどういうことですか」と言うなら、
21 あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでファラオの奴隷であったが、主が力強い御手をもって私たちをエジプトから導き出された。
22 主は私たちの目の前で、エジプトに対し、ファラオとその全家族に対して、大きくて害をもたらすしるしと不思議を行い、
23 私たちをそこから導き出された。それは、私たちの父祖たちに誓われた地に私たちを導き入れ、その地を私たちに与えるためであった。
24 それで主は、私たちがこのすべての掟を行い、自分たちの神である主を恐れるように命じられたのである。今日のように、いつまでも私たちが幸せになり、私たちが生かされるためである。
25 私たちの神、主が命じられたように御前でこのすべての命令を守り行うとき、それは私たちの義となるのである。」

今週の聖書の箇所は、モーセが民に語っています。
もし、息子に「このさとしと掟と定めはどういうことですか」(20節)と質問されたとき、どう応えるかという内容です。
その内容とは、
1.奴隷からの解放
2.支配者への、恐るべき神様のみわざ
3.確かな、約束への導き
4.いつまでもいのちにとどまる
5.神様に義とされる
に、要約されます。

神様の掟と命令を守るときに、神様からの報いがあるというのです。
いわゆる、「契約」です。

しかし、この契約は、不平等な契約です。
一方的ばかりが負担の多い、いびつな契約です。
たとえて言えば、「10円でフェラーリの新車を購入できます」というほどの不平等さなのです。
つまり、民には負担が軽く、神様にばかり負担の大きい契約なのです。

第7章12節以降を少し読んでみましょう。

7:12 もしあなたがたがこれらの定めを聞き、これを守り行うなら、あなたの神、主は、あなたの父祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、
7:13 あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたを増やす。主があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われた地で、あなたの胎の実も、穀物、新しいぶどう酒、油などの大地の実りも、またあなたの群れの中の子牛、群れの中の子羊も祝福される。
7:14 あなたはあらゆる民の中で最も祝福される。あなたのうちには、子のいない男、子のいない女はいなくなる。あなたの家畜も同様である。
7:15 主はあらゆる病気をあなたから取り除き、あなたが経験したあのエジプトの悪疫を、一つもあなたにはもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下される。

この内容も、神様側にとって見れば、割に合わないものです。
そもそも、アブラハムと神様が、創世記第15章で締結した契約からして、徹底的に不平等でした。
アブラハムが寝ている間に、神様だけが命懸けの契約を交わしたのです。

神様からの命令は、神様からの掟は、不平等な契約を通して、神様からの愛を受けるためです。
そこから目を離さないために、神様は掟を定めてくれたのです。
目を離して、それを見失い、まるで得ていないかのような人生を送らないためです。

先程の1~5を、もう一度見てみましょう。
1.奴隷からの解放
2.支配者への、恐るべき神様のみわざ
3.確かな、約束への導き
4.いつまでもいのちにとどまる
5.神様に義とされる
そして、これが不平等な、一方的なものだったのです。
そう、これは、イエスさまとあなたとの契約です。

罪の奴隷であったあなたのために、イエスさまは身代わりになって十字架にかかってくださったのです。
それだけでなく、三日目によみがえって、永遠のいのちを与えてくれたのです。

あなたに与えられているのは、神様の子どもに与えられているのは、重い契約の縛りではありません。
大きな祝福の約束なのです。
しかも、その契約のための支払いは、二千年前の十字架で済んでいるのです。

ある人が、こう言いました。
「あなたが生きていることが、あなたの最大の価値なのです。」
私は、もっと大きな価値を宣言します。
「あなたが神様に生かされていることが、あなたの最大の価値なのです。」

伝えるべきこと、胸に刻むべきこと、
最大の価値の中で、あなたを輝かせましょう!

ゴスペルハウスメッセージ 2018.06.30
「イエスさまとともに歩む」マルコ 5:22-37

22 すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、
23 こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」
35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」
36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
37 イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。

ユダヤの会堂司であるヤイロが、イエスさまと懇意にするということは、大きなリスクを伴うものでした。
それは、イエスさまは当時、ユダヤ教指導者たちから、嫌悪されていたからです。
しかし、娘が瀕死という状況にあって、ヤイロはその立場も誇りも捨てて、イエスさまの足もとにひれ伏したのです。

ヤイロの決心は、イエスさまの力を知っているからです。
しかし、失うものもの多いため、きっと、家族親族でも賛否両論だったことでしょう。
「会堂司の立場を失ったら、どうするつもり?」
「イエスに頼っても、病が癒やされるかどうかわからない!」

しかし、ヤイロは決心しました。
そして、イエスさまはヤイロと一緒に行くことになりました。
ヤイロももちろん、イエスさまとともに歩みます。
それは、大きな決意の歩みです。
しかも、少し心は揺れながら。

そこに現れたのが、長血に苦しんでいる女性です。

イエスさまは、立ち止まりました。
ヤイロも、立ち止まらざるを得ません。
一刻を争う、瀕死の娘を想うヤイロの気持ちはどんなだったでしょう。
もう、気が気ではありません。
「そんなの、明日でもいいじゃないか!」
「わたしは、すべてを捨てたっていうのに!」
「娘は、今にも死にそうなんです!」

そんなときにもたらされたのが、娘の死の報告でした。
ヤイロの家から、わざわざ使いが来たのは、家族親族の中に、イエスさまとの交流を反対する人も多かったことの証左でしょう。

ヤイロは、イエスさまとともに歩む必要がなくなってしまいました。
もう、娘は死んでしまったのです。
いえ、歩む必要がなくなったどころか、歩まないほうが良くなったのです。

そんなヤイロに、イエスさまは語りかけます。
「恐れないで、ただ信じていなさい。」(36節)

私たちは、自分の決心でイエスさまとともに歩めると、神様とともに歩めると、思っています。
しかし、そんなことのできる人はいないのです。
もし、いたとするなら、イエスさまの十字架は無意味です。
出エジプトのときに、圧倒的な神様の力を見せつけられたイスラエルの民でさえ、つまずいたのです。
これが、罪人の姿です。

イエスさまが十字架に掛かる前、ペテロはどんな事があっても、イエスさまに従うと言い切りました。
しかし、イエスさまが逮捕されたときのことが、ルカ 22:54にあります。 
「彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。」
ペテロはコソコソついて行くことしかできず、挙句の果てに3回もイエスさまを否認したのです。
もちろん、ペテロだけが弱いのではありません。

でも、そんな弱い私たちでもいいのです。
そんな弱いあなただからこそ、イエスさまの十字架の愛が、注がれるのです。
イエスさまからの、回復の言葉が与えられるのです。

イエスさまとともに歩みましょう。
ヤイロのように、思い通りにならない状況があるかも知れません。
ペテロのように、思い通りにならない自分がいるかも知れません。
つまずくことも、転ぶことも、裏切ることもあるでしょう。
臆病になることも、くじけることもあるでしょう。

でも、神様の愛は、そんなことではくじけません。
ここに、あなたの希望があるのです。
あなたは弱くても、神様の愛は強いのです。

あなたの歩みで、弱さを抱えたままで、悲しさを抱えたままで、イエスさまとともに歩みましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.06.23
「不正に得た契約の実」ヨシュア記 第9章
 
ヨシュアをリーダーに、ヨルダン川を渡り、エリコ、アイと快進撃を続けるイスラエルの民。
そんな彼らの前に、2つの異なった対応をする勢力が現れました。
 
1つは、連合して、イスラエルに戦いを挑もうとする勢力。
「さて、ヨルダン川の西側の山地、シェフェラ、レバノンに至る大海の全沿岸のヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちはみな、これを聞くと、ともに集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。」(1-2節)
 
もう1つは、イスラエルと和睦を目指す勢力、ギブオン人です。
彼らは、イスラエルに対して、害意も敵意もありませんでしたが、和睦のためにイスラエルをだましました。
イスラエルの力を恐れ、自分たちの正体を隠し、イスラエルに取り入ったのです。
「あなたがたは何者か。どこから来たのか。」(8節)とヨシュアに聞かれても、のらりくらりと返答をして、煙に巻いてしまいます。
必要な情報を隠し、真実を曲げ、イスラエルとの和睦を獲得したのです。
 
この契約は、はっきりと不正な契約です。
そして、3日の後に、この不正が発覚します。
しかし、イスラエルの族長たちは言いました。
「私たちはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。」(19節)
 
不正に得た契約、その契約の実に対して、イスラエルは真実をもって応えたのです。
揺るぎない契約が、不正を通したにもかかわらず、彼らに与えられたのです。
実際、この第9章に続く第10章では、ギブオン人の要請に従って、イスラエルは戦闘に参加しているのです。
それは、凄まじい戦いでした。
イスラエルは、いのちをかけて、不正な契約に対して、真実な実を与えたのです。
しかも、神様はそのことを良しとされ、1日の長さまで変える奇蹟を行っています。
 
こんなギブオン人は、ずるい。かもしれません。
しかし、不正に得た契約の実は、ギブオン人だけでなく、あなたも、私も得ているのです。
 
それは、イエスさまの十字架です。
 
あなたの救いに対して、あなたの罪からの解放に対して、あなたの決心や、信仰的な行動・態度は、何の役にも立ちません。
もし、役に立つのだとすれば、それは正当な報酬であり、正当な契約の実です。
しかし、現実は、何の役にも立たないのです。
 
ただイエスさまが十字架にかかったことで、何の努力も、実績も、資格もないまま、あなたに永遠のいのちの契約が与えられたのです。
まさに、あなたが不正に得た契約の実です。
それは、永遠のいのち、完全な赦し、罪からの解放。
揺るぎない契約が、あなたのものになったのです。
 
ギブオン人は、ヨシュアに、こう言いました。
「あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちを扱ってください。」(25節)
 
今、この宣言を、あなたの神様への宣言にしましょう。
神様の御心のままに、神様のお目にかなうように、あなたを扱ってもらいましょう。
 
自分の力や頑張りではなく、不正に得た契約の実。
それは、十字架の愛によって得た、契約の実。
この愛の実の中で、神様の望むとおりのあなたを、生きてみませんか。
 
 
(聖書箇所が長いので、下に記載しました)
 
1 さて、ヨルダン川の西側の山地、シェフェラ、レバノンに至る大海の全沿岸のヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちはみな、これを聞くと、
2 ともに集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。
3 ギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行ったことを聞くと、
4 彼らもまた策略をめぐらし、変装をした。古びた袋と、古びて破れて継ぎ当てをしたぶどう酒の皮袋をろばに負わせ、
5 繕った古い履き物を足にはき、古びた上着を身に着けた。彼らの食糧のパンはみな乾いて、ぼろぼろになっていた。
6 彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。「私たちは遠い国から参りました。ですから今、私たちと盟約を結んでください。」
7 イスラエルの子らはそのヒビ人たちに言った。「おそらく、あなたがたは、私たちのただ中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結べるだろうか。」
8 彼らはヨシュアに言った。「私たちは、あなたのしもべです。」ヨシュアは彼らに言った。「あなたがたは何者か。どこから来たのか。」
9 彼らは彼に言った。「しもべどもは、あなたの神、主の名のゆえにとても遠い国から参りました。主のうわさ、および主がエジプトで行われたすべてのこと、
10 主がヨルダンの川向こうのアモリ人の二人の王、ヘシュボンの王シホン、およびアシュタロテにいたバシャンの王オグになさった、すべてのことを聞いたからです。
11 私たちの長老や、私たちの国の住民はみな私たちに言いました。『旅のための食糧を手にして彼らに会いに出かけなさい。そして彼らに、「私たちは、あなたがたのしもべです。今、どうか私たちと盟約を結んでください」と言いなさい。』
12 これが私たちのパンです。私たちがあなたがたのところに来ようと出た日、それぞれ自分の家で食糧として準備したときには、まだ温かかったのですが、今はご覧のとおり、干からびて、ぼろぼろになってしまいました。
13 これがぶどう酒の皮袋です。私たちがこれらを満たしたときには新しかったのですが、ご覧のとおり破れてしまいました。これが私たちの上着と私たちの履き物です。とても長い旅のため古びてしまいました。」
14 そこで人々は彼らの食糧の一部を受け取った。しかし、主の指示を求めなかった。
15 ヨシュアは彼らと和を講じ、彼らを生かしておく盟約を結んだ。会衆の上に立つ族長たちは彼らに誓った。
16 彼らと盟約を結んでから三日たったとき、人々は彼らが近くの者たちで、自分たちのただ中に住んでいるということを聞いた。
17 そこでイスラエルの子らは出発し、三日目に彼らの町々に着いた。彼らの町々とはギブオン、ケフィラ、ベエロテ、およびキルヤテ・エアリムであった。
18 イスラエルの子らは彼らを討たなかった。会衆の上に立つ族長たちがイスラエルの神、主にかけて彼らに誓ったからである。しかし、全会衆は族長たちに向かって不平を言った。
19 族長たちはみな全会衆に言った。「私たちはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。
20 私たちは彼らにこうしよう。彼らを生かしておこう。そうすれば、私たちが彼らに誓った誓いのために、御怒りが私たちの上に下ることはないだろう。」
21 族長たちは全会衆に言った。「彼らを生かしておこう。」彼らは全会衆のために薪を割る者、水を汲む者となった。族長たちが彼らについて言ったとおりである。
22 ヨシュアは彼らを呼び寄せて、彼らに言った。「あなたがたは私たちのただ中に住んでいながら、なぜ、『私たちは、あなたがたからとても遠いところの者です』と言って私たちを欺いたのか。
23 今、あなたがたはのろわれる。あなたがたの中から、奴隷たち、私の神の家のために薪を割る者と水を汲む者が絶えることはない。」
24 彼らはヨシュアに答えた。「しもべどもは、はっきり知らされました。あなたの神、主がこの全土をあなたがたに与え、その地の全住民をあなたがたの前から根絶やしにするように、しもべモーセにお命じになったことを。それで私たちは、自分のいのちのことであなたがたを非常に恐れ、このようなことをしたのです。
25 ご覧ください。今、私たちはあなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちを扱ってください。」
26 ヨシュアは彼らが言うようにし、彼らをイスラエルの子らの手から救った。それで彼らは殺されなかった。
27 ヨシュアはその日、彼らを会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれる場所で薪を割る者と水を汲む者とし、今日に至っている。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.06.16(父の日礼拝)
「父の日・黒電話の招き」ルカ20:9-19

9 また、イエスは人々に対してこのようなたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。
10 収穫の時になったので、彼は農夫たちのところに一人のしもべを遣わした。ぶどう園の収穫の一部を納めさせるためであった。ところが農夫たちは、そのしもべを打ちたたき、何も持たせないで帰らせた。
11 そこで別のしもべを遣わしたが、彼らはそのしもべも打ちたたき、辱めたうえで、何も持たせないで帰らせた。
12 彼はさらに三人目のしもべを遣わしたが、彼らはこのしもべにも傷を負わせて追い出した。
13 ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。そうだ、私の愛する息子を送ろう。この子なら、きっと敬ってくれるだろう。』
14 ところが、農夫たちはその息子を見ると、互いに議論して『あれは跡取りだ。あれを殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる』と言った。
15  そして、彼をぶどう園の外に放り出して、殺してしまった。こうなったら、ぶどう園の主人は彼らをどうするでしょうか。
16 主人はやって来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。」これを聞いた人たちは、「そんなことが起こってはなりません」と言った。
17 イエスは彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった』と書いてあるのは、どういうことなのですか。
18 だれでもこの石の上に落ちれば、粉々に砕かれ、またこの石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」
19 律法学者たちと祭司長たちは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいた。それでそのとき、イエスに手をかけて捕らえようとしたが、民を恐れた。

今週の聖書箇所は、「悪い農夫のたとえ」として知られている箇所です。
ぶどう園の主人は神様、農夫たちはイスラエルの民、しもべたちは預言者、主人の息子はイエスさまをあらわしています。

主人は、農夫たちから約束の取り分を受けるために、しもべを遣わします。
農夫たちはそれに応じません。
にもかかわらず、主人はしもべを送り続けます。
裏切り続けられても、理解されることがないままでも、主人は送り続けたのです。
しかも、主人はルールをまったく変えませんでした。
「じゃあ、ちょっと私の取り分を減らすから・・・」とか、「来年は、ちゃんと取り分をおさめるように・・・」とかの妥協もしていません。
農夫たちへのペナルティとして、条件を厳しくすることもしていません。
また、しもべを武装させていくこともしていません。

繰り返ししもべを送ったのは、主人が弱かったわけではありません。
「主人はやって来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。」(16節)とあるように、主人は強いのです。
にもかかわらず、繰り返ししもべを送り続けたのです。
ルールを変えないのは、主人が農夫たちに期待していたからです。
手を変え品を変え、農夫たちが立ち返るのを待っているのです。

皆さんは、ケータイ・スマホが、どこに行ったかわからなくなって探すことはありませんか。
また、コードレス電話の子機も同じように、探すことはありませんか。
私は、よくあります。
しかし、数十年前まで使われていた「黒電話」は、行方不明になることはありません。
サザエさんやちびまる子ちゃんの家では、廊下の決まった電話台の上に、黒電話は居続けます。
そこに行きさえすれば、必ず黒電話はあるのです。
探すことも、見失うことも、ないのです。

主人がルールを変えなかったのは、黒電話と同じことです。
農夫たちが、本来あるべき場所に立ち返るために、ルールを変えてはいけなかったのです。
ルールが変われば、本当のあるべき場所に帰ることができなくなってしまうのです。

しかし、農夫たちは裏切り続け、主人の思いを理解することができないままでいました。
それでも、主人は期待し、ついには愛する息子をも送るのです。
ルールを変えて立ち返る場所をなくすよりも、愛する息子を犠牲とするほうを選んだのです。
ここがこのたとえのポイントです。
イエスさまは、自分自身の十字架のわけを明示したのです。
どうしても神様に従い続けることのできない罪人のために、神様のひとり子が十字架にかかったのです。
神様はルールを変えて天国の門を閉ざしてしまうことよりも、十字架の身代わりの愛を選んだのです。
悪い農夫のままで、身代わりを立てることで、天国の門を開いたのです。

そして、あなたも悪いあなたのままで、神様の救いに預かったのです。
そうでなければ、イエスさまの十字架は無駄な死になってしまいます。
そうでなければ、イエスさまは一部の優れた人だけの救い主になってしまいます。
でも、事実はそうではありません。
イエスさまは、すべての人の救い主です。
どんな、だれであっても、イエスさまの十字架は、その人を受け入れる完全な救いなのです。

黒電話も、すべての人に開かれています。
私のように、指が太くて、しかも、爪を伸ばしている者にとって、スマホは誤操作ばかりです。
しかも、スマホの全機能のうち、私が使っているのは、ほんの一部分だけです。
黒電話は、私のように指が太くても、爪を伸ばしていても、間違いなく使えます。
また、難しい知識も必要なく使いこなせます。
まあ、電話かけるっていう機能しかないんですから、使いこなすってほどのことでもないんですけど。
黒電話は、立ち返る場所であり、すべての人に開かれているものでもあるのです。

このたとえは「悪い農夫のたとえ」ではありません。「忍耐強い主人のたとえ」「待ち続ける主人のたとえ」なのです。
主人はルールを変えず、農夫の立ち返りを待っているのです。

そう、もちろん、あなたも待たれています。
ルールは変えられることはありません。
イエスさまの十字架は、あなたのための完全な救い、完全な赦しです。
その父なる神様の愛が、今、あなたの上にあります。
ゆるがずに、そこに、あるのです。

忍耐強い主人の愛。
あなたの立ち返りを待つ、父なる神様の愛。
黒電話のような招きが、そこにあります。
今日は父の日です。
あなたに注がれている、父なる神様の愛をたっぷり受けましょう。
さあ、お祝いしましょう! 


ゴスペルハウスメッセージ 2018.06.09
「道を選ぶ」イザヤ66:1-4

1 主はこう言われる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたがわたしのために建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。
2 これらすべては、わたしの手が造った。それで、これらすべては存在するのだ。──主のことば──わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。
3 牛を屠る者が、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者が、犬の首を折る者。穀物のささげ物を献げる者が、豚の血を献げる者。乳香を記念として献げる者が、偶像をたたえる者。実に彼らは自分の道を選び、そのたましいは忌まわしいものを喜ぶ。
4 わたしも彼らを厳しく扱うことを選び、彼らに恐怖をもたらす。それは、わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目に悪であることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからだ。」

イザヤ書は、全部で66章。
今週の聖書箇所は、第66章、最終章のはじめの部分です。
イザヤ書のまとめ、イザヤ書の締めくくりと言ってもいいでしょう。

1-2節に、神様の自己表明があります。
神様は、人間が作った宮や祭壇の中に収まりきれるものではありません。
神様は、人間のしもべでもなく、人間の思考が作り出した想像の賜物でもありません。
すべての創造者で、時間と空間も神様によって造られました。
ですから、神様は時間も空間も超越した方なのです。
小さな宮に押し込めることができる存在ではなく、遠く宇宙の果てにいる存在でもありません。
あまねく時間に、あまねく空間に存在する方なのです。
ちっぽけな人間にすべて理解できるわけがなく、人間の規則や法則に縛られる方でもありません。

3節は、理解し難い方も多いでしょう。
「牛を屠る者が、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者が、犬の首を折る者。穀物のささげ物を献げる者が、豚の血を献げる者。乳香を記念として献げる者が、偶像をたたえる者。」(3節)

この解釈は、2通り考えられるでしょう。
1つ目は、人間の二面性です。
牛を神様に捧げる人が、別の場面では、人を殺す。
羊を神様に捧げる人が、別の場面では、偶像に犬を捧げる。
穀物を神様に捧げる人が、別の場面では、偶像に豚の血を捧げる。
神様に乳香を捧げる人が、別の場面では、偶像をたたえる。

2つ目は、純粋さの欠如です。
心から牛を捧げないならば、人を殺すことと何も変わりがない。
心から羊を捧げないならば、犬を捧げることと何も変わりがない。
心から穀物を捧げないならば、豚の血を捧げることと何も変わりがない。
心から乳香を捧げないならば、偶像をたたえることと何も変わりがない。

いずれにしても、それは神様にとって忌まわしい道で、彼らが選んだ、自分勝手な自分の道です。

なぜ、彼らはそのような自分の道を選んだのでしょう。
その理由は、神様を縛り、閉じこめたことです。
神様を自分の都合に縛り付け、教理の中に閉じこめ、二心を持つ自分を正当化したのです。

そんな都合のいい神様なら、そんなしもべのような神様なら、何も捧げないという選択もあったはずですが、彼らは捧げ物をしました。
その理由は、他人の目を、他人の評価を、気にしたからです。
神様に真心から仕えるよりも、評判を大切なものとしたのです。
捧げている自分を、神様に喜んでもらうのではなく、他人に褒めてもらいたいのです。

神様は常に、1対1の関係、1対1の対面を要求します。
そのために、あえて、孤独を与えることすらあります。
アブラハムもそうでした。
ヤコブも、ヨセフも、モーセも、神様はその人生において、孤独を与えました。
それは裁きのときではなく、神様が1対1の関係を準備してくれていたのです。

イエスさまも、そのように呼びかけました。
ペテロに、ザアカイに、パウロに、・・・。
1対1の出会いを、求めていたのです。

そして、もちろんあなたにも、神様は、イエスさまは、そう呼びかけるのです。

あなたは、その招きに、どう応えますか。
人々の中に埋もれて、常に他人の評価を気にして、他人の目を気にして、ビクビクしながらそれに合わせる道を選んで生きますか。
それとも、神様の言葉を聞き、1対1の出会いの中で、神様から与えられた命の道を生きますか。

神様から与えられる、命の道を、真理の道を、選んで、まっすぐ歩みましょう。

ゴスペルハウスメッセージ2018.06.03
「でも、おことばですので、」ルカ5:1-11

1 さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、
2 岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。
3 イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。
4 話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
5 すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
6 そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。
7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。
8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」
9 彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。
10 シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」
11 彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。

シモン・ペテロは、十二弟子の一人です。
今週の聖書箇所は、そのペテロがイエスさまに従った、イエスさまの招きに応じた場面です。

ペテロは、漁師、魚を捕るプロです。
その彼が、夜通し漁をしたというのには、もちろん意味があります。
それは、魚の習性だったかもしれませんし、水温の関係だったかもしれません。
あるいは、日中の労働のきつさだったかもしれません。
いずれにしても、プロならではの知識であり、知恵です。

イエスさまが来たときに、彼らが網を洗っていたのは、「今は、魚が捕れる時ではない」「タイミングが違う・チャンスではない」ということです。

そんなときに、イエスさまは言いました。
「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」(4節)
これは理不尽な声です。
漁のことを知らず、魚のことを知らない、素人の言葉です。
「バカ言ってんじゃないよ」と、聞き流すこともできたでしょう。

しかし、ペテロは違いました。
「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」

私が学習塾で教えていたときのことです。
研究熱心だった私は、生徒がよりよく解けるように、より深く理解できるように、様々な工夫や方法を生み出しました。
私のオリジナルですから、学校の先生たちが持っていない、使うこともないものが多くありました。
私の授業を受けて、生徒は必ず解けるようになります。
ほぼ全員が、「学校の先生の方法と、なんか違う」とも感じます。
何も先取った学習内容を使っているわけでもなく、ただ、わかるように噛み砕いただけなんですが、なにか違和感を覚えるようです。

そこからの反応が3通りに分かれます。
1.私の言った解き方を身につけて、できるようになる。
2.学校の先生の解き方と違うので、塾の解き方を拒否する。
3.塾では塾のやり方で解き、学校では学校のやり方でうまく解けなくても過ごす。
実際、「先生、このやり方で、学校で解いてもいいの?」という質問は何度もされました。
私は「もちろん、いいよ。大丈夫!」と伝えます。
ここから先は、生徒の選択です。
今までとなにか違う気がするけど、やってみる。
なんとなく不安なので、しない。

ペテロは、「でも、おことばですので、」をやってみました。
その結果、二艘の船が沈みかけるほどの大量の魚が捕れたのです。

イエスさまの言葉によって、新しい漁の可能性を手に入れたペテロは、万能スーパーカリスマ漁師に・・・は、なりませんでした。
彼は、その場ですべてを捨てて、イエスさまに従ったのです。
栄誉も、繁栄も、富も、評判も、何もかも捨てたのです。

そして、人間を捕る漁師に、人々にいのちを与える者に、神様の国の福音を伝える者になったのです。
イエス・キリストの証人になったのです。
それは彼の人生において、何よりも大きな報いでした。

ペテロへのチャレンジ、「でも、おことばですので、」のチャレンジは、あなたの人生にも起こります。
それは、あなたの知っている常識にも、正義にも、知識にも、教理にも、道理にも合わないかもしれません。
でも、考えてください。
「自分もそう思ってた」っていうのは、神様のみこころではなく、あなたのこころです。
神様の計画ではない、あなたの計画です。

イエスさまは、あなたの人生にチャレンジします。
その声に、耳を傾けましょう。
そして、あなたの正義を捨てて、「でも、おことばですので、」のいのちに生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.05.27
「ペンテコステ後の信徒たち」 使徒 2:42-47
 
42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。
44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、
45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。
 
ペンテコステに聖霊様が降って、弟子たちが力を受け、キリスト教会がスタートしました。
ペンテコステ後に新たに3000人が加えられ、その後も日々信徒は増えていきました。
彼らの毎日は、御言葉・交わり・愛餐・祈り、そして不思議(奇蹟)でした。
これらは、現在のそれぞれのキリスト教会にも、程度の多少はあるにせよ、受け継がれていることでしょう。
 
とろこが、一つ特筆しなくてはならない、特徴もあります。
「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。」(44-45節)
 
彼らは、「一切の物を共有」していたのです。
これは現代の教会、ことに日本の教会では、通常行われていることではありません。
2000年前のエルサレムは、現代の日本と比べて、貧しい人も多くいました。
奴隷制もあり、人種も様々でした。
身分・貧富の格差が、大きかったのです。
 
また、現代ほど安定した社会基盤もありませんでした。
情報も流通も、脆弱なものでした。
そんな生活の中では、衣・食・住は、まさに、本当の礎・生活の基盤だったのです。
 
それらを共有するということ。
それは、自己の所有権を放棄する、手放すということです。
手放せないものまで手放すことのできる集団。
しかも、それは捨てるためではなく、生かすために、「必要に応じて」なのです。
彼らの思いは、実に麗しいものです。
 
しかし、現代日本のキリスト教会において、一切の物を共有することは、継承されていないのが現実です。
今の日本は、貧富の差も身分の差も、ここ数年かなり拡大しているとは言え、当時のエルサレムほどではありません。
 
一切の物を共有することの本質は、「手放せないものまで手放すこと」です。
自分の権利を放棄し、他者を生かすため、そしてそれによって自己を生かすため、手放せないものを手放すことです。
正当な権利を持っているにもかかわらず、それを捨てることです。
 
怒り・悲しみ・妬み・正当性の主張・高慢・疑い・差別・優越感や劣等感・・・・
私たちには手放せないものがたくさんあります。
キリスト者は、それらを手放した集団であり、それらを手放したあなたであっていいのです。
それが、神様が、あなたに望んでいる姿なのです。
 
手放した先にあるのは、何でしょう。
それは、神様のみこころです、神様の愛あふれる生涯です。
愛は、自らで取り、自らでつかむものではありません。
手放せないものまで手放す、その先にあるものなのです。
  
マルコの福音書10:17-22に、金持ちの青年の話があります。(文末に聖書箇所を引用しています)
彼は、多くの財産を持ち、手放すことができないで、イエスさまの前を去って行きました。
イエスさまは、この青年をいつくしみました、愛しました。
でも、青年は手放すことができなかったのです。
 
あなたは、どうしますか。
 
手放せない思い、苦しみ、悲しみ、正当性を手放し、みこころの中に、愛の中に生きましょう。
 
 
マルコの福音書10:17-22
17 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」
18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。
19 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」
20 その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」
21 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.05.19
「ペンテコステ」使徒行伝 2:1-14

1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、
10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」
12 人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。
13 だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。
14 ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。

今週は、ペンテコステ礼拝です。
ペンテコステの聖霊降臨のできごとは、イエスさまが昇天前に弟子たちに予告していたものでした。
使徒行伝1:4-5にこうあります。
4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

それがいつ起きるということは、神様の定めるところでした。
それが、ついに起こったのです。
しかも、よりにもよって、ペンテコステで賑わうエルサレムで起こったのです。

さて、聖霊様を受けて、弟子たちはどう変わったのでしょうか。
聖霊降臨前、弟子たちはひとつに集まっていました。
聖霊降臨後、弟子たちは群衆の前で語り始めました。
聖霊降臨前、ユダヤ人への伝道を期待していました。
聖霊降臨後、他国のいろいろな言葉で語り始めました。
彼らが語ったのは、「神の大きなみわざ」(11節)でした。

いつ、どこで、だれが、なにを、どのように、どうする、いわゆる5W1Hを決めたのは、弟子たちではなく神様でした。
弟子たちの希望ではなく、弟子たちのリクエストではなく、神様の御心のままに、このペンテコステのできごとは起こったのです。
弟子たちにそれを受け入れる準備が整ったから、神様が与えてくれた。というわけではないのです。
すべて、神様の御心のままです。

クリスマスプレゼントを、サンタクロースにリクエストする家庭(子ども)もあります。
結婚式のプレゼントのための、希望リストを作るカップルもいます。
誕生日プレゼントを、親や配偶者にリクエストすることもあるでしょう。
プレゼントには、リクエストがつきものになっているような気がします。
私は、リクエストすることに、あまり賛同できません。
たしかに、リクエストされたものがプレゼントされれば、ムダはないでしょう。
しかし、期待以上の、サプライズもまた、なくなってしまうのです。

神様は、ときに人間に飛躍を、ジャンプを、望まれます。
それは、期待以上の、想定外の、サプライズです。
聖書中の人物の多くが、このチャレンジを受けました。
聖書を順に読んでいけば、巨大な方舟を作成をノアに、故郷を離れるようにアブラ(ハ)ムに、口ベタな男モーセに、弱虫なギデオンに、末っ子のダビデに、・・・数え続けたら切りがないでしょう。

ノア以前にさかのぼれば、最初の殺人者カインも、人類最初のアダムやエバも、神様からのチャレンジを受けています。
それは、罪におちた彼らに、罪の法則から愛の法則へのジャンプです。
彼らは、そのチャレンジに応えることができませんでしたが・・・・

そして神様は、あなたにもジャンプを求めます。
それは、他人から見たら、「驚き当惑」(12節)することかもしれません。
また、そんなあなたを、「嘲る者たち」(13節)もいるでしょう。
しかし、あなたにはあなたのジャンプ、そう、あなたのペンテコステがあるのです!
あなたのペンテコステ、そのときを、ドキドキしながら、喜んで待ちましょう。


ゴスペルハウスメッセージ 2018.05.12
「母の日」
 
Ⅱテモテ
1:5 私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。
 
出エジプト記
20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。
21:15 自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。
21:17 自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない。
 
パウロは、愛する弟子・テモテの中に、「純粋な信仰」を見つけました。
それは、テモテが母親から、祖母から、受け継いだものです。
「その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。」
 
私たちはみんな、母親から生まれました。
さまざまな状況があり、母親でない人に育てられた人もいるでしょう。
しかし、だれひとり例外なく、私たちは母親から生まれたのです。
ということは、母親から確かに何かを受け継いでいるということです。
 
ところで私たちは、身内の欠点について、必要以上にイライラすることがあります。
それは、例えばこんなときです。
自分の中に赦せない部分(未解決の弱点)があって、それと同じ欠点を自分の子どもに見つけてしまったとき。
夫(妻)の中の赦せていない部分を、自分の子どもの中に見つけてしまったとき。
苦手な姑と同じような部分を、夫(妻)に、また子どもに見つけてしまったとき。
つまり、いやな部分が受け継がれているときに、過剰な反応をしてしまうようです。
子供にとっては、えらく迷惑な話です。
 
そして、このように他者を責めるのと同じように、自分自身の中に父や母から受け継がれたいやなものを見つけて、ぎょっとし、自分自身を責めることもあるでしょう。
 
受け継がれたということは、つながっている証拠です。
ですから、いやな部分を見つけたとしても、それは絆を再確認するきっかけとして、感謝すればいいのです。
 
ところが私たちは、頭ではわかっていても、つい、責めたい気持ちになってしまいます。
そんなときは、イエスさまの十字架を見上げましょう。
イエスさまは、「もう、責めなくていいよ」と私たちに語りかけます。
イエスさまは、すべての呪いを一身に受けて、十字架上で私たちに代わって十分に責められ呪われたのです。
 
「感謝できない、責めることをやめられない」そんな思いを、すべてを十字架につけて、イエスさまに背負ってもらって、解放されましょう。
「イエスさま、解放してください」
イエスさまに叫びましょう。祈りましょう。
 
そのとき、受け継がれてきたもの、受け継がせてきたもの、あなたのうちに宿っているもの、いいもの悪いもの含めて、つながっていることへの感謝に変えられるのです。
それは、いのちの評価ということもできるでしょう。
 
そうすればあなたは、「あなたの父と母を敬え。」という神様の言葉を実現できます。
ここで「敬え」という言葉は、「重くする」と同じ意味で、「尊重する」と言い換えてもいいでしょう。
あなたの父と母が、あなたの父と母であることを尊重しなさい。
つまり、父母から受け継いだあなた自身の存在を、尊重しなさい。
その絆を、認めて、赦しなさい。
それは取りも直さず、あなた自身を受け入れ、赦すことです。
後半に、あなたが長生きし、しあわせになるためとあるのも、必然の結論になるでしょう。
 
また、「必ず殺されなければならない。」の意味も変わってきます。
自分の父または母を打ち、ののしる者は、そこから受け継がれた自分自身をも責め、呪うのです。
そう、その人は、自分自身のいのちの価値を、なきものとしてしまうのです。
 
あなたはもう、自分を責めなくてよくなります。
親を責めなくてよくなります。
子どもを責めなくてよくなります。
つながりを呪わなくてよくなります。
イエスさまが、あなたのために、すべての身代わりになったのです。
 
あなたは、あなた自身も、あなたにつながったいのちをも、愛して生きることができるのです。
この母の日に、その決心の一歩を踏み出しましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 20118.05.05
「ペンテコステ前の弟子たち」使徒行伝1:15-26 

15 そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが、ペテロがこれらの兄弟たちの中に立って、こう言った。
16 「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。
17 ユダは私たちの仲間として数えられていて、その務めを割り当てられていました。
18 (このユダは、不義の報酬で地所を手に入れたが、真っ逆さまに落ちて、からだが真っ二つに裂け、はらわたがすべて飛び出してしまった。
19 このことは、エルサレムの全住民に知れ渡り、その地所は彼らの国のことばでアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになっていた。)
20 詩篇にはこう書いてあります。『彼の宿営が荒れ果て、そこから住む者が絶えますように。』また、『彼の務めは、ほかの人が取るように。』
21 ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、
22 すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」
23 そこで彼らは、バルサバと呼ばれ、別名をユストというヨセフと、マッティアの二人を立てた。
24 そしてこう祈った。「すべての人の心をご存じである主よ。この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください。
25 ユダが自分の場所へ行くために離れてしまった、この奉仕の場、使徒職に就くためです。」
26 そして、二人のためにくじを引くと、くじはマッティアに当たったので、彼が十一人の使徒たちの仲間に加えられた。

イエスさまがよみがえってから40日後に、イエスさまは昇天しました。
その10日後、つまり復活から50日目がペンテコステですから、今週の聖書箇所はその間のできごとです。

ペンテコステは、聖霊様が弟子たちに下って、爆発的なエネルギーによって弟子たちが立ち上がり、教会が発足した日です。
キリスト教会の誕生日と言ってもいいでしょう。
この時期は、期待でワクワクする期間ですね。

ただしもちろんのこと、このときの弟子たちは「10日後に霊が下るぞ」とは知りません。

そんな中、弟子たち百二十人ほどが、集まっていました。
百二十人、多いと感じる人もいるかもしてません。
ゴスペルハウス礼拝に比べたら、何杯も多い数ですね。
しかし、イエスさまが伝道しておられた頃は、もっと多くの人々がその教えを受けに来ました。
会衆に給食した記事から考えると、大人の男だけ数えても五千人ということですから、女性や子どもを合わせたら一万人以上が集っていたことでしょう。
一万人から百二十人というのは、およそたったの1%です。
99%は、ここにいないのです。

それでも、残された1%から、ペンテコステを経て、世界中に広がるいのちと力が伝えられたのです。
たった1%、99%の欠損、数字だけ見れば失敗に映るかも知れませんが、それは失望の数字ではないのです。

また、この1%は、慰めの数字でもあります。
あなたが伝道していて、証しを伝えていて、99人の人に連続して罵られたとしても、最後の一人に希望があるのです。
また、あなたの心の中が、99%失望に埋められても、残りの1%に、希望があるのです。
また、あなたが、福音に疑問を持ってしまったとしても、1%の信仰があるなら、そこにいのちが生まれるのです。
99%の背信も、99%の裏切りも、99%の疑いも、あなたをイエスさまから離すことはできないのです。

さて弟子たちは、ユダの代わりに一人を選ぶことになりました。
その時の条件はこうです。(21-22節)
「ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」

この条件は、言い換えれば、「生きたイエスさまとの出会いと交わり」です。
そして、この条件こそが、99%の絶望に飲み込まれず、1%の可能性を何百倍、何万倍にもする秘訣なのです。

あなたの人生に必要なのは、イエスさまとの出会いです。
イエスさまが求めているのは、あなたとの出会いです。
黙示録3:20にこうあります。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

絶望の中に、背信の中に、疑いの中に、裏切りの中に、それでも構わないから、イエスさまをお迎えしましょう。
そしてその希望の証人となるのです。
何万倍もの喜びといのちを、あなたのものにするのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.04.28
「新しい契約」エレミヤ31:31-34

31 見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

聖書の中の聖書と言われるのは、ヨハネの福音書第3章16節という人も多いでしょう。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

それに対して、今週の聖書箇所は、旧約聖書の最高峰・旧約聖書の頂点といわれることも多い、エレミヤ書の31章です。
ここには、「新しい契約」が高々と掲げられています。
「わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」(34節)
この宣言には、多くの人が励まされたことでしょう。

イエスさまは、ペテロから何回赦せばいいですかと聞かれたときに、こう答えました。(マタイ福音書第18章21-22節)
21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」

七回を七十倍というのは、四百九十回ということではなく、完全に赦し続けなさい、忘れなさい。ということです。
それは、今回の聖書箇所で、神様が「彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさない」と宣言したこととまったく通じるところです。

いわば、この新しい契約は、旧約聖書でありながら、旧約聖書の限界を超えてしまったものなのです。

さて、私たち一人ひとりにも、古い契約・古いしばり・古いルールがあります。
「私は・・・だから、価値がないんだ」と、自分の足りない条件で限界を決めたり、
「・・・のせいで、私はこうなってしまった」と、親や周りの環境のせいにしたり。
これらの古い契約に共通するものは、「身勝手に作ってしまった」ということです。
つまり、合理的な正しさはなく、根拠なく立ちはだかっているということです
それなのに、強烈な力で、あなたをしばりつけているのです。

イエスさまはそんなあなたに、新しい契約を与えるというのです。
あなたはもう、古い契約・身勝手な契約にしばられなくていいのです。
根拠もなくあなたを押さえつけようとする、古い呪いから解放されていいのです。
エレミヤ31章が、旧約聖書の限界を超えてしまったように、あなたも、あなたの古い契約の限界をはるかに超えてしまいましょう。

そのために、イエスさまの十字架があったのです。
そのために、イエスさまの復活があったのです。
完全な赦しと、まったくの新しいいのちは、あなたのものなのです。
さあ、新しい契約の中で、解放のいのちを生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.04.21
「念入りな愛」ヨハネ21:15-19
 
15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
 
イエスさまが十字架に掛かる前日深夜から未明にかけて、ペテロはイエスさまのことを知らないと3回否定しました。
それは、ペテロにとって、大きな大きな心の傷になりました。
復活したイエスさまは、そんなペテロに対して3回の質問をすることで、回復を与えたのです。
 
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」
というイエスさまの問いに、ペテロは3回ともこう答えています。
「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
これは、「しっかり愛していますよ」という自慢や確認ではありません。
「私の不十分な愛を、あなたは全部ご存知でしょう」という謙遜な言葉なのです。
 
イエスさまは、自分の弱さを認めたペテロに対して、使命を与えます。
「わたしの子羊を飼いなさい。」(15節)
「わたしの羊を牧しなさい。」(16節)
「わたしの羊を飼いなさい。」(17節)
この羊というのは、もちろん、イエスさまを信じる者をたとえている言葉です。
 
マタイの福音書第10章33節にはこうあります。
「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」
ペテロはまさに、イエスさまに拒否されても仕方のない者だったのです。
しかし、イエスさまはそんなペテロを見捨てることなく、回復を与え、使命を与えました。
 
そしてその上で、さらにペテロに言いました。
「わたしに従いなさい。」(19節)
 
実はこの言葉も、回復の言葉だったのです。
ヨハネの福音書第13章36-37節にこうあります。
36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
37 ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」
 
ペテロはイエスさまに対して、どこまでもついて行くと言いながら、ついて行くことができずに否認してしまったのです。
自力でついて行こうとしたペテロの失敗、それをイエスさまは、「わたしに従いなさい」という命令で回復したのです。
自力の頑張りではなく、イエスさまの支えと導きで、それは成し遂げられるのです。
 
そして、子羊や羊の話しよりもあとにその回復があったというのは、より深い、より大切な、回復ということです。
 
「わたしの子羊を飼いなさい。」(15節)
「わたしの羊を牧しなさい。」(16節)
「わたしの羊を飼いなさい。」(17節)
これは、人と人との関係を表します。
だれかのために、何かをする。というものです。
それに対して、
「わたしに従いなさい。」(19節)
というのは、イエスさまとの関係です。
言い換えれば、前者は横の関係、後者は縦の関係と言ってもいいでしょう。
 
何を、だれをどうするということよりも、まず、もっと、イエスさまとの1対1の関係を求めているのです。
 
あなたにも、ペテロが否認したときのように、揺れるときがあります。
でも、そのすべてを回復するイエスさまが、あなたとともにいるのです。
ペテロにはペテロにとっての最善の回復がありました。
そして、あなたには、あなたにとっての最善の回復があるのです。
 
念入りな愛のイエスさまに、傷を回復してもらいましょう。
イエスさまとあなたの、1対1の愛の関係を、取り戻すのです!

ゴスペルハウスメッセージ 2018.04.14
「おびえと大喜びの間」ルカ24:36-53

36 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
37 彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
38 そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。
39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」
40 こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。
41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
43 イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。
44 そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」
45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
48 あなたがたは、これらのことの証人となります。
49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。
52 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

今日の聖書箇所は、ルカによる福音書の巻末です。
先週、先々週と同じく、ここもまた、イエスさまがよみがえった日のできごとです。

弟子たちが集まって話していると、「平安があなたがたにあるように」と言いつつ、イエスさまが現れました。
朝、女たちがイエスさまの墓を見に行って、御使いに「よみがえった」と聞きました。
ペテロが、墓を見に行くと、亜麻布だけが残っていました。
エマオへの道の途中で、イエスさまがともに歩いてくれました。
ペテロにイエスさまは姿を現しました。

そのうえで、弟子たちの所に現れたのですが、弟子たちはイエスさまを幽霊と思い、おびえて震え上がったのです。

イエスさまは、「さわって、よく見なさい」と言い、それでも信じられず不思議がっている弟子たちに、食べ物を食べ手見せるという念の入れようです。
弟子たちが落ち着いたところで、聖書を通して彼らに説明しました。
都にとどまっていなさいと言って、天にあげられたのは40日後のことです。

このとき、イエスさまとの別れであるにもかかわらず、弟子たちは「大きな喜びとともに」エルサレムに帰ったのです。
そしてこの先は、ルカの福音書は使徒行伝へと続くのです。

おびえて震え上がっていた弟子たちが、不思議がって信じられなかった弟子たちが、大きな喜びとともにという状態に変わったポイントは何だったのでしょう。
45節にこうあります。
「それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、」
ここがポイントです。

イエスさまが、弟子たちの心を開いたからです。
その結果、聖書を悟ることができ、大きな喜びとともに生きることになったのです。

自分によるのではなく、イエスさまによって。
努力の結果ではなく、報酬としてではなく、恵みとして。
心が開かれることが必要なのです。
イエスさまは、聖書研究の果てに出会える方ではないのです。
むしろ、出会うことによって、心を開かれることによって、聖書がわかるのです。

あなたがまだ、神様を恐れているなら、
あなたがまだ、神様を不思議がっているなら、
あなたがまだ、神様を信じられないのなら、
求めることは一つです。
イエスさまに出会い、イエスさまによって心を開かれることです。

祈りましょう。
あなたがイエスさまを求めることは、あなたの願いでもありますが、神様の切なる願いでもあるのです。
祈り続けましょう。
あなたが、大喜びの中で生きるために。

坂本 秀雄 (伝道師)

Author:坂本 秀雄 (伝道師)

ゴスペルハウスは、超教派のキリスト教伝道所です。
神様の愛で建てられ、神様の愛を伝えています。

2008年にブラジル・サンパウロから帰国した家族が、山形県の川西町に移住して楽しくゴスペルハウスな生活をしています。
そして今度は隣町の高畠へ引っ越しました。
どなたでもお気軽にお越しください。

ゴスペルハウスには、あなたのための席が用意されています。

お気軽にお越しください。
山形県東置賜郡高畠町
安久津1070

電車でお越しの方は、高畠駅までお迎えします。

賛美・御言葉・聖餐を中心とした、明るい雰囲気の礼拝です。
はっきり言って、楽しいです。

同時間帯で、「子ども礼拝」も行なっています。
大人も子どもも、クリスチャンもそうでない方も、ぜひご一緒に集いましょう。

集会の後には、ご一緒に夕食を頂きます。
伝道師みずから、腕をふるって料理します。
おいしいですよ。(もちろん無料)