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2019 / 06
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ゴスペルハウスメッセージ 2019.06.09(ペンテコステ)
「バベルからペンテコステへ」 使徒2:1-13
 
1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、
10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」
12 人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。
13 だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。
 
ペンテコステ、おめでとうございます。
聖霊様が、炎のような分かれた舌の形で、弟子たちに激しく降り、教会がスタートしました。
教会の誕生日と言ってもいいでしょう。
 
今日は「バベルからペンテコステ」というテーマで、聖書を開きましょう。
 
バベルというのは、創世記第11章1-9節に書かれているできごとです。
それまで、すべての人類が同じ言語を使い、天に届くような塔を作ろうとしました。
そこで神様が、言葉を乱し、混乱させ、だれとも言葉が通じないようにしたのです。
このできごとを、神様からの裁き、神様からの罰則のように考えることもできます。
 
ですが、私はそうではないと考えます。
他のだれとも言葉が通じないとき、たしかに、コミュニケーションがとれず、人との断絶はありました。
人間同士の言葉のつながりは、意思の疎通は、全て閉じられました。
「だれも、私のことを、私の言葉を、わかってくれない」と、人々はそれぞれ感じたでしょう。
 
しかし、そうではなかったのです。
すべての他の人との交流の扉が閉じられたとき、ただ一つ、開いている扉があったのです。
そう、神様への扉、天への窓です。
神様は、人類の一人ひとりに、神様と一対一で向き合うチャンスを与えてくれたのです。
バベルという言葉は、「混乱させる(バラル)」という意味もありますが、アッカド語では、「神様の門」という意味でもあるのです。
人間同士の中での孤独の中で、天の窓が一人ひとりに開かれたのです。
 
ペンテコステの炎のような舌は、まさにこの天の窓から注がれたのです。
部屋全体に大きな炎が満ちた、のではなく、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまったのです。
 
そしてその炎は、バベルのときに閉じられた扉を、人に対する扉をこじ開け、すべての人に伝わる言葉で弟子たちは語り始めたのです。
すべての人への喜びを、すべての人への赦しを、愛を、恵みを。
そう、イエスさまの十字架を。
 
バベルからペンテコステへ、二千年以上の時を超えて、力が注がれました。
開かれた天の窓からの力が、閉じられた扉を、壁を、打ち壊したのです。
 
このペンテコステのできごとが、今、あなたの人生にも起こるのです。
神様にしか希望がない状態、天の窓しか開かない状態に、聖霊様の大いなる力が注がれるのです。
開かないと思っていた扉を、超えられないと思っていた壁を、打ち壊す力が与えられるのです。
ペンテコステから二千年の時を超えて、あなたの新しい人生が始まるのです。
 
あなたの人生に起こる、あなたのペンテコステに期待しましょう。
バベルからペンテコステへ、そして、ペンテコステからあなたへ。
神様は、あなたの天の窓から、聖霊様との出会いを、あなたに与えます。
あなたの人生は、この出会いによって、まったく変えられるのです。
 
 
(参考聖書箇所)
創世記 11:1-9
1 さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。
2 人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。
3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。
4 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」
5 そのとき主は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。
6 主は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。
7 さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」
8 主が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで主が全地の話しことばを混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされたからである。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.06.01
「ただひとつのメッセージ」ハガイ 1:1-8

1 ダレイオス王の第二年、第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアに、主のことばがあった。
2 万軍の主はこう言われる。「この民は『時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は』と言っている。」
3 すると預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。
4 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」
5 今、万軍の主はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。
6 多くの種を蒔いても収穫はわずか。食べても満ち足りることがなく、飲んでも酔うことがなく、衣を着ても温まることがない。金を稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋に入れるだけ。」
7 万軍の主はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。
8 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。──主は言われる──

ハガイ書は、全2章、日本語で2200文字程の、短い預言書です。
全部読んでも、6分もかからないでしょう。
紀元前520年頃に、捕囚からの帰還者に対して、ハガイを通しての神様のメッセージです。

その内容は、要約すると、「神殿を建てよ、再建せよ。」という、ひとつのメッセージです。
そのために、民を励まし、強め、正し、ついに紀元前515年に完成するのです(エズラ書第6章参照)。

帰還者は、自分自身のことについて、汲々としていました。
自身の生活に手一杯で、余裕がありませんでした。
それで、神殿の必要性も大切さもわかっていながら、後回しになっていたのです。
また、再建すると決意してからも、自分たちのできる範囲の規模で、無理のない範囲でと、考えていました。
「だって、ダビデやソロモンほどの、財力も権力もないんだもの・・・」

しかし、神様は、「そうではない」と、ハガイを通して語られました。
人間の財力ではなく、人間の知恵でもなく、ただ神様によって建つのだから、疑わないで、安心して建てなさい。
そう、神殿は、神様の責任によって建つのです。

では、現代の神殿はどうでしょう。
エルサレムのことではありません。
イエスさまの十字架によって、ペンテコステのできごとによって、神様の住むところ、それは、あなた自身なのです。
また、あなたの家族なのです。

「まだまだ学びも経験も足りないから」と、尻込みしていませんか。
「やらなきゃならない別のことがあるから」と、後回しにしていませんか。
「自分なんか」と自己卑下して、小さく建て上げようとしていませんか。
大切だとわかっていても、必要だとわかっていても、赦されてるとわかっていても。

ハガイを通して、神様は、あなたの人生に言葉を送ります。
それは、ただひとつのメッセージ。
「あなたを神殿として建て上げよ。」

あなたの能力や資格が、これをなすのではありません。
イエスさまの十字架の血が、その愛が、その赦しが、これを成し遂げるのです。
ただひとつのメッセージ、これは、イエスさまのいのちがけの、あなたへのメッセージなのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.05.25
「根を張り、育ち、栄える」エレミヤ17:5-8

5 主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。
6 そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。
7 主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。
8 その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。


(参考)
その人は 流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び その葉は枯れず 
そのなすことはすべて栄える。(詩篇1:3)

「根」という言葉は、聖書には80回以上出てきます。
根だやし・根こそぎのような、ネガティブなイメージで使われることもあります。
根を張る、育ち、実を結び、栄えるという、ポジティブな場面も多くあります。
この箇所を読んで、詩篇第1篇を思い出した人もいるでしょう。

では、根を強く張るためには、つまり、よく育ち、よく茂り、よく実を結ぶためには、どうしたらいいでしょう。

小学生のころ私は、山の道端で松の若木を採集していました。
庭に松の大木を育てたいからです。
バケツとスコップを持って、何度も採集したのですが、一回も根付くことがありませんでした。
だから、実家の庭には、松の木は一本もありません。

長男・晴の通っていた基督教独立学園高等学校の近くには、横川ダムがあります。
そのダム湖畔には、大銀杏の木が生えています。
もともと生えていた場所が湖底に沈むため、掘り起こして移転したのです。
しかし、力強く自立することができないのか、何本ものワイヤーで支えられています。

植え替えられるたびに、根は張り直さなくてはならなくなり、弱くなるのです。
根を強く張るためには、植え替えせずに、同じ場所に、どかっと根を据えることが必要なのです。

「だから、教会を移るな」とか、「根無し草の信仰はだめだ」とか、「不満や訣別では、なんの解決にもならない」とか、そう言う方もいるかも知れません。
「耐えて祈りなさい」、「とりなしの祈りこそ、解決に向けて大切なこと」、「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す(ローマ5:3-4)」も、正しいのですが、そういうことでもありません。

「どこに、あなたの根が据えられるか」が、大切なのです。

エレミヤを通して、神様ははっきりと言います。
「人間に信頼する者はのろわれよ。」(5節)
「主に信頼する者に祝福があるように。」(7節)

あなたは、うつろい、はかなく、弱い人間に、根を張ってはいけないのです。
人間によって作られたもの、理論やテクニックなどに、根を張ってはいけないのです。
牧師や教会にさえ、もちろんこのゴスペルハウスも含めて、あなたは根を張ってはいけないのです。
もしそうすれば、あなたは枯れて、弱り、死んでしまうのです。

そうではなく、神様に、その愛に、その恵みに、あなたの根を張りなさいと、神様は言うのです。
揺らぐことなく、乾くことなく、あなたを生かす方。
そうすれば、あなたがどこにいても、何をしていても、あなたは育ち、実を結び、栄えることをやめないのです。

今、あなたは、どこに根を張っていますか。
神様は、あなたが根を下ろすのを、待っています。
弱いままのあなたで、それで、いいのです。
イエスさまの十字架が、そんなあなたを赦したんですから。

さあ、根を張り、葉を茂らせましょう。
のびのびと育ちましょう。
あなたの大きな実を結ぶときは、今なんです!

ゴスペルハウスメッセージ 2019.05.19
「誘惑に落ちるとき、誘惑に打ち勝つとき」マタイ4:1-11

1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
5 すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
6 こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」
7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
9 こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
10 そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」
11 すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。

イエスさまは洗礼を受けられて、その後、公生涯に入りました。
その公生涯のはじめに、荒野でサタン(悪魔)の誘惑があったのです。

なぜ、サタンは、御言葉を使って、イエスさまをだまそうとしたのでしょう。
御言葉で、イエスさまを誘惑しようとしたのでしょう。

それは、以前、まんまと上手くだませたからです。
創世記第3章で、サタンは人間を罪に陥れます。
「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」(創世記3:1)
この揺さぶりに、あやふやなエバは、コロリとだまされてしまいました。
エバに神様からの命令を教えていたはずのアダムも、きっと何かがあやふやだったのでしょう。
エバの言葉に、イチコロでした。

しかし、イエスさまは違いました。
神様の御言葉に立ち返り、そこにとどまり、揺るがなかったのです。
それでサタンは、イエスさまから離れるしかなかったのです。

ここで、一つ、きちんと区別しておきたいことがあります。
それは、「御言葉をたくさん知り、覚えることがサタンへの武器」ではないということ。
サタンですら、御言葉はたくさん知っています。
聖書の御言葉は、きっと、一つ残らず知っていて、覚えているでしょう。
だって、それが誘惑するための武器なんですから。

そうではなく、「神様の御心を、あなたの心に刻むことがサタンへの武器」ということです。
サタンや他の人からの誘惑に対して、神様の御心にとどまる、つまり、神様の愛にとどまることが、打ち勝つ秘訣なのです。
逆に、どれだけ御言葉を覚えていようが、この愛から離れてしまったら、誘惑に落ちることになります。
「誘惑に落ちるとき、誘惑に打ち勝つとき」の分岐点は、まさにそこなのです。

聖書は、覚えるものじゃなく、
聖書は、学ぶものじゃなく、
信じて、受け取って、そこに生きるものです。
神様の愛を、神様の赦しを、神様の力を。

あなたの人生が、神様の愛の中にとどまり、どんな誘惑にも打ち勝てますように。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.05.11(母の日)
「ご覧なさい。あなたの母です」 ヨハネ19:25-27

25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

母の日、おめでとうございます。
今週の聖書箇所は、イエスさまの十字架の場面です。
イエスさまは、十字架上で7つの言葉を聖書に残していますが、そのうちの一つでもあります。

イエスさまは、母親のマリアに向かって弟子のヨハネのことを、「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と、
また、ヨハネに向かってマリアのことを、「ご覧なさい。あなたの母です」と、言われました。
ヨハネがマリアの息子なら、これは何の変哲もない、当たり前の言葉です。
わざわざ十字架上で確認することではないでしょう。

しかし、ヨハネはマリアの息子ではなく、マリアはヨハナの母でもないのです。

ではなぜ、イエスさまは、十字架上でこの言葉を言ったのでしょうか。
また、ヨハネはなぜ、この言葉を福音書に記したのでしょうか。
「残していく母親のことが心配で、信頼する弟子に託したかったから」
「マリアを引き取った正当性を、はっきりと主張したかったから」

私は、そうではないと考えます。
イエスさまの言葉は、創造の言葉です。
天地創造のときから、その言葉は創造を続けているのです。
イエスさまは、マリアとヨハネに対して、新しい母子関係を創造したのです。
「あなたは母です。あなたは息子です。」と、大声ではなかったでしょうが、はっきりと宣言し、創造したのです。

そして、この言葉は、今、あなたに向けられた言葉でもあります。

あなたには、あなたの母子関係があります。
それ以外の、人間関係も、もちろんあるでしょう。
そこには、いろいろな状況があり、問題や課題があり、苦しみや悲しみもあるかも知れません。
こじれたり、もめたり、傷つけたり、傷つけられたり。

しかし、イエスさまは、あなたに新しい関係を与えます。

それは、大声ではないでしょう。
でも、はっきりと宣言するのです。
その創造の言葉が、あなたと相手に、新しい交わりを、新しい関係を与えるのです。

イエスさまの言葉に、耳を澄ませましょう。
そして、新しい愛の関係の中で、喜びの関係の中で、生きましょう。

そう、マリアとヨハネのように。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.05.04
「あなたを遣わすイエスさま」ヨハネ20:19-2

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

今週の聖書箇所は、イエスさまの復活の日の夕方のことです。
イエスさまが殺され、「次は自分が殺されるかも!」と恐れていた弟子たちのところへ、イエスさまがあらわれました。
「平安があなたがたにあるように」は、当時の普通の挨拶です。
復活のイエスさまは、あなたの日常に訪れるのです。
宗教的儀式や、特別の建物の中に、閉じこもっている神様ではないのです。

今日は、次の言葉を中心に、御言葉を開いていきましょう。
「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(21節)
イエスさまからの宣教派遣の命令です。
遣わされた者として任命され、福音を伝える使命を負ったのです。
確かに、私たちは福音を告げるために、この世に遣わされた者です。
しかし、今回はもう少し注意深くこの箇所を読んでいきたいと思います。

「父がわたしを遣わされたように」
イエスさまは、神様に遣わされた方でした。
しかし、神様はイエスさまを派遣しっぱなしではありませんでした。
イエスさまは、いつも神様に愛されていました。
いつも神様と一緒にいました。

イエスさまが、神様と一緒にいなかったのは、十字架の上でだけです。
イエスさまは十字架上で叫びました。
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」(マルコ15:34)
(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)
このとき、全世界の呪いを一身に受けたイエスさまは、神様から切り離されました。
それ以外の場面で、神様の力、神様の愛、神様の存在は、神様そのものは、イエスさまから離れることはありませんでした。

「わたしもあなたがたを遣わします」
イエスさまは、そのように、私たちを遣わすと言うのです。
つまり、神様がいつもイエスさまといたように、イエスさまは私たちといつも一緒にいてくれるのです。
いつも愛してくれるのです。
そして、決して見捨てないのです。
つきっぱなす宣教命令(派遣命令)ではなく、ともに進みましょうとの約束・保証が、この言葉にはあるのです。
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」は、イエスさまの十字架上で終わりました。
もう、私たちは神様に見捨てられることはないのです。

あなたが孤独に感じる出来事も、あるいは、あるかも知れません。
でもそれは、人に対しての孤独です。
神様に対しての孤独ではないのです。

イエスさまは続けます。
「聖霊を受けなさい。」(22節)
聖霊様は、もう一人の助け主です。
神様と同じ、イエスさまと同じ、三位一体の神様です。
これまで弟子たちがイエスさまと歩んできたように、これからは聖霊様がいつも一緒にいるのです。
聖霊様を受けるとは、何か宗教的に特別のことをするのではなく、生きた神様とともに生きること、それは特権です。
そして、イエスさまの十字架によって、この特権は、私たちすべての人に与えられているのです。

「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」(23節)
これは、私たちに裁く権利が与えられたというわけではありません。
神様からの赦しを宣言する権利が与えられたのです。
あくまで、主権は神様です。

イエスさまは、裁くためではなく、赦すために遣わされました。
この赦しは、十字架で完成・成就しました。
そして、「父がわたしを遣わされたように」遣わされている私たちも、赦すために遣わされています。
私たちは、イエスさまの十字架による赦しを宣言するために、遣わされているのです。
神様からの赦しの宣言の権利は、今、私たちに与えられているのです。
委ねられているのです。

まず、自分自身に、罪の赦しを宣言しましょう。
「イエスさまの十字架によって、あなたは赦されました!」
「あなたは、神様とともに生きていていいんです!」
「神様は、あなたを、決して見捨てません!」
「神様も私も、あなたを愛しています!」

次に、あなたの愛する人に宣言しましょう。
そして、あなたを憎む人、あなたが愛せないと思う人にも、宣言するのです。
そのとき、あなたの人生が、神様の愛と赦しに包まれるのです。
遣わされた者としての人生が、スタートするのです。 

遣わされた者、赦された者、赦す者として、歩んでいきましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.04.27
「エマオへの途上」ルカ24:13-35

13 ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。
14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。
17 イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。
18 そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」
19 イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
20 それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。
21 私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、
22 仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、
23 イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。
24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
33 二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、
34 「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。
35 そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。


今週の聖書箇所は、イエスさまが復活した日の出来事です。
イエスさまの十字架の死は、弟子たちには予想外でした。
期待はずれ、残念、悔しい、悲しい、そんな気持ちだったことでしょう。
そして今朝、女たちがイエスさまがよみがえったと言うのです。
混乱と落胆の中で、二人の弟子たちはエマオへの道を進みます。

道々、彼らは論じ合ったり話し合ったりしていました。
それは、イエスさまの死と復活についてではなかったでしょうか。
「死」はともかく、「復活」は、通常起こりうることではありません。
現代でも、聖書の中身はおおよそ理解しても、復活に対して懐疑的な人もいるくらいですから。

二人の弟子たちは、イエスさまが近づいてきたのに、気が付きませんでした。
イエスさまがともに歩んでくれたのに、気が付きませんでした。
彼らは、十字架前にはイエスさまとともにいたのにです。

それは、自分の頭の中に、自分の理解の中に、理論の中に、イエスさまを、神様を閉じこめてしまったからです。
彼らは、きちんと事実は知っています。
「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」(18節)と、イエスさまに言うくらいですから。
事実や、理論や、教理を知っていても、そこにとどまっていては、イエスさまを見ることはできないままなのです。

そんな彼らに、イエスさまは言います。
「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。」(25節)

これは、二千年前のこの二人だけのことでしょうか。
頭の中に神様を押し込めて、何も見えなくなっている人は、この二人の弟子たちだけでしょうか。
いいえ、そうではありません。
これは、現代の私たちもそうなのです。
「愚かな者、心の鈍い者」は、あなたのこと、私のことなのです。

でも、私たちには希望があります。

近づいて来てくれる、イエスさまがいるからです。
話しかけてくれる、イエスさまがいるからです。
解き明かしてくれる、イエスさまがいるからです。
心を燃やしてくれる、イエスさまがいるからです。
目を開いてくれる、イエスさまがいるからです。
すべて、イエスさまご自身が能動的に、なしてくださるのです。
弟子たちがなしたことは、「一緒にお泊まりください。」(29節)と頼んだことくらいです。
そしてそれは、イエスさまによって、聞き入れられているのです。

鈍い、愚かな、罪人のために、そう、あなたのために、十字架にかかった方がいる。
鈍いままの罪人のために、そう、私のために、心も目も開いてくれる方がいる。

私たちに必要なのは、百回の議論よりも、一度のイエスさまとの出会いなのです。
イエスさまとの出会い、それはいい教会との出会いではありません。
イエスさまとの出会い、それはいい牧師との出会いでもありません。
今のあなたの人生に、生きて働くイエスさまとの出会いです。
それが、あなたにも与えられるのです。
それこそが、あなたのエマオへの道なのです。

あなたのエマオへの道が、祝福されますように。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.04.21
「節目の言葉が示すもの--イースター2019--」ルカ24:1-12
 
1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。
3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。
9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。
10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
11 この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
12 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。
 
イースターおめでとうございます。
さっそくですが、聖書クイズです。
連続して出しますから、元気よく答えてください。
 
問1)聖書に書かれている、地上でのイエスさまの最初の言葉は何でしょう。
問2)イエスさまが十字架上で息を引き取る前に、最後に対話した言葉は何でしょう。
問3)地上でのイエスさまの最後の言葉は何でしょう。
問4)イエスさまの復活後に、御使いが最初に語った言葉は何でしょう。
問5)罪に陥った人間に、神様が最初にかけた言葉は何でしょう。
 
すべて、言葉を問うものです。
そう、節目の言葉、それが示すものを、今日は見ていきたいのです。
 
では、答え合わせです。
答1)聖書に書かれている、地上でのイエスさまの最初の言葉→
「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49)
答2)イエスさまが十字架上で息を引き取る前に、最後に対話した言葉→
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)
答3)地上でのイエスさまの最後の言葉→
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
答4)イエスさまの復活後に、御使いが最初に語った言葉→
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。」(ルカ24:5-6)
答5)罪に陥った人間に、神様が最初にかけた言葉→
「あなたはどこにいるのか。」(創世記3:9)これは、神様からの人類への最初の質問でもあります。
 
節目の言葉、それは、すべて居場所についての言葉です。
居場所とは、「いつ・どこに」ということです。
もちろん、「時間・空間」「when・where」「地点・時点」と考えてもいいでしょう。
 
「いつ」と「どこに」を、バラバラに考えると、わけがわからなくなります。
たとえば、1月に見かけたツララを、8月になって同じ屋根を見ても、見つかりません。
10秒前に目の前を通り過ぎたボールを、のんびり手を出したところでつかめるはずもありません。
また、数学で、速さの問題が苦手な生徒がいますが、「いつ・どこに」が、あやふやになっていることが、大きな原因の一つです。(私に習えばできるようになります!)
 
イエスさまは、十字架上で呪われた者となり、たしかに死にました。
イエスさまの死体を包んだ亜麻布は、呪われた者を包んだ亜麻布です。
そして、墓に葬られ、大きな石でふたをされたのです。
呪われた者を示す亜麻布、死んだ者を示す墓、それは確実にそこにあったのです。
 
普通に考えたら、常識的に、知的に考えたら、日曜日の朝にイエスさまのいる場所は、墓の中の亜麻布の中です。
墓に来た女性たちは、何も間違っていないのです。
女性たちが弟子たちに語ったときに、弟子たちが信じなかったように、イエスさまの居場所は、墓の中のはずだったんです。
なのに彼女たちは、御使いにこう言われました。
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。」(5節)
 
今も、同じように、正しいことを言おうとする人がいます。
「神は、もう死んだんだ」とか、
「奇跡が起こったのは、聖書時代だけ」とか、
「今は、科学の時代だから」とか、
「イエスさまの奇跡だって、科学的に証明できるからくりでしょ」とか。
一見、正しそうに見えたり聞こえたりしますが、それはただ私たちの罪がそのような発言をさせているだけなのです。
サタンは、大喜びでしょう。
 
イエスさまの墓の中を、彼女たちが探しているときも、きっとサタンはほくそ笑んでいたことでしょう。
しかし、御使いがすかさず助けに来たのです。
「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」(7節)
約束を、忘れているのですか。
約束を、勝手に解釈していませんか。
御使いは、彼女たちにそう訴えるのです。
 
事実、呪った者を包んだ亜麻布は、そのままの形で置き去りにされていたのです。
事実、死んだ者を封じ込めた墓の石は、取りのけられていたのです。
イエスさまは、呪いから解き放たれたのです。
イエスさまは、死から解き放たれたのです。
呪いも死も、イエスさまの前に無力なのです。
 
イエスさまの居場所、それは、イエスさまが何者であるかを示すのです。
 
では、あなたの居場所はどこでしょう。
「あなたはどこにいるのか。」(創世記3:9)
神様からの人間への最初の問いかけです。
 
答えは簡単ですね。
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
 
あなたは、イエスさまとともにいるのです。
つまり、あなたの居場所は、イエスさまの居場所と同じなのです。
 
なのに、呪われた者の中に、罪によって死に定められた者の中に、自分の居場所をおいていませんか。
「私なんか、罪深くて・・・」というのは、たしかに正しかったことです。
しかし、「時点」が間違えています。
イエスさまは、十字架にかかり、3日めによみがえったのです。
もう、イエスさまによって、あなたの居場所は変えられているのです。
あなたを呪いで縛りつけていた亜麻布は、からっぽです。
あなたを罪と死に閉じこめていた墓は、開け放たれたのです。
 
あなたはもう、そこにはいません。
 
あなたの新しい居場所が、イエスさまによって、与えられました。
呪いも死も、あなたには全くの無力なのです。
あなたの居場所、それは、あなたが何者であるかを示すのです。
 
新しい居場所に、新しいあなたが生きるのです。
それが、イースターです。
あなたの新しい誕生日です。
喜びましょう、イースターを。
喜びましょう、イエスさまを。
喜びましょう、あなた自身を!

ゴスペルハウスメッセージ 2019.04.13
「十字架上の言葉(レント-6・受難週)」 福音書十字架の場面から

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」ルカ23:34

「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカ23:43

「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」
「ご覧なさい。あなたの母です」ヨハネ19:26,27

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」マルコ15:34
(「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」マタイ27:46)

「わたしは渇く」ヨハネ19:28

「完了した」ヨハネ19:30

「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」ルカ23:46

十字架上のイエスさまの言葉は、4つの福音書に合わせて7つ記されています。
時系列順に、7つの言葉を並べたのが、今週の聖書箇所です。
これらの言葉は、とりなしの言葉であり、天国の約束の言葉であり、思いやりの言葉であり、絶望の言葉であり、死の苦しみの言葉であり、救いの完成の言葉であり、神様に委ねる言葉です。

4つの福音書のうち、マタイの福音書とマルコの福音書には、それぞれ1つずつしか記されていません。
それが7つのうちの4番目、ちょうど真ん中に当たる、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」)です。
そしてまた、7つの言葉のうち、唯一、カタカナ(日本語の聖書では)で書かれている言葉です。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」は、訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。

しかしこの箇所は、全編がギリシャ語で書かれている新約聖書にあって、ギリシャ語ではなく、イエスさまの発した言葉、発した音声通りに記されているのです。
他の箇所で、このようにイエスさまの言葉通りに記されているところもあります。
そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。(マルコ7:34)
「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。(マルコ5:41)

イエスさまは、普段からギリシャ語で話していたわけではありません。
にもかかわらず、これらの場面では、あえて、ギリシャ語に訳すことなく、音声通りに記述されたのです。
いずれも、その言葉を聞いた人の、また、聖書記述者の、大きな感動があった場面だからです。
イエスさまの言葉、音、そのものが、意味を超えて大きな力で迫ってきたのです。
だから、そのままの、生の言葉が記されているのです。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」)
これは、詩篇第22篇の書き出しと同じです。
しかし、これは単にその詩篇を暗唱しているわけではありません。
イエスさまの、心からの叫びなのです。

全人類の罪を身代わりに背負って、十字架にかかったイエスさま。
あなたのすべての罪を背負って、本来はあなたがかからなければならなかった、その十字架にかかったイエスさま。
罪に伴う、その報酬である呪いを、神様のひとり子であるイエスさまが受けたのです。
神様から呪われ、神様から断絶されたのです。
本当に、神様から見捨てられたのです。

最初の人アダムは、罪を犯した結果、いのちの木の実から遠ざけられ、園から追い出されました。
イエスさまは、アダム以上に神様と親しい交わりをしていました。
それなのに、神様から断絶・拒絶・隔絶されたのです。
その絶望は、どれだけ大きかったことでしょう。
だからこそ、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」と、そのまま記さざるを得なかったのです。

しかし、私は「こう叫べる人は幸いではないか」と思うのです。
あなたは、神様から断絶される、そのことについて、絶望して叫べますか。
また、神様から離れて生きる人生について、心から絶望できますか。
イエスさまは、心から絶望して叫べたのです。
心の底から絶望できたのです。

多くの人は、クリスチャンという人も含めて、神様を二の次三の次にして生活していませんか。
神様よりも仕事、神様よりも自分の感情、神様よりも目の前の課題、神様よりも他人の評価、神様よりも自分の計画、となっていませんか。
そういう人は、仕事がうまくいかないときに絶望の叫びを上げることがあるかもしれません。
子育てが思い通りにいかないときに絶望の叫びを上げることがあるかもしれません。
しかし、神様との断絶について、絶望して叫べますか。

また、一番良いことが神様とわかっていても、二番目に良いこと、三番目に良いこと傾倒していませんか。
悪いことに熱中するあまり、神様を蔑ろにする人は、ここにはいないでしょう。
しかし、良いことを隠れ蓑にして、神様を蔑ろにすることはありませんか。
ルカ14章16節以下のたとえ話は、他人事ではないのです。
そのような人は、神様との断絶について、絶望して叫ぶことはできないでしょう。

神様に見捨てられて絶望する、その前に、神様を見捨ててしまう、それが罪人です。
だから、断絶も絶望にならないのです。
平気ではないけど、後ろめたい程度です。
当時の人々も、現代の人々も、あなたも、私も、もしかしたらそうなるかも知れないのです。
それほど陥りやすい、罪の罠なのです。

しかし、イエスさまは、そうではなかったのです。
イエスさまは、神様との断絶について、絶望できたのです。
だからこそ、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」と記されているのです。

イエスさまは、本当に、ここで神様に見捨てられたのです。
私たちが本来受けなければならなかった呪いと絶望を、イエスさまは、その全身で受けてくれたのです。
イエスさまの絶望は、しかし、私たちにはすばらしい希望です。
なぜなら、私たちは決してもう、神様に見捨てられることはないのです。
あなたが、神様に見捨てられたと思うとき、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」という言葉を思い出せばいいのです。
それは、「私の代わりに、イエスさまが見捨てられてくださったから、私は決して見捨てられない」という約束の言葉です。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
それは、イエスさまの絶望の言葉です。
しかし、あなたのための赦しの言葉であり、あなたのための保証の言葉なのです。
この言葉の愛の中で、生かされましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.04.06
「あなたの地境・あなたの相続地(レント-5)」 民数記34:1-15
 
1 主はモーセに告げられた。
2 「イスラエルの子らに命じて彼らに言え。あなたがたがカナンの地に入るときには、あなたがたへのゆずりとなる地、カナンの地とその境界は次のとおりである。
3 あなたがたの南側は、エドムに接するツィンの荒野に始まる。南の境界線は、東の方の塩の海の端に始まる。
4 その境界線は、アクラビムの坂の南から回ってツィンの方に進み、その終わりはカデシュ・バルネアの南である。またハツァル・アダルを出て、アツモンへと進む。
5 さらに境界線は、アツモンから回ってエジプト川に向かい、その終わりは海である。
6 あなたがたの西の境界線は、大海とその沿岸である。これをあなたがたの西の境界線としなければならない。
7 あなたがたの北の境界線は、次のとおりにしなければならない。大海からホル山まで線を引き、
8 さらにホル山からレボ・ハマテまで線を引く。その境界線の終わりはツェダデである。
9 そして境界線はジフロンに延び、その終わりはハツァル・エナンである。これがあなたがたの北の境界線である。
10 あなたがたの東の境界線としては、ハツァル・エナンからシェファムまで線を引け。
11 その境界線は、シェファムからアインの東方のリブラに下り、それから境界線は、そこから下ってキネレテの海の東の傾斜地に達する。
12 さらに境界線はヨルダン川を下り、その終わりは塩の海である。以上が境界線によって周囲を区切られた、あなたがたの地である。」
13 モーセはイスラエルの子らに命じて言った。「これが、あなたがたがくじを引いて相続地とする地である。主がこれを与えよと命じられたのは、九部族と半部族に対してである。
14 ルベン部族は一族ごとに、ガド部族も一族ごとに、そしてマナセの半部族も、自分たちの相続地を受け取っているからである。
15 この二部族と半部族は、ヨルダン川の、エリコをのぞむ対岸、東の方、日の出る方に、自分たちの相続地を受け取っている。」
 
モーセに導かれた出エジプトのイスラエルの民。
その40年にわたる荒野の旅も最終盤です。
エジプトでの奴隷生活から十の災い、血、いのちを通して、約束の地は、もう、目の前です。
約束の地、それは、神様から与えられる賜物、神様から受ける相続分と言ってもいいでしょう。
 
奴隷から解放され、導かれて、約束の相続分を受けるイスラエルの民。
それは、罪の奴隷から、イエスさまの十字架の血潮と、聖霊様の導きによって約束のいのちを獲得した、私たち信仰者と同じことです。
永遠のいのちと赦し、そのための神様のひとり子のいけにえ、これは最大の賜物であり、相続分です。
 
ここで、神様は、約束の地の境界線を、イスラエルの民に告げています。
それは、いよいよ具体的で、明確で、疑う余地のない境界線です。
そして、相続地は、十二部族にくじを引いて分け与えられます。
(ルベン族・ガド族・マナセの半部族は、すでに受け取っていますので、くじは残りの九部族と半部族です)
具体的な相続分については、ヨシュア記13章以下に詳細に記されています。
 
さて、十二部族の名前は、もともと個人名です。
ヤコブ(イスラエル)の子と孫の名前です。
ですから、相続地は個人にあてのものという側面もあるのです。
相続分・地境・境界線は、明確に個々に与えられるのです。
 
これは、あなたの相続分にも言えることです。
イエスさまの十字架によって、完全な贖いによって、あなたは永遠の命を得ました。
これは、すべての信仰者に与えられる賜物です。
その中で、あなた個人にあてて、境界線が引かれました。
あなたの相続分、あなたの地境が、明確に与えられているのです。
使命、召し、人生の目的、いのちそのものと、言い換えることもできるでしょう。
 
民数記 第36章7-9節を読みましょう。
36:7 イスラエルの子らの相続地は、部族から部族に移してはならない。イスラエルの子らは、それぞれその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである。
36:8 イスラエルの子らの部族のうち、相続地を受け継ぐ娘はみな、その父の部族に属する氏族の一人に嫁がなければならない。イスラエルの子らが、それぞれ、その父祖の相続地を受け継ぐようにするためである。
36:9 このように、相続地は、部族からほかの部族に移してはならない。イスラエルの子らの部族は、それぞれ、自分たちの相続地を堅く守らなければならないからである。』
 
相続地は、部族間での移動を禁じられています。
地境は、部族をこえる変更ができないのです。
明確にされた相続地・地境は、揺るがないのです。
先程言ったように、部族名は個人名です。
ですから、それは、個人としてのあなた自身にも言えることなのです。
 
あなたの相続分は、変わりません。
あなたの地境は、揺らぐことがないのです。
あなたならではの相続分があり、そこにあなたの生きる場所があり、あなたが輝く道があるのです。
本当のあなたのいのちの在り処と言ってもいいでしょう。
 
地境を広げることが、大事だと思う人もいるかもしてません。
しかし、そうではなく、あなたの地境を知り、そこに忠実に生きることです。
神様があなたに相続分として与えた、本来の相続地を、本来の地境を生きるのです。
それは、人間が決めたものではなく、人間が広げたり狭めたりできるものではなく、神様の定めたものなのです。
 
イスラエルを呪うように依頼された預言者バラムが、モアブの王バラクに語った言葉です。
「主の言葉を越えて心のままに善も悪も行うことはできません。わたしは主の言われることを述べるだけです。」(民数記24:13)
あなたは、あなたに与えられた最高の地境を、最高の相続地を、使命を、召しを、生きていいのです。
 
マタイ25:14からは、「タラントのたとえ」として知られています。
タラントは、才能ではありません。
ここは、才能を発揮しようとか、才能の出し惜しみはだめ、とかのはなしではないのです。
「それぞれその能力に応じて」(15節)とか、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(40節)に、まったく矛盾するからです。
 
ここを今週は、地境というテーマで読んでみます。
5タラントの者と2タラントの者は、与えられた地境に忠実に生きました。
1タラントの者は、地境を放棄、相続分を放棄したのです。
それは、神様からの相続分が、気に食わなかったからです。
忠実であることよりも、自分の都合や感情を優先したのです。
 
たとえ話に、「もしも」というのは変ですが、
もしも、5タラントの者が、そのうちの4タラントだけを使って、15タラントを儲けたとしましょう。
神様は、どう答えると思いますか。
『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
と、言われると思いますか?
また、2タラントの者が、どこかから2タラント借りてきて、4タラントを運用し、1万タラントを儲けたとしましょう。
神様は、どう答えると思いますか。
『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
でしょうか?
 
そうではないですね。
神様の言いたいことは、経済や算数の問題ではないのです。
 
大切なことは、神様の与えた地境に、相続地に、忠実に生きることです。
本当のあなたのいのちを、生ききることです。
忠実に生きるために必要なこと、それは、地境を知ること、相続地を知ることです。
神様があなたに与えるものですから、神様に聞くことが一番です。
神様は、最善のタイミングで、あなたの地境を明確に示してくださいます。
そう、イスラエルの民の約束の地のように。
 
あなたの本当の地境、本当の相続地、つまり、召しや使命、それは、あなたにとって苦しく辛いものかも知れません。
拒否したくなるような、イヤなものかも知れません。
 
でもそこにこそ、あなたの本当のいのちの在り処があるのです。
あなたの地境を、神様の与えた地境に、一致させましょう。
あなたの相続地で、あなたのいのちを、生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.03.30
「三度打たれたロバ(レント-4)」民数記 22:21-35
 
21 バラムは朝起きて、自分のろばに鞍をつけ、モアブの長たちと一緒に行った。
22 しかし、彼が行こうとすると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちはだかった。バラムはろばに乗っていて、二人の若者がそばにいた。
23 ろばは、主の使いが抜き身の剣を手に持って、道に立ちはだかっているのを見た。ろばは道からそれて畑に入って行ったので、バラムはろばを打って道に戻そうとした。
24 すると主の使いは、両側に石垣のある、ぶどう畑の間の狭い道に立った。
25 ろばは主の使いを見て、石垣にからだを押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、バラムはさらにろばを打った。
26 主の使いはさらに進んで行って、狭くて、右にも左にもよける余地のない場所に立った。
27 ろばは主の使いを見て、バラムを乗せたまま、うずくまってしまった。バラムは怒りを燃やし、杖でろばを打った。
28 すると、主がろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」
29 バラムはろばに言った。「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」
30 ろばはバラムに言った。「私は、あなたが今日この日までずっと乗ってこられた、あなたのろばではありませんか。私がかつて、あなたにこのようなことをしたことがあったでしょうか。」バラムは答えた。「いや、なかった。」
31 そのとき、主はバラムの目の覆いを除かれた。すると彼は、主の使いが道に立ちはだかり、抜き身の剣を手に持っているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。
32 主の使いは彼に言った。「何のために、あなたは自分のろばを三度も打ったのか。わたしが敵対者として出て来ていたのだ。あなたがわたしの道を踏み外していたからだ。
33 ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を避けた。もし、ろばがわたしから身を避けていなかったなら、わたしは今すでに、あなたを殺して、ろばを生かしていたことだろう。」
34 バラムは主の使いに言った。「私は罪を犯していました。あなたが私をとどめようと道に立ちはだかっておられたのを、私は知りませんでした。今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」
35 主の使いはバラムに言った。「その人たちと一緒に行け。しかし、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ。」そこでバラムはバラクの長たちと一緒に行った。
 
モーセに導かれて、エジプトを脱出したイスラエルの民。
40年の荒野の生活を経て、いよいよ約束の地に入ろうとしています。
その快進撃に、モアブの王バラクは危機感を抱きます。
そして、力ある占い師バラムによって、イスラエルを呪うことで勝利を得ようとしました。
 
はじめバラムが神様に聞くと、
「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。また、その民をのろってもいけない。その民は祝福されているのだから。」(12節)
という答えがありました。
ややあって、再び聞くと、
「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らと一緒に行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え。」(20節)
と、神様は答えたのです。
 
それに続くのが、今回の聖書箇所です。
様々なポイントはありますが、今日は、人間の言葉を話したロバに焦点をあてて、御言葉を開いていきましょう。
 
驚くべき事柄が多い聖書の記述の中でも、動物がしゃべったのは2箇所だけと言われています。
創世記第3章のヘビと、民数記22章のロバだけです。
 
ロバという動物は、賢い動物ではありません。
勇猛な動物でもなく、速さや強さも際立ちません。
見た目も、お世辞にも、麗しいとは言えません。
また、エレミヤ書第2章24節にもあるように、欲情に流されやすい面もあるようです。
「また、欲情に息あえぐ荒野に慣れた野ろばだ。さかりのとき、だれがこれを制し得るだろう。これを探す者は苦労しない。発情の月に見つけることができる。」
そして、ロバは、頑固な性格でもあります。
 
捧げ物という面で見れば、ロバは捧げ物にすることができず、羊が身代わりとされるのです。
「ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、首を折らなければならない。」(出エジプト記13:13)
ロバそのままでは、捧げ物として受け入れられないのです。
 
賢くもなく、勇敢でもなく、強さもなく、見た目の華やかさもない。
欲情に流されやすく、頑固な性格。
羊の身代わりがなければ、神様の前に立つこともできない。
それが、ロバです。
そして、そんなロバは、だれですか?
 
そう、あなたです。
 
バラムは、自身をロバのようだとは思っていませんでした。
賢い者だと考えていたでしょうし、神様の前に立つことができる者だとも思っていたことでしょう。
 
そんなロバに乗ったバラムの前に、主の使いが抜き身の剣を手に持って、道に立ちはだかっていたのです。
主の使いは、ロバには見えているのですが、バラムには見えません。
それで、バラムを守るために、忠実なロバは、なんとか避けようとしたのです。
しかし、理解できないバラムは、杖で3度、ロバを打ったのです。
 
ロバは、バラムのいのちを守るために、生きる道を示すために、行動したのです。
同じように人間の言葉をしゃべったヘビが、人間を罪に陥れようと、死を与え、いのちから遠ざけようと行動したのとは、全く好対照です。
 
先程も言いましたが、このロバは、あなたです。
あなたは、このロバなんです。
 
大切な友のために、愛する人のために、生きるための道を示すのです。
神様からのメッセージを、忠実に伝えるのです。
大切な友のいのちを、愛する人のいのちを、守るためにです。
それが、神様の愛に、先に目を開かれた者としての、大切な役割なのです。
 
しかし、ロバの愛情は、バラムには通じませんでした。
忠実な愚か者のメッセージは、賢く強い者には、届かなかったのです。
ロバの繰り返しの愛情に対して、バラムは繰り返しの杖での打擲で答えたのです。
 
あなたの愛の手は、救いの手は、いのちへの道は、踏みにじられるかも知れません。
大切な友から、愛するものから、不当に、傷つけられるかも知れません。
でも、あなたは、あきらめる必要はありません。
 
あなたの傷を通して、愛する人のいのちが救えるのなら、その血は無駄な血ではないからです。
その経験は、あなたの人生に神様から与えられた、かけがえのないギフトだからです。
また、あなたの愛について、弁明のチャンスを神様はくれるからです。
(ロバは、バラムと人間の言葉で語り合いました。)
さらに、神様ご自身が弁明してくれるからです。
(バラムは目が開かれ、主の使いがバラムに語りかけました。)
 
そして何より、それは、イエスさまが歩んだ歩みだからです。
大切なあなたのために、自身が打たれて傷つくことも、自身の血を流すことも、いのちまでをも捨てることを厭わず、あなたに愛と赦しといのちを与えたのです。
滅びの道から救い出し、いのちの道を示したのです。
愛する、あなたのために。
 
ロバの歩みは、イエスさまの歩み。
だから、あなたの歩みであっていいのです。
そこには、いのちがあります。
愛があります。
救いがあります。
赦しがあります。
 
かっこ悪くても、賢くなくても、大丈夫。
強くなくても、美しくなくても大丈夫。
あなたの歩みは、神様に支えられています!

ゴスペルハウスメッセージ 2019.03.24
「受けるよりも与えるほうが幸いである(レント-3)」 使徒20:33-35

33 私は、人の金銀や衣服を貪ったことはありません。
34 あなたがた自身が知っているとおり、私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。
35 このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」

この箇所は、パウロからエペソの教会にあてて、それも、長老たちにあてて、書かれた言葉です。
パウロからの、遺言的なメッセージでもあります。
また、成長したクリスチャンへのメッセージともいえます。
今週は、この箇所から『受けるよりも与えるほうが幸いである』(35節)を、ともに受け取っていきましょう。

『受けるよりも与えるほうが幸いである』
これは、とても有名な聖句ですね。
この言葉に、励まされ、支えられ、導かれた人もたくさんいるでしょう。
受けるよりも与えるほうが、愛をしっかりとその人生に働かせることができます。
神様からしっかり与えられた人だけが、与える人になり続けることができます。
幸いであることに異論がある人はいないでしょう。

しかし、ときに、与えている幸いが、与える人である幸いが、薄まることがあります。
単に、「ちょっと苦しいなぁ」「ストレスだなぁ」と、感じることがあります。
悪そのものとは言いませんが、それが人間の弱さであり、罪深さでもあります。

そこから脱出するための秘訣、与える幸いの中にとどまる秘訣を、2つ挙げます。

秘訣その1は、「見返りを求めないで、自発的に与えること」です。

皆さんの中で料理をする人は、何を思って、どんなモチベーションで、料理をしていますか。
ある人に聞いたところ、「食べた人に『おいしいね』と言ってもらうこと」と答えが返ってきました。
他にも色々な答えがあるでしょうが、私は、「おいしいものを食べてもらうこと」を思って作っています。
そして、これがブラジルで5年間、日本で11年間、礼拝後にずっと料理を作り続けられた秘訣だと思っています。

「食べた人に『おいしいね』と言ってもらうこと」と「おいしいものを食べてもらうこと」
2つの違いがわかりますか?
どちらもおいしいものを一生懸命作ることに違いはありません。
ただ一つ、決定的な違いがあるのです。
それは、「見返りを期待するかどうか」です。
『おいしいね』と言ってもらうことは、見返りです。
おいしいものを食べてもらうことには、見返りがないのです。

見返りを期待すると、相手の反応が期待通りでなかった場合に、イライラします。
相手を愛し、喜んでもらおうと思っているのに、反応が悪いと、その相手を裁き、責めたくなってしまうのです。
もちろん「見返りを求めちゃいけない」という義務感で縛られてしまっては、本末転倒になってしまいます。
見返りを求めず、自発的に喜んでするということがポイントなのです。

出エジプト記の第35章には、幕屋の必要のための民からのささげ物の記述があります。
そこにも、「進んで献げる心のある人に、主への奉納物を持って来させなさい。」と書かれています。
まさに、「見返りを求めないで、自発的に与えること」の実践です。

秘訣その2は、「相手に迎合しないで、相手の奴隷にならないで、与えること」です。

プリンとチョコレートが好きな子どもがおねだりしても、毎食プリンとチョコレートを与え続ける親はバカ親です。
危険な遊びをしている子どもを、「自由が一番」と言って大ケガさせてしまっては、親としての義務を問われるでしょう。
自由の履き違えです。
理不尽な要求をし続ける親は論外ですが、時には、きちんと指導・教育することも大切です。
それは、愛なのです。

相手の要求や反応や態度に振り回されると、自分が何をしたいのか、何をしているのかが、わからなくなってしまいます。
これでは、幸いな与える人とは言えません。
主体性を失った、自主性を失った、奴隷です。

「見返りを求めないで、自発的に与えること」と「相手に迎合しないで、相手の奴隷にならないで、与えること」。
それは、難しいことかもしれません。
しかし、私たちには素晴らしいお手本がいます。
この2つの秘訣を、やりきった方がいるのです。

そうです、イエスさまです。

荒野の誘惑で、エルサレム入城の熱狂した群衆の前で、十字架上でとなりの人に、・・・・。
何の見返りも求めず、使命(神様に与えられた生き方)に徹底して迎合することがありませんでした。
その生涯を通して、それは徹底されていました。
そして、あなたへの愛を、あなたへの赦しを、あなたのための贖いを、あなたへの永遠の愛を、成就したのです。
十字架は、与える者の幸いの象徴なのです。

与え尽くした、与え切った、イエスさまの愛が、いのちが、今、あなたに与えられています。
それは、どんなことがあっても揺らぐことのない約束です。
与えられた者として、与える者とされて生きるか。
与えられた者として、そこにとどまるか。

『受けるよりも与えるほうが幸いである』
あなたの人生に、あなたの毎日に、この御言葉が成就されますように。


ゴスペルハウスメッセージ 2019.03.16
「愛を注がれた者たち(レント-2)」 ヨハネ12:1-8 

1 さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
2 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。
3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
5 「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。
7 イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。
8 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」

「過越の祭りの六日前」とありますから、この出来事は、エルサレム入城の数日前です。
イエスさまは、目の前に十字架の死を感じていたことでしょう。
ベタニアで、しかも、マルタが給仕していたということは、この現場は、マリタ・マリア・ラザロの自宅と考えていいでしょう。

ここには、イエスさまに愛注がれた者たちがいました。

まず、ラザロです。
この箇所の前の第11章で、ラザロは死に、死後4日経ってから、イエスさまによって生き返りました。
「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」(ヨハネ11:36)と書かれている通り、イエスさまはラザロを愛していました。
そして、今、死んでいたラザロは生き返り、イエスさまとともに食卓を囲んでいるのです。
死んだ者が、いのちの中で喜んで生きているのです。
イエスさまの注ぐ愛は、いのちを与える愛なのです。

そして、ラザロの姉妹マルタがいます。
ここで、ルカの福音書第10章38節から42節を読みましょう。

38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

このとき、マルタはイエスさまのためのもてなしで、心が落ち着かなくなってしまいました。
しかし今、マルタは給仕しているのです。
今回も、マリアが手伝わないにもかかわらずです。
そう、マルタは、喜んで自分自身を受け入れることができたのです。
そして、マルタは他者を受け入れることをもできるように変えられたのです。
イエスさまの注ぐ愛は、赦しと解放を与えるのです。

また、マルタの妹マリアがいます。
ルカ10章では、マリアは、イエスさまの足もとに座って、聞き入っているだけでした。
いわば、受け取ることに専念していたのです。
しかし今、彼女は、純粋で非常に高価なナルドの香油を惜しげもなく手放したのです。
一見、無駄にすら見えるこの行為は、マリアの愛のゆえの行為です。
手放す必要すらないものを、惜しげもなく手放すことのできる愛、それは、十字架の愛そのものです。

イエスさまのいのちがけの愛は、注がれた者を、その人生を、根本から変える力を持っているのです。

そしてもうひとり、ユダがいます。
彼はまだ、そこに至っていません。
次章(第13章)で、イエスさまからパン切れを浸して与えられ、愛を示されました。
「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」(13:27)は、拒絶の言葉ではありません。
「この愛の中に戻ってきなさい」という、イエスさまの愛の招きです。
ユダも、愛を注がれた者なのです。
しかし、彼は扉の外の闇へ向かって、出て行ったのです。

あなたも、イエスさまの愛を注がれる者です。
だから、イエスさまの愛を注がれる時が来ます。
それは、あなたの生き方を選ばなくてはならないときでもあるのです。

その時、ラザロのように、マルタのように、マリアのように、イエスさまの愛の中に生きますか。
それとも、ユダのように、自分の計画の中に生きますか。
イエスさまに愛を注がれた者として、あなたは、どう生きますか。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.03.09(レント-1)
「覚悟の意思と感情と」 マルコ10:32-34

32 さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。
33 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。
34 異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」

マルコの福音書の第10章には、次のような出来事が記されています。
・離縁についての問答
・子供を祝福してもらおうとする親
・金持ちの青年
・十字架を予告(3回目)する(今週の聖書箇所)
・ヤコブとヨハネの願い
・偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい
・盲人バルテマイ

レント(受難節)にふさわしく、エルサレムへ、十字架へ向かう途上です。
様々な人との出会いが記されていますが、イエスさまの側面から見ると、「覚悟・意志」と「感情」のコントラストがはっきりしていると私は思いました。

イエスさまは、十字架に向かって、先頭に立って歩いていました。
それはそれは、大きな覚悟が見て取れます。
もちろん、イエスさまにとっては、辛く、苦しく、できれば避けたいことであったでしょう。
大きなプレッシャーも感じていたことでしょう。

イエスさまと3年間を過ごしてきた弟子たちは、それを察します。
イエスさまの覚悟も、意志も、感情も、わかったつもりでいました。
それで、子どもの親たちを叱りました。
それで、バルテマイを黙らせようとしました。

「さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。」(マルコ10:13)
「多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。」(マルコ10:48)

人として、思いやりのある弟子として、当然の行動です。
しかし、イエスさまは、その思いやりを叱ったのです。
感情としてはありがたかったのかもしれませんが、それでも弟子を叱ったのです。
それは、子どもたちに対する愛、バルテマイに対する愛のゆえです。
イエスさまは弟子を叱ったのですが、それは、自身の「感情」を叱ったということと同じことです。

「覚悟と意志のある愛」が、貫かれた瞬間です。

この覚悟の愛が、意志の愛が、揺るがない愛が、あなたに注がれています。
あなたを支えています。
あなたに与えられているのです。

あなたは、決して見捨てられることはありません。
叱られて当然の、拒否されて当然の、捨てられて当然のそんなあなたに、そんな私に、イエスさまは愛を注ぐ覚悟をしたのです。

私たちの感情は、いろんな事があって揺れ動きます。
でも、イエスさまの愛は、覚悟の愛・意志の愛は、決して揺らぎません。
この愛を、あなたも覚悟を持って、受け止めましょう。
この愛の中に、生きましょう!

ゴスペルハウスメッセージ 2019.03.02
「知っているつもり」マルコ6:1-6 

1 イエスはそこを去って郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
2 安息日になって、イエスは会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。
3 この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
4 イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
5 それで、何人かの病人に手を置いて癒やされたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。
6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を巡って教えられた。

今日の聖書箇所は、イエスさまの育った町、ナザレでの安息日の出来事です。
(ちなみに、イエスさまが生まれた町はベツレヘム)
イエスさまは30歳までの期間を、このナザレで過ごし、その後、公生涯に入りました。
各地で神様の愛を説き、奇蹟を行なっていました。
ナザレの住民も、イエスさまの評判は聞いていました。
それで、安息日に会堂でイエスさまの話を聞くことになりました。
 
彼らにとってイエスさまは、よく知っている同郷の人・隣人でした。
さらに、イエスさまの会堂での話は、感嘆に値するものでした。
しかし、「知っている」と思ったことで、見逃し、理解できず、イエスさまを受け入れることができなかったのです。
過去の知識が彼らを縛ったのです。
「この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」(3節)
職業や家族を見て、知っているがゆえに拒絶してしまったのです。
 
せっかく知っているのに、本当にもったいないことです。
「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」(6節)
それは、イエスさまが驚くほどの不信仰だったのです。
そして、イエスさまは、ここでは奇蹟をしませんでした。
奇蹟を行うことができなかったのです。
そこには、奇蹟を受け取る器がなかったからです。
 
ここに、先入観の怖さがあります。
人間の愚かさ、罪深さがあります。
そして、これは2000年前だけの話ではありません。
私たちは、昔の話だと笑っていられないのです。
 
私は、学習塾もやっていたので、子どもを連れてくる親御さん(主に母親)と話す機会多くありました。
彼女らの多くは、中学生のわが子を称して、異口同音に言います。
「うちの子は何もできない。まるで幼稚園以下。まだ幼い子どものようなもの。」
しかし、実際あって話してみると、そうでもないのです。
彼らは、けっこう大人なのです。
できないようにしていた方が有利だから、大人の前でできない振りをしている子どもさえいます。
 
母親は、子どものことなら、自分が一番知っていると思っています。
確かに、そのはずだったのです。
しかし、実際は知らないこともいっぱいあるのです。
「生まれたときから見てきた。」「一番長い間見てきた。」
それがかえって真実を見えなくすることも多いのです。
 
私たちは、生まれたときから親と一緒にいました。
しかし、人生の中で、もっと長く見てきた、付き合ってきた人がいます。
それは、自分自身、あなた自身です。
生まれてこの方、一時も離れたことはありません。
しかし、知っているようで、知らないことがいっぱいあるのも事実です。
過去や現在の状況によって、縛られているのです。
「私のお父さんが・・だったから」
「私の家は、代々貧乏だから」などなど。
家柄・両親・財産・学歴・地位・職業・・・・あなたを縛るものはたくさんあります。
 
神様から遣わされた救い主・イエスさまも、受け取る器がないときには奇蹟をしませんでした。
もし、ナザレの住民がイエスさまにかけた言葉(3節)を、あなたがあなた自身にかけるなら、あなたの人生に神様の愛の奇蹟はおこりません。
しかし、あなたが神様の大いなる御わざを受け入れるなら、それはあなたの人生の中で花開くのです。
 
あなたも神様から遣わされた人です。
イエスさまのように、全人類の罪のためのいけにえになるわけではありません。
使徒たちのように、福音を伝える使命があるわけではないかも知れません。
しかし、あなただけの「遣わされた人としての使命」があるのです。
あなたを通してあらわされる、神様の力あるわざがあるのです。
地味なもの・派手なもの・大きいもの・小さいもの、一人ひとりいろいろあるでしょう。
それは、どれも大切な神様の愛のわざなのです。
あなたの器をいっぱいに広げて、愛のわざで満たしていいのです。
 
過去や現在の状況に縛られたら、あなたの人生に与えられた宝物を見逃します。
自分が知っている自分にとらわれるのをやめましょう。
神様が知っている自分を手に入れましょう。
「神様、私は何者? どうして、こんなに愛してくれるの?」と聞いてみましょう。
神様は、必ず答えてくれます。
そして、愛の奇蹟は、あなたのものになるのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.02.23
「和解の死」コロサイ1:19-22

19 なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。

日本には、責任のとり方としての「死」があります。
古くは切腹から、現代での自殺まで、責任のとり方としての「自死」があるのです。
私は、自死による責任のとり方を肯定しませんし、自死に追い込まれている人を責めることもしません。
ただ、非常に日本的であると思うのです。
知り合いの中国人の方は「まったく理解できない!」と、憤っていました。
きっと、世界の中では理解・共感できない方も多いことでしょう。

自分の罪・不義の償い、責任のとり方としての死もあります。
その一方で、身代わりの死・代表としての死もあります。
たとえば、戦国時代での、城主(国主)の死です。

自らの城が落とされそうになったとき、家臣たちのいのちを救うために、城主が切腹することで講和を成り立たせるのです。
場合によっては、「追い腹(城主を追っての切腹)」を禁じます。
それは、「あなたたちは、生きなさい!」という、強いメッセージです。

追い腹を禁じても、追ってしまう家臣たちもいます。
城主への愛のゆえかもしれませんが、自分本位ということもできるでしょう。
「生きなさい!責任は私がすべて負うから」という、城主からのメッセージを反故にしてしまうのですから。

城主の死は、身代わりの死です。
その切腹は、生きるための、生きてよいという、証拠です。
その愛と覚悟のいのちを受けて、生きるのです。

これが「講和の死」です。
戦場での「討ち死に」では、こうは行きません。
戦場で城主が討ち死にしたならば、家臣は総崩れです。
そこに、いのちの約束も、生きよというメッセージもありません。
討ち死には、敗北の死なのです。
そして、講和の死は、「解放の死」です。

イエスさまの死は、私たちを解放しました。
罪の奴隷となっていた私たちの身代わりになって、十字架についてすべての罪を負ったのです。
十字架の血潮によって、私たちは神様と和解したのです。

この死は、この愛は、この講和は、日本人ならわかる死です。
イエスさまの十字架は、遠いどこかの話しではなく、今、あなたへの愛の十字架なのです。

そしてもうひとつ、覚えていてください。
イエスさまの十字架の死は、「追い腹禁止」です。
「生きなさい!責任は私がすべて負ったから」という、強いメッセージ・確固たる約束なのです。

イエスさまが背負った十字架は、すべての罪を負うものでした。
追い腹禁止ですから、あなたが負うのは、同じ十字架ではありません。
あなたが負う十字架は、解放された者としての十字架、いのちを与えられた者としての十字架です。
イエスさまが「救い主」であり、あなたは「救われた者」なのです。
そして、イエスさまはよみがえったのですから、あなたの十字架は「喜びの十字架」なのです。

もう、完全な和解が終わっているのです。
「今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。」(22節)

解放の中で、生きましょう。
愛の中で、生きましょう。
喜びの中で、平安の中で、生きましょう。
あなたは、そう生きていいのです。
完全な和解がなされ、もう、戦いは終わっているのです。

くどいようですが、「追い腹は禁止」です。
イエスさまは、すでに世に勝利しているのですから。


ゴスペルハウスメッセージ 2019.02.16
「洗い流された泥」ヨハネ9:1-7

1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。

聖書の中では、陶器師と粘土との関係が、神様と人間、神様と民、神様と国の関係にたとえられることがあります。
例えば、
イザヤ書64:8「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」
エレミヤ書18:6「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか──主のことば──。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」
などです。

ここでの粘土は、英語では "clay" という言葉があてられています。

私も、子どもと一緒に陶芸を体験する機会が何度もあったこともあり、陶芸は大好きです。
粘土のひとかけらも無駄にしないように、大事に使い切ろうと考えます。
ただ、ケチなだけなのかも知れませんが。
それに比べて、子どもはわりと雑に粘土を扱うので、「粘土(陶土)作るまでに、手が入ってんのに・・・」と、残念に思うことしきりです。

clayと呼ばれる粘土に比べて、泥は手がかかっていません。
価値も低いように感じます。
しかし、欽定訳(KJV)の聖書には、この泥が "clay" と訳されているのです。

確かに、イエスさまが唾でこねるという、少しの手間はかかっています。
で、この泥clayから、何ができたのでしょう?
それは、目に塗られ、池の水で洗い流されただけです。
泥clayは、あとかたもなく、水に流し消されてしまったのです。

粘土clayは、作品になってこそ、形になってこそ、見えるものになってこそ、価値のあるものです。
そういう意味において、この泥clayは、流されてしまい、形もなく、人の目から見たら価値のないものです。

しかし、神様の目から見ればそうではありませんでした。
「この人に神のわざが現れるためです。」(3節)というように、神様のわざを現したのです。
どの粘土にも劣らない、天下一品以上の価値が、この泥にあるのです。

それは、洗い流されることによって、あとかたもなくなることによって、価値を生じたのです。
盲人の目に塗られたままなら、流されないままなら、記念にはなるかも知れませんが、何の役にも立たない泥だったのです。

そして、あなたも、このclayなのです。

イエスさまによって選ばれ、唾ではなく、その十字架の血潮によって練られました。
形が残るかどうかは、わかりません。
見えるものになるのかも、わかりません。
他の人たちに理解してもらえるかどうかも、わかりません。
だって、泥clayですから。
しかし、イエスさまの手の中にあって、神様のわざをなせるものとなるのです。
神様の目にあって、あなたは天下一品の価値を持つもの、宝物なのです。

イエスさまは、そう、あなたを用いたがっているのです。
あなたの人生に、神様のわざを、神様の愛を、神様の力を、現しましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.02.10
「愛のための覚悟」エステル 4:10-5:8,7:1-6

4:10 エステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えた。
4:11 「王の家臣たちも王の諸州の民も、だれでも知っているように、召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、男でも女でも死刑に処せられるという法令があります。ただし、王がその人に金の笏を差し伸ばせば、その人は生きながらえます。私はこの三十日間、まだ王のところへ行くようにと召されていません。」
4:12 彼がエステルのことばをモルデカイに告げると、
4:13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。
4:14 もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」
4:15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。
4:16 「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」
4:17 モルデカイは出て行って、エステルが彼に頼んだとおりにした。

5:1 三日目になり、エステルは王妃の衣装を着て、王室の正面にある王宮の奥の中庭に立った。王は王室の入り口の正面にある王宮の玉座に座っていた。
5:2 王が、中庭に立っている王妃エステルを見たとき、彼女は王の好意を得た。王は手にしている金の笏をエステルに差し伸ばした。エステルは近寄って、その笏の先に触れた。
5:3 王は彼女に言った。「どうしたのだ。王妃エステル。何を望んでいるのか。王国の半分でも、あなたにやれるのだが。」
5:4 エステルは答えた。「もしも王様がよろしければ、今日、私が王様のために設ける宴会にハマンとご一緒にお越しください。」
5:5 すると王は「ハマンを急いで来させて、エステルの言ったようにしよう」と言った。王とハマンはエステルが設けた宴会にやって来た。
5:6 その酒宴の席上、王はエステルに尋ねた。「あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」
5:7 エステルは答えて言った。「私が願い、望んでいることは、
5:8 もしも私が王様のご好意を受けることができ、また王様がよろしくて、私の願いをゆるし、私の望みをかなえていただけますなら、私が設ける宴会に、もう一度ハマンとご一緒にお越しください。そうすれば、明日、私は王様のおっしゃったとおりにいたします。」

7:1 王とハマンは王妃エステルの宴会にやって来た。
7:2 この酒宴の二日目にも、王はエステルに尋ねた。「あなたは何を願っているのか。王妃エステル。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」
7:3 王妃エステルは答えた。「王様。もしも私があなた様のご好意を受けることができ、また王様がよろしければ、私の願いを聞き入れて、私にいのちを与え、私の望みを聞き入れて、私の民族にもいのちを与えてください。
7:4 私も私の民族も、売られて、根絶やしにされ、虐殺され、滅ぼされようとしています。私たちが男女の奴隷として売られるだけなら、私は黙っていたことでしょうが、そうはいきません。その迫害する者は、王のお受けになる損失を償うことはできないのですから。」
7:5 クセルクセス王は王妃エステルに言った。「そんなことをしようと心に企んでいる者は、いったいだれか。どこにいるのか。」
7:6 エステルは言った。「迫害する者、敵とは、この悪人ハマンです。」ハマンは王と王妃の前で震え上がった。

エステル記は、ペルシャのクセルクセス王の妃となったエステルの物語です。
たった10章の、短いお話しですから、ぜひとも全文を読んでいただきたいと思います。
聖書66巻の中にあっては珍しく、「神」「主」という言葉が一度も出てこないエステル記。
そこにある神様からのメッセージを、ともに開いていきましょう。

ユダヤ人であるモルデカイは、おじの娘であるエステルを育てることになりました。
彼らは、捕囚として連れてこられたユダヤ人たちの子孫です。

ユダヤ人は、人を拝むことがありません。
ただ、神様だけが礼拝対象だからです。
異邦人は、人をあたかも神のようにして礼拝します。
ペルシャ第2の権力者であるハマンに対して、モルデカイがひれ伏さなかったところから、トラブルが始まります。

信仰者は時として、信仰者ゆえの軋轢やトラブルに遭遇します。
それは、信仰が成長するための、力強くするための、試練かもしれません。
いずれにしても、「神様を信じたら、100%思いのまま希望が叶う」というわけではありません。

ハマンは、ユダヤ人を全滅させる、皆殺しにする法令を作りました。
まったく個人的な感情からです。

悲しみに暮れるモルデカイに、エステルは使いを送ります。
二人のやり取りの中で、モルデカイはエステルに決断を迫ります。
そして、ユダヤ人を救うために、安全な地位も、いのちをも、エステルは懸けることにしたのです。
愛のための覚悟が、ここにあります。
そして、その覚悟が、ハマンを滅ぼすきっかけ・原動力となるのです。

奇しくも今週はバレンタインデーがあります。
いまや、チョコを買って渡す儀式の日、お菓子屋さんの書き入れ時です。
たくさんのチョコレートが、スーパーやデパートにも並び、カゴいっぱいにチョコを買って、配る女性の方も多いでしょう。

しかし、私が中学生の頃には、義理チョコ友チョコなどという習慣はなく、チョコを渡す方にも、受け取る方にも、覚悟が必要とされました。
それは、愛を伝えるための覚悟であり、愛を受け取るための覚悟です。
今でももちろん、こういう覚悟のチョコレートはあるでしょうが。

自分の立場がどうなろうと、相手との関係が壊れるかも知れなくても、愛のための覚悟を持って、チョコレートを渡し、受け取っていたのです。

エステルも、自分の立場も、いのちをも、失うかも知れない覚悟を持って、愛を貫いたのです。
これは、だれのひな型でしょう?

そう、イエスさまです。
神様のひとり子という立場を捨て、呪われることを厭わず、誤解や嘲笑の中にあって、非難や迫害の中にあって、イエスさまは、あなたを赦すという愛を貫いたのです。

この覚悟の愛が、あなたに注がれているのです。
愛のための、愛を受け取るための、あなたの覚悟を、いま、決めましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.01.26
「見ているもの・見られていること」エレミヤ1:11-17
 
11 主のことばが私にあった。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」
12 すると主は私に言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」
13 再び主のことばが私にあった。「あなたは何を見ているのか。」私は言った。「煮え立った釜を見ています。それは北からこちらに傾いています。」
14 すると主は私に言われた。「わざわいが北から、この地の全住民の上に降りかかる。
15 今わたしは、北のすべての王国の民に呼びかけている。──主のことば──彼らはやって来て、エルサレムの門の入り口で、周囲のすべての城壁とユダのすべての町に向かいそれぞれ王座を設ける。
16 わたしは、この地の全住民の悪に対してことごとくさばきを下す。彼らがわたしを捨てて、ほかの神々に犠牲を供え、自分の手で造った物を拝んだからだ。
17 さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしがあなたを彼らの顔の前でおびえさせる。
 
旧約聖書の中の預言者に、神様は、何かを見せて、そして問いかけることを何度もしています。
今週の聖書箇所は、そのうちの一つですし、他にも、アモスに、ゼカリヤに、同じように神様は見せて聞きました。
 
エレミヤ 24:3 そのとき、主が私に、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いほうは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」
 
アモス 7:8 主は私に言われた。「アモス、何を見ているのか。」私が「下げ振りです」と言うと、主は言われた。「見よ。わたしは下げ振りを、わたしの民イスラエルの真ん中に垂れ下げる。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。
 
アモス 8:2 主は言われた。「アモス。何を見ているのか。」私が、「一かごの夏の果物です」と言うと、主は私に言われた。「わたしの民イスラエルに終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。
 
ゼカリヤ 4:2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「私が見ると、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があります。この上部にあるともしび皿には、それぞれ七本の管が付いています。
 
ゼカリヤ 5:2 御使いは私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「飛んでいる巻物を見ています。その長さは二十キュビト、幅は十キュビトです。」
 
神様は、その経験を通して、その人に対する計画と約束、国民に対する計画と約束、それらを見せて語ったのです。
 
これは何も、旧約聖書に限ったことではありません。
預言者だけに限ったことでもありません。
今、あなたにも起こりうる事柄なのです。
そう、神様が、あなたに見せるものがあるのです。
あなたに語りたいことがあるのです。
 
そのときに、あなたはどうしますか?
1つ目には、神様のみこころに従う、みこころに沿うという生き方があります。
2つ目には、自分が見たいように、見たいものだけを受け入れるという生き方があります。
3つ目には、他の人に自分がどう見られるかで行動を決めるという生き方があります。
(これは、他の人に対して自分がどうあるかということではなく、どう見られるかということです)
 
それぞれを言い換えれば、次のように言うこともできます。
1つ目は、神様と自分の関係を、最大の柱として生きることです。
正義と自分との関係です。
2つ目は、自分自身だけで完結する生き方です。
自分が正義という生き方です。
3つ目は、他人と自分の関係を、最大の柱として生きることです。
世間が正義の、世間体に生きるとも言えます。
 
どれを、あなたの人生の柱として、生きるかが問われているのです。
 
神様は今、あなたに何を見せていますか。
「あなたは何を見ているのか。」
これは、あなたへの言葉なのです。
様々な状況の中で、様々な関係の中で、また直接的に、幻や夢の中で、神様はあなたに見せたいものがあるのです。
あなたに与えたい、約束や計画があるのです。
 
あなたは、神様のみこころを受けて生きますか?
あなたは、自分の計画を生きますか?
あなたは、他人の目を気にして生きますか?
 
イエスさまの十字架の愛の中で、本当のあなたの生き方を、生きぬきましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.01.19
「あなたの赦しと神様の赦しと」マタイ18:21-35

21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

以前にも何回かお話したことがありますが、言葉の種類を減らすということは、曖昧さを抱えるということです。
例えば、「どうも」という言葉です。
ブラジルにいるときに、日本語を学んでいるブラジル人に指摘されたことがあります。
「『どうも』っていう日本語は、オールマイティだな。こんにちはも、さよならも、ありがとうも、ごめんなさいも、全部どうもですんでしまう。」
たしかに、その通りだと思いました。
他にも、「うそっ」とか「やばい」、「微妙」、「ふつう」など、多くの言葉を飲み込んでしまった言葉はいくつもあります。
便利なようですが、意味の深まりもなく、曖昧な言葉です。

では、それを踏まえて、質問です。
「イエスさまの十字架で救えない罪、イエスさまの十字架で赦されない罪はあるでしょうか?」

答えは「ない」です、簡単ですね。
イエスさまは、すべての人のすべての罪を身代わりに背負ったのですから。

「じゃあ、クリスチャンは殺人を犯しても、無罪なのか」とか、
「それじゃあ、警察も裁判所もいらないじゃないか」とか、
「クリスチャンなんだから、何したっていいのさ」とか、
誤解する人があるかも知れません。
しかし、もちろんそうではありません。
それは、罪という言葉を取り違えているからです、罪という言葉を曖昧にしてしまっているからです。

「聖書の言う(神様に対する)罪」と「犯罪行為」が、罪という一言にまとまってしまって、曖昧になっているからです。
私は英語は得意ではないのですが、"sin" と "crime" の違いともいえるでしょう。

では、それを踏まえて、再度の質問です。
「イエスさまの十字架で救えない罪、イエスさまの十字架で赦されない罪はあるでしょうか?」
答えは「ない」、しかあり得ません。

しかし、罪という言葉を勘違いしてしまったら、「ある」という答えになりかねません。
その結果、他の人を裁く心が生じてしまうのです。
特に、弱い人たちや少数派の人たちに対して、裁きを下すのです。
神様の心を見失ってしまうのです。
そして、状況が変わったなら、自分自身を裁かなければならなくなるのです。

このような状況を回避・克服するには、どうしたらいいでしょうか。
それは、「自分の感情」と「真実」を区別することです。
「赦せないという気持ちになるけど、神様に事実赦されている。」と認めることです。
「自分の思い」と「神様の思い」を区別することです。
「自分の正義」と「神様の正義」と言い換えてもいいでしょう。

神様が赦しているのに、自分が赦すことができない。
神様の善悪ではなく、自分の善悪が優先されてしまう。
これが罪なのです。
このとき、他の人を裁くということの、本質が変わります。
「他人の罪の問題」から「自分の罪の問題」に変わるのです。
(もちろん、犯罪行為については別です)

本当に赦されなければならないのは、だれなのか。
わからなければ、あなたは自縄自縛に陥ります。
わかったならば、十字架はあなたの人生に意味を持つものとなります。
だれかのための十字架ではなく、あなたのための十字架に変わるのです。
ただのシンボルでもアクセサリーでもない、人生の土台となるのです。

あなたの思いを、神様の思いに添わせましょう。
あなたの正義を、神様の正義にかなうものとしましょう。
あなたの赦しを、神様の赦しの深さにしましょう。

その時、神様の平安と神様の赦しが、あなたのものとなるのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.01.13
「弱い者に」ルカ16:19-22

19 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20 その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
21 彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
22 しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。

今日の聖書箇所は、イエスさまのたとえ話の冒頭です。
ですから、本来の話の本質は、この後ということになります。
しかし、貧富の差の大きかった当時としては、現実に起こりうる、また、現実に起きていた状況ともいえるでしょう。

金持ちの男は、自分の家の門前にいる貧しいラザロに無関心でした。
金持ちは、ことさら、ラザロに注意を払わなくてはならない義務はありません。
また、葬儀の手配をする義務もありません。
ラザロを知っていた他の人にしても、同じことでしょう。
そのためラザロは、だれにも葬られることなく、御使いたちによって、連れて行かれたのです。

金持ちも、まわりの人も、自分の持っている権利の上に、"正当に"乗っかっていたのです。
負わなくてもいい義務を、"正当に"免れていたのです。

私は、先日の上京の折に、ご奉仕の他に、ひとつの自分なりの目標を持っていました。
それは、「エスカレーターの右側に立ち止まって乗ること」です。
JRがアナウンスしていることもありますし、何より、幼い子ども連れや体を怪我した人などの安全のためでもあるからです。
子育て真っ最中で、なおかつ、時々松葉杖生活をしていた私には、他人事ではないからです。
(そのために、髪の毛をピンクにしたという念の入れようです)

その事を他の人に話したところ、
「今までやってたんだから、直らないっすよ。しかたないでしょ」とか、
「まあ、(勝手に)がんばって」と、反応されました。
まるっきり他人事、あるいは、既得権を侵さすなという具合です。

それはまるで、この金持ちや、イエスさまの時代の律法学者やパリサイ人と同じです。
貧しい人々、体の不自由な人々、異邦人、取税人などなど、彼らは蔑み、自らの保身をし続けてきたのです。

私たちは、そうであってはなりません。
本日交読した詩篇41篇にもこうあります。
「幸いなことよ 弱っている者に心を配る人は。わざわいの日に 主はその人を助け出される。」(詩篇41:1)
また、聖書には直接関係ありませんが、漫画家のやなせたかしさんはこう言います。
「アンパンマンは、自分の顔をちぎって人に食べさせる。
本人も傷つくんだけど、それによって人を助ける。
そういう捨て身、献身の心なくしては正義は行えない。」

なにも、それだけではありません。
なにより、イエスさまがそのようにしたのです。

罪の前に、まったく無力で、何もできない人のために。
神様のために、何も役に立つことのできない人のために。
イエスさまは、すべてを捨てたのです。
神様のひとり子という立場を捨て、権利を捨て、十字架の死に至るまで徹底的に愛を示し続けたのです。

この愛は、あなたに注がれている愛です。
この愛の中で、あなたもこの愛を生きようではありませんか。
他人事や無関心に生きるのではなく、与えられた権利にしがみつくのではなく、ほんとうの自由を生きましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2019.01.05
「門を通して見える真実」ヨハネの福音書 第10章9節

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。(ゴスペルハウス 2019年 年間聖句)

今週も、ゴスペルハウスの年間聖句からのメッセージです。
元旦礼拝では、「イエスさまは唯一つの救いの門」「その門を出入りするたびに、繰り返し確認・確信する」ということをお話しました。

先日、Q&A形式のキリスト教関係のある本を読んでいたところ、このような質問のページがありました。
問「聖書には、何が書いてあるのですか?」

さあ、あなたなら、なんと答えますか。
旧約聖書は、「人はどこから来たのか」「どう生きるべきか」「神様について」「律法」・・・
新約聖書は、「クリスチャンとは何か」「救われたものとしての生き方」「教会の歴史」・・・
いろいろなことが思い浮かぶかもしれませんね。

しかし、私はそうは思いません。
聖書に書かれているのは、「イエス・キリスト」です。
イエスさまは、神様の愛と赦しの具体的な現れです。
旧約聖書は、その到来を前もって示しています。
新約聖書は、その到来を証ししているのです。

聖書は、旧約新約合わせて66巻。
その書簡一つ一つの主題は、「神様の愛、イエス・キリスト」です。
聖書は、旧約新約合わせて1189章。
その章のそれぞれの主題は、「神様の愛、イエス・キリスト」です。
一問一答という言葉がありますが、六十六問一答、千百八十九問一答です。
そこを外して聖書を読むなら、意味がない読み方です。
そこが外れているなら、聖書ですらないのです。

年間聖句の「イエスさまは門」の3つ目のポイントは、「門・ドアは、そこを通して向こう側を見ることができるところ」です。
聖書は、イエスさまによって表された神様の愛を通して読まなければ、意味がわかりません。
誤解し、神様の愛が呪いにすら変わってしまいます。
完全な贖い、無条件の愛、恵みとして与えられる救い、それらの十字架の本質を通さずに読むなら、聖書は意味がありません。

そして、生きることも同じです。

イエスさまを通して、十字架を通して、神様の愛を通して、あなたが人生を見るなら、あなたの人生の真実が見えます。
見える事実は、今までと同じかもしれません。
しかし、そこにある意味が、劇的に変わります。
その出来事の、本質が変えられるのです。

イエスさまという門を通して、あなたの人生を見直しましょう。
注がれた愛、恵み、赦しを通して、あなたの人生は変わるのです。
過去の意味が変わります。
過去の本質が変わります。
そう、イエスさまは、あなたの過去を変えることのできる方、癒やすことのできる方なのです。

過去だけでなく、現在の現実に、苦しいこと、思い通りにならないこともあるでしょう。
しかし、それは呪いではありません。
もちろん、神様からの罰でもありません。
イエスさまの十字架が、あなたのものであるからには、だれも何もあなたを呪うことはできないのです。
もう一度、イエスさまを通して、その事実にある真実を見つめましょう。

イエスさまは、あなたの門です。
愛と恵みと赦しは、あなたのものです。
新しい人生が、あなたに与えられているのです。


ゴスペルハウスメッセージ 2019.01.01
「イエスさまは門」ヨハネの福音書 第10章9節
(ゴスペルハウス 2019年 年間聖句)

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。

I am the door. If anyone enters by Me, he will be saved, and will go in and out and find pasture. (NKJ)

I am the gate. Those who come in by me will be saved; they will come in and go out and find pasture. (TEV)

あけましておめでとうございます。
2019年が始まりました。
今年も、イエスさまの愛とともにあゆみましょう!

ゴスペルハウスは、毎年、年間聖句を掲げ、テーマをもって礼拝をしています。
2017年は、「恐れるな、あなたには価値がある」(マタイ10:31)。
2018年は、「恵みの御座に大胆に近づけ、あなたは赦されている」(ヘブル4:16)。
そして今年は、「イエスさまは門」(ヨハネ10:9)です。

英語の聖書を見ると、I am the door. という記述とI am the gate. という記述があります。
door と gate の違いはありますが、いずれにしても、出入りするところであることは確かです。

イエスさまは門とは、第一に「唯一の救いの門」ということです。
イエスさまの他に、救いはありません。
クリスチャンは寛容であると言われることもありますが、この点に関しては寛容であってはなりません。
あくまで、かたくなに、頑固に、こだわらなければならないところです。
しかもこの救いは、受ける側の努力、つまりあなたの努力なしに与えられる救いです。
報酬としてではなく、恵みとしての救いなのです。

第二に、「日々そこを通り、体験し、確認する門」ということです。
聖句の後半に「また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」とあるとおりです。
羊飼いに飼われている羊は、昼は柵の外で牧草を食べ、夜は門を通って柵の中に入って休みます。
毎日、門を確認し、通るのです。
門を通らないで出入りする羊は、一匹もいません。
私たちは、イエスさまによって赦され、価値ある者とされたのです。
その事実を日々確認し、そのいのちを日々生きるのです。

アダムとエバが住んでいたエデンの園のルールは1つでした。
「しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。」(創世記2:17)
それ以外は、まったく自由に食べてよかったのです。

今も、ルールは1つです。
それが、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」なのです。
救いは1つです。
その愛の中にとどまるなら、あなたはほんとうの自由を生きることができるのです。

自由というのは、わがまま気まま、勝手な生き方、ではありません。
だれかに勝とうとか、押しのけようとか、少しでも得をしようとか、考えなくてもいい自由です。
つまり、解放された自由なのです。
神様の愛の中に生きる自由、神様の愛とともに生きる自由です。

イエスさまは門です。
この門を、あなたの毎日の門にしましょう。
愛を浴びて、愛に触れて、あなたの日々を過ごしましょう。


ゴスペルハウスメッセージ 2018.12.30
「見るもの、聞くもの」マタイ 2:1-12

1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。
4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。
6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。
8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。
9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。
10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。

私たちには、五感という感覚が与えられています。
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚というものですね。
今回のテーマの「見るもの、聞くもの」というのも、その五感のうちにあります。
私たち人間は、離れているものを認識するのには嗅覚がおそまつなので、見るもの、聞くものとしたのです。

「見るもの、聞くもの」とは、何に関心を寄せているのか、何を判断材料にしているのかということです。
ヘロデ王、エルサレム中の人々、博士たちと、三者の「見るもの、聞くもの」をみていきましょう。

ヘロデ王は、自分の感情や自分勝手な正義(王位の安泰)を、判断材料にしていました。
そのためには、彼は何でもしました。
嘘をつき騙すことも、破壊も殺人もです。
事実、彼は自分の王位を守るために、自分の家族すら殺しているのです。

エルサレム中の人々は、ヘロデ王の機嫌や気持ちや言葉に、関心を寄せていました。
なぜなら、そうすることが自分の身を守ることでもあり、利益を得るためにも必須だったからです。
忖度し、追従し、保身と利益確保に腐心していました。

自分勝手な王と、忖度する周辺の者たち。
二千年前の外国のこととは思えませんね。

そして、博士たちです。
イエスさまに出会うまで、彼らは、知識や学識、また真心ある常識を、判断材料にし、大切にしていました。
だからこそ、星の出現からユダヤの王が誕生したことを知り、ふさわしい贈り物を携え、正しい道・正しい手続きを進み、ベツレヘムまで到着したのです。
まったく、正しい生き方をしてきたと言っていいでしょう。

しかし、彼らはイエスさまに出会いました。
そして、神様からの警告の言葉を受けました。
博士たちは、神様のわざと神様の言葉に出会ったのです。
そのとき、彼らの生き方が変わりました。

彼らは、神様の言葉通り、別の道を通って帰っていきました。
彼らが来た道は、まったく正しいルートだったにもかかわらずです。
彼らは、正しさよりもさらに勝る生き方を、手に入れたのです。

クリスマス、それは、神様のひとり子・イエスさまが地上に誕生したことをお祝いするときです。
しかも、地上の王として降誕したのではなく、すべての人の罪を背負うために来たのです。
身代わりになって、十字架上で死ぬために生まれてきたのです。
これは、最大の神様のわざです。
これ以上の奇蹟はありません、これ以上の愛はありません。

いま、博士たちのように、あなたも生き方を変えていいのです。
多くのクリスチャンがそうであるように、あなたはきっと今まで、正しい(と思われる)生き方をしてきたことでしょう。
しかし、神様によって、正しさをこえる生き方が示されたのです。
示されただけでなく、あなたに与えられているのです。

あなたの生き方を、正しさをこえたものに、今日、しませんか。
あなたのための救い主が、あなたにそれをプレゼントするのです。

ゴスペルハウスクリスマスメッセージ 2018.12.22
「お迎えできない場所に」ルカ2:1-20

1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

クリスマスおめでとうございます。
今週の聖書箇所は、イエスさまのお誕生の場面です。
初めてのクリスマスの場面です。

住民登録のために、マリアとヨセフは、ベツレヘムにいました。
しかし、宿屋には、子どもを静かに産むことのできる、安全に産むことのできる、場所がなかったのです。
それで、イエスさまは家畜小屋の中で、お生まれになったのです。
そこに謙遜があり、そこに慰めもあるのですが、まったく、安全でも衛生的でもない出産でした。

ダビデの町ベツレヘムは、住民登録のために、たくさんの人がいました。
宿屋も、出産のための施設ではありません。
様々な状況で、様々な条件で、救い主イエスさまをお迎えする準備がなかったのです。
イエスさまのために捧げる場所がなかったのです。

しかし、これは単に二千年前のベツレヘムだけの問題でしょうか。
私たちの心や、私たちの状況も同じではありませんか。
「あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ」とか、「あれもしたい、これもしたい」と、自分の計画や希望が心を占めていませんか。
それでは、イエスさまのための場所は確保できません。
また、悔しさ、悲しさ、妬みなどの様々な思いが渦巻いて、救い主イエスさまを静かにお迎えできない状況にありませんか。
二千年前のベツレヘムと、どこに違いがあるのでしょう。

でも、私たちには希望があります。
そんな、お迎えもできないような場所に、事実、イエスさまはお生まれになったのです。
お迎えできない場所に、あえて来てくれるのが、愛です。
あるはずのないところに、それでもあるのが、愛です。
ふさわしくない者に、あえて与えられるのが、愛です。

神様の愛は、報い・報酬ではなく、恵みなのです。

日本では今、自己責任という言葉が流行っています。
この自己責任とは、自分を律するための言葉として使われることは、ほぼありません。
他人の苦境や逆境を、傍から責めるときにだけ使われる言葉です。
自分は安全な場所にいて無責任で、他人には責任を負わせるための言葉なのです。
また、因果応報という言葉は、ずっとある言葉です。
良い種をまけば良いことが起こり、悪い種をまけば悪いことが起こる。
自己責任も、因果応報も、今の日本人気質に合うようです。

しかし、イエスさまの与える愛は、違います。
お迎えできない場所に、与えられるのです。
ベツレヘムに、ユダヤ人に、全人類に、そして、あなたに。

あるはずがない愛を、あなたは受けているのです。
あるはずがない恵みが、あなたに与えられるのです。
この愛と恵みを、本当にあなた自身のものとして、しっかり味わって、毎日をあゆみましょう。

そのためのクリスマスが来たのです。
メリークリスマス!

ゴスペルハウスメッセージ 2018.12.01
「バプテスマのヨハネの父と母 ---アドベント(1)」ルカ 1:5-25,57-66

5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。
8 さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
9 祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
10 彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。
11 すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。
12 これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。
13 御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。
14 その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
15 その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、
16 イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
17 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」
18 ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」
19 御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
20 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
21 民はザカリヤを待っていたが、神殿で手間取っているので、不思議に思っていた。
22 やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。それで、彼が神殿で幻を見たことが分かった。ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。
23 やがて務めの期間が終わり、彼は自分の家に帰った。
24-25 しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五か月の間、安静にしていた。

57 さて、月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。
58 近所の人たちや親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、彼女とともに喜んだ。
59 八日目になり、人々は幼子に割礼を施すためにやって来た。彼らは幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、
60 母親は「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
61 彼らは彼女に「あなたの親族には、そのような名の人は一人もいません」と言った。
62 そして、幼子にどういう名をつけるつもりか、身振りで父親に尋ねた。
63 すると彼は書き板を持って来させて、「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。
64 すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
65 近所に住む人たちはみな恐れを抱いた。そして、これらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体に語り伝えられていった。
66 聞いた人たちはみな、これらのことを心にとどめ、「いったいこの子は何になるのでしょうか」と言った。主の御手がその子とともにあったからである。


今週の聖書箇所は、バプテスマのヨハネの誕生のいきさつです。

父親のザカリヤは、祭司職です。
神殿に入って香を焚いた後は、神様の御心を民に告げるという役割があります。
しかし、御使いガブリエルとのやり取りの中で、、ザカリヤは口がきけなくなってしまいました。
62節に、「身振りで父親(ザカリヤ)に尋ねた。」ともあるので、耳も聞こえない状態であったのかもしれません。
口が聞けず、耳の状態もあやしいザカリヤは、祭司職としては、あまり役に立たないものというのが現状でしょう。

母親のエリサベツは、不妊の女性でした。
そして、高齢になってから、思いがけない妊娠で、ヨハネを身ごもりました。
「五か月の間、安静にしていた」(25節)というのも、体を案じてのことでしょう。
安静中ですから、体を使った労働の働き手としては、ちょっと不足しています。

二千年も前のことですから、夫のザカリヤも妻のエリサベツも、他の人に支えられなければ、神様に支えられなくては、生きていくことさえ難しい状態です。
毎日マナが降っていた、モーセの時代とはわけが違うのです。

少し役に立たない、少し力不足の、そんな老夫婦。
しかし、そこには神様の用意した、大きな役割があったのです。

「彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。」(17節)
人類史上最高の預言者である、バプテスマのヨハネを、生み、育てる者として、この夫婦は選ばれたのです。
救い主の到来の喜びを、周りの人たちに、いえ、二千年後の私たちにさえ、残してくれたのです。

そして、あなたにも、その大きな役割があります。
「私は役に立たないものなので・・・」とか、
「僕にはちょっと力不足で・・・」とか、
なんとなく自己卑下したくなる時が、あなたにもあるかもしれません。
しかし、そんなあなたの人生に、そんなあなたの現状に、神様は大きな喜びの役割を、大きな愛の役割を、用意しているのです。

それは、聖書には記されないかもしれません。
メダルも表彰状も、もらえないかもしれません。
ニュースで報道されることもないでしょう。
でも、神様にとって、それは特別な、それは大きな、あなただけに託された役目なのです。
あなたの人生への、神様からのプレゼントなのです。

いま、苦しくても、
いま、役に立たないように感じても、
いま、思い通りにならなくても、
神様は、あなたを呪ってなどいません。
それは、あなたが大いなる喜びの声を上げるための、備えの期間なのです。

神様から与えられる、喜びの役割の中で、あなたは生きていいのです。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.12.08
「神様のみこころにかなう願い---アドベント(2)」 列王記上3:1-15

1 ソロモンはエジプトの王ファラオと姻戚の関係を結んだ。彼はファラオの娘をめとり、ダビデの町に連れて来て、自分の家と主の家、およびエルサレムの周りの城壁を築き終えるまで、そこにとどまらせた。
2 当時はまだ、主の御名のために家が建てられていなかったので、民はただ、高き所でいけにえを献げていた。
3 ソロモンは主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいた。ただし、彼は高き所でいけにえを献げ、香をたいていた。
4 王はいけにえを献げようとギブオンへ行った。そこが最も重要な高き所だったからである。ソロモンはそこの祭壇の上で千匹の全焼のささげ物を献げた。
5 ギブオンで主は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなたに対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子を彼にお与えになりました。
7 わが神、主よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。
8 そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。
9 善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
10 これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。
11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、
12 見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。
13 そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。
14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう。」
15 ソロモンが目を覚ますと、見よ、それは夢であった。彼はエルサレムに行き、主の契約の箱の前に立って、全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを献げ、すべての家来たちのために祝宴を開いた。

ソロモンは、イスラエルの3代目の王です。
初代の王は、サウル王。
2代目の王は、サウル王のしもべであり、サウル王の娘と結婚もしたダビデ王。
ソロモンは、そのダビデの子どもです。

サウル王もダビデ王も、人間的な弱さを持っていました。
サウル王は、ダビデに対する嫉妬のあまり、何度もダビデを殺そうとしました。
また、サムエルを待ち切れないで、自分自身でいけにえを捧げるというあやまちを犯しています。(サムエル記上 第13章)
ダビデ王は、ウリヤの妻(バテ・シェバ)を手に入れるために、しもべであるウリヤを殺害させました。(サムエル記下 第11章)
また、ダビデの子ども同士の憎しみ合いや殺し合いが起こるほど、家族関係に問題を抱えていました。
ただ、サウル王とダビデ王の違いは、神様へ立ち返ることができたかどうかだけです。

ソロモンは、先代の王、先々代の王の、弱さを知っていました。
ソロモン自身が、バテ・シェバから生まれたのですから。
また、神様の民イスラエルの王となることの重責も知っていました。

そのソロモンに、神様がこう問いかけたのです。
「あなたに何を与えようか。願え。」(5節)

ソロモンは、こう答えました。
「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」(9節)
彼が求めたのは、「聞き分ける心」です。
歴代誌下第1章にも同じ箇所があり、そこでは「知恵と知識」(歴代誌下1:10)と書かれています。
聖書カルタに「ソロモンは 知恵を神から さずかった」と書かれているとおりです。
それは、民を正しくさばくためです。
ソロモンは、民のために、神様のために、このことを願ったのです。

ソロモンの願いは、神様のみこころにかなったものでした。
それで、神様はそれ以上の祝福をソロモンに与えたのです。
「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、
見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。
そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。」(11-13節)

ソロモンは、みこころにかなった願いをしました。
神様は、それをよしとしたのです
ソロモンは、与えられた人生の中で、与えられた役割の中で、神様のみこころにかなった願いをしました。
具体的には、イスラエルの王として、先代、先々代の王の弱さも知った上で、民のために、神様のために、聞き分ける心を願ったのです。

さあ、ではあなたは、あなたが与えられている人生の中で、与えられた役割の中で、神様に何を願いますか。
「あなたに何を与えようか。願え。」(5節)
神様は、あなたに問いかけるのです。

長寿ですか? お金持ちになることですか? 敵を滅ぼすことですか?
それはもしかしたら、大事なことかもしれません。
人からの称賛ですか? 人を支配することですか?
それは、かえって邪魔なものかもしれません。
私たちは王ではないので、「聞き分ける心」をもらっても、しかたがありません。

では、私たちが願うことのできる、みこころにかなった願いとは何でしょう。
聖書を2箇所開きましょう。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16 )
「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(ヨハネ6:40 )

神様のみこころにかなう願いとは、「あなたの人生に、イエスさまを迎えなさい」ということなのです。

当たり前と思うかもしれません。
しかし、これは当たり前のことではないのです。
ソロモン王でさえ、このことを願うことができませんでした。
なぜなら、彼はイエスさまが生まれるよりもずっと前に生きていたからです。

また、その願いをあなたが願えるようにするためには、大きな犠牲がありました。
それは、神様のひとり子・イエスさまが、十字架の死に至るまで、徹底的に神様のみこころに従ったからです。
それは、全人類の呪いを受けて身代わりの死を与えるために、御子を地上におくった神様の覚悟の愛があったからです。

ただ、あなたのために、この従順と愛があったのです。
まったくの恵みとして、無条件にあなたに与えられる、神様からのプレゼントです。

クリスマスに備えるこのとき、神様のみこころにかなう願いを、あなたの願いにしましょう。


ゴスペルハウスメッセージ 2018.11.17
「レンガ積みの人生・石積みの人生」 創世記 11:1-9

1 さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。
2 人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。
3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。
4 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」
5 そのとき主は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。
6 主は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。
7 さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」
8 主が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで主が全地の話しことばを混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされたからである。


バベルの塔として有名な箇所です。
この場で、言葉が神様によって混乱させられたのは、神様からの呪いではなく、神様からの恵みであるということは以前お話したことがあります。
今週は、「石の代わりにれんが」に注目して、御言葉を開いていきましょう。

石は、自然天然のもので、様々な形・大きさをしています。
れんがは、人工物で、決まった形をしています。
縦に積むことを考えたら、れんがの方がずっと楽です。
形がそろっているからです。
自然のままの石は、縦に4段積むのも、難しいものです。
「石積みアート」「ロックバランシング」という積み方もあるようですが。

しかし、積みやすい、形や大きさの決まったレンガやブロックの壁は、地震であっさり崩れます。
それに対して、様々な形や大きさの石を組み上げて作られた石垣は、ずっと崩れにくいものです。
熊本の地震や東日本大震災のときには、一部それらの石垣も崩れましたが、崩れたことが驚かれたということが、その強さを逆に物語っているのではないでしょうか。
もし、エジプトのスフィンクスがその場にいたなら、鼻だけでなく、頭も胴もバラバラになったのではないかと、私は思うのです。

私たちが教会を立てあげるのに、一人ひとりが大切です。
それぞれに個性があり、得手・不得手があり、長所・短所があり、それでいいんです。
みんなおんなじだったら、管理するのに都合がいいかも知れませんが、弱く脆いものになってしまうでしょう。

また、あなたの人生も同じです。
良かったこと、辛かったこと、うれしいこと、悲しいこと、大きな出来事、小さな出来事・・・・様々な経験があっていいんです。
それがあなたの人生を豊かに、強く、しなやかな、あなたらしいものにするのですから。

ただ、積み手の問題があります。
れんが積みの人生なら、形も大きさも決まっているので、誰でも同じように積むことができます。
しかし、石積みの人生は、いい加減な積み方ではすぐに崩壊してしまって、成り立ちません。
あなたの石積みの人生を活かすためには、名人が必要なのです。
まるで、熊本城の石垣を作った加藤清正のような、石積みの名人・達人が必要なのです。

その名人が、イエスさまです。

あなたの良さも悪さも知った上で、苦しみや悲しみや喜びも、現在も過去も、あなたの髪の毛一本、細胞1個に至るまで知った上で、イエスさまがあなたを本来のあなたへと立てあげるのです。
強く、豊かで、魅力あるあなたが、イエスさまによって立てあげられるのです。

喜びは、だれでも人生の宝にすることができます。
しかし、あなたの苦しみを、人生の宝にするのは、イエスさまだけです。
あなたの悲しみを、あなたの人生の宝にできるのも、イエスさまだけです。

イエスさまの手にある、石積みの人生を、生きてみませんか。

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ゴスペルハウスメッセージ 2018.11.10
「失敗の中の望みの綱」 歴代誌下 18:1-6

1 ヨシャファテには富と誉れが豊かに与えられたが、彼はアハブと姻戚関係に入った。
2 数年後、彼がサマリアのアハブのところに下って行くと、アハブは彼および彼とともにいた民のために、おびただしい数の羊や牛を屠り、ラモテ・ギルアデに攻め上るよう誘った。
3 イスラエルの王アハブはユダの王ヨシャファテに言った。「私とともにラモテ・ギルアデに行ってくれませんか。」彼は答えた。「私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。ともに戦いに臨みましょう。」
4 ヨシャファテはイスラエルの王に言った。「まず、主のことばを伺ってください。」
5 イスラエルの王は、四百人の預言者を集めて、彼らに尋ねた。「われわれはラモテ・ギルアデに戦いに行くべきか。それとも、私はやめるべきか。」彼らは答えた。「あなたは攻め上ってください。神は王様の手にこれを渡されます。」
6 ヨシャファテは、「ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか」と言った。

歴代誌に書かれている多くの王の中で、南北分裂以降に特に良い王と記されているのは、ヨシャファテ、ヒゼキヤ、ヨシアです。
アハブは、最悪の王と言ってもいいでしょう。
王妃のイゼベルとともに、まったく良いところがありません。
その、ヨシャファテとアハブが、今週の聖書箇所です。

ヨシャファテの人生の中での、最大の失敗と言われているのが、この章です。
ヨシャファテの息子ヨラムと、アハブとイゼベルの娘アタルヤを結婚させたのです。
南北両国の和解のため、統一のためだったのかも知れませんが、偶像崇拝という負の財産を残すことになりました。
優しい性格だったのか、単に弱かったのか、悪意のないままに、ヨシャファテは大失敗をしました。

アハブは、ラモテ・ギルアデを奪還すべく、アラムとの戦いにヨシャファテを誘います。
ヨシャファテは了承しますが、「主のことば」つまり「主のみこころ」を伺うように望みます。

イゼベルには、450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者がいると書かれています。(列王記上18:19)
もしかすると、ここにある400人の預言者は、アシェラの預言者だったかも知れませんね。
彼らは、アハブ王の気に入るような言葉だけを話しました。

ヨシャファテは、更にもう一度、「ここには、われわれがみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか」(6節)と重ねます。
この後に登場するのが、預言者ミカヤです。
彼は、アハブがこの戦いに行けば生きて帰ってこないことを告げます。
それでもアハブは出陣し、卑怯な変装までして難を逃れようとしたのですが、死ぬこととなりました。

ヨシャファテの人生最後の失敗。
それは、優しさや和を貴ぶという、良いものから生まれたものでした。
しかし、失敗などというのは、そういうものではないかと思うのです。
私たちの人生には、良いものはいっぱいあります。
その良いものを選んでも、失敗につながるのです。

では、私たちの望みの綱は何でしょう。
それは、良いものではなく、「最も良いもの」を選ぶことです。
ヨシャファテは、「主のことば」「主のみこころ」には、こだわりました。
最も良いものにこだわった彼は、やはり良い王なのです。

良い人生、それは、失敗が一度もない人生ではありません。
失敗の中で、誤りの中で、もう一度神様のみこころをたずねる生き方です。
ダビデも失敗だらけでした。
アブラハムも失敗だらけでした。
でも彼らは、そんな失敗の中で、神様を自分の目の前にして生きていたのです。
ヨシャファテも、その一点で、救われました。

あなたも失敗します。
失敗していいんです。
その中で、神様のみこころは何か、神様があなたに何を求め、どんな導きをするのか。
そのことを求めてほしいのです。
呪われることはありません。
呪いはすべて、イエスさまの十字架にかけられたのですから。

失敗の中の望みの綱を、見失わないで歩みましょう。

ゴスペルハウスメッセージ 2018.11.03
「疲れを選択する主」 ヨハネ 4:1-6

1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。

ガリラヤとユダヤの往復にサマリアを経由するのは、通常のコースです。
4節に、「しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」とわざわざ記されているのは、何か事情・理由があったのかも知れません。

ここの続きは、「サマリアの女」として知られている箇所です。
一人の女性が、イエスさまに出会い、人生のやり直しをしていく箇所です。
「第六の時」(6節)とありますが、これは正午ごろのことです。
徒歩の旅をするのにも、水汲みに来るのにも、適した時刻ではありません。

イエスさまは、疲れていても、この井戸の傍らに来るという選択をしたのです。
真っ昼間に、ヘトヘトになってでも、そこに来る必要を感じたのです。
それは、たった一人の女性のためです。
彼女の人生のために、彼女のいのちのために、疲れることをあえて選んでここに来たのです。

ここに、骨髄バンクのポスターがあります。
骨髄のドナー募集のポスターです。
ドナーに登録すること、ドナーとして骨髄液を提供すること、これはたしかに良いことです。
それしか、いのちを救う方法のない患者さんにとっては、なくてはならないことです。
(私も登録していたのですが、ブラジル滞在が引っかかりとなって、ドナー登録を抹消されました。)

しかし、そこにはリスクもあります。
背骨から骨髄液を抜くのですから、リスクが有るのが当たり前かもしれません。
まったく見ず知らずの人のために、これから知ることもかなわない人のために、ドナーとなった人はリスクを負うのです。
もちろん、リスク発生の可能性は少ないものです。
が、何も得るものがない中で、リスクを負うのです。

私は、ドナー登録を推進したいわけでも、否定したいわけでもありません。
リスクがあって、リターンがないというドナーの現実を紹介しただけです。
「この現実の中で、あなたはどう生きますか。」という問いをしたいのです。

イエスさまは、あえて疲れることを選んで、このサマリアの女性のために、敵対しているサマリアの女性のために、この井戸に来ました。
しかし、あなたのためにイエスさまが選択したのは、「疲れ」ではなく、「死」でした。
しかも、呪われた死であり、蔑まれた死であり、苦しい死だったのです。
骨髄ドナーのように、少ない可能性のリスクではなく、100%の死です。
リスクの大きさは、生きたまま心臓を提供するのと同じです。

この覚悟の愛に、この覚悟の選択に、あなたは命を与えられたのです。
この現実の中で、あなたはどう生きますか。
あなたの人生を、どう捧げますか。
あなたは、どんな選択をして生きていきますか。

自分の利益も、大事です。
自分の自由も権利も、大事です。
でも、それらをあえて選択しないという自由、それらをあえて捨てるという権利、これもあなたにはあるのです。

なぜなら、イエスさまがそういう選択をしたからこそ、あなたはいのちを与えられているのですから。
その選択の上に、あなたの生涯は成り立っているのですから。
永遠のいのちをあなたに与えるために、イエスさまは選択したのです。

あえて、3回聞きます。
この現実の中で、あなたはどう生きますか。



坂本 秀雄 (伝道師)

Author:坂本 秀雄 (伝道師)

ゴスペルハウスは、超教派のキリスト教伝道所です。
神様の愛で建てられ、神様の愛を伝えています。

2008年にブラジル・サンパウロから帰国した家族が、山形県の川西町に移住して楽しくゴスペルハウスな生活をしています。
そして今度は隣町の高畠へ引っ越しました。
どなたでもお気軽にお越しください。

ゴスペルハウスには、あなたのための席が用意されています。

お気軽にお越しください。
山形県東置賜郡高畠町
安久津1070

電車でお越しの方は、高畠駅までお迎えします。

賛美・御言葉・聖餐を中心とした、明るい雰囲気の礼拝です。
はっきり言って、楽しいです。

同時間帯で、「子ども礼拝」も行なっています。
大人も子どもも、クリスチャンもそうでない方も、ぜひご一緒に集いましょう。

集会の後には、ご一緒に夕食を頂きます。
伝道師みずから、腕をふるって料理します。
おいしいですよ。(もちろん無料)